夫が無職になった。まだ小学生の息子2人を抱えて突然、家族の大黒柱になった不安から、夫にモラハラ的な発言を繰り返す自分がいた。ADHD、摂食障害、母との確執、不安障害……あらゆる生きづらさを抱えながら模索してきた自分との向き合い方、夫婦・家族のカタチとは――。
オーストラリア西部にある都市パース──。
インド洋に面した、人口200万人ほどの都市である。街の中心をスワンリバーという大きな川が流れ、日本でいえばちょうど博多のような都市といえばいいだろうか。
ここは「世界一美しく住みやすい街」と言われ、世界中から観光客が訪れる観光都市としても有名である。
季節は日本と真逆。しかし、日本との時差は1時間だ。
出稼ぎ母さんです(笑)
小島慶子さん(47)と夫(54)、そして長男(17)、次男(14)の4人家族は、この街の郊外にある中古住宅に2014年から住み始めて6年になる。
小島慶子さんといえば、TBSのアナウンサーとして15年勤務し、独立した。現在は、タレント、エッセイストとしても活躍する一方、社会問題、ジェンダー、ハラスメント、教育問題など多岐にわたるテーマで講演。また、自身が40代で軽度のADHD(発達障害)と診断されたことを公表し、その理解を広げる活動も行っている。
多忙を極める小島さんは、家族の拠点をオーストラリアに置き、自身は日本とパースを行ったり来たりして働いて、一家を経済的に支える。
「そう、出稼ぎ母さんです(笑)。だいたい5、6週間日本で働いて、パースには2週間、戻る感じですね」
日本では、東京にワンルームマンションを借りている。
「東京にいるときは、“ひとりブラック企業”ですね(笑)。テレビや講演などで飛び回り、部屋に戻るとずっと原稿を書いています。実際、昨日も寝てないんです」
1年の3分の1をパースで家族と過ごし、残りは東京へ単身赴任。パースの自宅でも、朝から晩までずっとダイニングテーブルのパソコンの前に座ったきり動かないという小島さん。夫はそんな妻を心配し夕方、海に連れ出したり、「せめてスーパーくらい一緒に行こう」と誘ってくれたりするという。
「妻は仕事に集中すると、食事や睡眠が後回しになります。本人も自覚していますが、ストレス管理も含め、スケジュールに身体を動かす時間を組み込んでほしいですね」
長男によれば、お母さんがいるときといないときでは、家の中の雰囲気が一変するという。
「母がいると家の中が賑やかになります。そして父の作る料理がちょっと豪華になります(笑)。僕と母は食事のときよく喋るのですが、父と弟はそんなにお喋りではないので、母がいないと食卓が静かです。母のいる賑やかな家の中も、母がいないのんびりした家の中もどっちも好きです」
夫がよく作るのは、親子丼、カレーライス、ラムチョップ、チキンのフライ、魚のホイル焼き、蕎麦など。地元のスーパーで、米、味噌、しょうゆ、酒、みりんなど基本的なものはそろう。そのほか、海苔やお麩、わかめなどは小島さんが見繕って日本から買ってくるのだという。
それにしても、家族で海外移住とは、なかなかできることではない。海外に仕事先があるならともかく、日本で収入を得ている小島さんは、いったいなぜ単身赴任をしてまで、海外移住を決断したのか。そこに至るには壮絶な葛藤の経緯があった。
“小島家の失敗作”とまで言われた
1972年7月、商社マンだった父親の仕事の関係で、赴任先のオーストラリアのパースで生まれ、3歳まで育った。両親と姉の4人家族だ。
1度、日本に戻ったが、小学1年生の9月には再びシンガポールへ赴任。転校先は当時世界最大の日本人学校だった。
「企業や役職という親のヒエラルキーがそのまま子ども社会のランクづけに反映されていました。新入りはいじめられた。転勤族ばかりで、長くいる子は牢名主のようにいばっていました(笑)」
住まいは、住宅地の社宅。ブーゲンビリアが咲き誇り、朝起きると熱帯の鳥の声が聞こえ、緑が眩しかった。
翌年には香港に再び転居し、小学3年生で日本へ。
帰国子女の小島さんは、学校では浮いた存在だったが、塾に通うようになってから居場所ができたように思えた。
そして中学受験を突破して学習院女子中・高等科に入学。
