10月13日、新シーズンが開幕したばかりの日本の男子プロリーグ「B.LEAGUE」(以下、Bリーグ)に今、注目が集まっている。観客数は年々、増加傾向で、今や女性客が半数以上を占めるという。そんなバスケ界で「革命児」と呼ばれているのが『千葉ジェッツふなばし』の島田慎二会長。僅か8年前、存続が危ぶまれていた弱小チームを日本一に大躍進させた。3年連続リーグ観客動員数1位の人気チーム、その成長の秘訣を島田に聞くと、
「見に来ればわかりますよ」と自信たっぷりに微笑んだ。
負けても“来てよかったな”と思えるクラブへ
「Go Jets! Go Jets!」
プロバスケットボール・Bリーグ開幕前のプレシーズンマッチでありながら、満員近い観客が大声援を送る9月15日の船橋アリーナ。地元に本拠を置く千葉ジェッツふなばしはBリーグ・アーリーカップ2019関東のタイトルを目指し、準決勝・宇都宮ブレックス戦に挑んでいた。
9月の2019年ワールドカップ(中国)に参戦したばかりの比江島慎や竹内公輔、バスケ界のレジェンド・田臥勇太らが並ぶ強豪相手に、Bリーグ初の1億円プレーヤー・富樫勇樹を擁する千葉は好発進を見せた。だが、第2クオーターに入ると相手の猛追を受け、後半開始早々に逆転を許してしまう。そのまま追いつけず、最終的には75対84で苦杯。ファイナルに進むことはできなかった。
「本当の勝負は10月から始まる公式戦」と長期離脱から復帰した富樫は前を向いた。
彼らを支える赤いTシャツを着たブースター(ファン)も悲観的にはなっていなかった。この大会こそ3位に終わったものの、新シーズンに期待を抱いた人が少なくなかったからだ。熱狂的バスケファンのみならず、トップ選手に憧れる子どもたちが目を輝かせていた。
試合中にパフォーマンスを繰り広げるチアリーダーも弾けんばかりの笑顔を見せ、社員やボランティアなどのスタッフもイキイキとした表情で働く。千葉ジェッツを取り巻く人々が作り上げる船橋アリーナの熱気と興奮は、未来への大きな希望を感じさせた。
彼らの一挙手一投足を、会長に就任したばかりの島田慎二(48)はあらゆる角度から見つめていた。なじみのお客さんから「島田さん」と声をかけられれば気さくに応え、運営に携わる面々に「頑張れよ」と声をかける。現場の人間にも「ご苦労さん」と肩を叩くなど、細やかな気配りを忘れない。
アリーナ入り口付近には幼児用の遊具が置かれ、子どもたちが楽しそうに遊んでいた。千葉ジェッツのホームゲームのときは無料託児所を設置。親子でバスケを楽しめる工夫を凝らしている。飲食関係もアプリを使って観客席で注文し、できあがったら受け取りにいくシステムを導入。
「女性や若者にも喜んでもらえるサービスが大事」
と島田は強調する。
「千葉ジェッツふなばしを取り巻くすべての人たちと共にハッピーになる」
自身が掲げた活動理念を体現すべく、トップ自ら全身全霊を注ぐ様子が色濃くうかがえた。
「スポーツは勝てるときもあれば、勝てないときもある。勝てなくても“来てよかったな”と思ってもらえることがクラブとして重要なんです。チームを強くすることも、お客さんに喜んでもらうことも、ホスピタリティーやクオリティーを愚直に上げていく努力次第。そう思っています」
「一緒に『打倒トヨタ』の夢を追いましょう」
敏腕経営者の強い信念によって、バスケ界で4年連続観客動員数日本一を達成した千葉ジェッツ。だが、島田が来る前は「金ない、人いない、休みない」の3ない状態。船橋アリーナには閑古鳥が鳴き、預金残高は数百円。夢も希望も見えず、スタッフも迷走。倒産寸前のじり貧経営を余儀なくされていた。
マーケティング本部ブースターサービス部のリーダー・小林英博さんが当時の惨状を語る。
「10人入るのがやっとの西船橋の狭い事務所で興行や運営など3~4役を1人で担う状態でした。みんな仕事を消化できず、明らかにギクシャクした雰囲気が漂っていました」
2010年からアルバイトで関わっていた同本部パートナーサービス部・落合豪さんも「非効率極まりない職場環境だった」と打ち明ける。
