世界テニス界の女王、大坂なおみは9月22日に行われた東レ・パンパシフィック・オープン決勝戦を制して優勝し、日本に再び栄光をもたらした。2020年の東京オリンピックでも、彼女の生まれた国である日本に金メダルを与えてくれそうだ。そんな大坂の試合が行われていたちょうど同じ頃、東京では若手お笑いコンビのAマッソが、大坂の肌の色に対して差別的なネタを披露していた。
報道によると、2人は漫才の中で「大坂なおみに必要なものは?」「漂白剤。あの人日焼けしすぎやろ」とやり取りしたとされる。お笑いのネタであれば“通る”と思ったジョークが予想外に批判を浴びたことを受けて、コンビが所属するワタナベエンターテインメントはホームページ上で、「著しく配慮を欠く発言を行った」ことについて謝罪。Aマッソもそれぞれ直筆で謝罪コメントを発表した。
Aマッソと事務所の謝罪は何かが欠けていた
この行動自体はよかった。実際、最初にこのニュースを知ったときは、2人と事務所の素早い対応に対して日本は「改善」していると楽観的になった。今年1月に、日清食品が大坂なおみの肌の色を白くしたアニメーション動画を公開したときは、海外メディアが問題を指摘し、これに日本のメディアや日清が続いた格好だったが、今回はイベントに来ていた日本人からネタに対して疑問の声が上がったのだから。
日本人がこのダイバーシティや偏見といった問題を本当の意味で解決するには、日本人自身がこうした問題を放置することが日本のイメージ悪化につながったり、日本の発展の妨げになったりすることを理解しなければならない。
ところが、Aマッソおよび事務所の謝罪には「何か」が欠けており、その事実は私のこの事態に対する楽観的な気持ちを一気に吹き飛ばしてしまった。いずれの謝罪にも大坂の名前が入っていなかったのだ。
例えば、ワタナベエンターテインメントの謝罪文は「特定の方のお名前を挙げて、ダイバーシティについて配慮を欠く発言を行った件につきまして、お名前を挙げてしまったご本人(以下略)、関係各位に多大なるご迷惑をお掛けしましたことを、深くお詫び申し上げます」と、大坂の名前を挙げていない。
これが誠意ある謝罪のあり方なのかとまでは問わないが、コンビそして事務所の今回の「言葉の選び方」を見ると、双方とも今回「なぜ」謝罪しなければならなかったのか、そして、Aマッソによる不適切発言による影響を受けた人を明確にしなければならない理由を理解していないようなのだ。なので、ここは私がなぜを説明したいと思う。
私は10年ほど前、アフリカ系アメリカ人の父と日本人の母を持つ日本人女性と付き合っていたことがある。彼女は日本で生まれ育ったにもかかわらず、褐色の肌やカールした髪の毛、その他の身体的な特徴から、私と同じように非日本人として明らかに外人扱いされていたのだった。
しかし彼女は外国人ではなかった。
彼女は顕著な成功を収めた日本人経営者でもあり、自信満々の態度を取るだけの理由が十分にあった。
だが、そうではなかったのだ。
自らを守るためにした「人種的コスプレ」
彼女は私に対し、正直にこう打ち明けた。彼女が私にひかれた理由は私の“黒人っぽい”部分であり、彼女自身の中にあるそうした黒人の側面を再び呼び起こす欲求だったのだと。それほどまでに、彼女は日本に浸り切っていた。2人の間のそうした状況は、しばらくの間はうまくいっていた。
そんなある日のこと。待ち合わせに現れた彼女は、ストレートパーマをかけた髪はシルクのようで、美しい褐色の肌はパウダーをまぶして淡い色合いになっていた。その外見は、日清のあの動画に登場していた大坂なおみと、大きく違わないものだった。私は仰天してしまった。
「いったい、どういうことなのか……」
彼女は私に対し、私が呼び覚ました彼女の“黒人性”(彼女の父親は彼女の母親と離別してアメリカに戻っており、父親に置いていかれた彼女は、その人生のほとんどを日本に深く浸って過ごした)は、自分の得意客にとっては逆効果であったと述べた。実際、彼女はいくつかのクライアントを失った。そして、いくつかの有望なクライアントも、彼女のライバル社に取られてしまった。
それゆえ、彼女は自らの生活を守るために、彼女が皮肉を込めて「人種的なコスプレ」と呼ぶ行為を行わなければならなかったのだ。これはひどく私を悲しませた。涙が出そうになった。それはこの種の出来事を以前に経験したことがないからではない。私はアメリカ人だ。こんなことは当然、何度も経験してきている。
このレベルの屈辱による同一化は、アメリカでもかつてはありきたりのことだった。今でも「民族的な」見かけは攻撃を受ける。例えば今年初めには、ある少年がレスリングの試合に出場するためにドレッドヘアを切ることを余儀なくされている。
だからこうした状況にまったくうぶというわけではない。だが私が我慢できないのはその背景にあった現実だ。 彼女がとても日本的で、出る釘は打たれるという考え方の下で育てられた。それがあまりにも心に深く刻まれていたため、こうした行為が非人間的で屈辱的であることをあまり認識していなかったことだ。そこが私を非常に悲しい気持ちにした。
Aマッソは、当たり前だが冗談を言っただけだ。だが、その冗談はまったく面白くない考え方を映し出していた。多様性を認めず、差別をしても罰を受けない考え方だ。
あの冗談は、大坂だけをピンポイントに対象としたものではないことを私たちは知っている。散弾銃のように、私の元彼女や日本人らしくない外見の日本人すべてに対して向けられているのだ。そしてその延長線上には、漂白剤が使えそうな茶色の肌の日本人以外の人たちがいる。
Aマッソの冗談は「ミス」ではない
世界の多くの人が来年、褐色の肌をした大坂なおみが日本に金メダルをもたらすべく闘う試合を観戦しに日本へ(物理的に、あるいは精神的に)やってくる。そしてもちろん日本は、彼女がこの国を代表して表彰台に上がることになったときに、肌の色を理由に大坂(と彼女のような外見の人)を受け入れられない人がいるという事実に、大坂が胸を痛めるような状況を望んでいないだろう。
だから、今こそ日本人は次のことを理解して認めなくてはならない。「世界」を代表する人々はすでにこの国で生活し、人を愛し、子育てをし、税金を納めて、日本国内でより必要とされてきている多様性のニーズを満たしてくれているのだ。
Aマッソの冗談は「ミス」ではない。彼女たちは、あの冗談に込められた真実はウケると思っていたのだろう。日本は目下、単一に近い社会から多様社会へ移行しようとしている。これは決して楽なことではなく、この変化の過程で日本人、そして非日本人の多くの人が、自らが変わることを求められたり、居心地の悪い思いをしたりするだろう。
とくにお笑い芸人は、誰のことも傷つけずに笑いをとらなければいけない、という難しい課題に直面している。これまでよりずっと繊細で良心的であることを求められているのだから。
バイエ・マクニール(Baye McNeil)作家 2004年来日。作家として日本での生活に関して2作品上梓したほか、ジャパン・タイムズ紙のコラムニストとして、日本に住むアフリカ系の人々の生活について執筆。また、日本における人種や多様化問題についての講演やワークショップも行っている。ジャズと映画、そしてラーメンをこよなく愛する。現在、第1作を翻訳中。