「うちのお父さん、すごいの。夫婦喧嘩してお母さんが車で逃げると、原付バイクで追いかけて車のフロントガラスに飛び乗っちゃうんだよ(笑)」
ざっくばらんな口調で、中村すえこさん(43)が生い立ちを話すと、身じろぎもせず真剣に聞き入っていた少年たちから笑いが起こった。
最年少総長と2度の逮捕の経験から
宮城県仙台市にある東北少年院でのひとコマだ。そこでは窃盗や傷害、詐欺などの罪を犯した少年32人が生活を送っており、さまざまな矯正教育が行われている。
すえこさんは『出院者の体験談を聞く』という単元の講師として呼ばれ、神奈川県横浜市から来た。自分が何をして少年院に入り、どうやって更生していったかをテンポよく話していく。
中学入学後すぐ不良グループに入り、万引きや窃盗を繰り返した。中学2年でレディースと呼ばれる女子暴走族に入り、中学卒業後には最年少で総長になった。ほかの暴走族に殴り込みをかけ、相手に大ケガをさせて逮捕。16歳で少年院に入った。
出院すると、唯一の居場所だった暴走族を破門されていた。「自分なんかどうなってもいい」と自棄になって覚せい剤を使用。半年後に再び逮捕され、拘置中に妊娠がわかった。面会に来た母に、命を守る責任を説かれ、初めて「変わりたい」と涙した。
2度の結婚で4人の母になり、その後、離婚。働きながらひとりで子育てをし、教師を目指して勉強している。
最後に、少年たちにこんなエールを送った。
「私は40歳で大学に入ったけど、君たちには私にないもの、若さと時間がある。何かになりたいと思ったとき、私もそうだったけど、できない理由とか言い訳ばっかり言ってないで、できる方法を探してほしい。あとは自分との戦いです」
東北少年院での講話を終えると、隣接する女子の少年院・青葉女子学園に向かった。
すえこさんは出院が近い2人の少女と対面し、さまざまな質問を受けた。
「少年院を出たら偏見の目で見られますか?」
「あるよ。特に私は地元で有名だったから。理解がなければ雇ってもらえないし。脅しじゃないけど、本当に偏見はあるから、必要がなければ少年院にいたことは言わなければいいと思う。それは自分で決めればいいこと」
少年院では出院後、昔の非行仲間とは付き合わないように指導される。
「悪い友達とは、どういう友達ですか?」
ストレートな質問に、すえこさんはしばらく考え込んだ。
「難しいね……。相手の幸せを望んでくれない友達かな。蹴落としてやろうとか、裏切ってやろうとかして。ひとりで覚せい剤をやるのが寂しいから一緒にやろうぜと言うのはいい友達じゃないよね」
すえこさんは約10年間、NPO法人『セカンドチャンス!』の一員として、少年院出院者の支援を続けている。自分の更生体験を話すほか、出院者同士の交流会を定期的に開き、居場所作りをしている団体だ。
どう社会に溶け込んでいけばいいのか。すえこさん自身も、かつて悩んでいただけに、出院後を不安に思う少女たちの気持ちがわかる。
説得力のある言葉
友達に関する質問に、すえこさんは丁寧に答えていく。
「新しい友達はどうやって作ればいいですか?」
「私はずっと過去を隠して生きてきたから、なかなか信じられる友達はできなかったな。それが偽りの自分のようで嫌だったこともあるし、今はオープンにしてます。今も『内省の時間』ってある? 私のときは正座で内省してた。今はベッドの上で、“相手に怒りや感情をぶつけてしまった”とか、今日あったことを振り返って考えるのね。そうやって自分が変わると、自然といい友達が集まってくるというのは最近、感じる」
「理解してくれる人って、どういう人ですか?」
「私が少年院出院者だ、元暴走族総長だって聞いても、付き合ってくれる人。過去も全部ひっくるめて、中村すえこと付き合ってくれる人が、理解してくれる人だと思う。割合は少ないけど、理解してくれる人は絶対にいるから。
セカンドチャンスって、何度でもやり直せるという意味なの。失敗しても、もう1度前を向いて、進んでいってもらいたいと思います」
すえこさんのような少年院出院者が来て話をしてくれることを、青葉女子学園の小國万里子園長は「すごくありがたい」と強調する。
