城田純一さん(仮名=28)のケース
城田さんは明るい笑顔が印象的な、なんとも爽やかな好青年だ。過去に不登校やひきこもりの時代があったとはとても思えない。彼は現在、あん摩マッサージ指圧師の国家資格をもって仕事をする一方、障がい者施設でのボランティアや、ひきこもり当事者をサポートする活動を熱心におこなっている。
「自分が楽しいからやってるんです」
そう言って、障がい者の子どもたちと一緒に行ったキャンプの写真を見せてくれた。城田さんも子どもたちも笑顔が弾けていた。
乳がん末期の母から束縛を受けて
城田さんは1歳違いの兄と妹にはさまれた次男として、両親のもとに育った。母の様子がおかしくなったのは、小学校中学年のころだ。
「母がものすごくヒステリックになって、家庭の雰囲気も一気に暗くなりました。僕たち子どもに当たり散らす、物を投げる。父は昔かたぎのまじめで寡黙(かもく)なサラリーマンで、何かあると母を介して子どもに言うんです。直接、父と話したことはあまりなかった」
母が変わったのは、乳がんを患ったせいだった。最初からすでに「末期」と告知されていたという。幼い子どもたちを抱えて命の期限を知らされ、平常心ではいられなかったのだろう。小学生の子どもたちに母の心情は理解できなかったに違いない。
「もともと母は、継母から虐待を受けていたらしいんです。そんな母を守ろうと結婚した父だけど、父自身も事情があって親戚に預けられて育った人。お互いに相手を理解はできるけど補完しあうことはできなかったのかもしれません。ふたりとも親にはなったものの、子どもの愛し方もわからなかったのでしょう」
そんな彼の唯一のストレスの捌(は)け口は、地元のサッカーチームでプレーすることだった。それも最初は母に反対され、父に懇願してやっと始めることができたのだという。
「母は束縛の激しい人でしたね。病気でそうなったのか、もともとなのかはわかりませんが。僕がサッカーをやりたいと言ったときも、“危ないからダメ” “ゴボウみたいにやせてるおまえには向いてない”とか、さんざん言われました。チームに入った最初の日に僕の紹介もかねてみんなで地元のとんかつ店に行ったんですよ。それでちょっと遅く帰宅したら、玄関先でいきなり母に殴られて正座させられて説教。まったく言い訳を聞いてくれなかった」
友達が家に遊びに来たとき、母がお煎餅を投げつけてきたこともある。おそらく友達ができて息子の世界が広がっていくことを嫌がったのではないかと城田さんは言う。
友達と公園にいると、「何ほっつき歩いてるの」と怒って連れ戻しに来ることもあった。
「おまえのかあちゃん、ヤバいな」と友人に言われて、幼いながらもメンツが丸つぶれになるような惨めな気持ちにもなった。こういうことが子どもの性格や友人関係に、意外と大きな影を落とすことはあると思う。
家庭でのことはともかく、サッカーがあるから学校や地域では活発な少年だった。ところが中学2年のとき、サッカーで足をケガし、無理を押して続けていたところ、腰椎椎間板ヘルニアになってしまう。中学時代は部活と地域のクラブチーム、両方で活動していたが、どちらもやめざるをえなかった。
「なんとかなるだろうと思っていたのですが、痛みがひどくてどんどん動けなくなっていって。手術という選択肢もありました。でも怖くて踏み切れなかった」
サッカーをあきらめたことで友人との接点も少なくなった。そのころから城田さんに異変が起こる。動悸(どうき)、冷や汗、そして突然、目の前が真っ白になる現象が起こり、教室で座っていることができなくなったのだ。身体に何が起こっているのかわからず、病院を転々として検査を受けたが、内科的な異常は見当たらない。だが、教室に入ろうとすると腹痛がひどくなる。結局、保健室登校となり、テストも保健室で受けた。
「不思議なんですが、母は僕がケガをしたことにはほぼ無関心でした。サッカーをやめたり保健室登校になったりしたことにも大騒ぎしなかった。自分のテリトリーに僕が戻ってきたと思ったのか、そのあたりはわかりませんが」
誰とも話さない生活を2年以上
高校は推薦で入学できたが、心身の不調は続き、夏前に通えなくなった。夏休み明けには学校へ行くふりをして、近所の公園で本や雑誌を読み、下校時間に帰宅していたのだ。
学校から登校していないという連絡を受けた母は、受話器を置くなり彼を殴りつけた。
「どうして親を悲しませるようなことをするの、と言われて、“心身ともにつらくて通うのは無理”と言いました。そこからはよくある攻防戦(笑)。朝になると母が布団を剥がしにくる、僕は放っておいてくれと布団の中で丸くなる」
どんなに言われても学校へは通えなかった。自室から出たくもなかった。誰とも関わりたくないと心底思っていたという。
「親がせめて通信制でもいいから高卒の資格を得てほしい、社会とつながりをもつためにアルバイトしてほしいと言ってきました。外に出られる自信はなかったけど、自分のルーティンを作ろうと決意したんです。布団にこもっているかゲームをしているかの生活で、学校に行けない情けない自分と直面するのがつらくなっていたのかもしれない」
週に3回、夜、飲食店でアルバイトを始め、9月末には学校を辞めて通信制高校に編入した。ただ、バイト先でも人間関係は築けず、家にいる時間はひたすらゲームに逃げ込んだ。
「バイト先が最寄り駅から2駅だったので通えたんです。それも帽子とマスクで完全武装していました。小中学生のときの友人のお母さんに会うのも、近所の人に心配されるのもイヤだった。そんな生活をしていると、学校で会う人って友人だと思っていたけど、実は環境が一緒だっただけで、僕には気の合う友達なんていなかったんだ、とまた虚(むな)しい気持ちになって……」
