韓国の首都ソウルから南へ40キロに位置する龍仁市、そこに法輪寺という美しい寺がある。この境内の一角に、太平洋戦争当時、朝鮮人でありながら日本兵あるいは日本軍属として戦死した人々を弔う『帰郷祈願碑』がある。石碑ならば普通建っていそうなものだが、ある事情から横たえられた姿で安置されている。
韓国通で知韓派の女優
2018年10月17日。寺では「重陽節法要」が行われていた。
「重陽節」とは、旧暦の9月9日に行う節句。韓国では、「非業の死」を遂げた方をお祀りする意味があるという。
法輪寺本堂で日本人と韓国人の参加者たちを前にひとりの日本人女性が、流暢な韓国語、そして日本語で挨拶をした。女優の黒田福美(63)である。
「みなさん、こんにちは。『帰郷祈願碑』を法輪寺に安置してから10回目の法要を迎えました。そしてまた、新しいスタートが始まります」
黒田といえば、韓国通で知韓派の女優として知られる。
彼女はあることがきっかけで、この祈願碑の建立を思い立ち、数々の試練を乗り越えて現在に至っている。
「長年、韓国と付き合い、よく知っているつもりだったから、みんなが危惧するような失敗はしないと思ってました。きっとうまくやれるとね。ところが、とんだ大間違いでした」
* * *
韓国に詳しい黒田は、よく「在日」だと思われるらしい。
「ネットで私の名前を検索すると“帰化”とか“在日”と出るみたい。確かに、“福美”という名前は韓国にもあるし。でも、父方の祖父は江戸指物師で、母は鉄道員の娘でした」
子どものころから歴史は好きだったのかと尋ねると、「とんでもない」と笑った。
「小学校のときから社会は3ですよ。小6からずっと演劇部でした。きっと、ひとりっ子だったから、みんなとお遊戯みたいなことをするのが楽しかったんでしょうね」
都立豊多摩高校に通う同級生だった白井裕子さん(62)が言う。
「クロ(黒田)は、ミニスカートで机に座っちゃうような子でした。美人だと思うより先に、ハキハキ喋る元気で活発な人という印象でしたね。理不尽なことが許せないまっすぐな性格でした」
韓国にのめり込んでいった80年代
短期大学演劇科に進むが、卒業後はOLに。1年後たまたま受けたドラマのオーディションで5000人の中から最終選考の12人に残った。主役の座は逃したものの、プロデューサーに「やってみる?」と言われて時代劇で女優デビューする。
女優・黒田福美にとってのターニングポイントは'85年、伊丹十三監督の『タンポポ』への出演だった。役所広司を相手に「食」とエロスを感じさせる大胆な演技を披露した。
「たった4シーンだけの出演なんだけど、おそらく玄人受けするシーンだったからなんでしょうね。この出演からいきなり“食っていける女優”になりました(笑)」
黒田が韓国に目を向けるようになったのは、'80年代。韓流もK─POPもない、隣国なのに文化もグルメも一切入ってこなかった時代だった。
「私たちのころは、日教組が強くて、社会科の先生に“日本は韓国に悪いことをした”と習うわけです。すごく贖罪意識を持っていた。一方で政治犯が拷問を受けるなど、剣呑なイメージもありました」
そんなとき、ロス五輪のアジア選手権でバレーボール韓国代表のカン・マンス選手に黒田は魅了される。
「わあ、こんなすごい人がいたんだ。隣の国ってあったんだ、と実感した。そこから私の人生は変わるんですね」
韓国に関する本を読み漁り、NHKの『ハングル講座』で7、8か月みっちり勉強した。
初めて韓国を訪れたのは'84年のことだ。
「反日感情から怖い目にあうかと思っていましたが、実際に行ってみたら全然違ってた。韓国人はユーモアにあふれ、温かくておせっかいで。すぐに抱きしめてくれたりする。これがホントの韓国人なんだ、“みんなもっと触れたほうがいいよ”と思った」
'88年、その経験を綴った旅のノンフィクション『ソウルマイハート』が出版され、時代は黒田とシンクロし始める。
「'86年あたりから、'88年のソウル五輪に向けてタブー視されていた韓国報道が解禁ムードになりました。それまで韓国報道といえば出てくるのは評論家や大学教授で男性ばかり。そんななか、女優でありながら韓国語を話し、ネタも持っている私の存在は新鮮で便利だったのかもしれません」
黒田は女優業を休んで韓国報道に専念するようになる。
「事務所はあきれました。“ああ、黒田は終わった”って(笑)。俳優業に専念してほしかったのだと思います。だけど、私はソウル五輪を機に思う存分、韓国報道に取り組みたかった」
