下山洋雄さん(39)のケース
下山洋雄さん(39)の名刺には、『KHJ認定ひきこもりピアサポーター』『特定非営利法人Node理事』などたくさんの肩書がある。小学生のころから高校まで、彼は断続的に不登校とひきこもりを繰り返した。その裏には父親からの虐待がある。
青森県で生まれ育ち、現在も青森在住の下山さんは、地元でひきこもり当事者やその親の会などをたったひとりで立ち上げ、自らの経験を生かして向き合っている。その団体の集まりのため上京してくるというので会いに出かけた。その日は彼の誕生日。東京で「手ぐすね引いて」待ち構えていた仲間がパーティーを開くという。講演会などで全国を飛び回るようになった彼を慕う仲間が多いのだ。その会場の片隅で、彼のこれまでの人生の一端を聞いた。
「今も父との闘いは続いています。つい先日も当事者会の人と電話でやりとりしていたら、私の部屋に入ってきて“いつまでやってるんだ”と大声で叫んでドアを蹴飛(けと)ばしていきました。父は私がやっていることがお金を生まないから苛立(いらだ)っているんです。父の怒りに触れると、今も心が揺らぎます。それだけ虐待を受けた経験がきつかった」
下山さんは長男として生まれた。サラリーマンの父の期待は大きかったようだ。最初に父を怖いと思ったのは小学校1年生のとき。
「私はもともと夜泣きがひどい神経過敏な子で、言葉の発達も遅かったそうです。小学校に入ると、勉強ができないうえに運動音痴であることがわかった。青森では冬になると学校でスキー学習があるので、父が教えてくれることになった。だけど私がヘタなので、いきなりストックで殴られたんです。鼻血が噴き出して、ひたすら恐怖感で震えてた」
勉強を教えてくれても、ちょっと沈黙するといきなり叩かれる。すると頭の中が真っ白になり、ますます何も考えられなくなって言葉が出ない。
「父は7人きょうだいの末っ子なんですが、自分も叩かれて育ったのか“叩けばわかる”というタイプ。父のいちばん上の兄、私からすると伯父に諫(いさ)められると“わかった、もう叩かない”と言うんですが、3か月もたたないうちにまた手が出るようになる」
集団になじめず、ひとり遊びをするような子だった。情緒不安定で、しょっちゅう“悲しい気持ち”にとらわれていたという。
「悲しい気持ちにとらわれる」という言葉が印象的だった。おそらく常に、叩かれることへの恐怖やつらさが心の土台にあるからなのだろう。子どもが「悲しい気持ちにとらわれる」のは、想像するととてもせつない。
唯一の味方である祖父が亡くなる
軽度の発達障害と診断され、小学校では特殊学級に入れられたり普通学級に戻されたりと、大人たちの都合に振り回された。そんな彼を心から心配し、認めてくれたのが母方の祖父だった。
「祖父は、“勉強ができなくてもいいんだよ”と言って、山で一緒に山菜やきのこをとったり旅行に連れていってくれたり。私の存在を丸ごと認めてくれました」
両親と彼と妹の一家4人は、彼が物心つくころから、青森市の母の実家で生活していた。祖父はいつでも彼の味方だった。だが、そんな中、あるトラブルが起こる。小学校6年生のとき、家庭科の先生に暴言を吐いたとして家庭科室に閉じ込められたのだ。教師のヒステリックな対応に恐怖を覚えた彼は帰宅後、母にそのことを告げる。母は学校へ行ってくれたが、取り合ってもらえなかった。そこから彼は教師や学校を信じなくなり、体調を崩して登校できなくなった。気持ちがいっぱいいっぱいだったのだ。
「中学の入学式には行きましたが、学校が怖くてたまらなかった。私自身、あのころは自分の気持ちをうまく言葉で伝えることができなかったから、毎日泣いていましたね。両親から車に押し込められて学校へ連れていかれたけど、そのうち血尿が出て心身症と判断されました」
