かつて世間の注目を集めた有名人に「あの真っ最中、何を思っていたか?」を語ってもらうインタビュー連載。当事者だから見えた景色、聞こえてきた声、そして当時言えなかった本音とは……。第2回は、民放テレビの開局と前後してお茶の間の人気者になった『クレージーキャッツ』で、唯一の存命するメンバーとなったベーシスト、犬塚弘(90)に当時の芸能界と忘れられないスターを振り返ってもらう。
テレビ草創期の昭和30年代、一世を風靡したバンド『クレージーキャッツ』。
メンバーは、リーダーでドラムのハナ肇さん、リードボーカルの植木等さん、トロンボーンの谷啓さんら、楽器をキチンと弾けるうえに、当時の日本を爆笑の渦に巻き込んだ男たち7人。
基地営業でついたバンド名
「最初は別のバンド名で、米軍キャンプを回っていました。演奏しながら笑いの要素も入れると、軍人たちがテーブルを叩きながら“クレージー!”って叫ぶんです。“狂ってる”と言われていると思っていたら、そうじゃない。“面白い”とか“イカしてる”という意味だという。そこで、バンド名を変えました」
そう語るのは、メンバーがひとりふたりとこの世を去った中、いま存命する唯一のメンバーとなったベース担当の犬塚弘(90)、通称・ワンちゃん。
「小さな芸能事務所の所属第1号となり、それが渡辺プロでした。事務所には、どんどん新しい歌手とかタレントが入ってきて、クレージーが稼ぐお金のほとんどは、別の歌手やタレントに使われていたんじゃないかと思います。だって、給料はすごく安かったから(笑)」
つらくて忘れられないのは、立川にあった昭和基地の仕事。
「通勤ラッシュで混んでいる山手線に乗って、当時の車内には柱があって、そこに楽器をヒモで縛りつけて、身体でガードするんです。
そうした苦労をして立川まで行ったのに、帰る電車賃もない。100円もないんです。ハナ肇に“なんとかしてよ”って言うと、新宿の知り合いの店からお金を借りてきたなんてこともありました。忙しいけど、お金には苦労しました」
美空ひばりさんだろうと引き立てしない
'59年、フジテレビ開局翌日に始まったバラエティー番組『おとなの漫画』で、クレージーは初のレギュラーに。'61年にスタートした音楽バラエティー番組『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ系)が始まると、その人気が爆発した。
犬塚が司会を務めていた歌謡番組『7時だ、とび出せ!!』に、美空ひばりさんがゲスト出演したときのこと。
「今日は特別だから、ほかの出演者もかえてくれという伝達が急に来たんです。さすがに怒りました。“オレはたいこ持ちじゃねぇぞ!!”と反発して、そのときもいつもどおり淡々とやりました」
番組の放送が終わると、ひばりさんの事務所の人がやって来て、犬塚に聞いた。
「この後お暇でしょうか?」
呼ばれた六本木の店へ行くと、ひばりさんと彼女の母親が待っていた。
「あなた、ウチのお嬢は普通の歌手とは違うのよ」
そう母親に言われた犬塚は、
「俺はゲストが偉い人でも新人でも、番組はちゃんとやる。そこに差はない」
と言い切った。すると、ひばりさん母子は「気に入った!」と言って、それから誕生日会やお祝い事には必ず呼ばれるようになった。
「行くと映画スターや巨人軍の監督とか、すごい人がたくさんいる。でも、私はお酒が飲めないし、ああいった大スターとは付き合ったことないから困りました。ただ、私はお世辞が言えないから、気に入られたのかもしれません」
森繁さんと深夜まで話をする仲に
あるとき、ひばりさんが呼んでくれたパーティーで、「ワンちゃん、ここ座って」
指さされたのは、森繁久彌さんの隣席。さすがに驚いた犬塚が断ろうとするも「いいの!」と言って、ひばりさんが強引に座らせた。すると、
「ホゥ、お嬢のボーイフレンドはワンちゃんかい」
と、森繁さんがひと言。
「参りました。でも、それから森繁さんには、息子さんたちと同じぐらい可愛がってもらいましたから、ひばりさんには感謝しています。森繁さんの奥さんの話も面白くて、ご自宅で夜中の2時まで話をしていたこともあります。家族ぐるみで私のことを信用してくれたんでしょうね」
オーラがあった芸能人として犬塚が印象深かったのは、日本映画界を代表する二枚目の時代劇スター・長谷川一夫さん。
クレージーとして時代劇の映画『銭形平次』で共演したときのこと。翌日の撮影が朝9時から開始と聞き、30分前の8時半に撮影所にやって来た犬塚たちに撮影所の門でスタッフが、
「お前たち何やってるんだ、7時には現場に入れ!」
と怒鳴った。
「時代劇はカツラも化粧もしないといけないから、現場入りが早いんです。すると、すでに銭形平次の衣装を着た長谷川さんがやって来て……」
犬塚たちが「スミマセンでした!」と謝ると、長谷川さんは「遅かったわネェ」と、優しいオネエ調の言葉がかえって怖かったという。
「話しかけられないオーラがある人でした。付き人が3人いて、イスを出す人、タバコに火をつける人とかいるんです。これぞ映画スターだと思いました。難しいセリフを一生懸命に覚えてたら“よく覚えたわネエ”と、お褒めいただきました(笑)」
90歳、気づけばひとりだけ
次第にクレージーとしての活動はなくなり、犬塚は役者の仕事にのめり込んでいく。
「バンドのメンバーは別の仕事が増えたけど、私は性格的にお笑いができなかった。植木は映画の主役をやって、私はテレビのドラマで使ってもらうことに。
ドラマの共演者が文学座とか俳優座に連れていってくれて、だんだんとそっちに傾いていきました。役者の勉強をしまくって、演出家には“バカ!”と怒鳴られながらも、私のことを育ててくれました。
井上ひさしさんには、6年くらい可愛がってもらいました。バンドをやっていたから、ほかの役者よりもアドリブができた。それで使ってくれたんです」
現在の犬塚は、都内を離れ、避暑地・熱海のケアマンションでひっそりと暮らす。5年ほど前に妻が先立ち、子どもはいない。2年前、大林宣彦監督から連絡があった。
「大林監督は私より10歳下ですが“ああしろ、こうしろ”とうるさい人なんです。突然、電話をかけてきて、“今から映画の撮影をする”と言う。
監督は“映画館で映画を見るだけの役だから”なんて言うけど、台本を見たらセリフがドバッとある。でも、私は長ゼリフが得意だからやりました。リハーサルも入れて3日間で撮り終えました」
これが4月に劇場公開される『海辺の映画館―キネマの玉手箱』。犬塚はこの作品を最後に引退表明をしている。
「クレージーにいたことは、私の誇りです。学があるやつが多かったし、みんないいやつでした。でも、やっぱり寂しい。
特に植木と谷啓と桜井センリさんが亡くなったことがつらい。この3人は、酒が飲めなかったんです。だから、いろんな意見を言い合った仲でした。気づけばひとりだけ残っちゃいました。なんで私だけ残っているのでしょうか。でもね、全然90歳だなんて感じがしないんです」
そう言って、今も日課の1時間の発声練習と、演劇で習ったベッドに腰かけての足踏み300回を続けている。