「僕はアメリカの大学を出て、現地のサッカーや野球のクラブで働き、長年の夢だった地元・千葉のバスケットボールクラブで働き始めたんですが、営業メインのはずが“英語ができる”という理由で外国人選手のマネージメントも兼務させられた。業務は山積みで家に3日帰れず、ドンキに下着を買いに行く羽目になったくらいです(苦笑)」
2012年、再起不能と思われたクラブを「バスケ未経験」で引き受けた島田。どん底状態からの下克上物語はここから始まった。
「コンサルじゃなくて、社長をやってくれ」
「NO」と答えれば、自分の決断によってクラブは立ち行かなくなるかもしれない。「どうせやるなら、頑張ったけどダメでした」とは言いたくない。腹をくくった島田は、スポンサーに契約料前倒しの支払いを頼んで回った。謳い文句は、「一緒に『打倒トヨタ』の夢を追いましょう」。大風呂敷を広げ、大小問わずスポンサーに営業をかけた。
「いつか日本一になる」そんな力強い言葉で5万、10万と地道に資金を集めていく。
一方、社員にしつこく伝えたのは「バスケットボールはスポーツエンターテイメント」という言葉。「ディズニーランドのようにお客さんに気持ちよく楽しんでもらうことを心がけよう」と気配りを徹底させた。選手を地域のお祭りやイベントに派遣して知名度を上げ、親しみを持ってもらう試みも実施。こうした努力が実を結び、経営状態は8年間で奇跡的な飛躍を遂げたのだ。
大橋巨泉に憧れた学生時代
ファン、地域、株主、スタッフ、選手など、関わるすべての人たちの心を大きく動かしてきた島田。その根底に流れる苦い教訓と反骨心の原点を辿った。
島田が誕生したのは、大阪万博が開かれた1970年の11月。山形県との県境に近い新潟県朝日村(現、村上市)で、魚屋を営む一家の次男として成長した。兄、弟、妹のいる4人きょうだいの2番目で「保育園から脱走したり、とにかくヤンチャだった」と苦笑する。勉強は得意ではなかったが、夏になると川に潜ったり釣りをして、とった魚を自ら河原で焼いて食べるような行動派の少年だった。
「ウチは仕入れた魚を売るだけじゃなく、刺身や仕出しの配達もやっていたんですが、1000円で仕入れた魚を調理すると3000円にも4000円にもなることを知った。“ひと工夫して売る努力をすれば儲かるんだ”と子どもながらに感じた記憶があります」
とはいえ、魚屋を継ぐ気は一切なく、小学校高学年から中学にかけては野球に明け暮れた。だが、ボールの投げすぎで利き腕の右ひじの軟骨を痛め、野球は断念。次なるターゲットをサッカーに定めた。『キャプテン翼』が一世を風靡し始めたころで、マンガ好きだった彼はすぐさま憧れを抱いた。そして、「どうせやるんだったら高校サッカー選手権に出られるような学校へ行きたい」と強豪・日大山形へ行く決断を下す。
ところが、全国大会常連校には現在、湘南ベルマーレの代行監督を務める高橋健二らスター選手がひしめき、レベルは想像以上に高かった。基礎練習に明け暮れ、公式戦に出たのは1年の新人戦だけ。何度もやめようと思ったが、「私立の高い授業料と下宿代を親に払ってもらっているんだから、始めた以上は最後までやり切らないとダメ」と言い聞かせ、苦しい3年間を気力で乗り切った。
「サッカーではだめだったけど、社会人として勝ってやる」
野心を抱く島田が次に赴いたのは、東京の日本大学法学部。内部進学ではなく、一般入試での合格は、日大山形では珍しいケースだった。「故郷に錦を飾ってやろう」と勇んで上京したが、大学時代はバイトと飲み屋の往復がメイン。新宿ゴールデン街などに繰り出しては、作家や俳優の卵たちと天下国家を論じていたものの、実際に何をすればいいのかわからない。「自分探し」という名のモラトリアムに陥っていた。
そんなとき、漠然と憧れたのが、昭和のテレビ界の巨匠・大橋巨泉。50代で早々とセミリタイアし、バンクーバーとブリスベン、京都を季節ごとに行き来する生活が眩しく映った。
「巨泉さんになるためにはお金が必要。そこで次に考えたのが俳優。実は“モックン(本木雅弘)に似てる”と言われたことがあり(笑)、名画に出てくるロバート・デ・ニーロとかに憧れていたんです。大学2~3年でオーディションを受け、唯一、引っかかったのが欽ちゃん劇団。3000人中40人という狭き門を突破し、萩本欽一さんや見栄晴さんたちと絡んで訓練を受けるようになりました」