「私たちがいくら出院後のことを言ってもあまり響かないけど、すえこさんが言うと説得力があるし、ここを出てからの将来像も、より現実的に見えてくると思います」
特に女子の場合、少年院に入ってくる数は年々減っているが、対応が難しい子どもが目立つようになったという。
「親に虐待を受けている子が増えています。最近うちに入ってきた子をみると、逆に虐待を受けていない子のほうが珍しいくらいです」
これまでの小國さんの経験では、親から暴力を受けて育ち、他人を傷つけることを「当たり前じゃん」と言い放つ子。性的虐待をされて「自分の身体は汚い」と感じ援助交際をしていた子。育児放棄され、少年院で初めてご飯を3食たべたという子もいたという。
虐待をされた子どもには共通する傾向があると説明する。
「愛着障がいを起こしやすく感情のコントロールがなかなかできなくて、他人との関係をつくるのが難しい。自傷や摂食障がいという形で出てくる子もいます。精神的なケアもしていますが、大変なのは出院後に帰る場所がなかなか見つからないことですね」
虐待をしていた親のもとには帰せない。まず更生保護施設に打診するが、空きがなかったり、難しいケースということで断られることもある。全国にある自立援助ホームに職員が電話をかけたり、保護観察所の協力を得たりして、受け入れ先を懸命に探す。
出院者からも頻繁に電話がかかってくる。近況報告や悩みを聞いてもらいたいだけの子もいるが、泣きながらかけてきたり、深刻な相談をする子もいる。働いて得たお金を親に搾取されると訴える子は支援組織につないだ。
罪を犯した少女たちの実態
2009年に『セカンドチャンス!』の設立に参加して以来、すえこさんは各地の少年院を訪ね歩いている。虐待だけでなく貧困家庭やひとり親家庭も多い。実態を見聞きするにつれ、ある思いに突き動かされるようになった。
「少女たちは罪を犯した加害者だけど、実は被害者でもある。“幸せになってもいいんですか”と言う子もいました。虐待する親をケアするとか、もっと根本から社会を変えたいと考えたとき、思いついたのが映画を作って現状を知ってもらうことでした」
もちろん、映画作りに関しては、ずぶの素人だ。映画製作会社、法務省、文化庁、保護司の集まりなど、いろいろなところに足を運んだ。
「企画を話すとみんな“いいんじゃない。でも、お金はないよ”と。ああ現実って、こういうことなんだと感じたけど、私は自分のお金を持ち出してでも絶対に作ろうと」
クラウドファンディングで製作資金を集め、ドキュメンタリー映画『記憶 少年院の少女たちの未来への軌跡』が今年7月に完成。構想から8年かかった。
撮影は法務省の協力を得てかつて、すえこさんがいた群馬県の少年院・榛名女子学園で1年間かけて行った。すえこさんは監督兼インタビュアーとして、在院中の少女たちの本音を引き出していった。
美人局で逮捕された遥香(17=仮名)は親に2度見捨てられている。母が再婚し、新しい父に認めてもらいたくて難関中学に合格した。だが、父の転勤で両親と弟たちは県外に行き、遥香は学校を理由に祖母に預けられた。
「本当は一緒に暮らしたかったけど、言えなかった。逆らっちゃいけないんだって、自分の中で勝手に思って」
寂しさから彼氏にすがりつくとDVを受けた。中学3年で家族と同居したが、友人とトラブルを起こして学校を退学に。疲弊した母が倒れ、父から「家に帰るな」と言われて、夜の街をさまよった。
「(美人局の)誘いに乗れば共犯の中に居場所はある。毎日、誰かしらと一緒にいたかったんです」
少年院には家族全員で面会に来てくれた。家族の温かみに触れ、初めて家に居場所があると感じられた。
窃盗で逮捕された沙羅(20=仮名)は2人暮らしの母と共依存のような関係にあった。中学生のころ母が薬におぼれ、沙羅も興味本位で飲むように。生活費を稼ぐため援助交際をしたり、食べ物を万引きして、母に渡していた。
「気づいたときにはお母さんのだらしなさが当たり前になってたし、私が悪いことをしても責めたり怒らなくなった。私は楽なほうに流されやすかったので、ちゃんと怒ってくれたほうがよかった」
少年院の中で母との関係性を考えるようになり、出院後は父との生活を選んだ。
母親に育児放棄された佳奈(18=仮名)は2歳から16歳まで施設で育ち、17歳のとき覚せい剤で逮捕された。