彼女は手書きの企画書を作り、コンビニでコピーしては各局のプロデューサーに自分でPRして回った。
そのかいあって、フジテレビが立ち上げた新番組で『黒田福美の韓国ロード』と銘打ってオリンピックに向けた「韓国の今」をレポートしていくことが決まった。
黒田をよく知る産経新聞ソウル駐在客員論説委員の黒田勝弘さんはこう言う。
「日韓交流で日本女性が活躍すると、イメージの改善や日本理解に大きく影響します。福美さんは、韓国語が上手だし美形なので、韓国の人々にとっても説得力があり、親近感を持たれる存在なんです」
究極のガイドブックを作りたい
韓国報道に従事する以前、黒田はその派手な見た目から「悪目立ち」する使いづらい女優だったらしい。飲み屋の女、キャバレーの女、主人公の恋人を奪う敵役が多かった。
ところが、レポーターとして活躍を始めると、「社会派の人」という印象が強くなる。
「トレンディードラマ全盛で働く女性たちが描かれた時代に“お局役”としてちょうどよかったんですね。要するに、ちょっと知性を感じて、主人公たちよりは年配の“キャリアの女性”。弁護士とか、編集者とかね。実際に私がやっていたこととイメージがシンクロしたわけですね」
そのとき黒田は、すでに「次の一手」を考えていた。
「書店で韓国のガイドブックを見ても、気のきいたものは何ひとつない。これじゃあ、1回行ったら、またソウルに行く人なんていないよと思った。私の知るソウルは魅力的で面白いところがたくさんあるのに全然書かれてない。究極のガイドブックを作りたい、ドラマの番宣インタビューでそんな発言をしたんです」
その記事を読んだ出版社が名乗りを上げ、ソウルでロケを敢行、1994年『ソウルの達人』が出版された。
当時、編集を担当した和泉秀郎さん(61)が言う。
「黒田さんは、自分でアポイントを取り、取材もこなし、撮影のディレクションをしながら、自らモデルとなっていました。宿泊ホテルの彼女の部屋は、さながら編集部のようでしたよ」
普通のタレント本ならば、本人が何度かインタビューに答えて、あとはベテランのライターと編集者で作り上げることが多い。だが、黒田の場合、彼女とコーディネーターとカメラマンが毎日ソウルの街を走り回り、取材を重ねた。
デザインを手がけた勝俣正希さん(67)は、彼女の目的意識の高さをこう評価する。
「黒田さんは、本作りのことはよく知らなくても、何を目指すかが明確でした。でもときどき無理難題を言ってくるので弱りましたね(笑)」
夢で出会った青年
1991年7月末、黒田は不思議な夢を見た。
南の島と思しき渚。そこでひとりの青年が近づいてきた。半袖の開襟シャツにズボン姿。見上げるように背が高い。色黒の肌に白い歯を見せながら青年は黒田に話しかけた。
「僕はここで死んだんです、飛行機乗りでした、天皇陛下の御為に死んだことに悔いはないんですが、ただひとつ残念なことは、朝鮮人だったのに、日本人として“日本名”で死んだことなんです」
屈託のない笑顔でそう告げたのだと言う。
「青年の言葉が強烈に心に残ったんです。私は金縛りにすらあったこともなく、霊感なんてまったくない。だからこそ、あの夢は“ただごとじゃない”と思えた。あの世からの遺言だとしたら、とても捨て置くことはできなかった」
1910年(明治43年)に公布施行された「韓国併合に関する条約」に基づき大日本帝国は大韓帝国を併合して支配下に置いた。日本による統治は、1945年9月9日まで35年間続いた。そのために戦時中には多くの朝鮮人が日本兵、または軍属となった。そして、2万2182人が戦争の犠牲者となっていた。
8月15日は、日本では終戦記念日だが、韓国では「光復節」という祝日である。「光復」とは、「奪われた主権を取り戻す」という意味の込められた、「朝鮮が日本の植民地統治から脱し自主独立を取り戻した事件」と定義される。
(夢に出てきた青年は実在したのかもしれない─)
黒田は、靖國神社を訪ね、青年のために冥福を祈った。
「日本人としてすまないと思いながら、白いコスモスの花束をそっと置いて手を合わせました。もしかしたら、夢の青年が現れるんじゃないかと思いながら。もちろん、何も起こりませんでしたけれど」
4年後、黒田は新聞の随筆に「青年のこと」を書いた。すると、靖國神社から「お会いしたい」と連絡が入る。
