不良に暴走族、どんな悪事に手を染めたヤクザ者でも立ち直るまでじっくり向き合う。
「お腹すいてない?」
「元気にしてる?」
来る日も来る日も声をかけ、お腹いっぱい食べさせる。まずは胃袋をつかんで、それから心―。1度、世話した子は家族同然、そんな強い愛情で育まれた「関係」は何年たっても色褪せないのだろう。彼らにはカレーの味とともに蘇る「思い」がある。
加齢を嘆き、家族や息子の話に花を咲かせる元少年たちの笑い声に包まれ、彼女の周りはいつまでも、いつまでも、賑やかだった。
少年たちを救ってきた“おふくろの味”
昭和の匂いを色濃く残す団地群と、威容を誇示するかのように林立するタワーマンション群。2つの種類の住宅がくっきりとしたコントラストを見せる東京都辰巳にあるのが、『Cafe Lalala』。
保護司として20年にわたり若者たちの立ち直りをサポートしてきた中澤照子さん(78)が昨年3月、退任後にオープンさせた店だ。
ちなみに保護司とは、法務省から委嘱を受け、非行や犯罪をした人に寄り添い、立ち直りを助ける人のことをいう。
「保護司をやめても、かつて担当した人たちが集える場、地域の人たちの憩いの場を提供したい」─そんな思いで始めたのだという。
9月22日、ここでカレーパーティーが開かれた。中澤さんの誕生日に合わせ、「みんなの誕生会をやろう」という呼びかけがあり、かつて関わった元少年たちが集まった。
この日のカレーは、普段カフェで提供されていない裏メニューだ。
大きめにカットされた野菜と豚バラ肉をたっぷり使い、市販のルー2種類に、子どもたちが大好きなマヨネーズやケチャップ、中濃ソースを隠し味にして作られている。
保護司だった時代から、中澤さんはこの通称『更生カレー』を、数え切れない回数作ってきた。この日、集った元少年たちも、夜遊びや暴走行為に明け暮れる中、中澤さんからの“ご飯、食べてる?”“カレー食べにおいでよ”の声に誘われては食卓を囲み、少しずつ立ち直っていった。
母親を欠いて育った子も多い中、更生カレーはまさに、“おふくろの味”であり、縁が薄かった母親の愛情そのものなのだ。
ずっと忘れられない母の言葉
「中澤さん、おめでとう」
かつてヤンチャした時期があった阿部義昭さん(37)が持参したプレゼントを手渡し、こう言う。
「僕、お母さんがいないんですよ。だから中澤さんはお母さんみたいな人です。中澤さんの料理ではカレーがいちばん好き。というより、カレー以外は食べたことないんじゃないかというぐらい、何かというとカレーだった(笑)。
今、大人になって初めて、“お世話になっていたんだな”と感じています」
山岡仁司さん(仮名=37)は、
「(更生カレーをごちそうになったのは)10回、20回じゃきかないですね。今になって初めて“家族の1人として見てくれていたんだな”と」
そんな言葉に微笑みながら、中澤さんが配膳の手を休めることなく言う。
「さんざん心配させられた子たちが、今は私のことを心配してくれるのよ“無理しないでくださいよ”とか、“元気ですか?”とか、私が昔さんざん言っていたのと同じ言葉を言いながらね(笑)。
私の明治生まれの母親がね、“自分に直接は戻ってこなくても、親切はぐるっと回って返ってくる。だから見返りを求めちゃダメだ”って。
そう言っていたのを思い出しますよ─」
中澤照子さんは1941年、大工道具の販売と修理を手がける父・高橋仙三郎さんと母・はるさんの間に生まれる。8人きょうだいの下から2番目で、東京の本郷で育った。中澤さんには、母・はるさんから常に言われ続けたことがある。
《善悪の区別をつけなさい。人には優しく、そして、いつでも元気でいなさい─》
「“勉強しろ”とは言われたこともなかったね。でも、人に親切にしたり優しくしても、“こんなことをしたと、言葉にしてはダメ。言った時点で消えていくから”って。
だから、“実は照子ちゃんにこんなことをしてもらってありがたかった”という言葉が母の耳に入ると喜んでね……。“あの年寄りはいい子に会ったと喜んでるよ、夕飯時には、きっとお前の話が出てるよ”と、勝手にストーリーを作るんですよ(笑)」
