「同級生や仲のいい女学生と喫茶店に行くこともありました。新宿にあった『ムーランルージュ新宿座』という劇場は大好きでしたね」
と笑うのは神奈川県川崎市に住む松本茂雄さん(93)。
松本さんの“推し”は同劇場の看板スター、明日待子さん。週2回会いに行くことも。
戦時中のつかの間の平和な時代、青春を謳歌していた。
“きっと帰ってくるのよ。約束よ”
福島県出身で'43(昭和18)年4月に上京。早大政治経済学部に入学した。
戦争が激しくなり徴兵年齢は19歳に引き下げられた。'45(昭和20)年2月、入隊通知が届けられた。
出征前夜、祖母はどこから手に入れたのか、当時、貴重品だった甘酒を振る舞い、風呂では背中を洗ってくれた。
当日は雪。家族に見送られ、福島駅から汽車に乗り込んだが10メートル進まないうちに車輪が雪で滑って止まった。
「窓を叩かれて見てみると、上の姉さんでした」
4人きょうだいの3番目で、姉が2人いた。母親を小学生のときに亡くし、4つ違いの上の姉は母代わりだった。
「姉は“きっと帰ってくるのよ。いいわね、約束よ”って」
涙を流す姉と固い握手を交わした。氷のように冷たかった姉の手、今も忘れられない。
その後、満州に送られ、終戦4日前にソ連軍と戦闘に。玉音放送も終戦も知らなかった。血みどろの地獄のような戦場で多くの戦友が戦死した。
松本さんは左足を負傷、捕虜になりシベリアに送られた。現在のロシア極東にあるコムソモリスク。ここで松本さんら日本人約1万5千人が抑留され町の建設をさせられた。
冬場はマイナス50度。寒さ、飢餓、暴力、強制労働の終わりが見えない日々。仲間は次々に亡くなった。
過酷な抑留生活の支えのひとつは上の姉の存在だった。
生存を知らせるハガキを枕元に
資材置き場の裏で姉が好きだったシューベルトのセレナーデを口ずさみ、'44(昭和19)年の夏、銀座で買ってもらったタバコのパイプはいつもポケットに忍ばせていた。
吸い口は黒、本体は茶色い木目調のシンプルなデザイン。“いつ軍隊に行くかわからないから”とプレゼントしてくれたものだが、収容所内で踏まれて壊されてしまった。
「帰りたくて、ロシア人が嫌になるほど毎日“ダモイ(帰国はいつか)”と聞いていた」
念願の帰国は3年後の'49(昭和24)年7月末。復員船は京都府舞鶴港に到着した。
滋賀県彦根で下の姉と再会したが、喜ぶまもなく知らされたのは上の姉の死だった。
姉は'45(昭和20)年12月8日、届いたばかりの松本さんの生存を知らせるハガキを枕元に病気で亡くなった。
「まったく信じられませんでした。……きっと帰ってくると約束したのに……」
と声を詰まらせた。
失意のまま翌日の夜、福島県に戻った。薄暗い駅にいたのは父と弟だけ。その翌日、手続きに訪れた役所職員のそっけない態度も許せなかった。
「国の命令で戦場に行き抑留され命からがら帰ってきた。なのに、なぜお偉いさんは私たちに“よく帰ってきた”とねぎらう言葉のひとつもかけてくれなかったのか!」
その悔しさ、憤りは70年たった今も消えることはない。
松本さんは訴える。
「体験していない世代に戦争の話を伝えきることは不可能かもしれないが、みんな真剣に考えないと平和は実現できない。
意見が異なっていても、立ち止まり、相手を見ることが大切。そうでないとまた同じことを繰り返すだけだ」