アルコールにギャンブル、薬物、ゲームにスマホ、恋愛、仕事……。日常生活に支障を来たしても、自分の意思とは無関係にやめられなくなる依存症。予備群を含めた患者数は、日本では2000万人を超えると言われている。その中には暴力や家庭問題による傷を抱え、苦痛から逃れ生き延びようとして、依存症に陥ってしまう人たちの姿がある。「孤立の病」とも呼ばれる依存症。どんなふうにかかり、どのように回復していくのか。2人の当事者の物語に耳を傾けていこう。
《恋愛・ギャンブル依存症のケース》
山根玲子さん(仮名=40代)
生き別れた父の面影を求め繰り返した恋愛、DV、ギャンブル
乳白色のニットにロングスカート。肩でふわりと揺れる髪。取材場所に現れた山根玲子さんはその見た目どおり、物腰の柔らかい清楚な女性だった。DV加害者で薬物依存症の元夫、新興宗教の教祖の息子などと過激な恋愛遍歴があるようには、とうてい見えない。
「ギャンブル依存症と摂食障害、アルコールの問題も持ち合わせているけれど、いちばん大きいのは恋愛依存症。子どものころに別れた父親の姿をずっと追い求めてきたように思います」
玲子さんは2人姉妹の長女で優等生タイプ。どう振る舞えば大人に受け入れられるか心得ていたという。
「父は借金を重ねていて、週末しか家に寄りつかないくせに私のことは猫かわいがりしていました。星を眺めに行こうなんて誘うロマンチストで、よく遊びに連れ出してくれましたね」
そんな父親であるため、ただでさえ気分の波が激しい母親とは、衝突やいがみ合いが絶えなかった。
「でも、私が病気になると父も母も心配してくれる。普段は荒れていても、このときばかりは家族がまとまるんです。子どもの私にとって病気は味方でした」
玲子さんが13歳になるころ、両親は離婚。新築したばかりの家も、父親も失ってしまう。以来、シングルマザーとなった母親を支え、しっかり者の長女として愚痴を聞き、カウンセラー役に徹してきた。しかし2年後、母子だけの暮らしは突如終わりを告げる。
「中3の12月に母が再婚したんです。しかも相手は妹の同級生のお父さん」
このとき、母親から言われた言葉が忘れられない。
「今日からお父さんを中心とした家庭にしましょうね、って。キモいと思ったし、裏切られたような気持ちでした。母が女として生きるというなら、私だってそうしてやると思ったんです」
どれだけ恋愛しても寂しさが消えない
玲子さんは友達のたまり場を渡り歩き、コンパに明け暮れるようになる。
「付き合うのは決まって年上の男性。ナンパについて行ったり、何の感情もない人を好きだと思い込もうとしたり。自分だけの家庭が欲しいと思っていました」
男性の目を意識するようになると、食事をとらず、拒食ぎみになった。
「お腹がぐーっと鳴ると、うれしくなりました」
やせて大人びて見えるようになった玲子さんには、常に複数の彼氏がいた。
「いなくなると思うと不安だから、常に彼氏や彼氏候補を集めておくんです」
短大を出て医療関係の職に就いてからも彼氏の「ストック」を欠かしたことはない。傍らにはアルコール。酔いの力も借りて、恋愛を繰り返した。
前述した教祖の息子との交際は、24歳のとき。信仰心を持てばうまくいくと思い、衰弱するほどのめり込んだが結局、去っていった。
「いつも何かに追われていて、どれだけ恋愛しても寂しさが消えない。自分のものにならない人ばかり好きになって、つらいのに、関係が安定してくると胸がざわざわして逃げたくなる」
そんな焦燥感にかられているとき、玲子さんは旅先でひとりの男性に出会う。年上で父親に似た雰囲気。すぐに結婚の約束を交わす。
「婚約中、何度も連絡がとれないことがあり問い詰めると、実は覚せい剤を使っていたと打ち明けられました」
俺、薬やめるから。そう話す彼に玲子さんは、「私が治してあげる。母は父を捨てたけれど、私はあなたを見捨てない」と誓った。
だが、結婚式当日も夫は薬物を手放せず、玲子さんはハラハラし通しだった。さらに入籍した途端、暴力をふるい始める。
「首を絞められ、拳で殴られた顔はアザだらけ。私の名義で車を買い、サラ金でお金まで借りていました」
借金取りが自宅へ押しかけるようになり、短い結婚生活は破たんした。
ただ寂しがっていればいいかな
離婚後、ひとり暮らしを始めた玲子さんはギャンブル依存症に陥ってしまう。
「元夫に教わり初めてパチンコをしたとき、2万円勝ったことを思い出して。やってみると、離婚やDV後遺症のつらさから解放された。勝つと舞い上がり負けることさえ刺激的でした」
パチンコ台に向かい、玉を目で追っているときだけ寂しさが遠ざかった。だがある日、軍資金をATMで引き出そうとしたら手の震えが止まらない。
「興奮状態で震えていたんです。驚いて、異常かもと思うように。パチンコ自体も負け続け、生活資金が底を尽きかけていました」
パチンコを断つ方法を周囲に尋ねて回った末、依存症の自助グループにたどり着く。このとき、玲子さんは30代後半になっていた。
「お酒をやめたい人たちの集まりで、飲んでいたときの気持ち、苦しかった体験を依存症の本人同士で分かち合う場所でした。寂しさを埋めたくてお酒にすがるようになったと聞いて、すごく共感できましたね。私にとっては恋愛やギャンブルがそうだったから」