1年ほど前のこと。本郷の実家に戻ると、98歳になった元同級生の母親が感極まった表情で中澤さんにこう言った。
“小学生のころ、照子ちゃんはうちの子が坂道の階段を上がれるよう手を引いてくれた。私はそれを見て、毎日、手を合わせていたのよ─”
同級生は足が悪かった。その子の手を引き、学校まで付き添ったのを、母親は70年以上たった今もまだ、鮮明に覚えていたのだ。
学校を卒業した中澤さんは、公務員試験を受けて東京都交通局に就職。
数年後、日本全体が高度経済成長期に突入すると、豊かになりつつあった国民生活を当て込んで、交通局も観光バスの導入を決めた。中澤さんをバスガイドに、との白羽の矢が立ったのだ。この花形職業の枠はたったの2席。大抜擢されての、バスガイド就任であった。
「やることにメリハリがあったから、それが(抜擢の)理由だったのかもしれない。
でも、ガイドするから暗記しなくちゃいけなくて本がドッカンドッカンと来てね。
“こんなにたくさん覚えてられるかしら?”と思ったけど、私ってお調子者というか、臨機応変型なのね。覚えていない場所にくると、違う話題を振ったりして車内を盛り上げちゃう(笑)。楽しくはじめて機嫌よく終わらせるのが上手だったと思う」
だが、そんな天職とも言えそうなバスガイドの仕事を、わずか数年でやめてしまう。
実は、父・仙三郎さんが病気になり、家族を支えようとしての就職だった。成り行きで就いた仕事に未練はなかったのだ。
天職から転職、大物歌手との出会い
そんな無職となった元人気バスガイド嬢に、思わぬ転職話が降って湧く。
“古賀政男音楽事務所の電話番がいないんだ。ちょっと手伝いに来てくれないか?”
同事務所で相談役を務めていた親戚から、就職話が持ちかけられたのだ。大作曲家であり、幾多の名歌手たちを育て上げた、芸能界の大立者の事務所からの話であった。
だが当の本人は、芸能界にも歌謡曲にも興味はなし。熱中していたものといえば、読書とモダンジャズ。被差別部落の問題を描いた住井すゑの著書などを読みふけっては、新宿三丁目にあったジャズ喫茶『新宿ヨット』に入り浸り、ソニー・ロリンズやアート・ブレイキーなどのサウンドに酔いしれていた。
「(新宿ヨットには)立川あたりから黒人がやって来たり、浪人の学生さんが来たり、ヤクザや風俗店の女の子が来たりとか、時間帯によって客層が全然違うの。時間があるとそこに行ってレコード聴いているうちに、いろんな人から相談を受けるようになってね」
中澤さんの保護観察を受けた人たちがしばしば口にする、どんな不良やヤクザ者でも最後には胸襟を開き、心の奥底を吐露してしまう接し方。それはこの時代の経験が育んでいったものだったのかもしれない。
そんな女の子の転職話への返答は、
「歌謡曲の事務所なんて嫌!」
だが、事務所の所在地が気になった。日本を代表する繁華街・銀座にあったのだ。
「文京区から通いやすいんですよ。それで“行ってみようかなあ”と」
不良社員であったと、中澤さんは笑う。出勤して事務所内を掃除したら、電話の番。気が乗らないと“本日はお休みさせてください”の貼り紙を出して、遊びに行ってしまうのだ。
だがこの人の持ち味が、ここでも光りだす。
てきぱきとした対応と竹を割ったような性格が、古賀氏に気に入られた。すっかり信頼されて、事務所から古賀邸まで書類を届けに行くこともたびたびだった。
「そこでも内弟子さんたちの相談を受けたりするわけですよ。“どうやったら早くデビューできるだろう?”とかね」
その面倒見のよさに、実は古賀氏も気がついていた。
“この子は事務所に置いておかないで、マネージャーの仕事を覚えさせなさい─”
古賀氏には思惑があった。ちょうどそのころ、古賀音楽事務所は、とある新人の出現に沸き返っていた。近々ふるさとの新潟から、歌手になるため上京してくるという。
可愛らしい容姿と、わずか10歳でありながら誰もが舌を巻く歌唱力。
その新人の名は、小林幸子といった。
