「当初は1、2回で何とかなるかなと思っていたのですが、まさかこんな目にあうとは思わなかったです」
自らが取り組んだ5年におよぶ男性不妊症治療の記録を著書『ヒキタさん! ご懐妊ですよ──男45歳・不妊治療はじめました』にまとめた小説家のヒキタクニオさん(58)は、笑いながらそう語る。
精子の運動率が正常値の半分だった
幼少期のやんちゃ話を10歳年下の妻に話していた際、「ヒキタさんの子どもの顔が見てみたい」の言葉がきっかけで子づくりに取り組み始めたのが2006年。当初は排卵日に合わせて性交をするタイミング法に挑戦したが、1年過ぎても妊娠には至らなかった。
「それまで不妊治療の知識なんてまったくありませんでした。妻がひと足先に検査に行って異常なしとの診断が下っても自分は大丈夫だろうと思っていましたよ。ところが、いざ精液検査をしたら医師から“ヒキタさん、大変なことになってるよ”と言われました」
ヒキタさんの場合は、全精子のうち元気に動いている精子の割合を示す運動率が20%。ちなみに、この運動率の正常下限値は40%である。ヒキタさんはその半分しかなく、男性側が不妊原因だった。
「医師に運動率の低さの理由を尋ねて、加齢と言われた瞬間の絶望感ときたら。不老不死と戦わなければならない。白いヒゲを黒くしろと言われたようなもの。しかも、運動率を改善するためにどうしたらいいかという明確な方法を医師が示せないわけです」
ここから妻の排卵日に合わせてヒキタさんが採取した精子を病院に届け、それを洗浄・濃縮して妻の体内に注入する人工授精が始まった。その回数は実に26回。実はその途中、8回目で採取したヒキタさんの精子の運動率が70%になったことがあり、そのとき妻は妊娠に成功する。しかし、妊娠3か月で胎児が子宮にとどまったまま死亡する『稽留流産』という事態に──。
「そこで妻がやめると言ったら中止するつもりでした。でも、そうは言わなかったので、そのまま続けることになりました」
不妊治療を成功に導いたのは?
その後、人工授精が失敗に終わったことでヒキタさん夫婦は体外受精に進んだ。1回目はヒキタさんの妻から採取した11個もの卵子に、ヒキタさんの精子を使って顕微授精をしたが、受精には至らず。ヒキタさんの著書『ヒキタさん! ご懐妊ですよ』には、この1回目の体外受精が失敗した当日のヒキタさんの妻の日記が引用されている。
《家に着いてヒキオ(注:ヒキタさんのこと)に会って少しまた涙が出たけどもう病院でだいぶ泣いたからすぐ収まった。締切で必死のヒキオが途中可哀想にという感じで布団の中の私の頭をとんとんとんと叩いた。乾いていた涙が数粒流れて枕に落ちた》
「そもそも夫婦は不妊治療など関係なく“心合わせ”が必要だと思っています。ましてタイミング法が失敗して不妊治療に入ると、夫婦で身体合わせがなくなるのだから、普段以上に心合わせが重要になる。そのために私は妻にものすごく話しかけました。この“心合わせ”が不妊治療の成功の要因のひとつではないかと自分では思っています」
また、ヒキタさんの妻が稽留流産したときに一時、治療を「さぼった」時期があった。
「実際、不妊治療を開始すると精神的ケアが少ないことに気づきます。その意味では学校をさぼって遊ぶと楽しいのと同じ感覚で、『休む』のではなく“さぼる”気持ちも必要かと思います」
結局、ヒキタさん夫婦は2回目の体外受精で無事、受精卵が得られ2010年11月20日、ついに待望の長女が誕生した。
そもそもヒキタさんが自分の男性不妊について赤裸々に当時の様子を本にした大きな理由は、治療開始当時、自身の不妊を公言すると「実はうちも……」という告白が周りに多く、しかも「夫が非協力的」という声が大半だったからだ。
「結局、不妊治療で男性がやるのは精子を採取するための自慰行為のみ。そうすると、単純に親と一緒にいやらしいテレビ番組を見てしまったときのような気恥ずかしさしかない。だからプライドが邪魔するのかもしれませんが、私はそんなもの捨ててしまえと言いたい。女性は医師の前とはいえ開脚して診察を受け、もっと痛くて恥ずかしい思いをしていることを男性は知るべきです」
《PROFILE》
ヒキタクニオさん ◎イラストレーター、作家。アーティストとしてオブジェやイラストレーションを手がけながら、’00年に『凶気の桜』で作家デビュー。著書『ヒキタさん! ご懐妊ですよ』は映画化された。