「少年院で初めて甘えられた」
出院式では教官と抱き合って泣いた。大阪で少年院出院者の自立を支援する社長のもとで働くことになり、寮に入った。だが、大変なのはそれからだった。
初めて信頼できる大人との出会い
すえこさんは佳奈のその後を追い大阪に向かう。仕事はいいかげん。部屋はぐちゃぐちゃ。門限を破るなど約束を守れない。結局、佳奈は寮を出されてしまう─。
顔にはぼかしが入り、声も変えられているが、少女たちの葛藤や心の揺らぎが痛いほど伝わってくる。
すえこさんは映画の狙いをこう語る。
「彼女たちが口をそろえて言っていたのは、“少年院の中で初めて信頼できる大人に会った”と。女子の場合、少年院に入ったことで、救われたケースがすごく多いんです。少年院を出たと聞くと、社会からは“すごく悪いやつ”という目で見られるけど、そういう現状をまず知ってほしいです」
静岡県立大学教授で犯罪学が専門の津富宏さん(59)は、「これだけのクオリティーで、子どもたちの生の声を映像で伝えたのは初めて」だと評価する。
「少年院の子どもたちと日々接している法務省は、個人情報保護を気にするあまり、子どもたちの本当の姿を世間に知らせていなかった。NHKが以前、男子少年院を撮った番組でも、焦点が、子どもの声を伝えることより、職員の仕事ぶりに当たっていました。
すえこさんの映画が公開されることで、犯罪歴のある人の受け皿が急に増えることはないとしても、この映画は長期的には意味がある。かつて“見えない化”されていた障がいや貧困の問題と一緒で、真実を知らせる人がいることで、社会は揺さぶられていくので」
津富さんは元法務官僚で、『セカンドチャンス!』を設立し、初代の理事長を務めた。10年前、すえこさんに声をかけたのも津富さんだ。
「すえこさんが自伝を出した直後で、ちょっと、目立ちたがりの人かなと思った(笑)。『セカンドチャンス!』で活動したり、映画を作るためにいろいろな人の力を借りたりする中で、彼女自身がすごく成長したんだと思います」
寂しかった幼少時代
すえこさんは1975年、埼玉県東松山市で生まれた。父は自称、大工。ほとんど働かず、昼間から酒を飲んでは暴れた。母は16歳で19歳の父と結婚。祖母の食堂を手伝い生活を支えていた。すえこさんの上に11歳、8歳、4歳離れた姉がいる。末っ子だから、すえこと名づけられた。
「小学校に入って、ほかのお父さんは昼間働いて家にはいないと知って、“あ、うちは普通じゃないんだ”と。お母さんはぶたれたりしていたので、夫婦喧嘩の内容はわからなくても、お父さんがおかしい、嫌だなと思っていました」
授業中に手を挙げることもできない恥ずかしがり屋だったというすえこさん。小学3年生のとき、母がスナックを始めて生活が一変した。
姉たちはアルバイトや勉強で忙しい。すえこさんはひとりで夕飯を食べ、お風呂に入って、寝た。
「初めはテレビも見放題だし、ラッキーと。でも、1週間もすると、もういい。泣いちゃったときもあります。風がすごく強い日とか、お布団に入って目をつぶっても怖い。だけど、うちは母が働かないといけないからしかたないと納得もしていたんです」
母の高橋敏子さん(72)は仕事を終え毎日深夜に帰宅。すえこさんの隣に敷かれた布団に疲れ切ってもぐりこんだ。
「私の気配を感じるのか、すえこがクルッと私のほうを向いて、こうやって私の胸に手を入れてね。で、おっぱいにあたると安心して、また寝るの。かわいそうだなと思った。夕方、仕事に行くときはね。用はないのに“お母さーん、お母さーん”って呼ぶの。でも、行かないでとは言わなかった。寂しかったのね。私もつらくて振り返ることはできなかったな。やだなー。思い出しちゃうと……」
敏子さんは言葉を切ると、そっと涙をふいた。
'87年、小学6年生のとき、敏子さんは居酒屋を開き、ますます忙しくなった。すえこさんが“ボタンのかけ違い”と呼ぶ出来事があったのは、その少し前だ。
姉の脱色剤を使って、髪の一部を金色にしてしまう。「自分を見て」というアピールだったのだが、母は気がついてくれず、「自分は愛されてないんだ」と傷ついたのだという。
敏子さんに確認すると記憶があいまいだ。
