《ママはわが子の力を信じて、どんなときでも応援団長でいてあげてください。 目の代わりをすることはあっても、手足の代わりはしないでください。お口の代わりももちろんさけましょうね。 母の愛は、時にわが子の成長の妨げになることがあることを、知っておきましょう。大丈夫、答えはずっと後にわかります。すぐに結果が出なくても決してあきらめないでください》
9月28日、山梨県立図書館で行われた視覚障害者の講演会で、野澤みゆきさん(48)は、視覚障害児を持つ親に向けて書いた絵本『ママはいつでも応援団長!』を朗読した。
大先生と全盲の息子
みゆきさんの長男・幸男くんは3歳で両目を失明。当時は、視覚障害児の育て方の参考書も、SNSもなかった。理解してもらえないことも多かったが、学校や地域の人たちに協力を仰ぎながら、子育てと向き合ってきた。
《息子は20歳を迎えて巣立ちました。私の子育ても卒業。今度は孤独感や不安を抱えてがんばる新米ママを応援したい、ひとりじゃないと伝えたい、そんな思いがありました》
朗読の最中、絵本の場面に合わせてBGMが流れていた。息子である幸男くん(22)が作曲したものだ。
幸男くんは慶應義塾大学環境情報学部に通う4年生。7歳からパソコンを始め、10歳でプログラミング言語を操るようになった。現在は、ゲームや音楽を作るプログラマーとして活躍し、海外の視覚障害者にも名の知れた有名人だ。
絵本の朗読を終えたみゆきさんが静かに語りかける。
「実は私、この子を産む前まで誰かに頼ることができないタイプでした。だから、子育ても同じように1人でこなせると思い込んでいて……。
でも、息子が生まれて、自分ができることには限界がある、それならできる人を頼って託せばいいって気づいたんです。もし健常の子だったら、私の思うように育ててしまっていたかもしれません」
みゆきさんに続いて幸男くんが登壇。「“大先生”の後に話をするのは、だいぶハードルが高いんですが……」という前置きで会場から笑いを取ると、「10年の軌跡」をテーマに発表した。2人がそろって講演するのは、この日が初めてだ。
講演会を終えて、立ち上がった幸男くんにちらりと目をやったみゆきさんが「ねえ、姿勢悪いわよ、もうちょっと背筋伸ばしたら?」と注意。大学生活でひとり上京している幸男くんは久しぶりの帰省とあって、前夜も「髪が長すぎない?」と指摘されたばかりだと言う。たじたじといった様子でおとなしく従い「大先生には逆らえませんから」とおどけて笑った。
幸男くんは大学生になって、母親であるみゆきさんのことを「大先生」と呼ぶようになった。彼なりの尊敬と感謝を込めた呼称だ。
「大先生は、絶対に子どものやりたいことを妨げないし、否定をしませんでした。特に小さいうちは親に何かを否定されたら、子どもは抵抗できない。なんでも“自分には無理だ”という思考になってしまう。大先生が母親で本当によかったと思っています」
障害があるから相手にされないんだ
みゆきさんは20歳のとき、故郷である千葉の実家を離れ、山梨に来た。宝飾関係の会社で働き、24歳でかねてから付き合っていた正幸さんと結婚。翌年、長女の紗也香さんが、次の年に幸男くんが生まれた。
目の異変に気づいたのは生後2か月のときだ。母子手帳の記念写真を撮る際、看護師から「お昼寝から覚めたばかりで、どうしても片目を開いてくれなくて……」と言われた。
「そのときは“眠たかったのかな”くらいにしか思わなかったんです。だけど、まぶしそうにパチパチと瞬きはしているのに幸男と視線が合わないことに気づいて……」
そのうち、幸男くんの瞳が時計の振り子のように振り始めた。眼振と呼ばれる症状だった。
市立病院に行くと、右目の網膜が剥がれ、眼球がつぶれたピンポン球のようになっているという。左目の眼圧も上がっていて、そちらも失明するかもしれないと言われた。
「現実のこととして受け止められなくて、悲しいという感情は湧いてきませんでした。“何のこと? 誰のこと?”という感じ。でも徐々に現実を知ることになったんです」