しかし、真剣にコメディアンを目指す仲間と稽古を重ねるたびに、大きなギャップを感じ始めた。「このままじゃ俳優になれるのは50歳くらいかもしれない」。この道を突き進むかどうか悩み抜き、大学4年の前半に見切りをつけた。
「やっぱり俺は大橋巨泉になりたい。だったら金を稼ぐことが先決で、経営者になるのがいちばんの近道」
そう心に決めた島田は遅ればせながら就職活動に着手。石油業界、ビール業界、旅行業界の3つに絞って受験した。しかし当時の島田は、最終面接で必ず社長に論争を仕掛ける「面倒な学生」で、結果はほぼ全滅。
'92年、唯一、受かった旅行会社『マップインターナショナル(現・H.I.S.)』に入社する。
9年で2度の辞表、突然引きこもりへ
社会人1年生になるに当たり、欽ちゃんからのある教えが頭にあった。
「“島田は眠くなったらどうする”と聞かれて“寝ます”と答えたら“ダメだよ~”と。“それじゃあ普通の人にしかなれない。もうひと踏ん張りできないと成功しないよ”とサラリと言われたんです。それと両親から学んだ創意工夫の大切さ。人生の2大師匠から教わった2つを胸に刻んで一生懸命、働こうと誓いました」
最初の配属は経理。性に合わない仕事だと感じたが、「数字に強くないと巨泉さんにはなれない」と言い聞かせ、取り組んだ。その仕事ぶりが認められ、2年目には営業へ。当時リクルートが発行していた旅行雑誌『AB-ROAD』を見た顧客の電話対応を担当した。数をこなすうち、話す前から相手がどんな目的で電話してきたのか、何に喜ぶのかを先読みできるようになっていく。徐々に指名が入るようになり、社員数100人のうち営業成績は2年連続トップで社長賞を受賞。この経験が後に千葉ジェッツの営業にも生きたという。
イケイケドンドンの若手社員は社長に「給料を上げてくれ」と直談判し、「好きな海外支店に配属してやるから」と言わしめるほどの存在に成長した。
だが、25歳でアッサリ辞表を提出する。新たに旅行会社『ウエストシップ』を起業しようとしていた先輩たちに誘われ、心が動いたからだ。
島田が日大生のころに友人の紹介で知り合い、交際していた妻は「思いついたことをすぐ行動に移す人だからしかたない」とあきれたという。
「夫の第一印象は『変わった人』。田舎出身で純朴な一面があって癒されましたけど、性格は猪突猛進。“俺は人の下で働けないから、社長しか合わないんだ”と飲みの席でもよく言っていましたから、共同経営者になる話は魅力的だったんでしょうね」
2人は島田がウエストシップに参画した翌'96年に結婚。'98年には長女、2000年には次女が誕生。家族の存在がエネルギーとなり、新会社で営業部門を一手に引き受け、企業顧客を大幅に増やすなど、順調な働きぶりを見せた。だが、29歳で再び独立を考え始める。
「会社、辞めてきたから」
2001年10月に突然、言われ、妻は返す言葉もなかったという。
「“これからどうするの”と聞いたら、夫は“蓄えがあるから大丈夫。生活は変わらないから。俺ちょっと上の部屋にこもるから”とだけ言って、引きこもり状態になったんです。どうしたもんかと双方の両親に相談し、私の母からは“慎ちゃん、どうするの”と聞いてもらったりもしましたけど、“大丈夫、心配しないでください”と笑顔で言うだけ。2人の子どもも小さかったですし、不安は募りましたけど、実はひとりで起業するためにいろんな勉強をしていたんです」
従業員の幸せに気づいた社長時代
その年末には『インターナショナル』を創業。30歳の青年社長はウエストシップ時代の女性社員2人と3人体制で東京都四谷に4畳半のオフィスを借り、2002年頭から本格的に業務を開始した。旅行業界での10年近いキャリアが生きて、かつての顧客も集まり、1年目から黒字を計上。だが、直後に足をすくわれる。
島田は顔を曇らせた。