「う~ん、次の日に理髪店に引っ張っていって、金髪を切ってもらったことは1回あるけど、それかなぁ」
今となってはこれ以上、確かめるすべはないが、「愛されていない」という思い込みが、幼いすえこさんの心をむしばんでいったことは確かだ。
万引き、喫煙、シンナーに溺れた中学時代
中学入学前に、住んでいた市営住宅が老朽化で立ち退きになり、市内の県営住宅に移った。通う中学に友達はいない。すえこさんは、アニメや映画にもなった漫画『ビー・バップ・ハイスクール』が大好きで、主人公の不良たちをまねして、金髪に長いスカートで入学式に臨んだ。
すぐに先輩不良グループに目をつけられ仲間になった。ちゃんと登校していたのは中学1年の1学期までだ。
「友達がひとり増えると悪いこともひとつ覚えられるのね。万引きがすごくうまいやつ。バイクを秒で盗めるやつ。はじめはドキドキしたけど、だんだんマヒしてきて、移動手段がないからバイクを盗む、タバコを吸いたいから万引きする。当時はシンナーも流行っていて、吸うとボーッとしてテンションが高くなって、それが気持ちよかった」
警察に補導され、敏子さんは何度も引き取りにいった。自分の顔を見ると、すえこさんがすごくうれしそうな顔をしたのを覚えている。
中学2年の春、地元にできたレディースに入った。チーム名は紫優嬢(しゆうじょう)。サラシに紫の特攻服を着た10数人のメンバーは、みんなカッコよくて、憧れた。
「かわいがってくれる先輩がいて、居心地がよかった。みんなといると、寂しく感じることもなかったし」
深夜まで親がいないすえこさんの家がたまり場になった。すえこさんに誘われて紫優嬢に入った1年後輩の女性(42)は“おしるこ”とあだ名をつけられ、よく声をかけてもらったそうだ。
「私は家庭環境がよくなくて、学校も居場所がなかったし、紫優嬢には似たような境遇の人たちが集まっていたように思います。すえこさんの家に行くと、お母さんは嫌な顔ひとつしないで、ご飯も用意してくれて。みんなでシンナーを吸っていると怒られたけど、すえこさんは“うるせぇ!”と反抗していました。お母さんは忙しそうでしたが、すごく心配してくれて、“こんなにあったかいお母さんがそばにいるのに、何で?”と内心は感じていました」
中学3年のとき、母の敏子さんが家を出た。すえこさんが家に帰ると畳が血だらけだった。接客業の母にやきもちを焼いた父が、母の髪を切ろうとして頭を切ってしまったのだ。敏子さんはこのままでは殺されると思ったという。
「男はやさしいだけじゃダメなんだよね。子どもができて生活するなかで、稼ぎのない男はダメなんだと。お酒飲んで寝ているとき、首を絞めちゃおうかと何回も思ったよ。でも、子どもたちが人殺しの子になっちゃうと思ったら、できなかったね」
しばらくして母から連絡があった。一緒に暮らそうと言われ、すえこさんが母のアパートに行くと、母の恋人らしい男性がいた。
最年少総長になり傷害で逮捕
中学を卒業すると高校には行かず、15歳で4代目の総長になった。男の暴走族のバイクや車に乗せてもらい、暴走族の集会にも出た。
総長になってすぐ、レディース暴走族雑誌『ティーンズロード』に大きく取り上げられた。当時、編集長だった比嘉健二さん(63)に聞くと、暴走族の全盛期は'78年から'80年代初頭。すえこさんが活動していた'90年前後には数は減っていたが、紫優嬢は目立つ存在だったという。
「総長インタビューをしたら、自信たっぷりで頭の回転が速い。男の暴走族は喧嘩上等とか粗暴なことしか言わないけど、すえこちゃんは自分たちのチームをどうしたいと、ちゃんと自分の言葉で話していたので、すごく印象に残っています。彼女は全国のレディースの中でも3本の指に入る人気でしたから、毎号のように取り上げました」
世間はバブル景気に浮かれていた。一般誌やテレビも取材に来て、アイドルのように扱われた。だが、それがその後、思わぬ事態を招く─。
すえこさんが目指したのは関東制覇だ。埼玉近郊のレディース10チームで連合を組み、敵対するチームをつぶしては連合に入れていった。
