《♪愛子の名を忘れ 我が名を忘れ それでもあなたを 忘れません》
海蔵亮太の歌う『愛のカタチ』が、'18年6月からロングヒットを続けている。
「海蔵さんは'16年と'17年の2年連続でカラオケ世界大会のチャンピオンに輝きました。デビュー曲となったこの歌は、12年前にシンガー・ソングライターのなかむらつよしさんが作詞作曲。65年連れ添った祖父母のことを歌っています。家族の名前を忘れ、最後には自分の名前すら忘れてしまったのに、先立った夫の名前だけは覚えていたという実話を歌にしたんです」(音楽ライター)
祖父は『愛のカタチ』に涙を流し──
海蔵はこの歌で昨年末のレコード大賞新人賞を受賞した。彼にも大好きな祖父母がいる。宮崎県小林市で暮らす祖母のフキさん(80)だ。夫の茂さん(享年83)が'19年4月に亡くなってからはひとり暮らしをしている。
「おじいさんは脳梗塞をやってから足が弱り、コケてしまうこともありました。トイレに行くときも私の手が必要で。だんだん家族の名前もわからなくなってきていましたね。私のことだけはわかるんです。最後までケンカしていたくらいですから(笑)」
医師からは、認知症が進んでいるのではと言われていた。
「茂さんと呼んでも目をぱちくりさせるばかり。でも、“私のことわかる?”って聞くとうなずいていました。“亮太が歌手デビューするよ”と伝えたときはわかったようでした。亮太の父が“亮太の歌だよ”と『愛のカタチ』を聴かせたときは涙を流していました」
フキさんが『愛のカタチ』を初めて聴いたときは、おじいさんのことを歌っているのかな、と思ったという。
「今でも歌を聴くたびに、おじいさんを思い出します。私はもうちょっと長生きしなきゃと思ってます。まだ農業をしていてひとりで米を作っています。子どもや孫に食べさせようと一生懸命です。おかげさまで身体はどこも悪くありません。足腰も大丈夫です」
孫の活躍が、フキさんの心の支えになっているようだ。
海蔵亮太本人に歌について聞いた。彼も、歌詞のように祖父がフキさんの名前を忘れなかったことを知っていた。
「おじいちゃんが施設に入ってからも、おばあちゃんが洗濯物を取りに行ってはケンカして、帰ってきて、また行ったらケンカしての繰り返し。それを見ていて大変そうだなと思っていましたが、イキイキしているようにも見えて、元気そうだなと(笑)」
亡くなる1年ほど前ぐらいから、祖父は海蔵のことが誰なのかわからなくなっていた。
「病院内を歩くときもフラフラとしていて、昔のおじいちゃんではなかったですね。会って私が“亮太だよ”と言うと、涙を流してくれたこともありました。亮太という名前には反応するのですが、目の前にいる私を見ても誰だかわからない感じでしたね」
すでに専門のヘルパーさんしか介助できない状況で、海蔵はひたすら話しかけるしかなかった。
「おじいちゃんは話せないので、一方的に話しかけ、少しでも元気になれるようにと。おじいちゃんは農家をやっていたから屈強で筋骨隆々でしたが、骨と皮だけになっていました。その姿を見て泣いている父や叔父、叔母さんを見ていると、やっぱり介護ってすごく大変なことなんだなと思いましたね。壮絶な場を目の当たりにできたことは、本当によかったと思いました」
この経験が、『愛のカタチ』の歌唱に影響を与えた。
「ハッキリ言えることは、おじいちゃんのことがなければ、この曲をもっと“キレイ”に歌っていたと思うんです。でも、介護って美談では終わらない。おじいちゃんも最後は食べ物を自分で食べられなくて、胃瘻に管を通し、そこから栄養をとっていました。介護ってただ心温まるものではなく、壮絶なものだと理解ができて、いい意味でその経験が曲に反映されました」
レコーディング時と今では、歌い方が変わってきている。
