群馬県桐生市を走る県道沿いに、茶色の外壁の平屋が建っている。開店前、入口には20人ほどの老若男女が列をなしており、11時30分の開店と同時に行列が店の中へとなだれ込んでいく。
ここがはつゑさんが切り盛りする食堂、「はっちゃんショップ」。大人は500円、子どもは無料で食べ放題という「ランチ限定営業、セルフサービス制」の店だ。
採算度外視、思い切りのよさは度肝を抜く
「あんた、どっから来たの? 埼玉? はるばる来てくれたんなら、お金いらねえよ」と、遠方から来たお客さんを無料にしてあげることも。
店内の長テーブルには、日替わりで約15種類のおかずが大皿にドーンと盛られて提供されている。数種類の焼き魚や手羽先煮、煮豆、卵焼き……味付けは甘めでやさしい。どれもが、どこかなつかしいホッとする家庭料理だ。
「もっと食べてやー」
大きめに握ったおむすびや赤飯、焼きそばや味噌汁も食べ放題。
「今日はワタリガニの味噌汁。だしが出てうまいよ」「これは、採れたてのブロッコリーね、今ゆでたばかりだよ。マヨネーズはみんなでまわして使ってくんな」と声をかけながら、店内をせわしなく動き回る。食べ終わった客とは、お茶をいれながらひとこと、ふたこと会話をかわす。寒い冬でも素足に下駄。仕込みから5時間、一度も座ることなく、立ちっぱなしだ。
「朝の仕込みは6時から。店の台所に来たら、まずは自分の顔をひっぱたいて、今日もやるぞーって大声出して気合を入れるんだ」
おかずの減りが早ければ追加分を調理し、満席ならお客どうしに席のゆずりあいを促す。楽しんで食べてくれているか、お客さんの表情が気になってしかたがないという。
客が引けたら2時間かけて、食器洗い。そしてバイクにのって、スーパーへ翌日の食材の買い出しへ。少しでも安くていいもの、旬でおいしいものを探し回っていると、一人暮らしの家に帰宅するのは深夜になることも。
仕込み、調理、食器洗いにゴミの始末、買い出しとすべてを一人で切り盛りするのは、重労働だ。近所に住む子どもたちからは、体調を心配し、「もうやめたら」と言われるそう。
「でも、店が生きがいだからね。これまで苦労も多かったから、好きにやるよ」と笑う。
食堂は、じつは採算度外視どころではない。運営の毎月の赤字は7万円。食材の原価や光熱費が、売り上げだけではまかないきれず、はつゑさんの年金を切り崩しているという。
「野菜とか米とか、友達がときどき店先に置いてってくれるんだよ。それをありがたく店で使わせてもらって助かっているね。それでもお客が来れば来るほど赤字なんだよ」と屈託なく笑う。
叩き上げの仕事人生、休む間もなく行商へ
はつゑさんは群馬県桐生市で生まれ育った。戦争のさなか、配給制とはいえ食べ物になかなかありつけず、苦しい幼少期を過ごした。
「野生の七草やアザミを採って食べたこともあるよ。許されることではないけれど、やむにやまれず人様の家に実ったものを口にしたことだってある。お金持ちの家の庭に落ちてた栗の実を生のまま食べたり、柿を盗みに行ったり。でもうちが貧乏だって周りは知ってたから、見て見ぬ振りをしてくれたんだ」
そのような栄養事情が影響したのか、はつゑさんの母は病気がちで32歳という若さでこの世を去った。その後、はつゑさんの父親は、すぐに後妻を迎えたが、はつゑさんは奉公に出されることになった。
「10歳で子守として奉公に出されたんだよね。つらかったよ。毎晩、死んだ母親が恋しくてねえ。『学校に行かせてあげるから』と言ってくれた奉公先もあったけれど、そんな約束は守られないことがほとんど。
ようやく『学校に行きなさい』と言ってくれる奉公先に恵まれたけれど、結局はそこの家の泣く子をあやしたり、おむつを取り替えたりに追われて、勉強についていくのが難しい。学校がつらくて、小学校にも行かなくなったんだよね」
10代半ばになったはつゑさんは、機屋など、さまざまなお店に住み込みで働き始めた。そんななか知り合った男性と家庭を持つ。しかし夫の女性関係に悩まされ、苦しい暮らし向きが続いた。