「ウエストシップ時代に社長が数字を見せずにお金を自由にする傾向があって、社員たちは“嫌だな”と不満を口にしていました。自分もそれに近い状況に陥ってしまった。ある日、創業時についてきてくれた2人から“やめます”と宣言されて、困り果てました。彼女たちも人情があって、後任が決まるまではいてくれましたけど、会社は舵を取る人間が勝手気ままにやったらダメになるんですよね」
最初の挫折を味わいながらも、何とか乗り切った島田だが、社員20人規模に拡大した4~5年後、再び遊び癖が出てしまう。夜の街で散財し、午後からだらしない格好で出社して社員から白い目で見られる中、とうとう涙ながらに社員一同に詰め寄られた。
「私たちは社長の自己実現のために働かされているんですか!?」
そのとき、社長としてのあり方をゼロから見直す必要に迫られ、島田は気づいた。「自分の会社には理念がない」と。
「初めて経済書を読み漁って、出会ったのが京セラの稲盛和夫会長の『敬天愛人』という本。“経営者は従業員の幸福を追求するもの”という言葉を読んで、頭をトンカチで殴られたような気がした。社員との関係がうまくいかなかったのは、そういう理念が欠けていたからだと気づいたんです。傲慢な考え方を捨てて気持ちを入れ替えました」
社長の意識改革によって業績は伸び、長年の目標だった株式上場も見えてきた。そんな矢先の2008年9月、リーマンショックが起きる。経済環境の急激な悪化に加え、急速なインターネット化で旅行業のシステム自体も大きな転換を迫られつつあった。「今のうちに全社員の幸せのために打開策を講じなければいけない」と危機感を募らせた島田は2010年1月、会社売却というまさかの一手に出る。
「今、一部上場企業に会社を売れば、社員の給料も上がり、去る人には退職金も支払える。自分自身も大橋巨泉的人生を送る資金も得られる……。全員がウィン・ウィンになると考えて売却に踏み切りました」
妻には、共通の趣味であるウォーキング中に報告した。
「あのころの主人はすごく疲れているように見えた。家族旅行でハワイに行っても電話がひっきりなしにかかってきて、娘たちから“パパ、携帯捨てて”と言われていたほど。正直、よかったのかなと思いましたね」
恩返しのつもりでジェッツへ
肩の荷が下りた途端、夫は「旅に出てもいいかな?」と言い出した。
「私自身も下の娘が生まれてすぐ立ち上げたフラダンス教室が忙しくて、主人には好きなことをしてもらってもいいかなと思いました。ただ“娘の参観日と運動会には帰ってきてね”と条件をつけました」
島田はハルの売却前にコンサルティング会社・リカオンを設立していたが、会社は休眠状態のまま、夢とロマンを追い求めてバックパッカーのように世界中を旅するようになった。数か月に1度は帰国し、また旅に出る生活。「長年の夢に一歩近づけた」と喜んだが、妻との約束は必ず守った。2人の娘が赤ん坊だったころは夜泣きをすれば進んで抱きしめ、車に乗せて海までドライブに出かけ、動物園や遊園地に連れて行くなど、幼いころから惜しみなく愛情を注いできたからだ。
次女は父親とモンゴル2人旅に出かけた際のエピソードを明かす。
「小4の夏、悠々自適だった父とウランバートル近郊で遊牧民と一緒に暮らす体験をしました。いろんな景色を見せながら、モンゴルの歴史や地理、チンギスハンの話など、まるでマンツーマンのツアーコンダクターみたいに逐一、説明してくれました(笑)。父は真正面から向き合ってくれる人。2人だけで2時間くらい進路相談したこともある。いつも親身になってくれます」
家族第一の島田は3人の意向も酌んで2011年3月の東日本大震災直後に福岡へ転居。妻は新天地でフラダンス教室を開き、娘たちも転校。島田も旅を通じて知り合った九州在住の仲間たちと新たな事業を画策していた。
ウエストシップ時代からの恩人で、夫妻の結婚式の仲人も務めた船橋外科病院の理事長・道永幸治から予期せぬ打診を受けたのは、新生活が軌道に乗り始めたころだ。
「私が会長になっているバスケットボールチーム『千葉ジェッツ』が大変なので、暇なら手伝ってもらえないか」
