詩人、NPO法人『こえとことばとこころの部屋』代表 上田假奈代さん 

 戦後の大阪で、道路や橋、ライフラインを整備し、ビル建設を担った日雇い労働者たち。その多くは地方から出稼ぎに来て、釜ヶ崎を拠点とした。だが、近代化に成功した後、バブル崩壊、リーマン・ショックと不況が続き、仕事は激減。

 釜ヶ崎の高齢化が進む今、表現活動を通して「生きることの本質」への肉薄を試みる詩人がいる。日本最大の日雇い労働者の街、大阪・釜ヶ崎。その街とそこで暮らす人たちの魅力に惹かれ、ともに生きる上田假奈代さんの半生に迫る。

どんな背景を持つ人でも受け入れる街

 大阪市西成区に、地元の人から「釜ヶ崎」と呼ばれる地域がある。日本最大の日雇い労働者の街だ。「釜ヶ崎」という地名は1922年の合併により消滅し、地図上にその名を見つけることはできない。

 家族を持たずに年老いたかつての労働者、生活保護を受けている人、ハンディキャップがある人、病気で働けなくなった人、住んでいた土地からはじき出されてしまった人─さまざまな背景を持つ人たちがここで暮らしている。

 街の実情を知らず、「気性の荒い労働者や路上生活者がいる街」というイメージから、「怖いとこやから行ったらあかん」と言われることもある。

「でも、“行ったらあかんとこ”と言われるのは違和感があるんです」

 そう話すのは、詩人の上田假奈代さん(49)。釜ヶ崎でカフェとゲストハウス『ココルーム』を営み、「釜ヶ崎芸術大学(以下、釜芸)」と称して、釜ヶ崎のおっちゃんたちと詩を作ったり、踊ったり、書道をしたりしている。NPO法人『こえとことばとこころの部屋(ココルーム)』の代表だ。

 ココルームの活動をひと言で表すのは難しい。

「カフェとゲストハウスのふりをして、表現が生活や人間関係にどんなふうに関わるのかを実践しそこで感じたことをまた表現しようと試みてきた」

 と上田さんは定義する。柔らかな物腰で優しい口調だが、その根幹には揺るぎない信念がある。

「仕事と生活の場を釜ヶ崎にして16年。高齢化が進み、顔見知りのおじさんが入退院を繰り返すようになりました。商店街を歩行器を使って歩く人も増えた。観光客も訪れます。実際にこの街に足を運んで、自分で何かを感じてほしい。釜ヶ崎はどんな背景を持つ人も受け入れる街です」

 釜ヶ崎には簡易宿泊所が多い。宿泊費は1泊500円から。1500円払えば鍵つきの快適な部屋。激安のスーパー玉出では特売品のソーセージやちくわが1円で買えるし、公園で炊き出しもある。保険証がなくても、お金がなくても医療を受けられ、収入がなくても命をつなぐことができる。

「釜ヶ崎のおじさんを『支援している』と勘違いされることもありますが、私たちの活動は表現活動です。アートは、『支援する・される』という関係を逆転していく。支援する側だった人も学び、生きる力をもらう。関わるすべての人のセルフケアにつながっている。『支援する・される』に閉じ込められるところにこそ、アートは必要やと思います」

帽子に着物姿で自転車にまたがり、商店街を颯爽と走る

 着物姿に帽子がトレードマークの上田さんは今日も商店街を自転車で颯爽と走る。顔見知りのおっちゃんに「気いつけて帰りや」「またココルーム来てな」と挨拶する。道端でワンカップを飲む男性にも「着物の姉ちゃん、どっかで見たことあるなあ」と声をかけられ、笑顔を返していた。

   ◇ ◇ ◇

 お盆には毎年恒例の『釜ヶ崎夏祭り』が開催され、釜ヶ崎を去った人たちも楽しみに訪れる。われわれの取材中にも「あばよ」という愛称の男性がココルームのカフェにひょっこり顔を出した。

「オレはさ、数年前まで釜ヶ崎に6年間住んでたんだ。今じゃ横浜で定職について住む部屋もある。貯金もしてるよ。自分で持ってると使っちゃうから管理してくれる人がいるの。盆と年末には帰ってくるんだ。仲間に会いにね」

