大阪・心斎橋の繁華街、19時に開く精神科診療所がある。患者の7割は女性。「イケイケ」「チャラい」「居酒屋の店員みたい」と評判はどれも精神科の医師とは思えぬものだが、本人はまんざらでもないご様子。取材陣のまじめな質問も茶化すように笑い飛ばしてしまう。しかし、次第に見えてきたのは、研修医時代の大病をバネに「精神科のハードルを下げたい」と身を削りながら一心不乱に患者と向き合う、突き抜けた大志だった。

お酒を飲むのも、美味しいものを食べるのも大好きな片上さん。スタッフとの忘年会も年々グレードアップしているという 撮影/渡邉智裕

 大阪・心斎橋のアメリカ村。古着屋やスイーツ店、ライブハウスなどが軒を連ね、昼夜を問わず若者が集う。

 アメリカ村の中心地にほど近い、レトロな雑居ビルの3階。迷路のように入り組んだ廊下の突き当たりに、夜だけ開く精神科診療所の「アウルクリニック」はある。

診察は平日の19時から23時まで

「どんな感じですか、調子は? 前回は“死ぬ、死ぬ”言うてましたね」

 院長で精神科医の片上徹也さん(35)がくだけた口調で聞くと、吉田真美さん(仮名)は落ち着いて答える。

「今日は元気です。仕事が忙しくて、それどころじゃない感じで。昨日帰ったら、深夜2時だったんですよー」

「マジで? 女子やのに」

「会社から家まで自転車で爆走しているので大丈夫です」

「でも、2時だと睡眠時間が大丈夫やないな(笑)」

 吉田さんは20代でIT企業に勤務している。気分の波が激しく、落ち込むとご飯も食べない、眠らないなど、何もしなくなり、ますます落ち込む悪循環に陥る。

 本人いわく「小学生のころから自分より周りの人のほうがすごいと感じてしまい、自分はいなくてもいいと思うと、死にたいという感覚につながっちゃう。死にたいに至るハードルが低い」とのこと。

「この1週間、10点満点でいったら、平均して何点取れそうですか?」

 片上さんの問いに、吉田さんは考えながら返答する。

「7くらいかな。月、火、水曜くらいは被害妄想みたいになっちゃって、“自分が死んだら”みたいなことを毎日考えて、本当に疲れちゃって……。今は(波の)上なので、なんか元気すぎて、むしろいい感じです」

「でも上がったら、ドーンと下がると思うので、7割ぐらいで、それ以上、上がらへんようにしないと」

「はい。お薬を飲み忘れないようにします」

 片上さんがアウルクリニックを開いたのは5年半前だ。診察は平日の19時から23時まで(火曜日を除く)。大阪市内でも夜間にやっている精神科はほとんどなく、これまで診たのは4000人以上。内科と皮膚科も併設しているが、8割は精神科の患者だ。

 夜の精神科診療所を開くのに、あえてアクセスのいい繁華街を選んだのは、気軽に来てほしいからだ。

「普通の生活をしている人が、仕事や学校帰りに、フラッと入って、パッと何でも相談できたら、よくありません?」

 軽い調子で口にするが、片上さんは朝9時から17時までは兵庫県加古川市にある精神科専門病院で常勤の医師として働いている。症状の重い認知症や統合失調症などの入院患者を担当。特急電車で1時間半かけて大阪に戻り、夕飯も食べずにクリニックに駆け込む毎日だ。

「ワーカホリックですよ!」

 思わず突っ込みを入れると、うれしそうにぼける。

「おー、ヤバいじゃないですか。助けてください(笑)」

先生の魅力は「話しやすい」

 実は、片上さんは27歳のとき発症した、くも膜下出血の後遺症で左半身が麻痺している。左足を引きずるようにして歩くことはできるが、左手はまったく使えない。

 そんなハンディを感じさせない、ノリのよさと明るさが、片上さんの持ち味だ。

 19時に開院すると予約の患者が次々と訪れる。クリニックは約6坪と狭い。奥にある診察室までの細長い通路に椅子が数脚置かれ、座りきれない人は外の廊下で待っている。風邪やインフルエンザで混み合う内科などと変わらない開放的な雰囲気だ。