その後、ギャンブル依存症の自助グループにも参加し、自分と向き合う作業に取り組み続けている。
「おかげで何があっても受け入れてもらえる仲間ができました。寂しさは消えないし、男を見る目も相変わらず。でも、どうにもならないものを無理に埋めようとしないで、ただ寂しがっていればいいかな、って」
《アルコール依存症のケース》
堺晴彦さん(仮名=60代)
女尊男卑と長男のプレッシャーから逃れるために
「あんたにはもう冷めきった! やり切った!」
妻からそう宣告されて、堺晴彦さんはおののいた。たった半月前まで、妻はかいがいしく世話を焼いてくれたのに、いまや見たこともないような冷たい顔で突き放す。同居する父の部屋から金をくすねて酒を買う毎日は、誰からも相手にされず、どこにも行く当てがなかった。酒、やめなきゃな──、そう決意した。およそ20年前のことだ。
堺さんが初めてアルコールを飲んだのは17歳のとき。親友のバイト先の飲食店で、客にすすめられるまま酒を飲み干していると「顔色ひとつ変えない。強いね」と感心された。そのとき、これさえあれば! と思ったのをよく覚えている。
「本当の僕は気が小さくて心配性。神経がこまかいし不安も強いタイプなんです。当時、付き合っていた彼女とうまくいかず悩んでいたんだけど、酒を飲めば気が大きくなって、物事がいいほうへ進むような錯覚を起こす。でも、酔いがさめると彼女との関係は相変わらず。どうにもできない自分と向き合わなきゃならない。そういう自分が許せない。責めたくなって、つらくなる。そんなとき、さらに酒を飲みたくなったんです」
自分を責める気持ちと男性ゆえの罪悪感に、堺さんは長年苦しめられてきた。
堺さんが3歳のときに亡くなった祖父は、男尊女卑が激しく「女だから」という理由で母親を虐げるのが日常だった。些細なことで怒鳴り散らし、包丁を突きつけることもあった。
そんな祖父が亡くなると、母親が募らせた積年のうらみは「男である」という理由から、4人きょうだいの末っ子で唯一の男性である、堺さんに向けられた。
「男は汚い、醜いと言って平手で打つ。布団叩きで叩く。おねしょをすると、お線香を陰部に押しつけるまねをする。子ども心に半端じゃない恐怖だった」
その一方で母親は、自身が思う「理想の男性」の役割も堺さんに求めていた。
「これからの男は女がやることもできなきゃダメ。それが母の口癖でした。でも、母のいちばんの望みは、堺家の土地・家屋・墓を長男である僕に継がせること。異常なほど執着していて、幼いころからそう言い聞かせてきたんです」
だからこそ仕事が軌道に乗り、フリーランスのグラフィック・デザイナーとして年収が1000万円を超えたとき、「人生に勝った」と思ったという。
「俺は勝った! これで絶対に家を継げる! と。それが人生の究極目標だと思い込まされてきました。大きな勘違いだったと気づくのは、酒をやめて治療につながったあとでしたが」
ときはバブル真っ盛り。残業は月に平均200時間から下回ることはなかった。真夜中まで働き、得意先と飲みながらの打ち合わせを終えると、家に戻って明け方まで再び仕事を続ける。仮眠をとって、また夜中まで働いての繰り返し。
「完全なワーカホリック。でも、それが問題視されるような時代じゃなかった。年収はどんどん増えていき、酒量もどんどん増していく。これで家族を食わせているんだという自負もあった」
「このままじゃ廃人になるよ」
時代がアナログからデジタルに移行し始めると、堺さんの仕事に陰りが見え始める。徐々に依頼は減っていき、それに反して、酒量は際限なく増していく。
「酎ハイの空き缶が山積みになっている部屋で、デザインの作業をしようとするんだけど、身も心もつらい。泣きながら飲んでいるばかりで、徐々に仕事にならなくなっていきました」
飲み方がおかしいと指摘され、友人たちは離れていき、仕事の取引先にも不義理を重ね、顔向けができない。最初は酒を隠すなどしていた妻も「冷めきった」と突き放す。すべてに見放された。そう思った堺さんは「助けてほしい」と自らアルコール依存症の専門治療病棟がある、都内の精神科病院へ入院する。医師からは「このままじゃ廃人になるよ」と宣告された。
3か月間の入院中、アルコール依存症の自助グループという存在を知った。病院の治療プログラムに組み込まれていたのだ。
「自助グループでは自分の弱さをさらして、過去のどんなときに酒が必要だったのかを徹底して話す。そうするうちに、親自身ができもしない要求を子どもに課す“堺家の伝統”に苦しめられてきたこと、家族問題と飲酒が密接な関係にあることに気づかされました」
家の伝統に苦しめられてきたのは、堺さんだけではなかった。母親も祖父も晩年、アルコール依存症に陥り、苦しみながら亡くなった。体面を気にして家の外へSOSが出せず、相談できない、「堺家の伝統」が災いしたと思っている。
酒をやめて19年、堺さんは、いまの自分をタンポポになぞらえる。
「タンポポにはタンポポのよさがある。その力を自然な状態で発揮できるのがいいに決まっている。なのにいろんな条件をつけて、バラやユリにならないといけないと刷り込まれてきた。無理強いには痛みが伴います。その痛みを麻痺させるために、僕にはあれほど酒が必要だったんです」