お笑い芸人の矢部太郎さんが東京・新宿のはずれの一軒家で大家さんとひとつ屋根の下で暮らす生活を、実体験をベースに描いたフィクション漫画は、ふふっと笑えてじんわり泣けて、心がほっこりする作品。
成長した自分がテーマの2冊目
漫画家デビュー作となった前作『大家さんと僕』で、第22回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。本職の漫画家以外が作画した作品では初、芸人としても初という快挙を成し遂げた。受賞の様子や創作のヒミツ、豪華執筆陣らの寄稿などがつまった盛りだくさんの番外編本『「大家さんと僕」と僕』も今年6月に発売され、シリーズ累計部数は100万部を突破。
『大家さんと僕 これから』は、そのシリーズ最後の完結編となる。今作は『週刊新潮』に掲載された内容に30ページ超の書き下ろしを加えた1冊。前作の発売前後のことから、大家さんとの別れまでのエピソードが描かれている。実は当初、矢部さんは連載再開の話をずっと断っていたのだとか。
「最初から“1冊出す”ことを目標に、その中での展開を考えて作っていました。本当に初めてだったから、“やっと描けた”という感じでしたし、ひとつの映画や小説を作るような感覚で、1巻、2巻と続くものとはまったく考えていなくて。
僕が見た大家さんをキャラクターとして描いてはいるけれど、でもやっぱり、僕の中で現実と切り離せないと思えるところもあって。続く漫画は登場人物が成長してはダメだと思うのですが、僕は『大家さんと僕』で、大家さんと出会って、僕が成長したところを描きたかったんです」
とはいえ「続編を」の声があちこちから上がる中、ある先輩芸人さんのひと言が後押しとなり再開を決意。そのエピソードは単行本に収録されているので、そちらをぜひご一読あれ。
個人的な祈りのようなもの
「受賞のおかげか、『週刊新潮』で連載させていただけることになりました。それはすごくありがたかったのですが、月刊のときには1作描いたら1〜2週間は漫画のことを考えなくていい時間があったのに、週刊だと1本入れたらすぐ次のネームを作らないといけなくて。“あ〜週刊ってすごいなぁ”と(笑)。連載前に10本ストックを作って始めたのですが、それが、一瞬でなくなりました」
週刊連載の厳しさにびっくりしたとのことだったが、それでも毎週、締め切りの数日前には完成させていたというからすごい。
「土日で描くと決めていて、その2日間は劇場に出ていることが多かったのですが夕方には終わるので、夜、ほんこんさん(作中に登場する“ガサツな先輩”のモデルのひとり)のお誘いを断って(笑)。
劇場の楽屋でも描いていたのですが、横で見ながらねちねち……いや、ごちゃごちゃ……擬音を間違えました(汗)。ええと、いろいろとためになるアドバイスをくださいました。“こうしたほうがおもろいんちゃうか”って」
連載再開のスタート時は、“明るいエピソードを描こう”と考えていたという矢部さん。
「連載中、大きくいうと3回、気持ちに変化がありました。最初は、週刊であっという間に印刷されるし(笑)、それをまた大家さんに読んでもらえるというのがモチベーションのひとつとなっていました。1話目に“僕はとてもいい家に住んでいます”というコマがあるのですが、大家さんへの手紙というか、面と向かっては言えないけれどこういう形でなら伝えられるという思いを、できるだけ楽しく、おもしろく描いていけたらなと」
しかし連載を再開した年の8月、残念なことに大家さんが亡くなられてしまう。
「大家さんとお別れしなければいけなくなったときに、1度、休載させてもらいました。描くこと自体できなくなったというか……。そのあと、時間がたつことでもう1度、描きたいなと思うことができたので、それからは大家さんへの感謝の気持ちで描いていました。もう大家さんに届けることはできない。だから、それは手紙ではなくて、僕の個人的な祈りのようなものだったのだと思います」
描きたいことは全部描いた
『大家さんと僕 これから』には、一緒にお茶を飲んだりお出かけするふたりの姿や、大家さんの昔話や近所の方々とのエピソード、そして病院でのシーンなど、楽しく笑えるものもあり、しんみり切なくなるものも。
「書き下ろしの部分は、連載を終えてから僕の中で見えてきたものを描きました。ヨーロッパでも描いたんですけど……」
さりげなく発せられたひと言に、思わず「ヨーロッパ!」と沸く取材スタッフ一同。
「1週間で。単行本化までにプライベートで行くつもりがスケジュールが厳しくなって、ロンドンに向かいながら描いたというのが本当です。みんなは“そんな時期になんで行くんだ”と思っていたと(苦笑)。
大家さんのお話を聞くのが好きだったのですが、歴史上の出来事だと思っていたことを実際に体験した方から聞けたということもおもしろかったんです。
それで大家さんからよくイギリスのおいしい紅茶の話を聞いたりしていて、いつか行きたいと思っていたんです」
ライターは見た! 著者の素顔
「今回、“これで本当に最後だ”という思いがあり、描きたいことは全部描こうという気持ちが大きかった」という矢部さん。「もし“ここに描いていない話をして”と言われたら困っちゃうかもしれません」というほどすべてを出しきったという完結編は、ページ数も1作目より大幅にアップ。「大家さんはやっぱりお話がおもしろいんですよね。その大家さんのことを描く漫画は、できるだけユーモアがあって楽しいものじゃないと、とずっと思っていました。最後、“読んでよかった”と思ってもらえたらうれしいです」
やべ・たろう 1977年、東京都生まれ。お笑い芸人としてだけではなく、舞台や映画、ドラマで俳優としても活躍している。2007年には気象予報士の資格も取得。初めて描いた漫画作品『大家さんと僕』で2018年、第22回手塚治虫文化賞短編賞を受賞した。父親は『かばさん』『あかいろくん とびだす』などの作がある、絵本作家・紙芝居作家のやべみつのり氏。
取材・文/長谷川英子