いじめられたときの恐怖や不安は簡単に消せるものではない。問題が解決したり、学校を卒業したり、ときには大人になっても傷が癒えず、うつや不眠などのPTSD、対人恐怖症に苦しまされることも。いじめ後遺症は深刻だ。
身体はピンピンでも心は痛い
「普通でいられる自信がなかった。思い出すのもつらい」
安藤紗弥さん(20=仮名)はいじめられていたころを振り返り、絞り出すようにこう話す。千葉県内の小学校に通っていた当時、いじめに遭い、中学まで学校にほとんど通えなかった。現在、加害者の保護者と市を訴えている。
いじめの経験は紗弥さんをいまでも苦しめている。服薬は欠かせず、不安定になると、児童精神科に入院することもある。フラッシュバックもきつい。頭をよぎるのは、いじめられた記憶だ。助けてくれない教師の顔が浮かぶこともある。
「学生服の子を見ただけでもダメ。中学では教室へ行けなくて制服を着ませんでした。学校へ通えていたときのことは思い出せませんが、みんなの目線が怖かったのは覚えています」
自傷行為もある。肩を切りつけるのだ。自傷が始まったのは小5のころだが、きっかけは覚えていない。
「誰からも肯定されず、学校から遮断された感じでした。身体はピンピンしているのに、心が痛い。その場にいてもたってもいられない。ギャップを埋めるために自傷しました。切っているときの記憶もないことがあります。突然、心の中がぐちゃぐちゃになったりします。眠れない、死ぬこともできない。環境を変えることができない。いらない、汚い、寂しい、怖い……と思ってしまいます」
母親(45)が自傷に気づいたのは、小5の秋だった。
「その前にも髪の毛を抜いたり、身体をかきむしったりはしていました」(母親)
いじめが続く中で、小4の1月、大きな出来事があった。集団下校のとき、昇降口の階段付近で、いじめていた女児が紗弥さんにわざとぶつかった。さらに、近くにいた男児に紗弥さんを押さえつけるように指示したのだ。もみあった結果、紗弥さんは頭を打った。学校が事件を伏せたために理解されず、周囲から「仮病だよね?」と言われ、休みがちになった。
その後もいじめはエスカレート。バイ菌扱いされたり、悪口を言われたり、ランドセルが捨てられた。蹴られたり、叩かれもした。
「それまでもずっと特定の子から悪口を言われたり、スカートをめくられたり、叩かれましたが、当たり前と麻痺していました」
小5の2月、ベランダに閉め出されたことがあった。たまたま教壇側の窓が開いていたのを見つけ、やっとの思いで教室に戻れた。
「このとき、“中に入れて”と言ったんですが、クラスの子たちは遠目からチラチラ見ているだけ。先生もいたのに、“誰か開けてあげて”と言うだけ。ベランダから飛び降りてやろうとも考えました」
心が壊れていくなか、小学6年生のころから児童精神科に通うように。いつ自殺してもおかしくない状況が続いた。
「死にたい気持ちもあったんですが、どうでもいい人間に言われた言葉で死ぬのは嫌だな、とも思っていました。死ぬかどうかは紙一重。状況や環境、気持ちの上下によっても違います。矛盾するようだけど、自分が生きていることがムカつくこともあります」
負けず嫌いが働いて、中学は加害者と同じ学区内の学校へ進学。そのためもあってか、相談室への登校となり、週1日〜3日通った。不安定なときはいじめられた夢を見たが、眠れないことが多く、睡眠導入剤が処方されていた。高校は通信制を卒業。友達もでき、楽しかった。ただ、容姿について悪口を言われたため、自信がない。いまだ人を信用できない。死にたい気持ちと隣り合わせの状態が続く。
「屋上でボーッとしたことや、線路の近くでしゃがんで電車を何回も見送ったこともあります。どうして、学校は生徒第一じゃないんでしょうか」
派閥に属さなかったらいじめの対象に
都内に住む野島桃江さん(18=仮名、以下同)は、母親の志保さん(44)と2人で暮らす。昼間でも遮光カーテンで閉め切っているために部屋は暗い。日が当たると、桃江さんにじんましんが出てしまうからだ。
'15年7月、岩手県矢巾町の中学2年の男子生徒(当時13)が自殺した。いじめを苦にしていたため、町教委は「いじめ問題対策委員会」を設置。報告書によると、いじめが希死念慮につながったことは認めつつも、遺書がないなどから、「自殺の原因を特定するのは困難」と判断した。
同校は2つの小学校から進学する。そのため、日常的に“派閥”が作られていたが、桃江さんはどちらにも属さなかった。
「私は学区外から転校してきたんです。そのため、“どっちがいい?”と聞かれました。決めかねているうちに、いじめにあったんです」
