レズビアンの家庭と聞いたら、どんな様子を思い浮かべますか? 答えを先に書いてしまいますが、ふつうです。
(ちなみに私の“ふつう”は「みんなと同じ」とか「多数派」とか「LGBTは全員こう」という意味ではなく「あなたと違う部分もたくさんあるだろうけど、当たり前に存在しているもの」ぐらいの感覚です)
世界を侵略! ……は、しません
私は『LGBT』という分類で言うならL=Lesbian、女性同性愛者で、G・B・Tとして生きた経験はありません。
私が同性の家庭づくりについてしゃべる目的は、男女の伝統的な夫婦の形をブッ壊してLGBTを増やして権利を乱用して世界を侵略だ! くくく……みたいな陰謀ではないのでご安心ください。
願うのは“人とちょっと違うかもしれない形で幸せな人生を送ろうとしたときに、誰かの感情によって阻止されないこと”です。
「哀れな人生だった」?
1人目の妻は、結婚には積極的な反面、子どもは欲しがらない人でした。老後はひとりになるだろうからと施設へ払うお金を学生時代から貯蓄していたほどです。私たちは伴侶同然の生活になったころに「妻」と呼び合うようになりましたが役所や法律に裏づけられた関係ではありませんから、書類上は他人です。
おまけに妻は同性愛者であることを隠していましたから、私たちの関係を把握しているのも妻の親友たちだけ。妻の両親には認められていません。
妻が30代を過ぎたころに血管障害で亡くなったとき、友達のフリをしてお線香をあげに行くと、本物の親族とおぼしき人に「お嫁にも行けなかったし子どもも産めなくて哀れな人生だった」と、人生を評されていました。
後年、子持ちの女性と再婚した私は「同性愛は少子化に拍車をかける・生産性がない」という攻撃を受け流せる強い立場にありますが、わが家とは別のところに同性愛者を狙撃したはずの流れ弾で胸が張り裂けたご夫婦もいたはずです。選択的に子どもを持たない夫婦や、不妊治療に耐えている夫婦も。
私は「子どもを育てて一人前」という裁きが嫌いです。育児は大変で、いたわられるべきことです。でも、子どもは誰かの上に立つための勲章ではありません。
今でも「妻は哀れではありません、子を産まない人生に納得していました」と言い返したくなりますが、それでも「産めばわかる」という無敵の論法で切り返されたらどっちみち話は強制終了です。
妻の矜持(きょうじ)は静かにそばに置いて、子がある人にはある人の、ない人にはない人の、お互いに勝つことも負けることもしない、くらべられない尊厳があることは語り続けたいと思います。
産んでも産まずとも何か言われる
2人目の妻には妻の産んだ子が3人いて(本人が性別に違和を感じたら改めますが、いま把握している限りでは)全員、男の子です。
「産めなくて哀れ」と評された妻とは真逆で、こちらの妻は「夫もいないのに産んじゃってどうする気か」と後ろ指をさされました。息子たちが大きく育ってからは「家族でちゃんと血がつながっていないなんて子どもがかわいそう」の方向で問われます。
シングルペアレントの方々が受けるのと同種の言葉も聞きます。例えば「父親のいない家庭って大丈夫?」とか「父親と母親がそろっていなくてかわいそう」とか。
さて、では、父親のいない家庭って本当に大丈夫なのか、家族で血がつながっていないのは本当にかわいそうじゃないのか。
……ナント! 正直、わかりません。
男女で育児する人たちでさえ、子どもにとってよい親になれるか? 何が子どもの幸せ? と迷いながら育てるのですから、男女そろって育てれば幸福! という単純な話ではないでしょう。
子どもが「この家に生まれたのを恨む」と言えばそれが答え。「幸せ」と言えばそれが答え。子どもの真意を無視して妻や私や世間が「大丈夫」と答えていいことではありません。子どもが育児の採点結果をくれるのは、ずっとずっと先ですから、今はわかりません。
私にできることは妻子が人生を悔やまない家庭をつくる努力をすること。それは、今は、妻子と私のためです。これを私が「世のため人のため」とのたまうならきれい事の盛りすぎ、という感じですが、でも、今LGBTに批判的な大人が“普通の家庭”で育てた子が、実はLGBTのいずれかかもしれません。
「幸せな家庭をつくっていい」という肯定感を
「うちの子がLGBTじゃなくてよかった」
という親の言葉に顔色ひとつ変えず耐える当事者もいます。夫婦仲よしの家庭で育てた子が将来、シングルペアレントになるかもしれません。親になれない・ならないかもしれません。
それがたとえ「マイノリティーを認めない!」と主張する人のもとに生まれた子だとしても、等しく「幸せな家庭をつくっていいんだ」という肯定感を持って育ってほしいと思うのです。
幸せになったマイノリティーの家庭はたくさんあるという小さな史実の数々は、次の世代のためにも残しておきたいし、みなさんの近くに今は“変わった人”がいなくても、子どもや孫の世代にはいるかもしれません。そのころには、
「どんな生き方を選ぶ子どもが生まれてきても歓迎だよ」
という声があふれていることを願って、照れくさいことですが、自分の家庭の話をしています。
(文・イラスト/中村キヨ)