「(小林は)なにしろ可愛い子。1を教えたら10を悟れる子。アクがなくってスポンジみたいに吸収するの。あれは持って生まれたものだったのね」
当時、中澤さんはひと回り年上の22歳、マネージャー職はもちろん初めて。新米マネージャーと10歳の新人歌手との二人三脚が、ここに始まる。
天性のコミュニケーション力を持つマネージャーと、これまた天性の歌唱力を持った歌手の二人組は、その相乗効果でみるみるうちにトップスターへと駆け上がっていく。
小林幸子さんが当時を思い出し、笑いを堪えながら言う。
「そのころ、ものすっごくモテる人でしたよ。髪はワンレンで、おしゃれで華やか。
“照ちゃん”とか“お照”と呼ばれていましたね。
そうそう、マニキュアと靴が大好きなんですよ。スエードの靴を買って初めてはいた日が土砂降りだったの。そうしたら足は洗えばいいって、靴を抱えて裸足で歩いた。もう、大笑いしましたよ(笑)」
中澤さんも若き日々を、
「毎日毎日テレビに出て、雑誌の取材を受けて。私も小林も徹夜続きだったけど、毎日が目新しいことの連続でお祭り気分。彼女も私も、面白がって働いていたの」
ひと目見て“一般の女性とは違うな”と
毎日がむしゃらになって働いていたが、いつしか中澤さんも27歳という年齢になっていた。1960年代の27歳だ。
「“私、売れ残っちゃったかな? って、はっと気がついた。(笑)。そんなときに“もらい損なったかな?”と思っていた人が、同じ古賀政男事務所にいたんです」
1970年、29歳で中澤一弘さんと結婚。中澤さんは専業主婦になる。
一弘さん(79)が出会いの印象を語る。
「美人でしたよ。私が言うのも変ですけどね(笑)。ひと目見たときに“一般の女性とは違うな”と思いました」
職業人としても優れた力量があったと語る。
「活発で、判断力のいい、優秀なマネージャーでしたね。
例えば、小林幸子が新幹線に乗ってどこかに行かなくちゃならない。新幹線に乗り損なったりすると、即、手配してちゃんと帳尻を合わせてみせる。今みたいに新幹線が3分おきにくるような時代の話じゃありません。常に一生懸命で優秀なマネージャーでした。だからこそ、50年以上たった今でも(小林と)交流があるんじゃないでしょうか?」
ちなみに2人のキューピッドは、小林幸子その人だった。
小林さんが言う。
「私は四谷三丁目に住んでいて、マネージャーだから、照子さんが送り迎えに来てくれるわけですよ。そうすると、一弘さんもなぜかちょくちょく来てくれるの。
最初、意味がわからなかったんですけれど、あとになってようやくわかりました。デートするにもお金がかかる。でも私のアパートだったら、お茶を飲んでいくらおしゃべりしてもお金がかからない。
“ああ、そういうことだったのか!”って(笑)」
そして、こう続ける。
「“やさしさで言ったらこの人(一弘さん)以上の人はいない”って。結婚前、そう言っていたのを覚えています」
1972年、31歳で娘の綾子さんを出産。主婦になり、1児の母となっても、なぜか相談事を持ちかけられるのは変わらなかった。
「今度は各家庭のごたごたですよね。私も姑さんやご主人とのことに、さもわかったようなことを言ったりね」
母の面倒見の良さを複雑に捉える娘
そんな中から、中澤さんのもうひとつの側面、すなわち保護司・中澤照子の人生が始まっていく。
ひとり娘の綾子さんが小学生のころだった。両親が共働きなのか、今でいう放置子のような子がウロウロしている。中澤さんは「家においで」と声をかけてはご飯を食べさせ、「なんかあったらまたおいでね」と送り出した。
街中で夜遊びや喫煙する子どもたちにも声をかけずにはいられなかった。あるときは「元気にしてる?」と声をかけ、あるときは「お腹すいていない?」と食事に誘ったという。
そんな中で誕生したものこそが、ゴロゴロ野菜と豚バラ肉で食べごたえ十分の、あのカレーだったのだ。
「更生カレーというけれど、最初はお腹をすかせている子の空腹を満たすために作り、たまたま出しただけのものだったのよ」