「神官の方が私を遊就館に案内してくださり、そこに掲げられたある遺影を指して、“夢に現れたのはこの方ではありませんか?”と聞いてきたんです。写真には飛行服姿の青年がいました。そうだと思えばそう見えるし、そうでない気もして……」
写真の人物は、朝鮮人特攻兵として沖縄洋上に散った、光山文博こと卓庚鉉という人だった。
黒田は特攻隊について調べ始めた。すると、関連する本にはたびたび「光山文博」の名が登場した。夢の青年は光山さんではないか、そう思えるようになっていた。
あの青年は光山さんに間違いない
数年の時が流れ、黒田は旅先で見たテレビのドキュメンタリー番組を見て驚いた。それは、特攻隊の前線基地だった鹿児島の陸軍知覧飛行場近くで食堂を営んでいた『特攻の母』、鳥濱トメさんを取り上げた番組だった。そこで、出撃前夜に朝鮮民謡『アリラン』を歌った光山文博さんのことが紹介されていたのだ。
「番組後半、光山さんのいとこの卓貞愛さんが当時の思い出を語る場面が出てきました。彼の親戚がいることがわかった。遺族がいるのなら、“最後の最後”に彼が私に残した言葉をぜひ伝えなければならない。できることなら彼の朝鮮名を刻んだ慰霊碑も作りたいと思うようになったのです。光山さんだけでなく、戦争で犠牲になった朝鮮半島出身の人たちの御霊はきっと故郷に帰りたいことだろうと。そして同胞たちにこそ弔ってもらいたいに違いないと思ったのです」
2000年2月上旬、黒田は釜山に向かい、卓貞愛さんら親族と対面、不思議な夢の話をし、郷里に慰霊碑を作ってあげたいと伝えた。
帰国した黒田は、鳥濱トメさんの次女の赤羽礼子さんが、東京で薩摩料理の店を経営していると知り、会いに行った。
彼女は、子ども時代に光山さんに会っている。あの青年が本当に光山さんなのか。
黒田は夢で見た青年が、「とても背が高く、胸板のがっしりした体格で、顔の色が黒かったこと。それも日に焼けているのではなく、地黒だったこと」を話した。
すると、礼子さんは「ああ、光山さんだわ」と小さく叫んだのだった。
あの青年は光山さんに間違いない─こうして確信を持つようになったという。
「みんな“夢のことでしょ?”と言います。でも私にとってはリアルそのものなんですね。この話をするときに『メビウスの輪』という表現をします。ずっと裏だったのに、いきなり表になるでしょう。同じように、夢から始まったことなのに、いつの間にか現実になっていく。特攻隊の人たち、非業の死を遂げた人たちを弔わなきゃいけない、というのは自分のなかで実にリアルな問題になっていったんですよ」
黒田は、仕事の合間を縫って、光山さんの日本での足取りを追跡していった。
京都の住まい周辺や卒業したとされる立命館中学校、京都薬学専門学校……。
さらに、鹿児島県知覧で「光山文博」の名前を、沖縄の「平和の礎」で「卓庚鉉」の名前を発見する。
'03年9月、卓家の本家筋がソウルにいると知り卓家直系の子孫に会いに行った。ところが、その男性は光山さんの故郷、「泗川市西浦に友人の土地があるから買わないか」と法外な金額で持ちかけてきた。
そのような胡散臭い話に乗れないと判断した黒田は、今度は石碑建立の地所を求めて泗川市の役場を訪ね事情を説明した。役場の人にしてみれば初めて聞く話だ。それどころか、60年以上も前の併合時代のことなど思いもせずに日々の暮らしを送ってきたに違いない。慰霊碑の実現ははるか遠くに思えていた。
しかし、あるときから「潮目」が変わってゆく。
'07年8月、黒田の活動を紹介する記事が日本の新聞に掲載されると、予想を超える寄付などの反響があった。
また、韓国の新聞『東亜日報』でも黒田の活動を紹介する大きな記事が掲載された。好意的な論調の内容に黒田は胸をなでおろした。
ここから話がどんどん大きくなってゆく。
「韓国人として感謝する」が一転
泗川市が慰霊碑の建立地を提供してくれることになり、高名な韓国の彫刻家が慰霊碑のデザインに名乗りを上げた。
石碑の由来や碑文を紹介した日韓両国語併記の美しいパンフレットもできあがった。これなら観光地としての泗川市のPRにもなる。
除幕式は、2008年5月10日に行うことが決まった。
『東亜日報』の記事が出てからは、韓国人の誰もが口々に「本来、私たちがすべきことをあなたがしてくださって申し訳ない。韓国人として感謝する」と黒田に話したという。
黒田は、この石碑建立を「日韓友好の架け橋」にと切実に思っていた。
泗川市は、3000坪の広大な公園を提供してくれた。
「すべてが想像以上の成果を上げていきました。どんどん話はいい方向に進んでいるように思えたのですが……」