「そこには、自分よりはるかに勉強のできる子がたくさんいて、とんでもないお金持ちの子もいる。自分は井の中の蛙なんだと気づきました。友達との関係にも悩み、若い男性教師にも反抗する問題生徒でどんどん孤立していきました」
幼いときから自分の性格には自信が持てなかった。
「ひねくれ者とか育てにくいとか癇が強いとかわがままとか、ずっと言われ続けてきた。姉からは“小島家の失敗作”とまで言われました(笑)。だから、ずっと自分を責めてきました」
授業中に誰かのシャープペンをカチカチする音が聞こえると「誰だろう?」と思って気になってキョロキョロしたり、喋っている人が何かの小動物に似ていると気がつくと誰かに言いたくてしかたなくなったり……。周囲から“変な子”と煙たがられていた。
大人になってから、それはADHD(発達障害)の特徴だということがわかるのだが、この当時は、「なんて生きづらいんだろう」と思うほかなかった。
唯一の慰めは、姉の影響で聴き始めた深夜のラジオ。午後10時からの三宅裕司の『ヤングパラダイス』に始まり、『オールナイトニッポン』の1部を聴いて、2部は録音して通学途中に聴くという毎日を過ごした。
学校だけでなく、家でも浮いた存在だったという小島さん。特に母親の過干渉には長年、悩まされることになる。
中学3年のとき、9歳年上の姉は一流大卒の銀行マンと帝国ホテルで結婚式を挙げた。幸せを絵に描いたような結婚式で誇らしげだった母の顔が忘れられない。
「“私も姉みたいに幸せになれるかな”と思い、同時にプレッシャーも感じていました」
─ママはこれから私にいろいろな思い入れを注ぎ込むだろう。もう逃げ場はない─
両親は「結婚相手はちゃんとした会社に勤める人を選ばないとダメ」という考えだった。小島さん自身もその期待に応えなきゃいけないと、当時は思い込んでいた。
続く過食と嘔吐
高校に入ると、摂食障害に苦しんだ。原因は、母への拒絶と反抗心だったという。
「母の作る手料理は無償の愛だから、食べた者はそれに応えなければならない。自分の作る料理も含めて、いまだに女性の手料理に強い警戒感と抵抗を覚えるのは、料理は支配だという考えをぬぐいきれないからです」
気づけば、食事の量を極端に減らし、そんな自分の意志の強さに満足するようになっていた。
高3になるとその反動で食欲が抑えきれなくなり、夜中にキッチンで食べ物を噛んでは吐き出すことを繰り返し、我慢できずに飲み込むようになると、体重はみるみる増えていった。
やがて飲み込んだ食べ物を吐くようになり、就職試験中も、テレビに出るようになってからも過食嘔吐は続いた。
大学1年のとき、4年生の彼氏ができた。その彼は大手銀行に就職が決まっていたのだが、結局フラレてしまう。
「焦りましたよ。次に付き合う人は、格落ちした人ではいけない。一流じゃないといけない。そのためにはどうするか─なんて。そんな浅ましさがだんだん嫌になり、失恋の悔しさも相まって、大転換が起こった。それまでに刷り込まれていた母と姉の価値観を全部ひっくり返したんです」
男に頼らず、私はひとりで生きていく! 好きになった男の収入が少なければ、私が養えばいいんだ─と。
当初はNHKのドキュメンタリー番組を作る人になりたいと思っていたが、調べてみると、その道はかなり険しいことがわかった。
そして「男と同等に稼ぎ、勤め続ける正社員」を目指し、民放のアナウンサーになることを目標に定めたのだった。
1995年4月、努力のかいあり晴れてTBSに入社。アナウンサーとしての道を歩くことになる。
『日立 世界・ふしぎ発見!』のミステリーハンター、ラジオ番組のナビゲーターなどを務め、'99年に第36回ギャラクシー賞DJパーソナリティ部門賞を受賞するなど頭角を現していく。
無職の夫にモラハラ発言
28歳のときにテレビ制作会社のディレクターと結婚。30歳で長男を出産する。産休明けからは、『ニュースフロント』、『時事放談』などの報道番組を担当。33歳で次男を出産した後も、テレビとラジオで仕事を続けたが、'10年に退社し、独立した。局アナとしてやってみたかった仕事はひととおり経験し、今度は違う形で仕事をしてみたいと意気込んでいた。それも、夫が働いていたからこそ、できた決断だった。