息子がほかの子とは違う─。その思いは、みゆきさんを悲観的にした。
入院していた病院でクリスマス会をしたときのことだ。サンタクロースに扮した医師と看護師が子どもたちと目を合わせ、微笑みかけながらプレゼントを手渡していく。だが幸男くんの番になると、視線に戸惑いながらスッと渡し、次の子に話しかけた。その一瞬の出来事に、みゆきさんは傷ついた。
「“やっぱり障害があるから相手にされないんだ”と思ったり、周囲の何気ない言葉でも非難されているようで胸に突き刺さりました」
生後8か月のころ、幸男くんの目が奇跡的に回復した時期がある。「左目の一部だけぼんやり見えている」と医師から説明を受け、みゆきさんは張り切った。
ぬいぐるみや食べ物など、できるだけたくさんの物を見せて話しかけた。
だが喜びもつかの間、そのころから幸男くんは、左目を手で押す“目押し”を始める。甲府の病院では「目の悪い子特有のクセだから、放っておいて大丈夫」と言われたが、3か月後、国立の病院に行くと「今すぐやめさせて! 失明するかもしれません」と言われてしまう。
「もう本人はクセになってしまっていて、やめさせられない。なぜそこまでして目を押したいのかと思うほど、執念深いんです。そこからはバトルでした」
目押しをさせないように、片目全体を覆う透明で眼帯のようなものをかけさせた。それでも、眼帯を押し上げて押そうとする。「目が見えなくなっちゃうからダメだよ」と必死に言っても、2歳の子どもにはわからない。犬が手術後につける保護具『エリザベスカラー』を首に巻こうか、手にコルセットを巻こうか、いろいろアイデアを出したが、結局、トイレットペーパーの芯に緩衝材をつけ、ひじを覆って腕が曲がらないようにした。苦肉の策だった。
私が立ち上がらないで、どうする
しかし、3歳になったある日、突然、幸男くんが言った。
「ママ、電気が消えちゃったよ、早くつけて」
まだ夕方、真っ暗という時間ではない。慌てて病院に連絡しましたが、左目の網膜も完全に剥がれてしまっていた。
両目の失明、全盲─。みゆきさんは絶望の淵に立たされ、自分を責めるように泣き続けた。
「実は結婚してすぐ、義父が末期がんで亡くなってしまっていたんです。“不幸が重なるのは私がこの家に来たせいだ”と思い詰めていました。何かのせいにしないとやっていけないけれど、誰のせいにもできなくて」
母が悲しみに暮れていても子どもたちはかまわずお腹を空かせるし、ときに天使のような笑顔を見せてくれる。「私が立ち上がらないで、どうする」と自身に言い聞かせた。
幸男くんは身体も弱く入退院を繰り返していた。そのころ、姉の紗也香さんもまだお母さんが恋しい年齢。そんなとき、千葉からいつも駆けつけ、力になってくれたのが実家の父親だったという。
実父はみゆきさんが小学校6年生のときに交通事故に遭い、身体に後遺症が残った。就業が難しくなると、母が働きに出て、父は家事をこなす“専業主夫”になった。まったく経験のない家事に追われる日々。「定番メニューの冷凍コロッケは毎回、中身が全部出てる。そんな父を嫌だなぁと思う時期もありました」と、みゆきさんは微笑む。
しかし、文句を言うわけでも、家族に当たるでもなく、自分の境遇を受け入れ、ただ毎日、家族のために尽くしてくれた。みゆきさんは逆境を受け入れる父の姿を思い返した。
「そういえば、父は我慢強い人だったなぁって……」
嘆いていても、意味がない。自分が動かなければ子どもたちは生きていけないのだ。みゆきさんは立ち上がった。
「あきらめない子に育ってほしい」「挑戦できる子になってほしい」そんな思いを胸に秘め、工夫を重ねた。
毎晩子どもたちが寝る前には、2人が持ってくる絵本を全部読んであげた。目で見てもののイメージをつかむことができないため、みゆきさんは幸男くんの手を取り、お腹を叩いて「タヌキはこんなふうにお腹をポンポンするんだよ」、鼻先をギュッと指で押して、「豚さんの鼻はこんな形をしているんだよ」と教えた。