青天の霹靂だったが、「そろそろ旅人をやめる潮時かな」という思いもあり、「恩返しのつもりで手伝おう」と2011年11月から週1回ペースで福岡から船橋へ通うようになった。だが、会社は殺伐とした雰囲気で、金も気力もない状態だった。島田は「立て直しはかなり厳しい」と痛感。コンサルタントの立場で40ページに及ぶリストラ計画書を提出してフェードアウトしようと考えていた。
ところが道永会長から「社長をやってくれ」と、まさかの打診を受けた。最初は乗り気でなかったが、バスケ愛あふれるスタッフの必死の頑張りを見て「存続させなきゃいけない」と責任感が強まった。旧経営陣との厳しい交渉を経て2012年2月、正式に社長に納まった。
「初年度から黒字にならないならやめる。黒字にしてみんながハッピーになれる会社にしたいから、ついてきてくれ」
こう宣言した島田はスタッフ全員と1対1で面談。会社の問題点を洗い出すところから始めた。前出の小林さんは抱えていた不満を吐き出した1時間超の話し合いを今もよく覚えている。
「選手たち現場と会社の相互理解が薄く、ぶつかることが多い実情をストレートに伝えました。島田さんの発言で印象に残っているのは“人を憎まず、仕組みを憎め”ということ。“何かあったら私に言ってくれ”という言葉も響きました。その後は1つの業務に専念できるようになり、仕事がやりやすくなりましたね」
混沌のバスケ界で「打倒トヨタ」を掲げ奔走
社員が自信を取り戻すまでには2年を要した。会議は30分以内、残業ゼロ、先送り禁止、整理整頓などあらゆる新ルールを掲げ、環境を変えた。「バスケが好きでやっているから何でもOK」という意識を、明確なビジネス感覚へと切り替えさせたのだ。そのうえで自分も靴をすり減らしてスポンサー回りを続けた。
身近にいたオペレーション本部興行・イベント部の部長、石井理恵さんは神妙な面持ちで言う。
「島田会長はあの手この手を使って小口からスポンサーを集めていきました。居酒屋から10万円のサポートカンパニー契約を取るために『キリバス産生マグロ製品紹介』と題した仕入れ先拡大の提案書まで作ったほど、努力と工夫を重ねていました。集客も目標を設定して数字を細かくチェックし、さらに上を目指そうとしていました。壁にぶつかっても弱音を吐いたことは1度もないですし、“じゃあ次は何ができる”とポジティブに考える。その姿勢から学ばされることが多かったです」
飽くなき情熱は家族も動かした。「お父さんを単身赴任させるわけにはいかない」と2012年春には再び千葉に転居したのだ。直後からは妻もジェッツの手伝いに行き始め、イチから学んで経理を担当し、新スタッフ採用の面接官まで買って出た。
社長就任から4か月後の2012年6月、千葉ジェッツはbjリーグからの脱退と日本バスケットボールリーグ(NBL)移籍を発表する。
当時のバスケ界は2つのリーグが併存していて、最終的には国際バスケットボール連盟から「リーグ統一しなければ2016年リオデジャネイロ五輪予選に出場させない」と最後通牒を突きつけられるほど、深刻な対立構造にあった。後発のbjリーグは演出や興行面では勝っているが、レベル自体は大企業主体のNBLが上と言われていた。ジェッツの観客数を伸ばし、収益を上げようと思うなら、強豪ひしめく後者に行って「下剋上」という夢を作ったほうがいい。島田はそう判断した。
「2~3か月悩み抜いて、日本のバスケ界を引っ張っていくという大義で決断しました。自分の強い意思に駆り立てられた。“反骨心”ですかね」
bjリーグ関係者からは白い目で見られた。
「千葉ジェッツは裏切り者」
こう罵られもした。島田はすべてを飲み込み耐えた。そして「打倒トヨタ(現アルバルク東京)」を掲げ'13―'14年シーズンのNBLに乗り込む。
「当時のNBLの人件費は1億5000万円。bjは6800万円でしたから、普通に考えたらムリ。でも私はそこを逆手に取って“約8000万円でトヨタを倒せます。みなさんが100万円ずつ出してくれたら可能になります”と営業の売り文句にしたんです」
1億円プレイヤーとの出会いへ
最初のシーズンは奇跡の4連勝から20連敗と天国から地獄へ突き落とされたが、2年目は34勝20敗と勝率は6割3分にまで伸びた。スポンサーの期待値も目に見えて高まった。