9日間で不登校になった。父は息子が家にいることがとにかく気にくわなかったようだと振り返る。そんなときも、祖父に支えられていた。ところが冬のある日、祖父が出先で倒れて救急車で搬送、そのまま亡くなってしまう。
「救命センターに行ったとき、私は震えが止まりませんでした。言葉にできないくらい絶望的な気持ちだった」
味方がいなくなった。その思いは、父が趣味で木のテーブルを作るのを手伝わされたときにも痛感した。
「私はそういうことが苦手なので、どうしたらいいかわからない。父は教えることもなく、思うようにならないと叩く。庭に球根を植えたときも1列に10個植えるからと言われて、バランスよくできないと手が出る。そんなとき黙って見ている母にもだんだん腹が立っていきました」
父を殺していたか、自分が死んだか
中学にも、地元の高校にもほとんど通えず、家で考え込んでばかりいた。
「なぜかいじめられるようになったんです。クラスメートにどつかれた。どついた子の親に電話したり先生に言ったりしたけど、埒(らち)が明かない。私は話を聞いて、本人に謝ってほしかっただけ。だけどそれが伝わらない。それまでのすべてのストレスが一気に爆発したのか、教室の机をひっくり返したりして大暴れしてしまったんです。先生からは、“私にはあなたの気持ちがわからない”と言われました。それからは学校へ行こうとすると、お腹が痛い、熱も出る。結局、ずっと部屋にこもるしかなくなったんです」
怒ったのは父親だ。なぜ学校に行かないのかと尋問し、夜も寝かせてくれない。その当時、父も大きなストレスを抱えているという背景があった。父が勤めていた会社が他社と合併し、抜擢(ばってき)されて役職が上がったものの、プレッシャーになっていたのだ。
「父は、どんどん目つきが鋭く怖くなっていった。会社でもパワハラしていたらしいですが、家族さえ敵に見えたんじゃないでしょうか」
追い込まれていく父、そんな父にさらに追い込まれていく息子。彼は不眠症に苦しみ、まる2日眠れないこともあった。イライラが募り、ついに母親に暴力をふるうようになった。父親を殺してやろうと包丁を手にしたこともある。
「あまりにつらくて生きづらくて、どうしたらいいかわからなかったとき、新聞か何かで『いのちの電話』の番号を知ったんです。それでおそるおそるかけてみた。電話に出てくれた人は、私の話をゆっくりと聞いてくれました。父親を殺してやろうと思っていると言ったら、慌てず騒がず、“そういう気持ちになることもあるよね”と。そう言われ、ふっと気持ちが楽になった」
彼は毎日のように電話をかけた。電話の向こうの人は、いつでも話を聞いてくれた。今までの人生のストレスをすべてぶつけたが、ただじっと耳を傾けてくれた。安易に同調もしないし反論もしない。答えを出してもくれない。ただ、少しずつ、「答えはその人の中にある。自分の意思で決めて、自分で動くことが大事だ」ということをわからせてくれた。
「あの『いのちの電話』がなかったら、私は父を殺していたか自分で死んでいたか、どちらかです。今、ここにはいなかったと思う」
下山さんはきっぱりとそう言った。
『いのちの電話』は、1953年にロンドンで自殺予防のための電話相談に端を発している。日本では'71年に開始され、現在は全国に50センターある。彼のように電話で救われた人も多いだろう。だが、相談員の高齢化により、人手不足が深刻だ。「何時間かけ続けてもつながらない」などの苦情も増えているという。
自宅で開いた「考える会」
18歳になるまで、ひとりで部屋にこもって考え続けた。もしかしたら自分と同じような思いを抱えている人がほかにもいるのではないかという思いが広がった。ここが彼のすごいところだ。自分の悩みだけにこもるのではなく、自分の声を伝えながら、一緒に考えていくことはできないだろうかと思い立ったのだ。