そんな努力のかいあって、幸男くんが小学校に上がったとき、「語彙が豊富で助かります」と先生から褒められた。
体験することは“宝”になる
家では3歳から包丁を持たせた。やりたがることは、躊躇せずになんでもやらせた。
5歳のころ、釘打ちに興味を持っていると知り、部屋に大きな板を運び込んだこともある。何本も板に釘を打ちつけ、ビー玉を転がせる道を作っていくコリントゲームに幸男くんは夢中だった。毎日、トンカチでトントンと釘を打つ様子を見て、みゆきさんは「大きくなったら大工さんになるんだね」と声をかけた。
視覚障害者が大工になるのは難しい。しかし、実現できるかどうかは関係なかった。
「幸男には夢を持つ訓練をさせていたと思います。何にでも興味を持ち、夢を持てる人になってほしくて、あのころ、常に“将来、何になりたい?”と問いかけていました」
盲学校の幼稚部に入ると、強力な助っ人も現れた。幸男くんを指導した紺野美智子さん(46)だ。
盲学校の児童が定期的に地域の幼稚園に行く交流教育は形式的に数時間行われることが多い。だが紺野さんは、「1日交流」に変更した。
「野澤さんが“どうせ行かせるなら意味のあることにしたい”と言いました。長時間なら子どもたちが自由に触れ合うことができます。友達とおもちゃや場所を取り合うことも、社会で生活していくうえで大事な経験だと気づいて」
視覚障害者は、立体的な感覚、特に上下の感覚をつかみにくい。そのため、紺野さんは建物の2階からハシゴで幸男くんを下ろさせ、「ほら、教室の下に保健室があるでしょ?」と教えたこともあった。「多少、危険の伴う指導でも“どうぞ、どうぞ!”とやらせてくれたから」と紺野さんは振り返る。
「野澤さんは“子どもが今こうだからこうする”ではなく、“将来こうなるために、今何をするべきか”という考えなんです。それは今、自分の子育てにも参考になっています」
「経験することが宝となる」そう思っていたみゆきさんは、姉の紗也香さんと同じように、幸男くんにもあらゆる経験をさせたかった。しかし全盲の子どもは、どこへ行っても「前例がない」と受け入れを断られてしまう。
「ケガをさせようと思っている人はいないでしょう。こちらも覚悟を決めてお願いするんです。あきらめない子に育ってほしいと思っている親があきらめるわけにはいかない、そんな意地がありました」
状況を変えるため、みゆきさんはまず紗也香さんを習い事に通わせ、送り迎えの際、必ず幸男くんを連れていった。
「1年くらい様子を見てもらいながら“幸男はどうしたら通わせられますか?”って聞くんです。そうして、お姉ちゃんと同じところに通わせちゃう。迷惑だったのはお姉ちゃんかもしれないですね」
しかし、紗也香さん(23)は「特に面倒を見ていた意識はない」と話す。
「弟の目を悪く言う子がいると、すごく腹が立ちました。弟がやり返さないので、私がやめてって言ってケンカするんです。私は弟のこと、大好きなんですよ。勉強もよくするし、優等生でえらいなって」
同じ障害のある友達を作ってあげたい
幸男くんは未就学のころから、スイミングスクールや音楽教室などあらゆる習い事を経験し、スキー合宿や潮干狩りなど子ども向けイベントにも積極的に参加した。
健常者向けのレッスンでは、幸男くんがわからないことも多い。音楽教室では楽譜を読めないため、耳で聴いた音をまねて練習していた。
だが、みゆきさんはフォローを忘れない。文字が浮き出る立体プリントをして指でなぞらせながら「これはト音記号、みんなはこういう楽譜を見てピアノを弾くんだよ」と教えた。
幸男くんは「みんなと同じようにできないことも多々あって、できない自分が嫌だったこともある」と振り返る。
そんな息子の様子に気づいたとき、みゆきさんは“その1日、どの瞬間に息子が笑っていたか”を思い返し、「ここがよかったよね」「あそこは楽しかったよね?」と聞いた。
「“うん”って言わせて、“そうか、じゃあまた行こうね!”って話してから1日を終わらせていました。何事もポジティブにとらえる癖を身につけてほしかったから」