ところが'13年春─。長年テレビ制作会社に勤務していた夫が「充電したい」と会社を辞めてしまう。長男が9歳、次男はまだ6歳だった。
「“なにぃ─!?”と思いましたよ。1度も想定したことのなかった事態でしたからね。ただ彼も1年間悩みに悩んで決めた結論でした。そんな人に“また就職しなよ”と言うのもかわいそうだった。私も会社を辞めていますからね」
それでも、小島さんはしばしパニックに陥ったという。
「収入ゼロ、肩書ゼロのまったくの丸腰になった夫。私、生まれて初めて無職になった男の人を見たんです。そんな男性をどうやって尊敬すればいいの? と思ってしまった。それまで私は男の価値は肩書や年収で決まるとは思ってなかったのに、心が素敵だからこの人と結婚してるんだと思っていたのに、実は収入や肩書に物すごく執着していた自分がいた。それがすごくショックでした」
突然、自分が大黒柱にならなきゃいけない、という不安から小島さんは夫を責めるようになっていた。
「あなたが仕事辞めたから、私はこんな不安な思いをしている。あなたにはお金を稼ぐ大変さはわかんないでしょう」
そんな言葉を何度もぶつけた。「誰のおかげで食べていけると思っているのよ!」という言葉まで出ることもあった。
「本当にモラハラ的な自分が出てきちゃって、びっくりしました。そんな発言自体、自分は絶対に許せないと思っていたし、そんなことを思うはずはないと信じていた。マスコミの世界で男性と対等に20年近く働いてきた中で、どこかにそういうエリートサラリーマンの傲りの意識があったんですね。目の前に丸腰の人間が出てきたときに、居丈高な“上から目線”の態度が自分に現れたのです」
そんな自分が嫌だった。しかし、家にいて家事に専念する夫の姿が目に入ると、つい攻撃的な言葉が口をついて出てきてしまう。どうにかして、厄介な自分の思い込みをはずす手段はないものか。
「考えた末に、収入も肩書もない彼を、そのまま尊敬できるような環境を作ればいいんだと思ったのです」
“教育移住”という手があった
夫が仕事を辞めたなら、そんな夫とだからこそできる新しいことを探せばいい。失ったものだけではなく、得たものもあるはずだ。環境を変えれば、もう1度、夫をリスペクトできるかもしれない。そのためには、家族で挑む大きな「課題」が必要だった。
'13年の夏、小島さん家族はハワイ旅行へ行った。
「夫の退職は子どもたちには伝えていませんでした。もう2度とみんなでハワイなんて贅沢はできないだろう。ようし、だったら思い出作りだと、共働きのつもりで組んでいた予算で、ハワイを満喫したんです」
帰国後、長男は「僕もっと英語が喋れるようになりたいな」と言い、次男は「僕ハワイみたいな海がきれいなところに住みたいな」と言った。
小島さんは当時、「長男の塾通いを見るのが忍びなかった」と吐露する。
「子どものころしかボーッとする特権はないのに、弁当を持って遅くまで受験勉強。せめてこの先、のびのびと育てる選択肢として私立に入れようかと思っていました。彼らには、世界中のどこでも生きていけるようになってほしかった。だから休みのたびに海外に語学研修に出せば、英語力もつくし、自然体験もできるだろう、と……」
そして、これからの息子たちの学費と海外への渡航費、東京での生活費を試算しながらふと気がついた。
「あれ? 同じお金をかけるなら、最初から海外に住めばいいんじゃないか、と思った。そうだ。“教育移住”という手があるじゃないか! そう思いついたんです」
実は小島さん、長男出産後の慣れない子育てによる心身の疲労に悩み、食事作りをやめていた。以来、食事は夫が作っている。夫はもともと家事全般ができる。なら家族の拠点を海外に置いて、自分は出稼ぎすればいい。それならどこにでも住める。
「“移住”という課題に家族全員でチャレンジすればいいと思った。そうすれば、私の夫に対する眼差しというのは、まったくの未知の領域でいかに生き延びるかという眼差しに変わるはずだとね。