 釜ヶ崎で生まれたことばを刻みたいと上田さんが読み札をまとめた『釜ヶ崎妖怪かるた』に彼を詠んだ札がある。

「さらば、あばよ。夏祭りと越冬で会おう」

『ゆるすまち、ゆるされるまち』だ

「釜ヶ崎の三角公園では、お盆に『夏祭り』、年末年始に『越冬闘争』が行われます。日雇い仕事が減る苦しい時期を、飢えることなく孤独に命を落とすことなく、楽しく過ごせるようにという願いが込められています」(上田さん)

 4日間の夏祭り。演芸アワー、スイカ割り、綱引き、すもう大会、盆踊り。安くてうまい屋台が並び、特設ステージで歌やダンスが繰り広げられる。

 今年は夏祭りに合わせ、ゲストハウスのココルームに2つの団体が滞在し、例年以上ににぎわいを見せていた。ひとつはイギリスの公的な文化交流機関『ブリティッシュ・カウンシル』と視察団。そして、東京を拠点に活動する路上生活者と元路上生活者で構成されたダンスチーム「ソケリッサ!」のメンバーである。

 滞在中、釜芸の講座『ソケリッサと踊ろう! 三角公園夏祭りで発表!』と題してワークショップも行われた。

 2012年から始まった釜芸では、年間およそ100講座が開講されている。詩や俳句、哲学、美学、天文学、合唱、書道、スケッチなどその内容は幅広く、大学教授やアーティストが講師としてやってくる。釜ヶ崎のおっちゃんたちを中心に、旅行者や大学生、地元の子どもたちなど誰でも参加でき、交流の場にもなっている。ビールの空き缶で作る『からくり人形ゼミ』や『井戸掘り』では釜ヶ崎のおっちゃんが中心となり、参加者から「先生」と呼ばれる。

 講座はいつも、上田さんの挨拶から始まる。

「釜芸が始まって7年たちました。1期生の中には亡くなった方もいます。ここに、生きてきた人たちがいて、ひとりひとりに出会うことを大切にしていきたいと思います」

 参加者全員の自己紹介では「その日、自分が呼ばれたい名前」を伝え、そこにいるみんなが声をそろえてその名を呼び、返事をする。たったそれだけのやりとりで、ひとりひとりの存在が立ち上がる。

 上田さんの文章の中に釜ヶ崎を表すこんな一節がある。

「人間くささを許容する釜ヶ崎は『ゆるすまち、ゆるされるまち』だ」

 釜ヶ崎のおっちゃんだけじゃない。参加したすべての人が、今ここにいる自分をそのまま受け入れてもらえる安心感を感じることができる。いつも肩書に縛られている人もそこから逃れられるのだ。

『ココルーム』に滞在していたマット・ピーコックさんに上田さんの印象を聞いた。ホームレス政策におけるアートの重要性を訴求するプロジェクト「ウィズ・ワン・ボイス」のディレクターで、国を超え10年以上の交流がある。

「初めて假奈代に会ったのは2008年。彼女はブリティッシュ・カウンシルの交換研修制度で、ソーシャルアートセクターの日本代表としてロンドンに来ていました。まず目を引いたのはその穏やかな決意です。彼女の笑顔は周りを明るくする力があり、世界を変えようとしているポジティブなパワーを感じました。

 釜芸は世界中のアートとホームレスに関するプロジェクトで最も重要なものです。すべての人たちに喜びを開放し、そして知識や学びの重要性を広げるものです」

 夏祭りの本番、ダンスパフォーマンスの発表前に、慰霊祭が行われた。「亡くなった仲間たちの分も、残った私たちは生きていく」という語りがあり、この1年間で亡くなった人たちの名前を読み上げる。その場にいるみんなで『ふるさと』を合唱した。

この1年で亡くなった仲間の名前と写真が掲げられた祭壇

 その後、ソケリッサ!を中心に、ワークショップに参加した釜ヶ崎の人たち、外から来た若者や旅人たち、イギリスの一団が渾然一体となり、ダンスを披露した。上田さんもその中にいる。生と死が隣り合わせの釜ヶ崎で、それぞれが自分の中から生まれてくる心の動きを抑え込まず、全身を解放して踊る様子に圧倒される。酒を手に遠巻きに見ていた数人の男性が、いつしか吸い込まれるように彼らと一緒に踊っていた。