「私、喧嘩は強かったです(笑)。髪をつかんだり、引っかいたり、取っ組みあったり。10分もかからない。非行に走ったきっかけはボタンのかけ違いだったけど、走り出したら、もう止まらない。上へ、上へ。やればやるほど認められる気がして。私が天下を取るためには、人を傷つけてもしかたないと考えていました」
あるとき、つぶし合いの喧嘩で相手チームの1人に大ケガをさせてしまう。誰がやったのか不明だったが、総長のすえこさんが傷害容疑で逮捕された。
家庭裁判所の審判で、少年院に送致されると、今より格段に多い120人ほどがいた。1年2か月の少年院生活で得たものは多かった。
「ワープロ3級の資格を取ったんですが、一生懸命、練習して結果が出せた。そういう経験ってあまりなかったので、うれしかったですね。規則正しい生活でご飯はおいしいし、いろいろ教えてくれる先生たちに感謝の気持ちを素直に伝えることもできました。
ただ、自分のやったことへの反省はまったくしていなくて、暴走族に戻ってもうひと花咲かせるつもりでした」
ところが、出院したすえこさんを待っていたのは、紫優嬢の破門という現実。信頼して留守を託した親友に裏切られたのだ。メンバーから呼び出され、ケジメだと全員にひどく殴られた。
「私だけ目立っていたのを嫉妬していたみたいです。そのとき初めて、殴られる側の恐怖心や暴力の怖さがわかりました。
本当につらかったのは、そこからです。不良の世界しか知らないから、どう生きていいかわからない。自分なんかどうなってもいいと感じているときに、昔の不良仲間にすすめられたのが覚せい剤でした。今の自分にぴったりだと迷わず打ちました」
2度の結婚
出院から半年後に現行犯逮捕。拘置中に妊娠がわかった。
「何しているの! お腹にいる命は、お母さんになるお前にしか守れない命なのよ!」
面会に来た母の敏子さんに厳しく叱責され、すえこさんは「このままじゃ、人の心を失っちゃう。非道な人間にはなりたくない」と恐怖心にかられた。「変わりたい」と思ったのは、そのときだ。
敏子さんは「人として当たり前のことを言っただけなんだけどね」と笑う。
「それまでも何も言わなかったわけじゃないんだけど、聞く耳は持たなかった。すえこは自分の思い立ったことはやりたいんだよ。よかろうが悪かろうが、何でも。あの子の人生はあの子のものだから、しょうがない。そう思うしかなかったよね。ただ、どんなに踏みつぶされても立ち上がる子だから、そういう面では安心してたかな」
すえこさんが心から反省している様子を見て、審判で「今の君なら大丈夫」と言われ、保護観察処分になった。だが、覚せい剤の影響も考慮し、赤ちゃんはあきらめた。
19歳で結婚し女の子を出産した。夫は自営で塗装の仕事をしていた。会ってすぐ意気投合したのだが夫の浮気が絶えず、23歳で離婚した。
母に甘えたくなかったので、実家には戻らなかった。夜は子どものそばにいるため、水商売もしないと決めた。
だが、中卒で、しかも地元で有名人のすえこさんは、面接で落とされてしまう。伝手を頼って仕事を見つけた。運送会社の事務員、弁当の配達、コンビニ……。懸命に働き、ひとりで娘を育てた。
2度目の結婚は27歳のときだ。夫は18歳年上で新聞販売店を経営していた。夫にも娘が1人おり、いつも子連れでデートした。
長男が生まれてまもなく、夫が保証人になっていた知人の会社が倒産。従業員の横領などが続き、借金が膨れ上がった。北海道、千葉県と移り住んで借金を返した。次男が生まれ、東京都調布市で新聞販売店を始める。すえこさんは4人の母として忙しい毎日を送った。
自伝『紫の青春~恋と喧嘩と特攻服~』を出版したのは2008年。すえこさんは32歳、末っ子が2歳だった。
すすめたのは10数年ぶりに再会した比嘉さんだ。
「自分の作った雑誌が原因で妬まれて、リンチをくらってやめさせられたと聞いて、すごくショックでした。会ったときに“悪いことした”と謝ったら、すえこちゃんは“全然気にしていないよ”と。だったら、そういうことも含めて書いてみないかと」
過去をオープンにしたら楽になった
それまでは過去を封印していた。長男が通う幼稚園のママ友に「いいお母さんね」とほめられるたび、過去を隠していることに胸が痛んだ。娘たちに相談すると「今をちゃんと生きていればいいんじゃない」と言われ、決心した。
