1年半前、認知症を公表した、俳優の芦屋小雁さん。「要介護4」の認定を受けたいまもなお、トークショーなどで元気に活躍しています。マネージャーでもある、妻・寛子さんとの二人三脚の暮らしぶりをうかがいました。
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冬の京都で行方不明、死さえ覚悟した
2017年に、血管性認知症とアルツハイマー型認知症の合併症と診断された芦屋小雁さん。その症状がはっきり表れたのは、同年秋の舞台公演のときでした。「ここどこや? 何してるのかわからへん」。
本番の舞台袖で小雁さんの言葉を聞いて、寛子さんは「心臓が口から飛び出しそうだった」と言います。
「とっさに出だしのセリフを耳元でささやいて舞台に出したら、アドリブを交えて、ちゃんとお芝居はしはるんですよ。でも、 “もうお仕事は受けられない”と思いました」
翌年2月には、寛子さんが仕事に出かけたあとに、小雁さんが30時間以上も行方不明になるという事件が起こります。寒い京都の冬のひとり外出です。死さえ覚悟したと言います。
寛子さんは仕事を減らし、小雁さんと家にこもりがちになりました。同時に、心配がストレスになって心にたまるいっぽうです。けれど、「そのころは、誰に相談したらいいかわからなくて。『芦屋小雁ボケる!』なんてネットに書かれたらどうしよう、とか。考えるのは悪いことばかり」
転機になったのは、あるテレビ局の情報バラエティー番組から小雁さんへの出演依頼が来たときでした。疲れがピークに達していた寛子さんは、思わず「もうダメなんですわ。認知症になってしもたから!」。投げ捨てるように言葉を放ちました。
「死ぬまで仕事をしていたい!」
寛子さんがその番組への出演を決めたのはスタッフの真摯(しんし)な対応です。
オファーは、小雁さんの元気な姿を面白おかしくテレビで見せてほしい、という内容でした。でも「もう元気じゃない!」。悔しさと苦悩が交じった寛子さんの感情に、番組は内容をあらため、『壮絶な介護の実態、介護とともに生きる』をテーマに、認知症を正面からとらえてくれました。
寛子さんは、構成のために、細かいことまでたびたびインタビューされます。カメラを前に、場面を変えて同じ言葉を繰り返します。今までのことを口に出して何度も何度も話すうちに、心が整理されていきました。1回目より2回目、2回目より3回目と、自分の中にかかった霧がどんどんと晴れていき、やわらいでいくのを実感しました。
「これ、もしかしてカウンセリング? って思いました。告白したら気持ちが整理できて、余裕が生まれたんです」
すると寛子さんは、小雁さんのなかに宿る“願い”に気づきました。それは、認知症になっても変わらず、「死ぬまで『芦屋小雁』として仕事をしていたい!」ということ。
寛子さんはこの願いを“小雁スイッチ”と名づけました。本名の西部秀郎から、舞台役者・芦屋小雁へ切り替わる瞬間です。いまも、寛子さんが「一生、仕事をしてくれるのよね?」と問いかけると、小雁さんはパッと顔を輝かせて、「まだまだ仕事するで!」と、ハッキリ答えます。
現在は、認知症に関連するイベントなどのトークショーに寛子さんと二人で出演。夫婦漫才のような掛け合いが客席を笑いで包みます。「お客さんが反応してくれると、乗ってしゃべっていけますわ」と小雁さん。
とはいえ、仕事を持つ寛子さんが「要介護4」と認定された小雁さんを支えるには、万全の介護体制を整えておく必要があります。ケアマネージャーの市田勝彦さんに相談し、デイサービスや小規模多機能施設の利用も試しましたが、いずれも小雁さんには合わずに断念。「家で過ごしたい」という本人の意思を尊重して、在宅介護を選択しました。
寛子さんが仕事に出かけるときは、訪問介護員の西本豊さんに小雁さんの介護をお任せし、お昼ごはんの買い物などの外出にも同行してもらいます。道に迷ったときのために、GPS端末を組み込んだ靴も用意しました。「小雁さんが家を出たらスマホに連絡が来て、現在地を確認できるんです。これがあれば“在宅介護で大丈夫”と思えました」
喜んだ気持ちはいい種になって心に落ちてる
小雁さんが認知症と診断を受けてから約2年半。介護をする寛子さんは軽やかです。「主治医の先生が、『認知症の人は覚えてないことが多いから、介護する人は残念でしょう。でもね、喜んだ気持ちはいい種になって心に落ちてるんです』って。それがストンと腑(ふ)に落ちたんです」
目が不自由な人には「なんで見えないの?」と言わないのに、なぜ認知症の人には「なんで覚えてないの?」と言ってしまうのか。同じようにとらえよう──いまの寛子さんはそう考えます。だから小雁さんが「家がどこかわからへん」と言うと、「大丈夫。私がわかってるから」と声をかけます。
「主治医の先生には、『介護する人とされる人は“合わせ鏡”』と言われましたが、本当にそのとおりで。私が『大丈夫』と言えるようになったら、小雁さんの徘徊(はいかい)もなくなったんです」
外出時はいつも手をつなぎます。「なにより私はこの人が好きやから、お世話が全然苦じゃないんです」。そう寛子さんが言えば、「ケンカもせえへんしな」と小雁さん。今日も二人は温かな笑いのなかにいます。
【寛子さんの支えになった主治医の言葉】
・「喜んだ気持ちはいい種となって心に落ちている」
・「介護する人とされる人は、合わせ鏡。介護する人が笑っていれば、介護される人も笑う。でもそうでないと……」
・「認知症の人は、いつもエンジン全開の状態」
介護される側の気持ちに寄り添い、認知症理解の手がかりに。「認知症のイメージが変わった」と寛子さん。
【芦屋夫妻を支える『チーム小雁』三人衆 】
訪問介護員の西本さんは通称「買い物のお兄さん」。ケアマネージャーの市田さんは“小雁スイッチ”の発見者。寛子さんにとっての「お守り」を届けてくれた村上さんは介護用品のレンタル業者。
《PROFILE》
芦屋小雁さん ◎あしや・こがん。1933年、京都府生まれ。15歳で兄・芦屋雁之助と漫才を始め、舞台やテレビ、映画などで活躍する喜劇俳優に。神戸映画資料館名誉館長。
西部寛子さん ◎にしべ・ひろこ。1964年、京都府生まれ。1996年、芦屋小雁さんと結婚。マネージャーとして公私をともにする。「勇家寛子」の名で女優、時代劇や映画の所作指導も。
(隔月刊誌「NHKガッテン !」2020年3-4月号/総力29ページ巻頭特集『認知症が“怖くなくなる”予防と介護の新対策』より)