「もし売れていたら、とっくに歌手をやめていたかもしれない」。17歳で“イルカの妹”としてデビュー。大人の思惑に振り回され、いつしか「売れない自分」を否定するようになった。金銭やマネージャー問題、元夫との泥沼離婚も経験。順風満帆とは言い難い人生の風向きを自分の力で変えたのは、47歳のとき。すべてを捨て、ひとり立ちしたことで手にした幸せとは――。
東京・吉祥寺にあるライブハウス『スターパインズ・カフェ』のステージに、沢田聖子(57)の姿はあった。17歳のとき、“イルカの妹”のキャッチコピーでデビューしてから40年目にあたる2019年12月、全国を駆け巡る記念ツアーは千秋楽を迎えていた。100席ほどの会場は満席。沖縄からはるばる足を延ばす人もいた。
「ようこそ、アイドルのコンサートへ」
幕が上がり、お人形のような白いロリータドレスに身を包んだ沢田がステージ上に現れた。ドレスの両端をちょこんとつまんで可愛くお辞儀をすると、「聖子ちゃーん」という歓声があがる。右へひらひら、左へひらひら、笑顔で手を振り、拍手がおさまるのを見計らって小声で囁いた。
「あのね、57歳なんです」
おどけたポーズで会場はどっと笑いに包まれる。
フォーク界から総スカン
デビュー当時、シンガー・ソングライターであるという自負から、アイドルと言われることに強い抵抗を覚えていた。そのたびに立ち位置を説明してきたが、すべてを失った10年前に自然と受け入れている自分がいたという。いまでは「おじさんのアイドル」と自称してはばからない。
「師匠のイルカさんは私よりひと回り上の寅年ですが、どんどんスカート丈が短くなっていく。お客さまを楽しませようという気持ちが衰えない。私も負けてられないぞ、とこんな格好をしてしまいました。
どこで買えるか知ってます? ロリータ服のフロアにジーパン、シャツで行って、もう心臓バクバクよ。娘なんていないのに“うちの娘はどれが似合うかな~?”なんて声に出してみたりして(笑)」
巧みな話術で裏話や、日々のちょっとしたエピソードを紹介しては会場を沸かせる。
アイドルと言いながら、アイドル然とはしておらず、気さくで飾り気がない。ファンいわく、プライベートも複雑な過去も、ライブのMCで赤裸々に話してしまうのだという。
デビューしてほどなく、1970年代に席巻したフォークソングが下火となった時代背景もあり、所属事務所もレコード会社も沢田の売り出しに迷走。沢田自身、「売れない」「あまり知られていない」と、デビュー当時から自虐的に語ってきた。「フォーク界のアイドル」として売り出され、フォーク界からも歌謡界からも総スカンを食らい、自分の居場所を見いだせずに苦しむ。そうしていつしか、「懐かしの昭和フォーク」「B級アイドル」など“過去の人”と括られた。
普通なら、とうにやめていてもおかしくない。だが、彼女は1度も歌手である自分を諦めなかった。40年間、ねばり強く歌い続けてきたのだ。
3時間ほどで20曲を歌う長いステージであるにもかかわらず、声に衰えは感じられない。アンコールでは沢田のいまの気持ちを表した新作『Life is a Winding Road(「人生は曲がりくねった道」の意味)』を歌った。
「途中で歌うのをやめようと思ったり、人に裏切られたり、よくないこともたくさんあったけど、いいこともたくさんありました。これから先も同じように繰り返していくのだろうと思って作った曲です」
人目をはばからずに涙を流す人が会場のそこかしこにいた。沢田がひたむきに頑張ってきた姿に、自分の人生が重なるのだという。
売れたらとっくにやめていたかも
名古屋から駆けつけた市村美由紀さん(56)は、デビュー以来の追っかけ。歌詞にうなずきながら聴き入っていた。
「“いつか大きなホールでまたやりたい”というのが聖子さんの夢だと思ってずっと応援してきました。でも、何年もライブに通ううち、“今こうして歌えていることが、この人は本当に幸せだと思ってるんだ”と感じられて、私の勝手な思い込みに気づかされました。挑戦し続ける姿を尊敬しています」