「変な子や」と言われた思春期

 上田さんは、奈良県吉野町で生まれ育った。銀行員の父と専業主婦の母、祖母、そして2つ違いの妹とのごく普通の5人家族。豊かな自然、のどかな四季のうつろいに包まれていた。3歳から詩のようなことを話し、母が書き取った。父は仕事で忙しく無口な人で、本が好きだった。

 若いころから詩を書いていた母は、和文タイプの内職の傍ら娘たちを巻き込んで詩誌『さかみち』を発行した。

 母の味左子さん(71)は当時をこう振り返る。

「私は詩を書くのが好きやったけど、娘たちにしてみたら無理やりやったかもしれません(笑)。假奈ちゃんは本が好きでおとなしい子でしたね。誕生日には毎年、年の数だけ本を買いました。それもすぐに読んでしまうんですよ」

 上田さん自身も、幼いころのことをよく覚えている。

「小さいころは、母の気を引きたくて詩を書いていました。私は自分が考えていることを人に話して伝えるのがすごく苦手で、うまく伝えられないもどかしさがずっとありました。でも、母のおかげで詩や作文なら思うことを書けるようになった。今も書きながら思いや考えを整理しています」

 詩を書き、たくさんの本を読んでいた上田さんは野山を歩き回り、感受性豊かに成長していく。

 奈良県立の進学校に入学後は高校まで1時間半の電車通学。多感な少女にとって思春期は生きづらく、数か月して学校をサボり始める。

 しかし、母は学校に行けとは言わなかった。 

写真集の表紙を飾った17歳(左)、29歳(右)のころ

 上田さんはこの時期、アートの魅力に惹かれ始めた。ある雑誌で当時注目されていた現代美術家、嶋本昭三さんを知った。手紙を出すと本人から返事が来た。学校へ行くふりをして、西宮市甲子園にある嶋本さんのアトリエに通っていたこともある。

 高校3年生になると学校にもそれなりに通うようになった。文芸部で詩を作る傍ら、嶋本さんとの交流がきっかけでNHKの『YOU』『土曜倶楽部』という若者のトーク番組の関西版に出演するようになる。写真家の橋口譲二さんの写真集『十七歳の地図』でも被写体となった。

 高校の制服に民族衣装のようなリュックを背負い、通学する女子高生。先生たちには、見た目も行動も「変な子や」と認知され、逆にお墨つきを得て行動しやすくなった。

 母の味左子さんはテレビ出演や写真のこと、学校のことも、淡々と日常のように受け止めた。「自由にやりたいことをやればいい」と常に娘を見守り続けていた。

 そのころ、ある出会いが上田さんの世界観を揺さぶった。全国の学生ボランティアが集まる合宿に参加したときのことだ。そこに来ていたベトナム人の18歳の女の子は上田さんにこんな話をした。

「ほんの数か月前、“内紛がひどくなった国を出る”と突然、家族に言われて月夜に海岸まで走って船に乗った。海岸には120人くらいいて、4艘の船に分かれて出発したけれど、2艘が沈んだ。私の乗った船は宮崎県の漁船に助けられ、今は県内の教会に身を寄せている」

 上田さんに淡々と語る瞳の奥には怒りや悲しみ、決意が見えた。最後に彼女は「私はこれから勉強して国を追われた人を助ける仕事がしたい」と言った。上田さんは返す言葉を見つけられなかった。

「私はすごく居心地のいいところで生まれ育って、社会に参加することや働くということがまだよくわからなかったんです。その出会いに衝撃を受けて学校に戻ると、何事もなかったように勉強最優先の日常が待っていた。世界では同年代の女の子がこんなに大変な状況に置かれているのに、自分には何もできないじゃないかと苛立ちました」

ことばの力を信じるも、休職へ

「“あなたの人生、問題ですね”って言われたらいい気はせえへんでしょ。だから、問題解決じゃなくて、その人ならではの素敵なところを見つけたい。『弱さを力に』がキーワードかな」とココルームのテラスで話す上田さん 