慰霊碑の除幕式まで2か月を切った'08年3月20日。泗川市役所で黒田は職員からとんでもない申し出を受ける。それは碑文についてだった。
「強制労働や慰安婦問題について触れなければならないし、謝罪の文言が盛り込まれるべきだ。また、靖國に祀られている卓庚鉉を追悼するのも如何なものか」
「何をいまさら」と思い、黒田は反論した。
「これは政治的なことを排し、あくまで人道的な立場で犠牲者を追悼するもの。そのような碑文は私が容認できない」
すると、今度は記者発表などで配るパンフレットの文言が問題だと言い出した。
文中の「日本のために」という部分を「日本のせいで」と改めろと、言いがかりのような注文をつけてきた。市には4か月も前に最終稿を渡してあり、特に直しがないということですでに7000部の印刷を終えたところだった。
「これがなければ、ほかに資料がない。泗川市にとっても大切なPRのチャンスであるはずなのに」そう食い下がっても、役人たちは聞く耳を持たなかった。
夢を見てから、すでに17年の月日が流れていた。青年の足跡を求め、日本各地を訪ね、韓国に何度、足を運んだことだろう。黒田の中で「ぷつり」と何かが切れた瞬間だった。
「異様に静かだった。こめかみの細い血管に小さな気泡が1個入ったような感じ。怒りというよりは絶望。どんなに誠意を尽くしても平気で手のひらを返し裏切ってくる人たちを、本当にひどい人たちだと思いました」
'08年5月8日、忸怩たる思いで釜山の金海空港に到着した黒田は、最悪の事態が巻き起こっていたことを知る。
2日前に、この石碑建立に反対している左派系政治団体と抗日運動家の末裔で組織された極右組織『光復会』が記者会見を開き、石碑の撤去と除幕式の中止を市長に要求したというのだ。応じなければ、市長に対してリコール運動を展開すると宣言。恐れをなした市長は、なんと「除幕式の中止と石碑の撤去」を発表したのだ。
そこで、黒田は「反対派」と対峙して話し合いを行った。議論は2時間近くにわたったが、平行線をたどるばかりで結局「決裂」したのだった。
本来ならば除幕式だったはずの当日朝、ツアーの参加者、報道陣など50名ほどの前で、黒田は除幕式が開催できなくなったことを話した。
そして、会を締めくくろうと思ったとき、泗川市の観光課課長が思わぬ言葉を発した。
「警官隊が先導して、除幕式ができるように配慮するとのことです」
一行が会場に出向いてみると、そこは警官隊や光復会、韓国側の報道陣でごった返していた。
韓国政府からは勲章を授与
黒田の密着取材をしていた南日本放送の記者だった上村隆一郎さん(46)が言う。
「反対派の人たちは約50人くらい。みんな太極旗が染め抜かれた鉢巻きをして、抗議のシュプレヒコールを繰り返していました。警官隊が先導してくれる様子などまったくありませんでしたね」
黒田と参加者の一行は、慰霊碑前に陣取る光復会を取り囲む警官隊のところまでたどり着いた。そこで一行は頭を垂れ、両手を合わせた。
「韓国では“反日カード”を掲げた団体が出てくると、彼らの行動を戒めたり、批判したりすることが誰もできなくなるというのは本当でした。
1時間くらい後、会場に戻ると、誰ひとりいなくなっていました。あの争乱が嘘のようでしたね。そこで、私たちだけで除幕式を行いました」
「はめられたかもしれない」と思ったこともあった。
「日本からの訪問団と光復会の対立する場面を公にしたい、メディアに晒したいという何者かの意図があったのかもしれません」
騒動の後、碑は撤去され、泗川市内の寺に一時的に保管。'09年10月、龍仁市の法輪寺境内に移された。
'11年5月、黒田は韓国政府から勲章を授与された。
「長年の日韓友好の功績が認められたのですが、祈願碑をめぐる騒動に対する韓国政府のせめてもの慰めに思えました。真実はわかりませんけれど」
'12年3月、韓国の国営放送局KBSで『朝鮮神風 卓庚鉉のアリラン』という番組が放送された。黒田たちが巻き起こした慰霊碑にまつわる騒動がヒントになったことは間違いない。
黒田にも出演依頼があった。言いたいことは山ほどあったが丁重に断ったという。
番組の最後に、法輪寺に再建された帰郷祈願碑の姿が映し出された。それを光復会は見逃してはくれなかった。放送後、抗議文をテレビ局、法輪寺などに送りつけたのだ。
黒田は再び光復会とたったひとりで話し合いを行った。