いったいどこに40年にわたって歌い続ける気力があったのか。ライブ終わりのインタビューで疑問をぶつけると、それまで饒舌に話していた沢田が少し沈黙し、「根底にあるのは悔しさ」と、くちびるを噛みしめた。
「なんで私は売れないんだろうって気持ちがバネになったし、負けそうになる自分も嫌で……。売れてたらとっくにやめていたかもしれません。デビューしたころの私に言ってやりたいことがあるんです。好きにやってもいいんだよ。間違えたって全然、平気。ヒットがなくても、売れなくても気にしないで。そこに座っているだけで、あなたの世界がちゃんと作れているんだから。そんなにガチガチにならず心から歌を楽しんで。私は私、それでいいんだからね」
その目には、涙がにじんでいた。
1962年の春、沢田は東京・中野で生まれる。まだおむつのとれない生後11か月で芸能活動が始まった。
「きっかけは兄が婦人雑誌で子ども服のモデルになったことでした。母と都心を歩いていたとき、編集者にスカウトされたそうです。撮影現場に連れられていくうち、私もカメラの前に立っていました」
高度経済成長期にあたる1960年代、テレビやラジオ、新聞や雑誌といったマスメディアが大きく発展し、広告が消費を牽引。子役の需要も高まっていた。目のくりくりした女の子は雑誌の表紙を飾り、5歳のときには渥美清さんに肩車され、胃腸薬「パンシロン」のCMに出演。合唱団「音羽ゆりかご会」の一員として、『月光仮面』や『鉄腕アトム』などテレビ番組の主題歌を歌い、人気子ども向け番組「ケンちゃんシリーズ」では主演・宮脇康之さんのヒロイン役を演じた。
「大人になってから聞いたところ、母は結婚して父の実家に同居する家庭環境の重圧から逃れたかったみたいで、それが兄妹そろって子役をさせる動機だったみたい」
出演前、髪をとかしながら母は決まって、「うちは貧乏だから」と沢田に言い聞かせた。子ども心に、「私が働かなくてはいけない」と健気に思ったという。
子役による収入は母が管理。結婚するまで銀行に勤めていた母は、その知識を活かして株式投資をしていた。うまく蓄財できたかどうか、沢田はいまだに知らない。
やがて中学生になって身体が変化するなか、子ども服のモデルの仕事は激減。かわりに当時全盛だった歌謡曲に魅了され、『スター誕生!』や『ホリプロタレントスカウトキャラバン』など、オーディション番組に片っ端から応募した。だが、予選を通過するものの、合格にいたらない。
「審査員をしていた都倉俊一さんに言われた言葉を、いまでもよく覚えています。“君はねえ、コーラスの1人の声なんだよ”と。そのとおりだなぁと思いました」
代役でまさかのデビュー
ひょんなことから沢田にチャンスが訪れる。フォーク歌手のイルカ(69)が産休の間、夫で所属事務所の社長である故・神部和夫さんが新人歌手を育てる企画を立ち上げたのである。当時、『木綿のハンカチーフ』が大ヒットしていた太田裕美のような、「アイドル性を備えるシンガー・ソングライター」という具体的なイメージがあった。歌よりルックスを重視し、いくつものモデル事務所からプロフィールを取り寄せた。そのなかでひとりの女性に目をつけ、「この子を“イルカの妹”としてデビューさせよう」と決める。
しかしオーディションの日、本命の子にモデルの仕事が入り、穴をあけるわけにはいかないモデル事務所が代役で行かせたのが沢田だった。
事務所からは「夢を見るな。イルカさんにサインをもらって帰ってこい」と釘を刺されたという。
当日、高田みづえのヒット曲『硝子坂』を歌うも、レコード会社からは「まったく使いものにならない。声からビジュアルからすべてダメ」との烙印を押される。ただひとり、神部さんは「ピアノが弾けるなら弾き語りはできないの? 来週聴かせてよ」と助け船を出す。
「子どものころから叔母にピアノを習っていたので、『木綿のハンカチーフ』の楽譜を買って練習しました。でも、歌うとピアノが弾けず、ピアノを頑張れば歌えません。弾き語りなんて、とても無理だと思いました」
2度目のオーディションも惨憺(さんたん)たるものだったが、神部さんには閃(ひらめ)くものがあったらしい。
「きみが本当にデビューしたい気持ちがあるなら、半年後にデビューさせてあげる。練習してできるようになれば弾き語りで、だめならマイクを手に歌えばいい」