そして、どうせ住むんだったら、私が生まれ育ったパースがいいと考えました。あそこなら広い空もきれいな海も、英語も多様な文化もある。よし、子どもたちをパースで育てようと思ったのです」
同年9月、小島さんは夫に「海外に移住するというのはどうだろう」と提案してみた。
すると、夫は「いいね」と目を輝かせたのだった。
33歳で発達障害の診断
そして11月、小島さん一家はパースを下見に行き、12月にはビザなどの手続きを始め、クリスマスには家財道具を船便で出し、小島家の「教育移住」計画は実行された。
移住の準備が進むなか、小島さんは医師からの診断により、自分が軽度のADHD(発達障害)であることを知った。
ADHD(Attention Deficit Hyperactivity Disorder)とは、不注意(集中力のなさ)、多動性(落ち着きのなさ)、衝動性(順番待ちができないなど)の3つの特性を中心とした発達障害のことを指す。
医師から診断されたときの最初の気持ちは「もっと早く知りたかった」だったと振り返る。
「自分の“生きづらさ”を長いこと悩み続けていました。だけど、診断によって根性や性格の問題ではなくて、先天性の脳の機能障害によって“普通の子”とは違う特徴があるのだと判明したのです」
ADHDは7歳までに発症し、幼稚園や学校生活のさまざまな場面で確認される。ADHDに関連した症状は短期間でなくならず、学業や友人関係の構築に困難を覚えることがあるといわれている。
小島さんがその年齢のころは、ADHDという概念自体が世間にまったく知られてなかった。
「結果として、それが生きづらさにつながって、摂食障害やら不安障害やらの要因になったのかもしれません」
小島さんは、33歳のときに不安障害を発症しパニック発作と自殺願望に襲われた。そのため長年治療を続けていた。
「最初は、不安障害の治療が目的だったので、カウンセリングも不安障害についてでした。だけど、私がいろんな困りごとがあるんだということを訴えたら、“これは発達障害かもしれないですね”と言われて、最終的に診断に至ったということですね」
例えば会議などで人が話していても、頭の中ではずーっと喋り続けている。油断すると、つい余計なことを口走ってしまう─。そんな困りごとだった。
「以前は、頭蓋骨を開けて脳みそをつかんで放り投げたくなったことがあった。脳みそがずっと頭の中で喋っているから、うるさくてしかたなかったんです」
友達との距離の取り方や、会話がうまくいかなかったのも、唐突な行動に出て顰蹙を買ってしまいがちだったのも、時間配分が苦手だったのも、自分の脳みその特徴の表れだったのだ。
「発達障害のある知人の話を聞いて合点がいったのですが、多くの人がオートマ運転だとしたら、私はマニュアル運転なんですね。ほかの人がパッとわかるものを、私はいちいちギアを入れながら理解していくという感覚」
ADHDを理解し丁寧に使ってほしい
その事実はウェブマガジンの連載で公表された。
「ADHD、発達障害という言葉の使い方が雑すぎるというのが気になっていたんですね。それを言いたくて書いただけ。ところがものすごく話題になって。逆にびっくりしちゃいました」
勝手に自己判断して「僕はADHDだ」と言ったり、素人の思い込みにすぎないのに「あの人はADHDだ」と言ったりすることが気になった。
「あとは発達障害が不吉なものみたいに“うちのクラスに発達障害の子がいてね”とか。“私の子どもが発達障害だったらどうしよう?”とか、そうなったら人生終わりみたいな感じで語る人がいるのも気がかりでした」
こんな使い方も気になるという。
「いや俺、キャラ立っているのはADHDだからなんだよね。協調性とか全然ないし、思ったことガンガン言っちゃうのもそのせい。マジであの項目、全部当てはまるし」
「テレビに出ているあの人もきっとそうだよ。おんなじ匂いがするんだよね」……
小島さんが苦笑する。
「何の根拠もなく、人とちょっと違っていて、才能があるというのをADHDと自称したり、他人を勝手に決めつける。正しいADHDの理解を歪めていると思います。ちゃんとADHDというものを知ったうえで、もっと丁寧に使ってほしいと思ったんです」