「あなたたちの親兄弟や親族にだって、日本名を名乗り、そして日本軍属になって亡くなった方がいたかもしれない。そういう人を慰霊してあげたいと思いませんか」と言ってみても、「ああ、いたかもしれないが、関係ない」とまったく聞く耳を持たなかった。
「このときがいちばん悔しかった。せっかく法輪寺に再建できたというのに。あんなに涙が止まらなかったことはなかった」
「この石碑は寝ていても意味がある」
その年の冬、石碑は撤去解体された。基壇の上に八咫烏の彫像だけがじかに置かれ、碑文の書かれた本体は半ば地中に埋めた形になっていた。
現在、日本と韓国の関係はこれまで以上に冷え切っている。徴用工問題、従軍慰安婦問題、そして最近では、日本の輸出規制に対する猛反発……。韓国の異常なまでの「反日感情」。しかし一方で、韓国のこうした対日強硬策が起きると大統領支持率は上昇する。
前出の黒田勝弘さんは、こう解説する。
「1945年の開放時の韓国社会で40代以下は日本統治下で教育を受けた人たちでした。だから、開放時の韓国人はほとんど“日本人”でした。それが突然、急いで韓国人に戻らなければならなくなった。そこで、国家、社会を挙げての日本否定キャンペーンが始まった。朝鮮人特攻隊は植民地時代に日本に協力した親日派という解釈。だから、慰霊碑の件はハラハラしながら見守り、福美さんの真摯な思いと行動力に感動していました」
黒田は、この事件を通じて「歴史に一石を投じている」感覚はいつもあったと言う。
「日本人兵士として命をなげうった青年たち、その時代を生きた人たちは、今日の韓国を築く礎でもあったのです。このことを現代の韓国人はどう解釈し、向き合うのか、 問題提起することになるんです」
ある韓国の歴史学者が黒田に言った。「この石碑は立っていても意味があるけれども、寝ていても意味がある」と。
「私は石碑を立たせることにもう執着はない。むしろ、この寺に横になってい続けることが韓国人の心に潜む矛盾に“それでいいのか”と問い続けることになる。石碑の問題と今起こっている問題は、決して切り離されたものではない。だから、これはもう後世の人たちのものなんです」
毎年、帰郷祈願碑の法要に参加し、黒田を手伝っている藤川由美さん(57)は、
「私が福美さんの祈願碑活動に心寄せた理由は、取り憑かれたように活動をしている彼女に理屈抜きに引き寄せられたから。これからも日韓の融和に祈願碑が一役も二役も買うことを心から願います」
私の次の仕事は“語り部”
黒田は祈願碑建立の20数年に及ぶ苦難の道のりを、著書『それでも、私はあきらめない』にまとめた。韓国語版も出版され反響が広がっている。
「“忘れないでくれ、俺たちのことを!”そんな気持ちが多くの方の心を揺さぶっているのでしょうね」
なぜ、そこまで石碑にこだわってきたのか。最後にそう尋ねると、すがすがしい笑顔を浮かべて、こう言った。
「私がやらなかったら誰もやらないからかな。私だってこんな苦しいことをやりたくはなかった。時間もお金もかかるし。でも、きっとこれが私の使命なんですよね。韓国語で“八字”って言うんだけど、四柱推命でいう“宿命”。もう絶対やめようと思っても喉元すぎるとまた始まってしまう。
実はこの本を書き終わって“ああ、これでようやく”と思った。ところが、今度はいろんなところから“話をしてください”と要請が入る。私の次の仕事は“語り部”かと。なかなか終わらせてもらえない感じですね」
尼寺である法輪寺の住職、鉉庵さんが言う。
「黒田さんの慈悲深い姿はまるで“功徳”を積む菩薩の姿でした。この事業は、われわれがまずしなければならなかったのに、おざなりにしていたのだなあと悟りました。そして、国境も理念も越えた、永遠なる命のために、この事業を必ず成し遂げると誓いました。毎年、重陽節に来てくださるみなさんにも感謝の気持ちでいっぱいです」
今年もまた、8月15日がやってくる。
そして旧暦の9月9日(今年は10月7日)、法輪寺で11回目の「帰郷祈願碑 重陽節法要」が行われる。
取材・文/小泉カツミ(こいずみ・かつみ)ノンフィクションライター。医療、芸能、心理学、林業、スマートコミュニティーなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』がある
撮影/新納翔(にいろ・しょう)写真家。消えゆく都市風景をテーマに活動。国内外での個展多数。写真集に『Another Side』『築地0景』『PEELING CITY』などがある。