音楽プロデューサーとして辣腕(らつわん)をふるう神部さんに異を唱える者は、当時レコード会社にひとりもいなかった。
「私ではない私」に戸惑い
デビューに向け“イルカの妹”としてのイメージづくりが始まる。ワンピースしか着たことがなかったが、イルカのトレードマークであるオーバーオールを着せられた。
「着慣れないので、トイレに行くたびに胸ポケットに入れていたものがバラバラと落ちちゃって、拾うかどうか悩みました(笑)」
このとき沢田は16歳の高校生。子どものころから童謡は習っていたが、譜面どおりにしか歌えない。曲をつくったこともなければ、弾き語りをしたこともない。デビューにあたり、だれか先生について特訓できるとばかり思っていたが、神部さんの指導は独特だった。レンタルスタジオで30分のライブを見立て、沢田が歌い、おしゃべりするのを1人で聞くのである。そのたびに細かく注意され、どうしたらよいかを考えさせられた。
半年後の1979年5月、沢田は『キャンパススケッチ』でデビュー。ジャケット写真の撮影にあたってスタイリストはとくにつかず、服は原宿の古着屋で買い、髪も普段どおりだった。B面の『雨よ流して』は現代国語の授業中に書いた詩を歌にしたという。
翌'80年の『坂道の少女』以降、『青春の光と影』『卒業』『流れる季節の中で』と、毎年1枚のペースで新作アルバムを発表していく。プロの作曲家や作詞家からの曲提供もあったが、とくに沢田自身のつくる歌がファンの心をつかんだ。思春期を過ごす「女の子」の感性がみずみずしく綴られ、日記をこっそり読んでいる気にさせられたのだ。それがプロデューサーの狙いだった。
「でも、私はあくまで素材で、神部さんの考える“沢田聖子”が徐々にかたちづくられていきました。私ではない私、虚像に戸惑いも覚えました」
清楚でおとなしい女の子というのが沢田のつくられたイメージだったが、ラジオ放送やライブのMCでは陽気で冗談好きの素顔をふいに覗かせ、相方のアナウンサーを慌てさせる場面もあった。
デビューする際、「3年分の青写真はできている。その間は舵取りするけれども、それから先はわからない」と神部さんにはっきり言われていた。
ライブ終わりにいつも、4つ折りにした紙に小さな文字で事細かく書かれた駄目出しを渡された。どこでどう間違えたか、なにが問題か、演奏を録音したテープを聴いて反省させるのである。強いプレッシャーにさらされ、ライブでは観客より、神部さんばかりが気になった。
マイナスに働いた松田聖子のデビュー
実力派アーティストと同じステージに立てば、リハーサルの時点で萎縮させられた。
「実力がない劣等感がずっとありました。名前を知ってもらおうと、学園祭にたくさん出たのですが、ヤジばかりで誰も聴いてくれないこともあり、悔しくてよく泣いてました」
4作目にあたる『卒業』の9万枚を筆頭に、3万枚以上の売り上げを目安にしていたレコード会社の基準は満たしていた。だが、レコードが売れてもベスト10に入るシングルヒットには結びつかない。ヒットがなければテレビの歌番組に出られず、知名度はいっこうにあがらない。
1年後に松田聖子が登場したのもマイナスに働いた。デビューは先で本名であるにもかかわらず、どこにいっても「人気にあやかってまねをした」と笑われてしまうのだ。
「同時期にデビューした人たちが次々にヒットを飛ばし、メジャーになっていくなか、ひとり取り残された気持ちでした。いい曲を書けたと思っても、売れない。もっとプロモーションしてほしいと思っても、認めてもらえない。自信をなくしていきました」
石川優子や久保田早紀ら、作詞作曲をするシンガー・ソングライターがこのころ歌番組をにぎわせていた。
1983年、レコード会社を移籍したのも、ヒットを狙ってのことだった。ベスト盤『FOR YOU』のジャケット撮影ではスタイリストの手で派手に化粧が施された。「これは私じゃない」と思っても、相手はプロだから意見が言いにくい。イメージチェンジを図り、売ろうとすればするほど、素の自分とのギャップがますます広がった。