子どもだけに遠慮を知らない。20、30回ではきかない回数やってきては、中澤家でカレーを食べて帰っていく。
保護司になる直前の1998年には、夜中に緊急の電話連絡を受けたこともある。
「暴走族の子が死んだと、その子の友達から電話がかかってきてね。“誰々が事故にあって死んじゃった!”って。
私は死んだその子の名前も顔も知らないんだけど、仲間は私のことを知っている。声をかけたことがあったんだろうね。それで電話をかけてきて“何時ごろ来れますか!?”って。だから取りあえずお香典を包んで行って、遺影を見て初めて“あっ、この子が……!”って」
言うまでもなく放置子への食事もお香典も、家計からの持ち出しだ。夫の一弘さんは、
「困ったとか嫌だとかは、まったく思いませんでしたね。むしろ(頼りにされていることは)喜ばしいことだと思っていました。その後、妻は保護司として活動することになりますが、家族に精神的金銭的負担を感じさせたことは、1度もありませんでした」
中澤さんもきっぱりと言う。
「葬式に行くときに香典を包むのは当たり前。負担だとも嫌だとも思いませんでした。でも、親たちは何をしているんだろうとは思っていました。
夕方、他人の家でお腹いっぱい食べて帰ったら、家では食べられない。普通ならば“どうしたんだい!?”と聞くはずです。でもそうした流れがない。ということは、親がいかに子どもをほったらかしにしていたか……。だから私は、そういう子が家に来てくれて本当によかったと思う」
そんな中澤さんの活躍を、注目している人たちがいた。
“保護司になりませんか?”
近所の保護司の人から、そう声をかけられたのだ。
「“へえ~、そういう組織があるんですか?”って、びっくりした」
ちなみに保護司になると、対象者に月2回面接し、それが未成年ならば保護者とも月1回面接、報告書にして法務省に提出しなければならない。それを無償で行うのだ。
困った人を見捨てておけない中澤さんの性格を知り尽くしていた夫・一弘さんは、反対はしなかった。だがここで、思いがけない声が上がった。当時25歳だった娘・綾子さんが、保護司になることに異を唱えたのだ。
綾子さんが振り返って言う。
「小さなころから近所の子とか、私がまったく知らない子とかが家に来て、一緒にご飯を食べているのが普通でしたから、“そういうものなんだな”と疑問を感じることはありませんでした。でも、保護司になることに関しては絶対に反対でした。罪を犯した人たちが家に上がるわけですから“母や家族に何かあったら”と。
母がそれとなく“保護司になりたいんだけど”と匂わすたびに、“絶対やめて!”。何度も険悪なムードになったのを覚えています」
中澤さんも振り返る。
「娘は最後まで反対していましたね……。“犯罪をした人を家に入れるなんて、お母さん、信じられない”って。これは保護司を始めてからも、ずっと言っていましたね」
綾子さんの反対は、何よりも中澤さんの心に響いた。
「時間が許す限り娘の話を聞いて、子育てには手抜きはしていないつもりだけど、保護司になって何年かたったあとだったか、“お母さん、他人の子の話ばっかり聞かないで私の話も聞いて!”と。ハッとしたことがありました……」
反対し続けていた綾子さんだったが、最後にはあきらめにも似た気持ちで受け入れた。
その中で、綾子さんにも気がついたことがあったという。
「(家族が傷つけられるなど)心配しなくちゃならないようなことが1回もなかったんです。団地のエレベーターで怪しげな男性と一緒になって、同じ階で降り、同じ方向についてくる。“つきまといか!?”と思ったけれど、うちに来ることになっていた人でした(笑)。一瞬でも心配したことといえば、これだけですね」
ポロっと出てくれば、しめたもの
法務省によると、保護司の数は平成31年の統計で全国に4万7245人。前述したとおり、全員が完全なボランティアだ。だが、その献身を理解できない人もいる。