アルバイト代はゲームや本に消えていく。家庭でもバイト先でも、ほとんど誰とも話さない生活(社会的ひきこもり)を2年以上、送っていたが、高校3年生になると、さすがにこのままひきこもっていていいのかと考えるようになった。
ヒステリックな母を変えた先生
「その少し前くらいから、母の身体の状態が緩和されたようで性格も穏やかになっていったんですよね。それが整体の先生のおかげだったようなんです。その先生が来ていたのは知っていました。母がイライラして僕に八つ当たりすると、“子どもにそんな態度をとってはいけない”と言ってくれたこともあったけど、僕はいつも先生を無視して自室にいたんです」
だが、ヒステリックだった母を変えた先生に、心身不調な自分も診てもらいたい、いろいろ相談したいと思ったのだという。実際に診てもらうと、かつて痛めた腰の不調も言い当てられた。体調や精神状態についても親切に説明し、相談にのってくれた。
「先生は前から僕に気さくに声をかけてくれていたのに、僕はいつもシカトしてた。それでも親切に対応してくれたので、思わず人生で初めて土下座しました。申し訳ございませんでした、と。先生は“きみは悪くないよ。お母さんも病気でつらかったんだと思う。きみもよく耐えてきたね。お母さんは本当はきみのことをとても愛してるんだよ”と言ってくれたんです。信頼できる人に初めて会えたと思いました。それで弟子にしてもらおうと思ったんです」
だが、その先生は弟子をとらないという。むしろ一緒に勉強しようと誘われて勉強会に参加するようになった。「この子はプロになりたいみたいだから」「素直でやさしい子だよ」と集まった人たちにも紹介してくれた。不器用で愛し方のわからない両親は、そんなふうに褒めてくれたことがなかったから、彼は心癒され、自分もあん摩マッサージ指圧師になろうと決めた。
父に専門学校に行きたいと打ち明け、試験を受けて国家資格を受けることができる学校に入学した。19歳のときだった。
「昼夜逆転の生活をしていたのでつらかったけど、朝早く起きて週に6日、学校に通いました。これからは人間関係も大事にしなければいけないと心に決めて、顔を合わせると“おはようございます”と元気に挨拶もして。最初は声が出なかったし、挨拶したあと話が続かなくて困惑したりしましたけど、だんだん慣れていきました」
その専門学校の最初のテストで、彼はクラスでいちばんになった。国家資格を取るには解剖学や生理学、臨床医学まで幅広く学ばなければいけない。彼は必死に勉強した。そしてトップになった。それが自信を生んだ。
「プロになると決めたから覚悟ができたんですよね。やりたいことが見つかった。クラスでいちばんになったら、勉強を教えてと言ってくる人が現れた。教えることで、自分が人の役に立てることがうれしかった。一緒に勉強を頑張っていく仲間ができたのも楽しくて。カラオケにも初めて行きましたけど、人前で歌うのは案外、楽しいなと思えて」
愛することに不器用な母を許せた
専門学校2年生のころ、穏やかになったと思った母が徐々におかしくなっていった。裸足で家を飛び出したり、近所のカフェのキッチンでうずくまり、「長男が来なければ出てこない」と言い張ったり。
「父は母が出ていかないようリビングで寝ていたんですが、母は夜中に窓から出ていってしまう。裸足で寝間着のままタクシーで羽田空港へ行ったこともありましたね。警察によると外国人に話しかけまくっていたらしい。父に対しても名前を呼び捨てで呼んでいました。
病気の影響もあるかもしれないけど、僕は母が“なりたい人格”になったんじゃないかと思ったんです。だから僕も母を名前で呼んで“今日の料理はうまかったよ”と、恋人に接するようにしていたんです。母はうれしそうでしたね」
人格が変わったのは3か月ほどの期間だ。ある夜、リビングでテレビを見ていた城田さんのもとに、母は熱い味噌汁を置いて「ごめんね」と言った。その瞬間、彼の中ですべてが氷解し、愛することに不器用だった母を許せたという。母はその2週間後に亡くなった。
「母自身も、すべてから解放された3か月だったんじゃないでしょうか。亡くなった顔はとてもきれいでした」
その後、城田さんは専門学校を卒業、国家資格にも受かってあん摩マッサージ指圧師として仕事を始めた。この1年ほどは障がい者施設でのボランティアと並行して、一般社団法人トカネットのメンタルフレンドにもなっている。不登校やひきこもり当事者の「友人」として一緒に遊んだり話したり、ときにはその子の行きたいところへ同行したりする活動だ。
「会って話したり本を読んだり。徐々に外に出られるようになって一緒にサイクリングをすることもあります。こういうときもマッサージの資格が役立つんですよね。調子が悪そうだったら施術することもできますから。
“その時間に仕事をすればもっとお金になるのに”と言う人もいるけど、僕はつらかったときに整体の先生に助けられた。だからその恩返しをしたいんです。かつての僕のように苦しんでいる子や社会的に弱い立場にいる人の助けになりたい」
身体を整えると心も前向きになることがあると、彼は実体験から学んだ。だから苦しむ人たちの身体と心をケアしたいと真摯(しんし)に語る。
もっと福祉を学びたいと考え、現在は通信制大学で社会福祉も勉強している。つらかった10代を跳ね返すように、明るい笑顔で城田さんは今日も仕事にボランティアに飛び回っている。マイナスをプラスに変える力強さ、自分から学び取るたくましさを、彼はもがきながら手にしたのだ。
文/亀山早苗(ノンフィクションライター)
かめやまさなえ◎1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