 待っている患者に「片上先生の魅力は?」と尋ねると、「話しやすい」という声が圧倒的に多かった。

『アウルクリニック』院長 片上徹也さん 撮影/渡邉智裕

 冒頭の吉田さんも、これまで別の病院に通っていたが、「2か所ともお医者さんがカッチリしていて冷たい印象があった」と訴える。

「メンタル的に困っているときには、行くだけで緊張しちゃって。でも、ここの先生はかたくなくて、ふわふわっとしゃべりません? もともとそういう方だというのもあるんでしょうが、たぶんポリシーとして、フレンドリーに接しようとしてくださっている感じがします」

 会社員の清水里奈さん(39=仮名)は、親子3代でアウルクリニックに通っている。最初は2年半前、自分が仕事のトラブルでうつ状態になったのがきっかけだ。

「しんどかったので、ネットで検索して、いろいろ電話したけど、どこも何週間待ちとかで、ここしか受け入れてもらえなくて。病院って、どうしても抵抗があるけど、ここの先生はフレンドリーな感じで、親身になって聞いてくれるのがいいですね」

 清水さん自身の症状は仕事を替えたこともあり、だいぶよくなったが、この日は高校2年生の娘を診察に連れてきた。青白い顔をした娘は、ずっとうつむき加減のまま黙っている。

「娘に関しては“知的な発育の問題ちゃうかなー”と先生はすぐ見抜いて、調べたらホンマに言うてたとおりでした。それが原因のひとつというか、やっぱり学校で周りの子とどう接していいかわからんくなって、それでしんどくなって精神面がやられたんですね。

 母はここの内科で更年期とか診てもらっています。病院が好きではないけど、私とやったら来ると言うので。夜、私の仕事が終わってから、2人を連れて来られるのがいい。そこは大っきいですね」

 片上さんが夜間の、しかも精神科診療所を作りたいと考え始めたのは、まだ高校生のときだ。和田秀樹さんなど著名な精神科医の本を読んだのがきっかけだった。

「勉強できひん自分に悩んだんちゃいますか(笑)。両親が医者だから、常に選択肢としてはあったし、憧れもあったけど、ホンマに学年トップやないと医学部は無理なんで。医者になりたいとは、よう言わんかったです。

 めっちゃ負けず嫌いだったから、悔しかったですよ。特に思春期は大学受験という大きな転換期を控えて、不安や抑うつがすっごく大っきかったと思います

居酒屋で出会ったお兄さんみたい

 当時、自分も精神科に行ってみようとは思わなかったのかと聞いてみた。

「微塵(みじん)も思わんかったけど……、もし通学路にあって、フラッと行けるなら、寄ってもよかったかもしれんですね。そういう意味では、少しは理想に近づけているんじゃないですか。ここは」

 患者の平均年齢は30歳前後で7割は女性だ。昼間は忙しい会社員、店員、学生などが中心だが、繁華街という場所柄、水商売の女性も目立つという。共通しているのは「生きづらい」「誰にも相談できない」という心の闇を抱えていることだ。

 片上さんが昨年夏に出版した著書『夜しか開かない精神科診療所』には、これまで診た患者たちの事例が紹介されている。

 ストレスから盗撮事件を起こした大企業の課長。同僚からのいじめで、うつ病になった独身女性。リストカットを繰り返す風俗嬢。適応障害を発症したバイセクシャルの既婚男性。過食嘔吐がやめられずガリガリにやせた醜形恐怖症の女性。相次いで、うつ病になった有名企業勤務のエリート夫婦……。

「“どうしてこんなになるまで放っておいたの?”と言わずにいられないほど悪化してから来る方もいますが、心の病も身体の病と一緒で、治療に取りかかるのが早ければ早いほど、治りやすい。“何か変だな。調子が悪いな”と自覚した時点で、我慢しないで適切な治療を受けていれば、重症化して長期入院になったりしないですむんです

