2017年、直木賞と本屋大賞を史上初めてダブル受賞したのが恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』だった。舞台は3年ごとに開催される芳ヶ江国際ピアノコンクール。
養蜂家の父親とともに世界を転々とするピアノを持たない16歳の風間塵(かざま・じん)、かつて天才少女として名を馳せたものの長らくピアノを弾けなかった20歳の栄伝亜夜(えいでん・あや)、ジュリアード音楽院に在籍しエリートコースを突き進む19歳のマサル・C・レヴィ・アナトールなど、多くの天才たちの才能と運命を音楽とともに描いた青春群像小説だ。
ファンにはたまらないスピンオフ短編集
最新刊の『祝祭と予感』は、『蜜蜂と遠雷』の登場人物たちの過去や未来がわかるスピンオフ短編小説となっている。
「『蜜蜂と遠雷』では、ピアノの演奏シーンを描くのにすごく苦労したんです。それだけにやり尽くした感がありました。だから、スピンオフ小説では登場人物たちの背景を描いていこうと思ったんです」
『祝祭と予感』には6つの物語が収録されている。例えば、「祝祭と掃苔(そうたい)」はコンクール後の塵と亜夜、マサルが、亜夜とマサルのピアノの恩師の墓参りをするストーリーだ。
「『蜜蜂と遠雷』では、プライベートで3人が一緒に過ごしている場面があまりなかったもので、描いてみました。音楽の世界では師弟関係が強く、特にピアニストは師匠の系統をたどれるくらいしっかりとした流れがあるんですね。
だからこそ、亜夜とマサルはお墓参りに行きました。塵はなにも考えていないタイプですから、ただついて行っただけだと思います(笑)」
この作品では、『蜜蜂と遠雷』では触れられていなかった、風間塵の家族関係が明かされている。
「『蜜蜂と遠雷』の登場人物に関しては、初めに細かいことはあまり決めておらず、書いていくうちにそれぞれの性格がわかっていくような感覚でした。
塵はもともと、父親が科学者で母親も理系の人間で、姉がバレエ学校に行っているという設定を考えていたんです。今回、母親を登場させるにあたり、彼女は一体どんな人物なのだろうと突きつめて考えました」
ちなみに、“塵”という名前には次のような意味が込められているという。
「両親ともに理系ということもあり、息子には万物を形成する“塵”という名前をつけました。また、物語のなかには出てこないのですが、姉は完全な図形を表す“輪(りん)”という名前なんです」
執筆時は臨機応変に
本書では、『蜜蜂と遠雷』に登場した芳ヶ江国際ピアノコンクールの課題曲「春と修羅」の背景にある物語やマサルと現在の師匠ナサニエル・シルヴァーバーグとの出会い、亜夜のよき理解者である音楽家の奏(かなで)が自身の楽器を選ぶまでの過程などを知ることができる。
一方、本書で初めて出会えるのが、塵の師匠であるユウジ・フォン=ホフマン。『蜜蜂と遠雷』では他界した伝説のマエストロとして、その存在感だけを匂わせていたが、本書の「伝説と予感」では在りし日の姿が描かれている。
「この作品は『蜜蜂と遠雷 その音楽と世界』というCDのリーフレットの付録として書いたものです。ホフマンは伝説の存在なので、私自身は伝説のままにしておくつもりでした。
ただ、リーフレットのご依頼をいただいたときに、誰のことを書くのがいいのだろうかと悩んでしまいまして。必要に迫られる形で、塵とホフマンの出会いの場面を描くことになりました(笑)」
また、「獅子と芍薬」では、コンクールの審査員であり元夫婦でもある嵯峨三枝子とナサニエルとの、若かりしころのエピソードが綴られている。
作中には、ともに入賞したコンクール後のパーティーで、壁の花となっていたナサニエルに三枝子が声をかけ、ふたりで音楽監督に売り込みをする場面がある。実は恩田さんにも、似たような経験があるという。
フリーへの恐怖から我が身を滅ぼすことに
「私はデビューしてから7年ほど会社員との兼業期間があったんです。33歳で専業作家になったのですが、勤め人生活が長かったものでフリーになるのがものすごく怖かったんですね。
だから、独立したときにパーティーを開いてお付き合いのある編集者さんたちを招き、タイトルとあらすじを書いたレジュメを作って営業したりしていたんです」
その当時、恩田さんは依頼された仕事をすべて受けていたそうだ。
「そうした生活を数年間、続けたところパンクしてしまい、身体の全部の毛が抜ける全身脱毛症になってしまったんです。検査を受けても特に異常は見つからなかったので、原因はおそらく精神的なものだったのだと思います」
それでも恩田さんは、心身を削る思いで小説を書き続けている。
「ほかの方の作品を読んで打ちのめされたり、映画やコンサートを見て感動すると、“私もがんばろう”、“この感動をなんとかして言語化したい”という衝動が起こるんです」
そう話す恩田さんは、週女読者に提案したいことがあるという。
「『祝祭と予感』を読んだ方にはぜひ『蜜蜂と遠雷』の映画を見てもらいたいですし、できればお好きなジャンルのコンサートにも足を運んでいただきたいですね。創作に限らず、何かに触れることって大事なことだと思うんです」
ライターは見た! 著者の素顔
日々、執筆に励んでいるという恩田さん。健康維持と気分転換を兼ねて2年前から朗読を始めたのだそう。
「自宅でひとりで、シェークスピアや清水邦夫、トム・ストッパードなどの戯曲を声に出して読んでいます。時間はせいぜい15分ほどなのですが、声を出すと気分がスッキリするんです。室伏広治さんの本をヒントにしゃがんで腹式呼吸で行っているので、筋トレ効果もあるような気がします」。
ちなみに、今、朗読しているのは唐十郎の戯曲なのだとか。
(取材・文/熊谷あづさ)
おんだ・りく 1964年、宮城県生まれ。1992年『六番目の小夜子』でデビュー。2005年『夜のピクニック』で吉川英治文学新人賞、本屋大賞、2006年『ユージニア』で日本推理作家協会賞、2017年『蜜蜂と遠雷』で直木三十五賞、本屋大賞など受賞多数。