 そのとき上田さんが書いた詩に「知った者は死刑だ」というフレーズがある。ベトナム人のあの子のことを知る前の私にはもう戻れない。知っても何もできない。それまでと何も変わらない友達や大人たちに勝手に疎外感を覚え、苦しむ自分を持て余した。

「あのときはただつらかったけど、ことばに書き残したことによって、その感覚を何度も思い出せるし、今の私の活動の原動力にもなっている。最近、ことばに表す意味を改めてとらえ直しています」

 高校卒業後、芸術系の短大のデザイン学科に進学。京都でひとり暮らしを始め、「人はなぜ表現するのか」を考え続けた。近所の京都大学西部講堂に入り浸り、芝居やパフォーマンスの裏方にも関わった。そこでは京都の学生や若者たちがさまざまなイベントを企画からすべて自主管理、自主運営で行っていた。上田さんにとって「管理されていない状況でどう動くかを試すことができる初めての場所」だった。

 短大卒業後はコピーライターとして就職し、9年間勤務した。仕事と並行して西部講堂の裏方も続けていたが、その後うつのような症状に悩まされ、仕事を1年間休むことになる。

 仕事に復帰してからも2年ほどは体調が悪かった。自律神経失調症だった。

「そのころの私は好奇心だけは強いけど、どこかきまじめで、本当は不安で緊張していて、揺れる感情をどうしていいかわからなかった」(上田さん)

 体調が少し戻ってきた25歳のある日、地下鉄のホームにぼんやり立っていると暗闇から地響きのような音がした。線路に光が差し込んで電車がホームに入ってくる。そのとき、ハッとひらめいた。

「電車がいま目の前にやってきたのは、時間になったからやない。線路を作る人や働く人の服や食べ物を作る人、運ぶ人─そんなたくさんの人たちがどこかで働いているから。いろんな人が、目の前にいない誰かのために働いている。私も、その世界に1ミリでもいいから参加したい」

 このときから、コピーライターとしての仕事への姿勢、人との関わり方が変わったと上田さんは言う。月に1度、継続することを意識して小さな朗読イベントも開始した。

詩人から一転、料理人に

 当時、京都はアート活動が盛んだった。音楽、映像、ダンス、演劇、現代美術、伝統芸能─幅広いジャンルで躍動する若手と出会い、今も交流は続いている。釜芸の講師をお願いすることもある。振付家でダンサーの砂連尾理さん(52)も、当時から上田さんを見てきたひとりだ。

「京都には社会問題と芸術表現を考える仲間がたくさんいました。彼女は詩人でありながら、ストリップ劇場で客からの要望に応えて詩を朗読したり、トイレの中に観客を連れ込んで一対一で朗読したり、実験的で独創的な活動をしていました。何にもとらわれず、とても自由に生きている印象でしたよ」

アート活動に夢中になった20代。左が上田さん

 砂連尾さんの印象とは異なり、29歳になった上田さんの中では、複雑な思いが渦巻いていた。砂連尾さんをはじめ京都でつるんでいた仲間たちが次々と世界へ旅立っていくことへの焦りもあった。

 30歳を目前に仕事を辞め、調理学校に通い、調理師免許を取得。吉野の旅館に住み込みで働き始めた。

「不況になり、コピーライターは商品を売り込むためだけの仕事になった。仕事と詩、どちらも中途半端でした。人生は1回限り。自分で選んで自分の人生を生きていけるなら、ことばにこだわらんでもいいやんと思った」(上田さん)

 料理の道を選んだのは母の影響も大きい。ひとり暮らしで不規則だった暮らしや食生活を立て直したいという思いもあった。

 自分で選んだとはいえ、住み込みの調理の仕事は体力的につらかった。職場は男性が多く、カルチャーショックを受けた。休み時間の話題は車とパチンコと野球。お運びのおばちゃんとも共通の話題は見つからない。

 そこで、こちらから質問を心がけた。吉野の山奥、ダムで沈んだ集落出身のおばちゃんに、「ダムに沈む前はどんな村でしたか」「子どものころにしてた遊びは?」と聞いてみた。すると相手の表情がみるみる和らいでいく。話が合わないと思っていた人との距離も縮まった。