「生きづらさを感じている人に自宅に来てもらって一緒に考える会みたいなものを始めたんです。最初はひとりしか来なかったけど、その人と話すことで私自身も救われる。続けていくうちに少しずつ増えていきました。その後、ネットをやるようになって、青森だけではなく全国のひきこもりの当事者や親たちとつながるようになりました」
小さな一歩が徐々に大きくなっていったが、父親はそんな彼を認めなかった。
「タダメシ食って、社会活動してそれが何になるのか」
「おまえはしょせん、支援される側なんだよ。黙って支援される側にいれば文句は言わない」
「おまえに人の話が聞けるわけがない」
暴言を吐かれ続けたが、彼は「自分の生き方が尊重されてもいいはずだ」と少しずつ信念をもつようになった。そうなれたのは、やはり『いのちの電話』のおかげだという。
「虐待やひきこもりについても、自分なりに勉強しました。親から虐待を受けた子が大人になったとき、どれほどしんどい思いをするのかもわかった。それは私にもあてはまります。簡単に働けというけど、自分で自分を認めることもできないのだから不安や葛藤が強くてそう簡単に働くことなんてできないんですよ」
今はひきこもり関係の活動で収入を得ているが、それは「雀の涙」だという。ただ、彼は自分が始めたこの活動に全精力を傾けている。
3児の父になっても妻子と離れ青森に残る
彼は大人になってから、過敏性腸症候群、喘息などの病気を発症した。すべてがストレスによるものだと診断されている。ただ、苦しみながらも、ひきこもり当事者とその親たちに寄り添う活動を続けた。30歳を過ぎたころ、そんな彼の活動に賛同したフリーの女性研究者が青森に訪ねてきた。おっとりしていて考え方が柔軟な彼女と意気投合。青森で一緒に住むようになり、彼女の妊娠が発覚した。
「子どもができたとわかったときはうれしかったけど、実は不安もありました。自分がしっかりしないと暴力の連鎖が起こることも勉強していたから。だけど、子どもをひとりの人間として認め、のびのび育てられれば、私自身を育て直すことにもつながるのかもしれないとも思いました」
現在、7歳、2歳、1歳の子がいる。妻は仕事の関係で、この1年、子どもたちと一緒に関東に住み、彼は実家で親と暮らしている。離れて暮らすのは寂しいが、まだ青森を離れるわけにはいかないのだ。
「青森にもたくさんのひきこもりの人たちがいます。居場所や親の会を立ち上げてしまったから、ここで私が離れるわけにはいかない。チャイルドライン(子どもの声を聞く電話)の運営にも携わっているので、それも放り出せない。きちんとした組織にして、引き継いでくれる人を見つけないと。青森は恥の意識が強くて、家庭内のことを外に言いたがらないんです。だから声を上げられない。自殺率も高い。そういう土地柄だからこそ、敷居の低い相談場所として、斜め後ろからの支援をもっと機能させたい」
斜め後ろからの支援とは、垂直(支配)でも、水平(当事者)でもない。倒れそうなときはいち早く後ろに行って支えるが、率先して手を引く役割ではない。黒衣として見守りつつ、いざというときはタオルを投げるトレーナー的要素も担う。当事者が本当に望んでいる支援を彼は担おうとしているのだ。
父とはまだわかりあえない。母は板挟みになっている。母をかわいそうだと思うし、父も彼自身も苦しんでいる状況は続いている。
「それでも一歩でも前に進みたい。そう思いながらやってきた。当事者会や親の会に招かれて講演をするようになり、以前より自分の可能性が広がっていると感じています」
彼の夢は、いつか温暖な地域に妻子とともに移住し、自給自足の生活を送ること。だがもしかしたら、その土地でも彼は、「生きづらさを感じる人の会」を立ち上げてしまうのではないかとふと思った。
文/亀山早苗(ノンフィクションライター)
かめやまさなえ◎1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