クリニックは狭いので隣にもう1室借りて、臨床心理士のカウンセリングを行っている 撮影/渡邉智裕

 初診では時間をかけて、現在の体調だけでなく生育歴や家庭環境まで聞き、そうなった原因を探す。

 2回目以降の診察(再診)では、前回の診察からの様子を聞いて薬の調整をしたり、臨床心理士と連携してカウンセリングを行い問題解決の道を探っていく。

 評判が高まるにつれ、ほかの病院から移ってくる患者も増えてきた。

 吐き気と下痢が止まらなくなったという高橋百合子さん(52=仮名)もその1人だ。

 内科に行くとストレスだろうと診断され整腸剤を出されたが治らない。違う内科にも行ったが同じだった。困った末に検索して、ここを見つけた。

「きっかけは何かあった?」

 片上さんに聞かれ、彼氏と距離を置いたこと、母の死を受け入れられていないことなどを話すと、片上さんはこう言った。

「わかった。じゃあ、3か月仕事を休もう」

 フルタイムで会社勤めをしている高橋さん。3か月という長さにビックリしたが、休んでリセットしたほうがいいと説明されて納得した。

「それまでは、お医者さんに対しても自分のプライベートな話は言いたくなかったんです。でも、自分が心を開いて話をしなくちゃいけないと思って片上先生に話すようになったら、すぐにわかってくださって対応がすごく早かったんです。先生を信頼して、思い切って休んでよかったなと思います」

 休職後、仕事にはすんなり復帰できたが、眠れないため睡眠導入剤を処方してもらいつつ、臨床心理士のカウンセリングを受けている。

 片上さんは来るもの拒まず。患者はもちろん、噂を聞いたテレビや新聞などメディアが取材に来ても、ていねいに応対している。アウルクリニックの存在を多くの人に知ってもらい、精神科に来るハードルを少しでも低くしたいと考えているからだ。

「この間、風俗嬢が僕のことを、“先生っていうより、居酒屋で出会ったお兄さんみたい”と言っていて、まあまあうれしかったなぁ」

 “医者っぽくない”と言われて喜ぶ片上さん。型破りな精神科医は、どうやって誕生したのか─。

超チャラい少年が医学部へ

 片上さんは1984年、神戸市で生まれ育った。父はがん専門医、母は内科医、公衆衛生医を経て、現在はリハビリテーション病院で、内科・リハビリテーション科の勤務医として働いている。9歳下の弟も医者になった。

 現在、宝塚市立病院で副院長として勤める父の片上信之さん(65)に、幼いころの息子の様子を尋ねると、いきなり笑いだした。

ハハハハ。まあ、ヤンチャな腕白坊主ですね。活発で親の目の届かないところで、悪さをすることもあったようです。人に迷惑をかけないように、しつけは厳しくしようと思って、寝るときによく家内と交互に、童話を読んで聞かせていました。人を助けなあかんとか、世の中のために頑張ろうとか、教訓的なことをやさしく教える日本昔話とかです。

 あとは、まったく人見知りをしなくてね。誰とでも話す反面、寂しがり屋のところがありました」

 幼いころから1度も「医者になれ」と言ったことはないが、自分たちが働く姿は見せていたそうだ。

 両親がアメリカのハーバード大学に2年間留学したとき、片上さんはまだ保育園児だったが、向こうでの光景はよく覚えているという。

「ラボ(研究室)に遊びに行くとバーッと並んだ机の上に顕微鏡があって、無機質でカッコよかったですね。医者はいい仕事やなとは思っていましたよ。自信ありそうだったり、ロジカルにしゃべるところとか」

 帰国して、小学生になるとランドセルを背負ったまま公園に行き、よくサッカーをした。友達と些細なことで殴り合いのケンカをするなど、ガキ大将でもあった。

 中学からは中高一貫の進学校の六甲学院に進んだ。地元にあるカトリック系の男子校で、校則も厳しい。

「この間、同窓会があって、“ご迷惑をおかけしました”と謝ってきました(笑)。授業を妨害して騒いだりしていたので、うるさかったん違いますか」

 走るのが速く、中学まではサッカー部だったが、高校ではテニス部に入った。

「テニスのほうがモテるかなと思って。そういえば、高校生のときコーチの女性とも、その友達とも付き合ったことあるな。超チャラい。ハハハハハ」

大学時代に所属していたサーフィンサークルの合宿にて

 精神科医に興味を持ったのもこのころだ。だが学力が足りず、悩んだ末に選んだのは建築家への道。幼いころはレゴブロックで遊んだり、授業中に建物の立体図を描いたりしており、ランドスケープデザインにも惹かれていた。

 現役で東京大学理科一類を受験したが、不合格。浪人時代に東大の受験技法を書いた本を読んで衝撃を受けた。寝る間も惜しんで猛勉強をして成績がグンと伸びた。翌年のセンター試験で「やっぱ、医学部行けるな」と確信。奈良県立医科大学に合格した。