「私、相手が大切な思い出の話をしてくれる声の感じや、一緒に過ごす時間がすごい好きなんやってわかったんです。一生懸命働いた後、外に出ると満天の星が見えました。星が、私のこと見てるよって言ってくれてる気がした。世界はそうやって、無名の人たちが自分の人生を懸命に生きてるんだって思いました」

 1年の調理学校、4か月の住み込みを経て、「もう1度ことばの仕事に戻りたい」という思いに駆られた。

学生の死を悔やみ、覚悟の「詩業家宣言」

 知人の紹介で大阪でライターの仕事をしながら、詩のワークショップを企画し、再び動きだした。ある日、ひとりの学生にこう相談された。

「詩を仕事にしたいんです」

 そのとき、上田さんは何も答えられなかった。

「詩で食べていけるのは谷川俊太郎さんくらいや。詩を仕事にせんときや」という母の言葉を守っていた。

 学生はその1週間後、飛び降りて亡くなったと耳にした。

「どうしてあのとき、“しんどいけど頑張りや”って言えなかったのかと後悔しました。私自身が詩を仕事にできないと思い込んでいることにも気づかされた」

 ちょうど仕事もクビになった。今ならどんな未来でも選べる。ブログに詩を生業にすると「詩業家宣言」をした。「何のあてもないけど失敗したらやめればいい。やってみたいことはすべてやってみよう」

 すると、それまでの活動を知っている人や、つながりのあった人から「詩人」として声がかかるようになる。

 最初の大きな一歩は2003年からの「新世界アーツパーク事業」。現代芸術の拠点形成を目指した大阪市のプロジェクトだった。新世界と呼ばれる新今宮駅前にあった娯楽施設、フェスティバルゲートの一室を芸術の振興を目的として運営するというものだ。

 元中華料理店を『ココルーム』と名づけ、表現者を目指しバイトで食いつなぐ若者の働く場所として機能させ、アートに興味のない人にも気軽に来てもらえるようカフェを始めた。

 そして1年後、NPO法人『こえとことばとこころの部屋』として法人化した。

カラフルな外観のココルーム。中に入ると、釜芸の参加者たちが書いた書道が天井いっぱいに飾られていた

 アートを目指す若者をはじめ、さまざまな人が来た。悩みや困難を抱えた人たち、隣町の西成区、釜ヶ崎と呼ばれる地域で活動する人もカフェに来るようになった。話すうちに釜ヶ崎の歴史や背景を知るようになる。上田さんにとって、ことばは「自分の中のことを表現するものではなく、名もない人や世界を記録するもの」になった。

 釜ヶ崎に足を運ぶ機会も増えた。街角でリヤカーを引く人がハーモニカを吹いている。自作俳句が貼ってある野宿小屋もあった。釜ヶ崎の人たちの声にならない声をもっと聞きたいと思いはじめていた。

 2008年、38歳になった。プロジェクトが終わりフェスティバルゲートを出るとき、移転先に迷わず釜ヶ崎を選んだ。釜ヶ崎は新世界の南側にあるさらにディープな地域だ。そこでカフェのふりをして、表現の場をつくろう。

 その当時の上田さんの言葉を砂連尾さんは聞き逃さなかった。

のびのび表現できる壁のない世界へ 詩人、NPO法人『こえとことばとこころの部屋』代表 上田假奈代さん

「私は今でも、ただ純粋に詩をやりたいだけ。だけど本当に詩をやるために必要なのは、この地域とちゃんと関わり、この土地に生きている人たちと関わることだと思う」

 しかし、「引っ越してしばらくは困惑していた」と上田さんは振り返る。

「最初は、地域のおじさんたちが何を言っているのかわからなかった。不安定な言動にも振り回された。警察ざたもあった。この街の人たちと一緒に詩を作り、朗読し、舞台に上がるなんて想像ができなかった」