視覚障害者は、身体障害の中でも人数が少ないといわれている。幸男くんが通っていた当時、山梨県内の盲学校には、幼稚園から大人まで、最も人数が多かったときで約50名ほどいたが、年齢は3歳から60歳くらいまでと幅広く、友達は持ちにくかった。
そこで、紗也香さんが友達と遊ぶときには、幸男くんを交ぜてもらったりしていた。
「どうして僕には友達がいないの?」
悲しそうな表情で学校帰りの幸男くんがそう言ったのは小学3年生のときだ。
一般の公立学校との交流は、みゆきさんが学校にかけ合い、従来週1回だった授業を週5回に増やしていた。そこでは同級生が遊んでくれた。しかし彼にとって一般の学校の友達も、紗也香さんの友達も、「遊んでもらっている」だけで、同等に「遊んでいる」という感覚ではなかった。
同じ障害のある友達をつくってあげたい……。みゆきさんはテレビで全盲の子がいると知れば、会いに行った。
「神奈川にいる子に会いに行きたい」と言ったときも快諾されたと幸男くんは振り返る。
「遠すぎるし、ダメだろうな、と思いながら聞いたんですけど“いいよ! 行こう”と即答されて、“え、いいの!?”って(笑)。驚きましたね」
みゆきさんは決して、面倒だから、忙しいからという自分の都合を子どもに押しつけなかった。
あきらめない母の強さ
いつまでも自分が面倒を見るわけにはいかない。「自立」を強く意識していたみゆきさんは、幸男くんを小学校にひとりで通わせたかった。
しかし自宅から盲学校までの道のりは、車の交通量が多く、階段も多い。視覚障害者がひとりで歩くのは難しかった。みゆきさんは、電車、バス、あらゆる経路を試し、必要な場所には点字ブロックを敷いてもらえるように市や警察に働きかけた。横断歩道の両端についていた金属の金具を中央に互い違いに設置してもらえるように依頼し、1年がかりで認められた。
そして4年生のとき、下校時に通る横断歩道にエスコートゾーン(視覚障害者用道路横断帯)敷設を依頼、県内で初めて敷かれたという。
「山梨県はよくいろんな項目で『××がない県』3県に入るんですが、エスコートゾーンがついたのは、かなり早かったんです。自分が働きかけたことの中で、それだけは誇れることかな」
山梨県立盲学校の教員、酒井弘光さん(55)がこう振り返る。
「よきにつけ悪しきにつけ猪突猛進で、幸男くんのためなら一生懸命なんです。相手が警察だろうがなんだろうが関係ない。親としてひとり立ちさせようという気持ちが強かったのでしょうね」
1年生入学と同時に始めた路線バス通学、幸男くんをひとりで通学させるようになったのは、小学5年生からだ。
最初は、みゆきさんがずっと後ろからついていって見守った。やがて自然と助けてくれる人たちが現れた。幸男くんがひとりでバス停に行く道中を見守ってくれる盲学校の先輩や、バス停を乗り越してしまいそうになると声をかけてくれる乗客もいた。
みゆきさんは、博物館や美術館に行くと、「うちの息子は目が見えないんです。よかったら実際に触らせてもらえませんか?」と館員にかけあった。劇団四季の『キャッツ』を見に行ったときは、衣装を触らせてもらったと紗也香さんは言う。
「いつも母は、“触ってごらん、こうなっているんだよ”と弟に体験させていました。母には、決してあきらめない強さがありました」
だが、学校や市にひるまずにかけ合い、システムをどんどん変えていくみゆきさんのことを「モンスターペアレント」と言う教師もいた。ひとりで幸男くんを歩かせることを非難し「なんて鬼親なんだ」と言う人もいた。夫にとっても大切な息子、ひとり通学には大反対で「子どもを殺すつもりか!」と大ゲンカした。
「私がやることはすべて危険と隣り合わせ。いつも夫とは意見が合いませんでした。自己満足なのかな……とずいぶん葛藤したように思います」
みゆきさんは、ひと呼吸おいて、言葉を続けた。
「そりゃ、やらせないほうが私だって楽だけど。それでは、この子の世界は広がっていかないから」