3人の子どもの母親となったはつゑさんは、子どもを保育園に預け、生活費を稼ぐために昼も夜も仕事をした。そして育児が一段落した後、パチンコメーカーに就職。62歳の定年まで勤め上げた。
定年退職後はゆっくり過ごそう、と考える人も多いだろう。だが、休む間もなく、また次の仕事を見つけたい、と行動に移したのがはつゑさんのバイタリティーのすごさだ。始めたのは、なんと、これまでと畑が違う「行商」。和菓子やおかずを作って、近隣の知人に売る、という仕事を軌道に乗せたのだ。
「60歳過ぎてたって、まだまだ自分は元気だし、小さいときから働いてきたから、働いてないと調子が悪くなるんだよ。次、なにやろうか、と思ったときに、食べ物屋だったら自分でできるんじゃないかと。
魚屋で16年間働いたから、魚の目利きもできるようになってね。魚のおかずやら、畑で採れた野菜やらで、ちゃちゃっとうまいもんを作る自信があったから、なんとかなると思ったんだよ」
お手製のおかずを段ボール箱に入れて、売り歩いた。キンピラ、サトイモ、シナチク、昆布、揚げの煮たものなど家庭料理の惣菜を1パック200円で販売。それが売れた。かたわら、時間があればチリメンのエプロンを縫う内職も続けていたという。恐れ入る「稼ぎ力」だ。
6年間、行商を続けるうちに味が評判となり「惣菜屋ではなく食堂にしてほしい」という要望が来るようになった。「店をやるにはどうしたらいいのか」と保健所に相談しに行くと、「食べ物を扱うにはトイレと台所がないとダメ」と言われたので、すぐさま家の隣のスペースに簡易な建物を建築。惣菜の小売りを始めるようになったのだ。これがのちの食堂の原形となる。
喜ぶようなことがあれば、進んでやる
はつゑさんの行動力を知る、ひとつのエピソードがある。子育てが一段落したのを機に57歳で日本一周の旅に出たのだ。50ccの原付バイクにのり、1日に数百キロ走ったりしながら、3か月半かけて回った。そして300万円ほどのお金を、行く先々で現地の恵まれない人たちへ寄付したという。
「各地でいろんな出会いがあって、それはもう、親切にしてもらったんだよ。これからの人生でこのときに受けた親切を、周りの人たちに恩返ししていかねば、って思ったのが食堂をやるきっかけだったんだよね」
自分の幸せは、人に与えて何分の一かをいただくもの。人を泣かせば、泣かされる。人を喜ばせれば、自分にも喜びがある。
みんなが喜ぶようなことがあれば、進んでやる──それが私の信条なのかな、とはつゑさんは語る。幼いとき、十分に得られなかった両親からの愛情。奉公先で受けた苦難。自分を何度も裏切った夫。つらいときの思いは恨みと思わず、周囲の人たちから受けた恩を、何倍にもして返していきたいという。
82歳となった今でも、体調はすこぶる良好だ。軽い糖尿病、高血圧と診断され、薬を飲んではいてもまだまだ元気いっぱい。
「魚屋で働いとったから、マグロが好物でね、いいもんがスーパーにあれば、毎日食べとるよ。それが健康の秘訣かもな」
赤字続きと知る常連からは、値上げをすすめられるが、開店から続く500円からは絶対に値上げしない、と胸を張る。
「孫6人、やしゃご6人いて、自分の墓ももう作った。不安もなければお金もない。消費税が上がっても、ワンコインで続けるよ」と、はつゑさんは意欲満々だ。
「ありがとうって言ってもらえる今が人生で最高。これでいつかポックリ、自分の人生を店じまいできれば、思い残すことなんて、なんにもねえよ」
たむら・はつゑ◎1935年、群馬県生まれ。幼少期から奉公に出され、子守として働く。機屋などでの住み込み生活を経て結婚、3児の母に。内職、パートに精を出し、子育て終了後は地元企業に就職、定年まで勤め上げる。62歳から惣菜販売、68歳から食堂「はっちゃんショップ」をオープン。毎日日替わりのおかずを15品・50人前の食事を5時間かけて調理。店内では残ったお惣菜の量り売りも。地域のコミュニティの場にもなっており、地元の人たちに愛されている。
文/山守麻衣(NHKガッテン2018年春号より転載)