大事なのは表現できる場をつくれていること

 それでも、とにかく毎日カフェを開けた。本当にいろんな人がやってきた。

「これまで楽しかったこと」

「野宿して大変だったこと」

 おっちゃんの人生に思いを馳せ、話を丁寧に聴き続けた。アッケラカンとした様子や織り交ぜる笑いに驚かされた。

 そのうち、いろんなことが見えてきた。暴力、差別、貧困、病気などの困難さが積み重なると抱える疎外感は根深い。でもどっこい生きている。

「しんどさを抱え、声を奪われた人たちが多い街だからこそ、自分の気持ちを表に出し、相手に伝えること、自らその声を聞くこと、誰かにその声を受け止めてもらうことが必要なんだとわかった」

 開店当初から毎日来るおじいさんがいた。優しそうな人を見てはお金をせびり、トラブルを起こす。ほかのスタッフは出入り禁止にしよう、と言うが上田さんは首を縦に振らない。そのかわり、トラブルのたびに店の外で話を聞いた。1年半ほどたったころ、店内のワークショップに参加しないこの人を、手紙を書く会に誘った。すると「書く」と言って上田さんの隣に座る。ペンをとったが手が止まる。そしてひらがなの書き方を聞いてきた。

「彼の手紙のあて先は、彼が生まれ育った養護施設の園長さんでした。ココルームに通ううちに、ここでは字の書き方を聞いても誰もバカにしたりしないと思ってくれたのだと思います。そのとき、大事なのは表現することではなく、表現できる場をつくれているかなのだと教わりました」

 しんどい人生を生きた人はたいていのことには驚かない。

「自分にいろんな事情があるように、相手にもきっと事情があるのだろうと慮れる人が多い」と体験的に知っていた。それらは、まさに上田さん自身が人生の中で体験してきたプロセスだった。

 今もなお、その確信がココルームや釜ヶ崎芸術大学の活動の根底に貫かれている。

 2014年、釜ヶ崎芸術大学をスタートさせると、ヨコハマトリエンナーレから声がかかり、その年の芸術選奨文部科学大臣賞新人賞を受賞した。受賞理由には「アートによる社会包摂が一般的でないころから地域社会で特色ある活動を継続してきた」とあった。

地域の外の人も常連も

ココルームの敷地内に井戸を掘るプロジェクトを実施中。その日、仕事がなく手が空いた常連客たちが代わるがわる手伝いに来るという

 しかし、上田さんはその活動を「社会包摂」と呼ばれることに違和感も覚えた。

 上田さんが目指す活動は、釜ヶ崎で暮らす人だけに向けたものではない。地域の外から来る人が、講座の中でふとしたおっちゃんの言葉に励まされることも多い。

「弱い自分でも変われたから、みんなも頑張って」

 目の前にいない誰かのために働く名もない人とは、私たちひとりひとりだ。そのすべての人が、吉野の星空で見た星のように輝いていることに気づかされる。

「明日どうなるかわからない。それはきっとみんな同じ。いつも今日その日のことを丁寧に、一生懸命取り組んで今があります。私はこの街で本当にたくさんのことを学ばせてもらっている。ひとりひとりがのびのび表現して、お互いにそれを受け止め合って生きていける世の中になるといいなと思っています」

    ◇ ◇ ◇

 朝10時。2年前からココルームに通うタケちゃん(72)が笑顔でやってきた。大好きな映画と演歌の話をひとしきりして、釜芸の講義を受けるごとにスタンプを押してもらえる学生証を見せてくれる。

「ココルーム大好きやねん。釜芸も面白いよ。これ、ボクが書いたやつ」

 そう言って、ココルームの壁にある書を指差す。写真撮っていいですかと尋ねると、「ええなあ。悪いことしてへんから撮っても大丈夫やな」と外野から笑い声が飛んだ。

 こうして今日もまた、釜ヶ崎の1日が始まる。


取材・文/太田美由紀(おおた・みゆき) 大阪府生まれ。フリーライター、編集者。育児、教育、福祉、医療など「生きる」を軸に多数の雑誌、書籍に関わる。取材対象は赤ちゃんからダライ・ラマ法王まで。取材で培った知識を生かし、2017年保育士免許取得。NHK Eテレ『すくすく子育て』リサーチャー。家族は息子2人と猫のトラ。現在、初の著書執筆中。

撮影/渡邉智裕