世間には障害者への配慮を「ワガママだ」と非難する人がいる。しかし、特別扱いを求めているわけではない。ただ、ほかの子と同じようにやらせてほしいと頼んでいるだけ。障害者差別禁止法の「合理的配慮」でも認められている、立派な権利なのだ。
口達者な息子との議論
ダウン症の娘を持つ難波訓美さん(46)はママ友のひとり。農業体験など行事が決まると、一緒に下見に行き、先方に「こういう子が来ます」と伝え、心構えをしてもらったと話す。
「準備をしているときも喜ぶ子どもの顔を想像するのが楽しいんですよね。親は、子どもが人生を楽しく豊かに過ごすために、今をどう過ごすかですよね。面倒だと思って楽をすると一生、子どもが手から離れない。情報を待つ人もいますが、野澤さんは情報を与えに行くような、引っ張っていくタイプでしたね」
これほど子育てに注力したにもかかわらず、みゆきさんは子どもたちに「勉強をしなさい」「いい成績を取りなさい」と言ったことはなかった、と紗也香さんは言う。
「テストの点数が悪くても怒らないんです。“必死にやったんでしょ? それならしかたない。どんな点数取ったって実力なんだから”って」
子どもとの信頼関係を築くため、子どもたちとじっくり話し合うことも心がけた。
紗也香さんが続ける。
「母はなんでも“どうして?”って聞くんです。××がしたいと言うと、どうして? あれが欲しいと言うと、どうして? って。めんどくさいなって思っていたけど、大人になると“理由”が大事なことがよくわかりました」
小学生のとき、口達者な幸男くんが興奮しながら、みゆきさんに訴えたことがある。
「大人は嘘つきだ。学校の先生は、生徒が授業に遅れてきたらものすごく怒るのに、自分は平気で遅れてきて謝りもしないじゃないか」
それを聞いたみゆきさんは、静かに説いた。
「あのね、お母さんが嘘をついたことあった?」
「ない……」
「お母さんは大人じゃないの?」
「大人だよ……」
「じゃあ“大人は”ってひとまとめにするのはやめて。嘘つきなのはその先生であって、大人全員じゃないよね?」
一方で、パソコンに没頭する幸男くんを叱ったとき、言い負かされたこともある。
「サッカーやピアノならいくら練習しても怒られないのに、パソコンだとどうして怒られるの? 僕はパソコンを使って勉強しているんだよ!!」
返事に詰まり納得したみゆきさんは、プログラミングに没頭するのを止めなくなった。
幸男くんの才能が開花したのは13歳のころ。「後出しじゃんけん」というシステムをプログラミングコンテストに出品し、審査員特別賞を受賞した。
みゆきさんの「教え」はたくさんある。いろんなところに行きなさい、誘いには乗りなさい、情報を集めなさい、健常者社会の中で将来、生きていくということを意識しなさい─こうした言葉が今、役に立っているから幸男くんは母のことを「大先生」と呼ぶ。
決断の根底にある「大先生」の教え
「がむしゃらに母として頑張ったのは小学生まで」とみゆきさんは笑う。
幸男くんは中学生まで地元の盲学校へ通い、卒業後は都内にある筑波大学附属視覚特別支援学校に進学。寮生活を始めた。
時間にも心にも余裕が生まれたみゆきさんは、視覚障害児を持つ親のためのグループ『らんどまーく』を立ち上げた。障害児を持つ親は孤立しがちだ。子育ての悩みや大変な気持ちを分かち合う場にしたかった。
『らんどまーく』の会員だった吉備津裕子さん(46)も、弱視の子どもを持つ母親だ。
「不安でいっぱいで、子どもの将来が見えてこないんです。でも、やすやすとやってきたわけではなく、大変だったこともあったと話してくれると、自分たちにもできると思えました」
みゆきさんは、よくこんな話をしたという。
「どこへ行っても“前例がない”はお断りの常套句。でも、断られたら、スタートのピストルが鳴ったと思って。そうすれば傷つかないから」
ダメならあきらめるのではなく、どうしたらいいか、次をひねり出す。「自分にはできない」「うちには無理」と、こぼす母親たちに、繰り返し説いた。
幸男くんは唯一の志望校だった慶應義塾大学環境情報学部にAO入試で見事、合格。充実した学生生活を送っている。