レコード会社のプロモーターとして、このころの沢田に付き添った伊藤ひろみさん(61)は振り返る。
「本人の意思とは関係なく、かたちを変えればヒットが狙える、もっと大化けするとの思惑がレコード会社にも事務所にもあったのだと思います。芸能界には裏表のある人が少なくありませんが、聖子ちゃんは素直で、地方の小さな町で歌う仕事もいとわずやってくれていました」
移籍後の第1作である『ターニング・ポイント』は、『悲しむ程まだ人生は知らない』という21歳の女性にはいささか重たすぎるタイトル曲で始まる。
「デビューしてから、たくさん悔しい思い、苦しい思いをしてきましたが、悲しむほどまだ人生は知らないよなと考えて作った曲です。私のありのままの気持ちでした」
「つくられたアイドル」という印象が残る沢田を音楽評論家は認めなかった。「彼氏とドライブして、沢田聖子の曲が流れたらその場で別れる」と酷評されたこともある。そういう世間の反応ひとつひとつに沢田は深く傷ついていた。
「沢田聖子はもう終わったんだよ」
打ち合わせでレコード会社に行ったときの出来事は、いまだに悔しさが蘇るほどに忘れられない。
ある日、沢田が会議室に残された書類に目を落とすと“なぜ沢田聖子が売れないか”という議題で社内の意見が書かれていた。そこには“スタッフにお茶を出すようでは、アーティストとしてのオーラを感じさせられない”との指摘があった。
目上の人にはきちんと挨拶する。お茶碗のご飯は1粒残さず食べる。沢田は子どものころから家庭できちんと躾(しつ)けられてきた。その気遣いや礼儀正しさが仇(あだ)になっているとでも言いたげだった。
「大人たちはずいぶんくだらないことを考えているんだなとがっかりさせられ、“売れる”ってそもそもなんだろうと考えあぐねてしまいました」
移籍当初は売り出す自信のあったレコード会社も、スタッフが入れ替わっていくうち、沢田をもてあましていた。迷走の末、アルバムのキャッチコピーに「普通さが、過激です。」とつけられたこともある。
マネージャーにも恵まれなかった。最初についたマネージャーは恋人のところに入り浸り、地方公演への同行を平気ですっぽかした。
「ポケットに300円しかないまま電車に飛び乗り、駅で待つ現地スタッフに立て替えてもらうこともありました。お弁当が買えず、おなかをすかせたままでステージに立つこともたびたびありました」
直談判して代えてもらった新しいマネージャーは家族愛の強い人だった。土日の仕事は絶対に顔を出さず、孤軍奮闘の日々が続いた。もっと優秀なマネージャーがつけばしなくてもいい苦労も、「売れないのが悪い」と思い込まされた。そこまで頑張っても最初の契約で決められた月3万円の給料が1年たって5万円、3年目に10万円になるくらいのもの。金銭面で不満を感じても「ヒット曲がないのが悪い」と呑み込んだ。
「世の中でたったひとり、躓(つまず)いているようで強いコンプレックスを抱いていました。だれも私のよさなんてわからない。自分でもわからない。これ以上続けてもしかたがないからすっぱり諦め、ニュージーランドでのんびりファームステイでもしようかと考えていました」
1988年、結婚したことが沢田にとって大きな転機となる。お相手は学生時代、イルカの事務所でアルバイトをしたのち、一般企業に就職した男性。誰からも匙(さじ)を投げられるなか、彼だけは沢田の音楽を認めてくれたのだ。
神部さんに「事務所をやめたい」と2人で挨拶に行くと、「最後のライブはいつにするか」とあっさり言われ、引き留められることはなかった。
「沢田聖子はもう終わったんだよ。レコードの売り上げもライブの動員も数字はすべて下降線。もってせいぜいあと3年だ。それでもきみは手をあげるのか?」
神部さんが夫に向けた厳しい言葉を、沢田は黙って隣で聞いていた。
こうして独立し、自分の名前を冠したショウコ・ミュージック・カンパニー(SMC)を設立。沢田が社長になり、夫と沢田の父が取締役に就いた。初めて心から信頼できる相手と二人三脚、深呼吸しながら音楽活動ができる。希望に満ちあふれた沢田は再出発のアルバムに『LIFE』と名づけ、幸せな新婚生活を予感させる歌を綴った。
夫の“踏み台”にされたと気づく