チーム強化のメドがつき、次は結果と集客向上。そこで大きな賭けに出る。田臥に続く日本2番目となるNBA契約を結んだスター選手である富樫の獲得に乗り出したのだ。
「富樫とは同じ新潟出身。2014年に初めて会った日、富樫が私の名刺の入った財布を落とし、拾った人から私に連絡が来るという奇妙な縁があって、連絡をとるようになりました。その後、NBAとの契約が満了になり、リオ五輪予選に挑む日本代表からもはずれた富樫に“ウチに来ないか”と声をかけ、2015年9月に契約にこぎつけました」
富樫は大きな力をもらったと語る。
「島田さんは熱い人。話すたびに情熱が伝わってきましたね。いちばん心に響いたのは“千葉ジェッツの選手として東京五輪に出場してほしい”という言葉。自分にとっても東京五輪は大きな目標。ジェッツと一緒に成長して大舞台を目指したいと思ったんです」
富樫というビッグネームが加わり、2016年から大野篤史ヘッドコーチ体制へ移行して迎えたBリーグ元年。2017年1月の天皇杯で初優勝。そこから天皇杯3連覇を果たすまでにジャンプアップする。Bリーグも'17―'18年、'18―'19年シーズンと東地区で2年連続優勝。日本バスケ界屈指の強豪クラブへと上り詰めた。
閑古鳥が鳴いていたはずの船橋アリーナも超満員の観客で、売り上げも急増。島田社長就任から7年目の'18―'19年シーズンは17億円に達した。2万人収容のスタジアムを保有する同じ県内のジェフユナイテッド千葉の売り上げが29億円弱だから、5000人収容のアリーナを本拠地とするジェッツがどれだけ健闘したかよくわかるだろう。
「みんながハッピーになるクラブ」という約束どおり、島田は富樫をBリーグ初の1億円プレーヤーにし、社員の給与を上げるなど環境改善を図ってきた。そしてこの8月、29歳の米盛勇哉を新社長に据え、自らは会長となって第一線を退くことを決意した。
スポーツを通じ、日本を元気に
後継指名された米盛氏は気を引き締める。
「島田会長と出会ったのは昨年末。強面社長のイメージが強かったんですが、気さくでユーモアのある方でした。年明けには“ウチに来ないか”と誘われ、6月に“私がそばで支えるから社長になってくれ”と直々に頼まれ、覚悟を決めました。やはりナンバーツーとナンバーワンは全然違う。島田会長のようにはなれませんよね」
苦笑いする新社長は数年後に日本バスケ界初の1万人収容のアリーナを建設して、売り上げを倍以上に引き上げるつもりだ。そんな頼もしい後継者を島田は父親目線で温かい目で見守りながら、自身の次なる役目を見据えている。
9月からはサッカー、バレーボール、ハンドボールなど団体ボール競技強化の組織である「日本トップリーグ連携機構」の理事兼クラブ経営アドバイザーにも就任。日本のスポーツ界全体の発展に貢献することにも乗り出したのだ。ほかにもたくさんのスポーツ関係団体から「ウチを助けてほしい」と引き合いがきている。
島田はジェッツとの縁をこう意味づけている。
「40年の人生を振り返ると、自分勝手でいいかげん、苦しくなると逃げる一面があった。これまで自分中心で生きてきて“世に必要とされる人間になりたい”と思ったときに出会えたのがジェッツだった。そこでの7年半の経験が自分を変え、クラブを変えた」
ひとつの大役を終え、穏やかな表情をのぞかせる。
スポーツを通して日本を元気にする活動にこれからも注力していくことになるであろう島田。妻もその姿を支える。
「今は新社長の育成を第一に考え、ときどき、家に呼んではいろんなアドバイスをしています。ただ、主人は思いついたら即、行動の人。これと思うことがあれば、すぐ始めると思います。そんな生き方を近くで見守っていきます」
夢の大橋巨泉的な悠々自適ライフはもう少し先になりそうだ。
撮影/齋藤周造、伊藤和幸
取材・文/元川悦子(もとかわえつこ)サッカーを中心としたスポーツ取材を手がけ、ワールドカップは'94年アメリカ大会から'14年ブラジル大会まで6回連続で現地取材。著書に『僕らがサッカーボーイズだった頃』(1〜4巻)、『勝利の街に響け凱歌─松本山雅という奇跡のクラブ』ほか