「私が保護司になった20年ぐらい前だったかな、担当した女子高生の父親がベンツで乗りつけてきて“団地から保護司が出るようになったのか”と言われてね。私は“だからなんなんだい! 立ち直りを支えるのに家の大きさや広さは関係ないはずだ!”と思って、さすがにムッとしたことがありましたね」
無償なだけにかつて保護司は裕福な人が務めることが多かった。父親はごく普通の家庭の主婦が保護司をしていることが信じられなかったのだ。
「おまけに娘とは縁を切りたいって。だから“私だったら畳半畳もあれば、あなたの娘さんときっちりと向き合いますけどね!”って」
お金があっても貧しい人がいる。そんな人の子も、わが子のように受け入れていた。
保護司とは、母・はるさんの言葉のように、とことん“見返りを求めちゃダメ”な職務なのだ。
正式に保護司となったことで、『更生カレー』を作る機会も量も飛躍的に増えていった。だが対象は、地域からは邪険にされ、警察からも学校からもにらまれている子どもたち。容易に心は開いてくれない。
「そういう子を家に上げると、最初は“入っていいんですか!?”と戸惑う。そんな子にまずはお茶を出してお菓子を出して、最後にカレーを出すと、そのうちポロッと、“美味いですね……”。
でもポロッと出てくれば、しめたものなの(笑)」
17歳のときお世話になった小針将志さん(26)が言う。
「基本的に説教とか偉そうなことを言わないんです。会っても“あの子は最近どうしてる?”とか、友達と話している感じとあまり変わらない。
そんな普通の会話の中に“関わる仲間を考えろ”とかを遠巻きには入れているんだけど、当たり障りない言い方だから、不快感なく聞いていられる」
保護者も中澤さんのコミュニケーション能力を高く評価している。将志さんの母親である小針佳寿美さん(47)が言う。
「将志が中澤さんと最初に出会った17歳のころは言葉遣いも反抗的で、私がなにか言うと“ババアに何がわかる!”。
でも中澤さんと会うようになると対応がやさしくなりました。“これはこういうことなんじゃないの?”と言うと、“そうだよなあ”って。
中澤さんが将志にやさしく接してくれて、“そっか、そっか”と温かく聞いてくれた。
それがよかったんじゃないでしょうか」
感謝のカレーは格別の味
少年たちの間で中澤さんとカレーが評判になっていく。そのうち仲間内で“そんなに美味いなら俺も食べたい!”との声が上がり、ほかの保護司が担当している少年たちもが中澤家に押しかけるようになっていった。
「そうすると“俺も食べたかったのに食べられなかった”とか“呼んでくれなかった”って。でも拡声器で叫ぶわけにもいかないじゃない?(笑)
それで平等に食べてもらうために“○月○日に公園でカレーを作る”って声かけて、本格的に作りだしたの」
最初は20人前ほどだった公園カレーは、いつしか盆踊りの日などにも作るようになり、そんな日には遠く大田区からも少年たちがやってきた。
母親の立場から社会を明るくする運動を行っている更生保護女性会で、10年前からお祭りのときのカレー作りを手伝っているという田下静子さん(76)が言う。
「7月最後の金曜日、盆踊りのときなどは対象の男の子たちも家族連れでやってくるんですけれど、すごい量のカレーを、何百食分も作って、最後の片づけまでして帰られるんです。中澤さんはとにかくエネルギーがすごいです。
私の義理の母も保護司をやっていましたけれど、“おかげさまで更生しました”と訪ねてくること、なかったです。
何年か前、対象の子たちがお金を出し合って中澤さんを長野の旅行に連れていったとか。こんなに慕われる保護司は珍しいと思いますね」
更生カレーは少年たちの思わぬ力も引き出した。
18年ほど前のことだった。
「受け持っている対象者にね、私が“迷惑ばっかりかけているんだから、世のため人のため、なんかできることないのかね?”と。そして“雪かきをやると一気に取り返せるよ。達成感もあるし、地域の人に喜ばれるんだから!”」
その年の冬の土曜日、偶然、東京で大雪が降った。
「そろそろ寝ようかなと思ったら、ジャリジャリと音がする。外を見たら、元暴走族のお兄ちゃんが3人ぐらい、ちりとりで雪かきしていた!