くも膜下出血で10時間の手術

 大学では体育会のテニス部と大阪大学のサーフィンのサークルに所属。思う存分、学生生活を謳歌した。

「部活あるし、金ないし、テストあるし……、でも、遊び倒してましたね(笑)」

 医学部を卒業後は、大阪府済生会野江病院で研修医として働いた。

 突然、人生が暗転したのは、2012年3月。研修医修了を間近に控え、友人と鍋会をしていて、頭をバットで殴打されたような激痛に襲われた。バタンと倒れ、5分後に意識が戻った。

「痛い、痛い、痛い! 救急車呼んで!」

 一緒にいたサークルの女性はパニックになって叫ぶ。

「救急車って何?」

 横にいた循環器内科の研修医が「大丈夫や」と言いながら気道確保してくれた。

 神戸市立医療センター中央市民病院に搬送され、10時間の大手術を受けた。脳動脈瘤の破裂によるくも膜下出血で、発症すると3割が死亡する。再出血すると、さらに半数が死亡する怖い病気で、片上さんも入院中に再出血して死の淵まで行った。

神戸リハビリテーション病院に入院していたころ

「幸い、NHKの番組『プロフェッショナル』でも紹介された脳神経外科医の坂井信幸先生が当時は親父の同僚で、夜中に手術してくださったんです。これで、僕がいつかプロフェッショナルに出てバトンをつなげたら、めっちゃカッコよくないですか(笑)」

 手術が終わり病室で目が覚めると、左半身がまったく動かない。感覚もないし、ベッドで左足を立てるとストンと落ちる─。

「ああ、終わったな」

 一生車椅子だと覚悟した片上さんは、そばにいた母親に弱音を吐いた。

「やりたいことやったから、もう、ええねん」

 母はこう励ましてくれた。

「あんたは運のいい子やから、いける」

 大学時代のサーフィンのサークルの先輩で、現在は淀川キリスト教病院救急科副部長の夏川知輝さん(44)は見舞いに行き、あまりの変わりように目を疑ったそうだ。

「発症前の徹っちゃんはテニスもしーの、僕らと波乗りもしーの、もう毎日忙しい、イケイケの元気すぎる子やったんですよ。それが、魂が抜けたかのように放心して、病室にぽつーんと座っていて。1時間くらい病室にいましたが、徹っちゃんが発した言葉は“はい、ああ”くらいでしたから」

 意気消沈ぶりに主治医も心配した。以前、同じような状態の若い患者が自殺してしまったからだ。だが、父の信之さんは「うちの息子は大丈夫」と返答したという。

「私自身、あまり悲観的にならない、楽観的なタイプですけど、息子もそんな性格を受け継いでいると思います。一時は落ち込んだけど、本人もここがいちばんの頑張り時やと思って耐え抜いたんでしょう。病気になったときは、回復しようというモチベーションがいちばん大事なので」

自分の歩く姿を「ゾンビみたい」

 片上さんが立ち直るのに役立ったのは、研修医時代に精神科の指導医に教わった認知行動療法だった。

「落ち込んでも、常にその反対の可能性を考えるんです。僕の場合、人生終わったなと思ったけど、これでたぶん生活保護で暮らせる。楽やなーと(笑)。そう思わなあかんって、言い聞かせてた感じですかね」

 入院生活は8か月に及んだ。退院後もリハビリを続けて歩けるようにはなったが、左半身は麻痺したままで動きは遅い。身体の左側で起こっていることが瞬時に理解できない注意障がいもある。

神戸市立医療センター中央市民病院にサプライズでお見舞いにきた大学時代の親友と

 日々の生活でも、左に少し重心をかけて椅子から立ち上がる、動かない左手を伸ばすなど、こまめにリハビリ。休みの日にはジムで筋トレをしている。

 足を引きずるように歩く姿を自ら「ゾンビみたい」と笑い飛ばすほど、突き抜けて明るい片上さん。

 5年前にはホノルルマラソンに挑戦。走ることはできないが、見事に13時間かかって“完歩”した。

 倒れた1年半後に非常勤の医師として復帰。いくつかの精神科病院で働きながら、夜の診療所開設に向けて準備を始めた。

「数年早いんちゃうか」

 両親はそろって反対した。まだ29歳だった息子の人生経験の不足を心配したのだが、忠告は聞かず勝手に動き始めてしまったと、父の信之さんは苦笑する。

 片上さんは心斎橋に掘り出し物の賃貸物件を見つけると、大学時代のサークルの先輩で不動産・リフォーム業に携わる圓藤嘉昭さん(38)に連絡を入れた。圓藤さんは知り合いのリフォーム会社を紹介し、何かあれば自分が間に入れるようにした。