「夫の転勤で、仙台を拠点に東京と行き来する生活でした。サラリーマンをしながら夫が私の窓口になってくれて。恋は盲目と言いますが、すべてうまくいくと思っていました」
だが、地道な活動を根気よく続けるものの、大きな話題にはならない。新譜を出してもCDショップの棚に並びさえしないことが増えていった。そして、いつしかライブやラジオ番組への出演に、マネージャーであるはずの夫が同行しなくなっていた。
「マネージャーをつけるほど、お前は売れていない」となじられたこともある。
夫がお金のすべてを管理し、移籍したレコード会社から受け取ったはずの契約金がいくらかも知らされなかった。渡された給料は20万円。そこから夫婦の生活費である家賃や食費を払い、税金も納めた。
「お前を売るにはほかで稼ぐ必要があると言われ、夫は新人アイドルの育成などに力を入れていました。どうしてだろう、なぜだろうという小さな疑いがひとつ、またひとつと芽生えていきました」
夫が中心となって結成したファンクラブにも不満が募った。イベントを催せば、「沢田聖子があなたのためだけに歌う権利」をオークション形式で売り値をつり上げるなど、ファンの心理をお金儲けに利用しているような企画がたまらなく嫌だった。
「知らぬ間に会社の登記簿が変えられ、社長が私ではなく、勤めをやめた夫になっていました。ベンツに乗っているかと思ったら、キャンピングカーも増え……。もともと音楽業界の仕事をしたかった夫の踏み台にされたのだと、さすがに気づかされました」
家に帰ってこないのは仕事が忙しいからだと思っていたら、携帯電話から女性関係の痕跡がいくつも出てきた。仕事と生活がごっちゃになり、喧嘩も絶えなくなる。
集中しなくてはならないライブの前日、部屋の電気を消して寝ようとしたら、「まだ話は終わってない!」と夫は布団を引きはがす。本番直前の楽屋でも怒鳴り続け、罵声に怖じ気づいた関係者はだれも近づけなかった。2000年を過ぎたあたりからのアルバム『祈り』『心は元気ですか』『すべてに、ありがとう』『Peaceful Memories』はいずれも、沢田の病んだ心を如実に反映したタイトルで、自分に言い聞かせるように曲を作り、前を向こうとしていた。
「売れていないのだからしかたがない。神部さんからも、夫からも頭ごなしに言われているうち、だんだん自分が猿回しの猿に思えてきました。本人の意思なんてどこにもなく、自分は何者でもないのだと思い知らされました。それは子役のときからずっと続いてきたことかもしれません」
沢田は離婚を決意したが、3年あまり泥沼は続いた。
2009年、21年にわたる夫婦関係を解消し、46歳で離婚。「個人事務所から独立し、ファンクラブを解散する」とライブで自ら公表した。
「夫は腹いせに、デビュー当時からの私の写真を焼却処分していました。イルカさんが、“聖子ちゃんにとって大切な思い出だから”と送ってくれたものです。本当に悔しかった……」
預金通帳の残額は400万円
「失うものはもうなにもない」
どこか吹っ切れるものを自分の中に感じながら、ひとりで歩き出そうとしていた。
「デビュー以来、レコード会社や事務所の力で動いていたものが、多少なりともあったと思います。ひとりぼっちになり、しがらみがすべてなくなり、よくも悪くも等身大でしかできなくなる覚悟をしました」
たとえ音楽ができなくなっても居酒屋でアルバイトでもすればいい。音楽以外の仕事をした経験もないのに、沢田は楽観的に考えていた。それでもやはり歌いたかった。
「なにをどうしたらよいのか、さっぱりわかりません。いま振り返れば、デビュー以来、すべてを他人任せできたからですよね。誰かがなんとか自分を売り出してくれるとばかり思っていたんだなぁって」
懇意のライブハウスに相談したところ、電話をしてスケジュールを調整するだけだと教えられた。
「どこもすぐにOKをいただけて、なんだ、簡単だと思いました」
やりとりをするなかで、「沢田聖子は2度と使うな」と別れた夫が触れ回っているのを知ったが、どのライブハウスも沢田の肩をもってくれた。逆境にめげず、頑張ってきた姿をみんな見てきたからだ。