「表現の仕方は変わっていますね。自分の親の介護をするときには、より主観的になるのでしょうね。今は少し離れているぶん、施設で働く人や家族を客観視していますから。デビュー曲ですが、自分の年とともに変わっていく歌なんだなと思います
『愛のカタチ』は、20代の新人が歌うには、あまりにも重い内容だった。
「'16年のカラオケ世界大会で歌ったときは、正直なところ歌詞が理解できていたとはいえません。ただ、この曲を歌ったときに会場の雰囲気が違ったんですよ。聴き入ってもらっていることが伝わってきました。この曲がなかったら予選敗退だったと思います。歌詞の内容や、作者がどういう思いで作ったのかを深く考えるようになり、この曲をずっと歌いたいと思うようになりました。おじいちゃんのことがあって、この曲との距離感が、どんどん縮まっていくように感じられましたね」
“ホスピタルプリンス”の献身
海蔵は、子どものころから歌が好きだった。しかし、子どもらしい童謡とはあまり縁がなかったという。
「いちばん上の姉と8つ違いだったせいか、当時の子どもに人気の『だんご3兄弟』は聴きませんでした。姉と一緒にMISIAやドリカムを聴いて、それを覚える感覚でした。学校での音楽の授業は苦手でしたね。合唱ってみんなでキレイに歌わなきゃいけないんです。私は癖が強い人の曲ばかり歌ってきたから、わざとテンポを変えたりビブラートをかけたりしちゃうんです。すると先生に怒られるんですよね(笑)」
特に好きだったのは槇原敬之だった。
「ほかの歌手の歌詞は意味がわからなかったんですが、槇原さんのだけはなんとなくわかったんです。小学生がわかるんだから、槇原さんの歌の力はすごいと思いました。ファンタジーというか、絵本を読んでいるみたいだったんです。洋楽ではサム・スミス。この2人に共通しているのは“寄り添うような声”ですね。攻撃的ではなくて、気づいたら隣に寄り添っているみたいな、そんな声に憧れます」
海蔵は“ホスピタル・プリンス”とも呼ばれている。病院や介護施設などで歌うことが多いからだ。
「おじいちゃんが亡くなったことがきっかけとなり、昨年の夏から病院や施設でライブをやらせてもらうようになりました。病気と闘う人だけじゃなく、支える家族や職員さんたちがいます。こういう場所で歌うと、自分のおじいちゃんにはできなかったことが、こういった形で別の人たちに対してやれているのかなと思いますね。昨年の夏に、おじいちゃんがいた病院でもライブをしたんですよ。その前におじいちゃんの墓へ行って、歌ったんです。でも、お墓の前ではなく、生きているときに歌いたかったなと思いましたね」
フキさんは海蔵がテレビに映ることがうれしくてならず、いつかは年末の紅白に出てほしいと願っている。
「テレビや新聞で僕の記事が出ると、僕とおじいちゃんのツーショット写真が使われるので、おばあちゃんはそれがうれしいんですよ。この写真は亡くなる1年ほど前に病院で撮りました。紅白にはもちろん出たいと思いますが、僕の根っこにあるのは家族と一緒に行ったカラオケなんです。ただ歌うのが楽しくて、両親やきょうだいが“すごいね、こんな曲を歌えるんだね”とほめてくれたときのうれしいという気持ちが、歌いたいと思う原点ですね」
だからこそ、『愛のカタチ』を多くの人に聴いてもらいたいと願っている。
「みなさんが優しい気持ちになってくれたらうれしいですね。介護って大変ですが、みなさんが優しいんです。ヘルパーさんは認知症になった人たちに対してリスペクトがあって、サポートをしたいという方が多いんです。家族もそうですが、それ以外の方も一緒に支えてくれる。みなさんが感謝の気持ち、優しい気持ちになってくれれば、ハッピーな世の中になるんじゃないかなと思います」