「本を読んだママ友たちも、運動会の親子競技で“総長頑張れー!”と(笑)。過去は消せないから、オープンにしたらすごく楽になりました」
出版からまもなく津富さんから誘われ、『セカンドチャンス!』に参加した。発足時は、少年院出院者が10人弱。支援者も含めて20人ほどの仲間がいた。
2011年には自伝をもとにした映画『ハードライフ~紫の青春・恋と喧嘩と特攻服~』が公開された。その映画を配給した会社の社長が、すえこさんが映画を作るとき製作に協力してくれた。
次男が小学校に上がるタイミングで、借金を重ねる夫と離婚した。長女は独立し、すえこさんは3人の子どもと横浜市に転居。学童保育で働きながら、「学歴がないまま働いてずっと大変だったから」と高校卒業程度認定試験にチャレンジし、合格した。
4年前に私立高校の職員になった。紹介されて会った学校法人のトップが「やり直しができる社会じゃないといけない」と採用してくれたのだ。経済的にも安定し、通信制大学で学びながら、社会科の教員を目指している。
「中学のときは社会が大っ嫌いだったけど(笑)。今は社会学が面白くて。学校に行ってないから知識が足りないことが課題ですね。教育実習でほめられたのは、声がでかいことと生徒に注意ができることくらい。“そこ、何やっているんだー!”って(笑)。今はヤンチャ系生徒を担当していますが事務なので限界がある。教員資格が取れたら担任になれるし、生徒と深くかかわりが持てるかなと」
自分の子育てではルールをいくつか決めている。子どもを抱きしめる。忙しくてもお弁当に冷凍食品は使わない。ご飯は一緒に食べる……。
かつて宿した命を失ったことをきっかけに変わったすえこさん。だからこそ、自分なりの覚悟を持って、子育てに全力で向き合っているのだろう。
母として、子どもたちに注ぐ愛情
そんなお母さんのことが大好きだという次女の彬帆さん(24)は看護師になった。
「学歴がなくて就職が大変だったとか、昔の話をいろいろ聞いていたので、反面教師にして自分は手堅く生きていこうと(笑)。
家での母ですか? すっごいジャイアンなんですよ。わが家の法律はお母さんが司っている感じで(笑)、強いんですよ。今、何足の草鞋をはいているの? っていう状態でも、やりたいことはやってしまう。大変そうだけど好きなことをやっているから、専業主婦のときより生き生きして楽しそう。私はドラえもんのように慈悲深く生きたいと思っていたのに、母に似てるって、めっちゃ言われますよ(笑)」
彬帆さんは今年6月に結婚。今は高校1年の長男、中学1年の次男と暮らしている。
3人で晩ご飯を食べる団らんの場が家族会議になることもあると、長男の禎敬君(15)が教えてくれた。
「例えば、人間関係で悩んでいることを話すと、お母さんは“状況を変えるにはどうしたらいい?”“次はこうしよう”とか、思考がすごいポジティブなんですよ。ただグチを聞いてほしかっただけなのに、話していると何か動かないといけないなーと。だんだん僕も、その思想に染まってきてますね(笑)。いつも忙しそうにしていますが、愛情を感じるし、寂しいと思ったことはないですね」
仕事、育児、学生、『セカンドチャンス!』の活動、映画作り。やるべきことに追われてうまく回らなくなると、頭に浮かぶ一節がある。
《あの坂をのぼれば、海が見える》
中学に入学して最初の国語の授業で習った詩だ。
「ここまでやったのに、あきらめちゃっていいの。あともう一歩なのにって。実際はあと百歩のこともあるけど(笑)。映画を作ったときも“あきらめたかと思った”と何度も言われたけど、私、作るって言ったじゃん。アハハハハ」
映画の自主上映会を各地で開きながら、次は男子少年院を題材にした映画を作りたいと考えている。
その坂をのぼったら、どんな景色が見えるのか─。
取材・文/萩原絹代(はぎわらきぬよ) 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90 年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95 年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。