桃江さんは、亡くなった男子生徒と同じクラス。中1のころからいじめを受け、男子生徒からも心配されていた。
教室から出ると、クラスメートから「出て行った」と、はやしたてられ、戻ると「戻った」と実況される。掃除の時間には、担当の場所から追い出された。学年全体から無視されたこともある。
5月には罵声を浴びるようになり「消えたい」と思い始めた。言い返したりはできないため、リストカットをする。
「手首を切っているときの記憶はありません」
担任に「クラスの人から無視されている」と訴えても、「呼びかけが聞こえなかっただけじゃない?」と言われるだけだった。
「“何かあったら話を聞くよ”と言われたので打ち明けたんですが、先生は言い返すだけ。何を言っても無駄です」
その後、学校の呼びかけでいじめに対し謝罪の場が設けられたが、主犯である男子生徒の父親は、別の学校の生徒指導の教員だった。そのためか、謝罪を受けた際、学校側は加害生徒の父親に対する配慮を隠さなかった。
「“わざわざご足労いただいて”と言っていました。娘が大人への不信感を抱くのは、学校の対応のためです」(志保さん)
いつ何時も過去の傷を忘れることはない
桃江さんは周囲の視線に恐怖を感じ、顔を隠したり、マスクをするようになった。診断名は「視線過敏症」。長い髪はゴムで結ばなくてはならない校則のため肩にかからない長さで切りそろえ、顔を覆うようにした。それでも養護教諭から「髪を結べ」と指摘される。
こうした理不尽さを味わったからか、大人たちへの不信感は募り、閉じこもりがちに。外に出ると、じんましんが出た。
「家にいても、寝ているときも、音楽を聴いていても、(いじめられた体験を)忘れることはないです」
志保さんによれば、幼いころの桃江さんは、夕食の時間まで家に帰らないような、外で遊ぶのが大好きな子だったという。
「それがいまは、カーテンを閉め切って、暗いほうが落ち着くようです。安心できる状況は何もないです」
中3になって、桃江さんは岩手から都内へ転校した。だが、そこも安心できる環境ではなかった。
「受け入れ態勢がダメでした。厄介者のように扱われ、桃江に拒絶反応がありました。先生と話すだけでダメなんです。やっぱりここでもダメかって思いました」(志保さん)
担任は毎日のように家庭訪問へやってきた。しかし、「良心で来ているわけではなく、建前というのがわかりやすかった。接し方でそう思いました。教室で授業を受けられるよう働きかけることには、積極的ではなかった」と、桃江さんは振り返る。
結局、高校には進学していない。校舎を見たり、制服を着て歩いている高校生を見るだけでも、じんましんが出たり、イライラしてしまうからだ。志保さんと同じ職場で働いていたが、急にパニックになり、倒れたこともある。
ただ、知り合った男性との間に子どもができた。結婚しないで、シングルマザーとして育てると決心。今年10月3日、男児を出産した。
「同級生の死を経験して命の重みを感じたので、産もうと思ったんです。自分ができなかったから、子どもには学校生活を楽しんでほしい」(桃江さん)
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回復に必要な2つのことは?
「社会的ひきこもり」に注目した精神科医の斎藤環・筑波大学大学院教授は、いじめ後遺症について1990年代から意識していた。
「ひきこもっている人の中に、中高のいじめが起点でずっと苦しんでいる人がいました。彼らには、自分の意思に関係なくつらい体験を思い出したり、不眠やイライラするなどの興奮状態になるといった、明らかにトラウマの影響と思われる症状が出ていました。対人恐怖症もある。トラウマは生命の危機を感じる場面で形成されると言われています。いじめは被害者にとっては死活問題、危機的な場面です」
いじめに遭っても、後遺症となるのを防ぐ方法はある。
「いじめが起きた直後の段階で学校がきちんとした対応をすることです。学校が守ってくれなくても、家族は味方という姿勢は必要です。ひきこもりが長期化すると、恨みは家族にしか向かいません」
回復には何が必要か?
「1つは謝罪です。加害者が被害者に謝罪をする。2つ目に処罰。ケガをした場合は刑事事件とし、警察関与を要請すべきです。“処罰ではなく指導”ではダメ。最後に、被害に遭った当事者が納得できるかどうかが重要です」
“いじめられるほうにも問題がある”といった被害者へのバッシングはいまだに絶えない。周囲の支えはもちろん、いじめや後遺症への社会の理解が求められている。