アジア最大のゲイタウンと呼ばれる「新宿二丁目」。ゲイバーだけでなく、レズビアンバー、女装バーなど約400軒が密集するセクシュアルマイノリティーが集う街。世界最大の多様性を抱えるこの街はいったいなぜ、どのようにしていつごろからそうなったのか──。
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ゲイバーのはしりは1951年に登場
「二丁目がどうやって生まれてきたのか知ってほしかった。なんでこの街がこんなに個性的で面白い街になったのか。世界的にもほかにない特別な街なんです」
とは、作家の伏見憲明さん。丹念な取材を積み重ねた著書『新宿二丁目』を6月に刊行し、自身もゲイバー『A Day In The Life』を営む伏見さんにこの街を案内してもらった。
「新宿二丁目はもともと江戸時代から“色街”として存在していました。関東大震災で吉原などの遊郭が被害を受ける中、新宿二丁目は被害に見舞われなかった。それで遊郭の街として栄えたんだけれども、戦後、1958年に売春防止法が施行されて赤線としての歴史も閉じたんです。
そのころからゲイバーがぽつりぽつりとでき始めた。戦前、劇作家・脚本家として成功した松浦貞夫という人物が1951年に『イプセン』という喫茶店を三丁目に開店するんです。これが新宿二丁目にゲイバーが広がっていくきっかけだったといわれています。イプセンは当時の夕刊紙などにも取り上げられるなど衝撃的でした」
当時の夕刊紙のタイトルがその衝撃を語っている。
《男色酒場……聞きしにまさる濃厚さ……ガラガラ声で誘惑……肉体はってくる“男給”たち》(伏見さんの著書『新宿二丁目』より抜粋)
「このイプセンや、蘭屋などのゲイバーが街を引っ張っていき、1960年代初頭は40軒程度だったのに'60年代末には100軒くらいに激増しました。1970年代以降にはゲイ雑誌に広告が載り、新宿二丁目=ゲイタウンとして広く知られていくようになっていったんです」
伏見さん自身が初めて二丁目を訪れたのは高校3年生の夏休みのことだった。
「ゲイ雑誌を見て二丁目を知ったんです。親が旅行でいない夜を見計らって恐る恐る来てみました。
そのころは今みたいに明るい街じゃなくて、もっと淫靡(いんび)な風が吹いているような。自分の姿を見られたくなくて早足で移動しているような人たちばかりでした(笑)」
一般社会で“負け”ている人が勝ち札に転じる
以来40年、二丁目に通いだし、変わりゆく街を見てきた。
「今では仲通り(写真左上)は人出でにぎわい、隠れて歩いているような人はいなくなりました。仲通りの向かいにある『Campy! bar』はその象徴のようですね。値段もリーズナブルで女装からゲイ、レズビアンからノンケまですべてを受け入れるまさにCAMPな場所。
レズビアンバーだと『一(はじめ)』さんが有名よね。女性中心のレズビアンバーだけどストレート(ノンケ)やゲイの男性も入店可能よ」
ほかの場所では生きにくいと感じている人が、この街では自由に生きられる、と伏見さん。
「いわゆる一般社会では“負け”ている人、その負がこの街では勝ち札に転じます。
ゲイバーのコミュニケーションって自分のマイナスのカードを出し合うゲーム。自虐ネタをいくつ持っているかを競うようなところがありますから(笑)」
《PROFILE》
伏見憲明さん
1963年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。評論家、小説家。同性愛問題やジェンダーなどの論客として活動。『プライベート・ゲイ・ライフ』、『魔女の息子』(第40回文藝賞受賞)など著書多数。『クィア・ジャパン』編集長も務めた。
《INFORMATION》
『Campy! bar』
住所:東京都新宿区新宿2丁目13-10武蔵野ビル1階
「ここはセクシュアリティーなんでもありのミックスバーです。値段も良心的だし、まずはキャンピーさんに行っていろいろ教えてもらうっていうのがいいかも」(伏見さん・以下同)
『Bar 軒先』
住所:東京都新宿区新宿2丁目16-11サンフタミビル101号室
「ここは昼間は不動産屋さんの軒先で夜は立ち飲みバーになる変わったお店なんです。ふらっと立ち寄って情報交換したり雰囲気を味わうのによさそう」
『A Day In The Life』
住所:東京都新宿区新宿2丁目13-16藤井ビル
伏見憲明さんが経営するお店。曜日によって店主が変わるからお店のツイッター(@noriakikoki)をチェックして自分に合うママを見つけてみては。