「片上君は昔からノリのいいところがあるので、深く考えずに勢いで決めてしまったら危ないなと思って。横について見てあげたいというお兄ちゃん心です。何でも臆さずチャレンジするタイプなので、応援したくなるんですよ」

 診療所の名前のアウル(OWL)はフクロウという意味だ。夜行性のフクロウは世界各国で「森の守り神」として珍重されている。診療所が「夜の守り神」になればという思いを込めて、アウルクリニックと名づけた。

クリニックは狭いので隣にもう1室借りて、臨床心理士のカウンセリングを行っている 撮影/渡邉智裕

 クリニックの入り口にフクロウのイラストの入った看板がある。これには裏話があると圓藤さんが教えてくれた。

「彼には多少、あつかましいところもあって(笑)。設計士さんに夜の診療所を開く意義を説明して、フクロウのイラストを描いてくださいと無理にお願いしたんです。でも、そこが彼の人柄なんでしょうね。設計士さんはイラストレーターじゃないのに、ノリノリで20個くらい図案を描いてくれて、そのなかから選んだんですよ」

心斎橋の守り神になりたい

 2014年7月30日。30歳の誕生日に片上さんはアウルクリニックを開院した。

 ところが、まるで患者が来ない……。

「1年間くらいは患者が1人も来ないボウズの日がほとんどで、“近くにいます。電話ください”と携帯番号をドアに貼って、毎日、飲みに行ってました(笑)。昼間働いてたから、食べていくのにはまったく困ってなかったし。経済的な心配を一切せんでいいってのは、遊びのノリでできる本質でしょうね」

 現在、クリニックで心理部主任を務める臨床心理士の佐々木蒋人さん(32)は開院当初の苦労を知っている。当時は大学院生で、よく手伝いに来ていた。

 赤字続きでも片上さんは落ち込んだりせず、界隈のいろいろな店でご飯を食べつつ、パンフレットを置いてもらいクリニックを宣伝。「心斎橋の守り神になりたい」と口にしていたのを、佐々木さんは覚えている。

「最初の2、3年は看護師もいなくて注射も先生がしていたんです。でも、片手しか使えないので、患者さんもエッという顔をするし、ヒヤヒヤしたときもあります。5年でここまで大きくなるとは想像してませんでした」

 開院後3年で黒字化した。今は毎晩15~20人の患者が来院する。スタッフは臨床心理士8人、看護師5人、事務員4人。みんな昼間は別な仕事をしており、曜日によって顔ぶれが変わる。

 佐々木さんによると、片上さんは「上手に周囲と連携しながら、みんなで進んでいきましょう」というリーダー。

「先生を見ていると怖いもの知らずで、思いつきで行動しているような気がしなくはないけど(笑)。患者さんの受け入れを拒否しないとか、人の役に立ちたいという奉仕の精神が軸にあるのはわかるので、みんなついていくのだと思います」

 臨床心理士の好井正範さん(29)は僧侶でもある変わり種だ。4年前に誘われてアウルクリニックで働き始めたとき、片上さんに「学祭のたこ焼き屋のようなクリニックにしたい」と言われて驚いたそうだ。

「スタッフも働きやすい場にしたいという意味だと思います。普通の病院はドクターがトップで、例えば、僕たちがやる心理検査で別な結果が出ても、先生の診断が絶対です。でも、片上先生はわれわれを並列に扱うというか、“この結果はどう見る?”と心理士の意見を聞いてくださる。そんなドクターはなかなかいないですよ」

 これまで辞めたスタッフがいないのも、片上さんのひそかな自慢だ。

 患者にもスタッフにも慕われる片上さんだが、大病を乗り超えたことで医師として何か変化した面もあるのか。片上さんの答えは慎重だった。

「なるべく患者の気持ちをわかってあげようという面ではプラスになっているかもしれないけど、自分のほうがしんどいはずやという考え方をしてしまったりもするので、一概には言われへんです」

 それでも、周囲の人は変化を感じ取っているようだ。前出の夏川さんは、先輩医師から見た違いをこう語る。

「僕は後輩やから、かわいいなと思っていましたが、病気になる前の徹っちゃんは、ひと言でいうと、ホンマ、いけすかないお医者さんやったと思います(笑)。優秀やったけど、自信満々なんですよ。“俺、医者やから”みたいな感じで。