入学後すぐにクラスメートに勧誘され、手話サークルにも入った。「わからないだろう」と思ったが「断るという選択肢」はなかった。
まずはやってみて、できなければ、付き合い方を考えればいい。さまざまな決断の根底に「大先生」の教えがある。
大学ではコンピューターサイエンスとプログラミングを専攻。小学4年生から通っていた英語教室のおかげで、英語もペラペラ。学外では企業インターン、海外への視察、文字起こしのアルバイトも精力的にこなす。
画面がなく音だけで遊べるゲームを開発して、2018年から『東京ゲームショウ』にも出展。音声ゲームは視覚障害者にはなじみが深いが、一般にはほとんど知られていない。新しい感覚にメディアが飛びつき、さまざまな媒体から取材を受けた。
ひとりで通学していた経験から、どこへでもひとりで出かけていく。知らない場所へ行くときも「そこらへんに誰かいるでしょ。そしたら聞けばいいし」と楽観的だ。
将来の夢と母への恩返し
幸男くんは来年の春に大学を卒業し、内定をもらったIT企業に入社する。
これからはITの世界でも、システムが誰にとっても利用できる状態にあることが必要だ。視覚、聴覚、四肢……あらゆる障害のある人がITを使える仕組み作りが求められている。幸男くんの活躍の場はいくらでもある。
幸男くんに「親孝行」について問うと、将来を見据えた頼もしい答えが返ってきた。
「今は離れて暮らしているから、両親になにかあったら姉が助けに行くことになると思う。僕は金銭的な支援がメインかな。僕は普通に生きていけると思っているから、逆にいつか両親の介護を自分がやることもありうると思う」
みゆきさんにはずっと恐れていたことがある。いつか、幸男くんに「どうして目が見えるように産んでくれなかったの?」と言われることだ。
だが、幸男くんは1度もそう聞かなかった。理由はとてもクールで、彼らしい。
「意図的に産んだのなら“どうして?”って聞くけど、そうじゃないでしょ」
一方、みゆきさんが幸男くんに「iPS細胞の技術とかで、もしあなたの目が治ることになったら、どうしたい?」と尋ねたことがある。すると、幸男くんはこう答えた。
「嫌だよ絶対。だって、平仮名の『あ』の形もわからないんだよ。そんなの単なるバカじゃん。今までできていたことができなくなるってことでしょ。そんなの怖いよ」
全盲であることはマイナスではなく、彼らには彼らの住む、別の世界がある。「見えないから不便だろう」と思うのは見える側のエゴなのだと、そのとき息子に教わった。
「子どもたちが立派に巣立って、夢に向かって突き進む姿を見て、今やっと自分がしてきた子育ての、ひとつひとつに丸つけをしてもらっている感覚です」
みゆきさんは幸男くんに「可愛がられる障害者になりなさい」と教えてきた。
幸男くんはその言葉どおり、今たくさんの人に支えられている。
「ひとりでやれることはやるけど、難しいことまで頑張ってやろうとは思わない。できないことは誰かに頼もうと思っています。頼める人をいっぱいつくっておけば、ひとりの負担は増えないですよね。申し訳ない気持ちがあるならお礼にご飯を奢ったりしながら、一緒にいられる人といればいい。今は後輩によく面倒を見てもらっています」
でもね、と幸男くんは続ける。
「可愛がられる障害者って、モテないんですよ(笑)。僕の中には恋愛アプリがインストールされていないから」
ボケをかます息子に、「だったら、とっととダウンロードしてこい!」と、みゆきさんがすかさず突っ込む。2人のやりとりは、まるで漫才のようだ。
今、2人がこんなに和やかな関係なのは、みゆきさんが20年間、応援団長に徹してきたからこそなのだろう。
取材・文/和久井香菜子(わくい かなこ)編集・ライター、少女マンガ評論家。大学では「少女漫画の女性像」をテーマに論文を執筆し、少女マンガが女性の生き方、考え方と深く関わることを知る。視覚障害者によるテープ起こし事業『ブラインドライターズ』代表も務める