次にライブで販売するCDを作ろうと思い立つが、預金通帳の残額は400万円。子役のときから働きつづけ、一時は人気アイドルになった沢田に残された全財産である。
レコーディングアレンジャーの林有三さん(65)に相談すると、「自宅のスタジオでやれば、たいしてお金はかからない」と二つ返事で引き受けてくれた。沢田もギターを弾き、2人だけでつくったアルバムは『宝物』(2010年)。ポジティブなタイトルに一転した。以来、林さんはインディーズに活動の場を移した沢田のプロデューサーとして音楽を支え、2013年からは年間70回近くにおよぶツアーに同行してきた。
「聖子さんには鋭いところがたくさんあって、音楽の理論はなにもわからないと言いながら、ツボをよく心得ているんです。生まれ持ったセンスに長いキャリアが枝葉となり、彼女ならではの音楽を紡ぎだしてきました」
経費を節約するため、林さんとギタリスト、マネージャーとともにワンボックスカーで、全国どこへでも移動する。沢田がムードメーカーとなり、車内はいつも和気あいあい。笑いが絶えない。
すべては自分に必要な経験だった
あれもやりたい、これはどうだろうと、次々にアイデアが浮かんでは行動に移す沢田を支えるのは、マネージャーの川羽田晶さん(45)。
「自分の歌を聴きたい人が1人でもいれば、聖子さんは全国どこにでも行きたいと考えています。そんな思いを叶えるため、物販を合わせてなんとかやりくりしています」
ファンをまた騙してしまうのではないかと躊躇する沢田を説き伏せ、川羽田さんがファンクラブを再開したのも活動を経済的に支えるためだ。
デビュー40周年を記念した39作目にあたるCD『NEUTRAL』は3000枚をプレス。大手レコード会社に所属していたときとは比べものにならないが、沢田に不満はない。契約や販売にまつわるグレーな部分が払拭され、すべてを自分で把握しているからだ。ショップには卸さず、ライブ会場やホームページを通じ、自分でつくったものを自分の手で売る。沢田にはそれが心地よくてしかたない。
「たくさん悔しい思いをしてきて、ようやく猿回しの猿ではない私になれました。すべては自分に必要な経験で、悲しい思いをしたからこそ強くならざるをえなかった。母に感謝。神部さんにも元旦那にも感謝です」
デビューのときから変わらず、いまも沢田が歌い続けているのを知ったファンが、ライブやラジオの公開収録に足を運ぶ。デビュー以来のシングルをすべて並べたパネルを手作りするファンがいれば、名前と写真を入れた幟を贈ったファンもいる。寿司職人の顔を持つファンは、毎回楽屋に差し入れを持参する。会場の準備や受付は友達が集まって手伝い、沢田も自ら雑用を進んでやる。そこにはレコード会社をとうに辞めた伊藤さんの姿もあった。
「聖子ちゃんは努力と信念の人だと思います。歌うのがなにより好きで、ファンのことをずっと大切にしてきました。だからこそ消費社会のこの世の中で、ずっとやってこられたのだと思います」
“イルカの妹”と呼ばれ、若いころは「清楚」なイメージで売っていたが、実は正義感の強い姉御肌。行儀の悪いファンがいれば面前で叱りつけ、ライブ後にずらりと行列ができるサイン会では人生相談が始まる。前向きな沢田を慕うファンのつながりが全国に広がり、職を失った仲間に「一緒に働かないか」と声をかける温かな関係も生まれている。
「いまがいちばん楽しい!」
そう言って沢田は屈託のない笑顔を見せる。
「それもこれも身の丈に合ったことをやっているからなんだと思います。ありのままの自分でいればいい。それ以上のことはいま望んでいません。自分をネタにファンの方々が盛り上がったり、友達がライブを手伝いに来てくれたり、素直に楽しくてなりません」
かつて「悲しむ程まだ人生は知らない」と歌った沢田は、いくつもの悲しみを乗り越えて自分ならではの音楽を奏でようと走り続けている。
取材・文/増田幸弘(ますだ・ゆきひろ)◎フリーの記者・編集者。スロヴァキアを拠点に、国内外を取材。おもな著作に『独裁者のブーツ イラストは批判する』(共和国)、『イマ イキテル 自閉症兄弟の物語』(明石書店)、『プラハのシュタイナー学校』(白水社)などがある。