 それが病気をして、普通のことをするのにも苦労する経験をするなかで、そんな、いけすかん部分が消えたなーと。やっと普通の人になった(笑)。まあ、今でも調子乗りやなあとは思いますが、しんどいのとかをよくよく理解できる、患者さんの身になって考えるお医者さんになったなと思いますよ」

 だが、片上さんの働き方は度を越えている。その点は夏川さんも、「常勤で働きながら自分のクリニックをやるなんて、障がいがない医師でも二の足を踏む」と指摘する。

 実は、それだけではない。土曜日には訪問診療も行っている。認知症や統合失調症の高齢者や生活保護受給者などの家を訪ねたり、グループホームに出向いて診察したり。

妻にだけ見せる素顔

動かない左手のかわりに歯を使って、ファスナーを上げたり紐を結んだり。パソコンを打つのは遅いため、右手だけで早打ちできるiPhoneをメインに使うなど、工夫をしている 撮影/渡邉智裕

なぜ、そこまで身を削って働くのか。

「えー、勉強になるし、面白いとしか言いようがないなぁ。え、言葉が足りない? じゃあ、面白いし、もうかるから(笑)」

 とぼけた返答に、ストレートに切り込んでみた。

「人の役に立ちたいという強い思いですか?」

「きっかけはそうかな。イエスさんも、人の役に立つと自分が楽になるって教えているじゃないですか。それと、例えば、あなたもいろいろ悩みはあるでしょうが、仕事をしている今この瞬間はシャキッとして、悩みは忘れているでしょう? 僕も同じですよ。

 今でも、両手を使える人がうらやましいなとか、こんなはずじゃなかったのにとか、ふとした瞬間に思ってしまいます。でも、そればっか考えて、くよくよしていてもしゃあないので、できることに目を向けていこうかと」

 ただ、このままのペースで続けられるのは「30代の間かな」と、片上さんも無理をしていることは認める。

 夜23時に診察を終えると大阪市内の自宅にタクシーで帰宅。1年前に結婚した妻の美保子さん(35)が作った夕食を家で食べる。すぐ寝ようとしても、疲れすぎて寝つけない日もあると美保子さんは心配する。

「たまーに、朝、“仕事に行きたくない”と子どもみたいにグズることがあります(笑)。でもまあ、気にせず家から出すと、意外と大丈夫だったと笑いながら帰ってくるんですけど、本人も精神的に結構きついんだろうなとは、日々感じますね。

 かといって、もし夕方で仕事が終わって帰ってきても何かせずにはいられないかも。今でも次の日がお休みだと、夜中の2時に公園でキャッチボールをしようとか言い出す人なので(笑)」

 ある夜、寝る前に夫から話を聞いてほしいと突然切り出された。何年も前から通院していた年配の男性がよくなり、今日で治療が終了した。「本当にクリニックをやっていてよかった」と改まった口調で話す夫の姿に、「人を助けたい」という強い気持ちがあるのを感じたと美保子さんは言う。

「主人は人に頼られるのも好きなんだと思います。自分がいなくなったらみんな困るよな、患者さんのためにこの時間は空けておかないととか、よく言ってますから」

 片上さんに将来に向けてのビジョンを聞くと、「大阪府知事になりたい。文部科学大臣でもいい」と突拍子もない答えが返ってきた。

「別に政治家になりたいわけじゃなくて、教育システムを変えたいんです。リストカットをしてしまう人とかは、自分に自信がなくて自己肯定感が低いことが多い。うちに来る患者の3、4割はそんな感じがします。経済的に困窮していて母子関係も悪かったりすると、家族システムだけに任せるのは厳しい。そういう人を万単位で救うのは、教育しかないと思います。

 橋下(徹元大阪府知事)さんの二番煎じくらいのことができたら、無茶苦茶おもろいですよ。大阪のキー局は全部出たので、次は東京のテレビ局に呼んでもらって、知名度を上げないと!

 すぐ茶化して笑いにまぶすが、実は誰より負けず嫌いでブレない軸を持つ片上さん。周りの人をどんどん巻き込む愛される人柄と抜群の行動力で、次は何をやらかしてくれるのか─。


取材・文/萩原絹代(はぎわらきぬよ)大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90 年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95 年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。