これを見逃してなるものかと、ジャンパーを着て物置からシャベルを持ち出して。そのうち仲間が集まってきた。翌日、15人ぐらいで歩道から最寄り駅まで、土日の2日にわたって雪かきをしたの!」
すっかり片づいた歩道を、地域の人たちが感謝を口にしながら通っていく。差し入れをしてくれる人もいた。
「暴走とかで今までさんざん嫌がられていたのに、“ありがとう!”でしょ? うれしかったんだと思うよ(笑)」
雪かきが終わった後は、もちろん更生カレー。より格別の味だったに違いない。
この雪かきは、のちに月1回の清掃活動につながった。
暴走や喫煙で白い目で見られていた少年たちは、中澤さんと更生カレーのもと、地域から感謝される存在になっていたのだ。
元ワルたちを応援し、応援された20年
100人以上の子どもたちの立ち直りを見守った中澤さんだが、いつしか77歳になっていた。保護司には75歳という定年があるが、2年延長して務めた。そして昨年2018年、77歳で退任することとなった。
「いちばんうれしかったのは、子どもたちが門前仲町の居酒屋で退任パーティーを開いてくれたこと。奥さんも子どもも来てくれて、“お疲れさまでした!”って驚かせてくれた」
保護司になって20年、さまざまなワル、手に負えない不良も担当したが、1度も危険な思いをしたことがなかった。
少年たちが、“中澤さんに決して迷惑をかけるんじゃないぞ!”と、後輩たちに申し送りをしていたのだ。
「私は応援しているつもりだったのに、応援してもらっていたんだと。そう気がついたときには、感動で身体がザワザワとしましたね……」
昨年11月には保護司としての長年の貢献が認められ、現上皇陛下から藍綬褒章が授与された。
皇居へは富士山が描かれたピンクの着物を着て上がった。この着物、実は小林幸子さんのお母さんの形見の品だ。
「小林に“着ていくものがないから皇居に行くのよそうかな?”と言ったら、“照子さん、うち来ない? 母の着物が何着かあるから”って。
衣装部屋で小林とマネージャー、衣装さんなんかがね、私をどうにか格好よく見せようとしてくれてね。楽しかったし、うれしかったわ(笑)」
うれしいことはまだまだ続いた。昨年9月、かつてサポートした十島和也さん(37)が保護司になったのだ。
十島さんが言う。
「ちょっと前には“みんなの中から保護司が出たらいいなあ”なんて言っていて、そのうち“十島くん、あなた保護司になりなさいよ”。それこそ10年以上前から種をまいていたんじゃないですか(笑)。
今、19歳の子をひとり担当していますけど、本当に難しい。保護司の平均年齢が60歳過ぎている中、年は近いと思っていたのに話が全然通じないから」
17歳で出会ったときは、“話すと長くなるおばさん”が中澤さんの印象だった。保護観察する立場になって初めて、ひたすら聞いてくれたからの長さだったことに気がついた。
十島さんが静かに続ける。
「保護司としての自分は、中澤さんの足元にもおよばないと思っています」
明治生まれの母・はるさんが、こんなことを言っていた。《親切は、ぐるっと世の中に回って返ってくる─》
見返りを求めずやってきた献身が、ぐるっと回って、今、返ってきた。
お金じゃ買えない、愛と感謝、そして尊敬の思いとなって─。
取材・文/千羽ひとみ
せんばひとみ ライター。神奈川県出身。企業広告のコピーライティング出身で、ドキュメントから料理関係、実用まで幅広い分野を手がける。著書に『ダイバーシティとマーケティング』『幸せ企業のひみつ』(ともに共著)。