診断を下すのは精神科医であり、自己診断は禁物だ。
しかし、この障害は、ときに小島さんの仕事では役立つこともあるらしい。
「細かいことをいちいち考えているので、描写が的確で、物事を説明するときに要約したり詳細な説明にしたり自在に切り替えることができるんですね。長年の工夫の積み重ねと、診断をきっかけに得た知識と、周囲の理解のおかげでこの特徴は、今ではむしろ“ギフト”であると思えるようになったんです」
小島さんのマネージメント業務を担当する株式会社ビッグベンの羽地健さんが言う。
「実際、仕事で関わっていると、小島さんの文才、言語力、記憶力などすごいなあと思います。事前構成なしで、アドリブで90分話ができて、テーマにも沿っていて、講演を聴いた人の心をうつ、なんてめったにできませんよ」
小島さんは、自分もしくは「わが子が」発達障害であるかどうかの診断は、必ずしも必要ではないと言う。
「ポイントは、困っているかどうか。困ってなければそれほど気にする必要はない。もし困っているのであれば、その困りごとを解決するために助けが必要です。そのためには、ちゃんと専門家に相談して、診断が下ればお薬で助けてもらうこともできるし、診断が下らなかったとしても、どういう対策をすればいいかアドバイスをもらえます」
移住して6年、子どもたちとの時間
ADHDをはじめ社会問題に鋭く切り込むコメントでも注目を集める小島さん。
昨年、電車の中で泣く赤ちゃんに腹を立てた人の『泣きやませる努力が足りない』という母親を責めるツイートを見つけた際には、《生き物だから思い通りにならないのですよ。それよりあなたの幼稚な『ママは完璧』幻想を捨てる努力をしたらどうでしょうか》と異論を唱え、全国のママの共感を呼んだ。
移住して6年。パースで小島夫妻と親しくしている彫刻家の高橋祐子さんは、「母/慶子」の素顔を知る友人のひとりだ。
「まず何よりも子どもたちに話しかける際の声のトーン、スピード、そして向ける眼差しが大人と話すときとはだいぶ違います。子どもたちが学校の話や友人の話などをしているとき、慶子さんの子どもたちを見つめる目はとても穏やかな優しい母親の目で、“それからどうしたの?”“そのときどう思った?”など、話の先を促す慶子さんは、子どもたちが一緒だと見られる姿ですね」
ビーチで急に走り出した子どもたちを全力疾走で追いかける姿、高いところによじ登ってなかなか下りてこない次男を優しい声で厳しく諭す姿、子どもたちに話しかけすぎて「ママ少し黙って!」と言われ、少し恥ずかしそうにする姿などは普段見ることができない貴重な一面だという。
「嘘やごまかしのない人。勝ち気で頑固で涙もろくて心配性。でも子どもたちに向ける目はびっくりするほどやさしく、深い愛情を感じますね」
オーストラリアの新学期は、2月である。移住当時、小6と小3だった長男と次男は、高校3年と中学3年生になる。
「彼らは、慣れたというよりこちらの生活に溶け込んで、当たり前のように暮らしていますよ」と小島さんは笑う。
渡豪1年のときには公立校に併設されたIEC(Intensive English Centre)という英語を母国語としない子たちのコースに通わせた。
「非英語圏から転校してきた子どもたちだけを集めたコースで、1年間から1年半かけて、現地校に編入するのに必要なだけの『英語で勉強する勉強』を集中的に教えてくれるんです。そこに最初に入り、世界35か国から来た英語が喋れない子どもたちと一緒に勉強を始めたので、言葉のコンプレックスもなく育ちました」
長男にとって大きな変化は、英語を話せるようになったのはもちろん、17歳という大人の入り口に立ったことだ。
「人間関係などいろいろなことに自信がつきました。パースはフレンドリーな街。さまざまな文化や人種が共生していて、安全で住みやすい。来たばかりのときは、海に飛び込んで遊ぶなんて何が面白いんだろうと思っていましたが、今では積極的に自然と親しむようになりました」
移住後に見えた「エア離婚」
柔軟でスポンジのように物事を吸収できる子どもと違い、夫の苦労は並大抵のものではなかっただろう。小島さんも、その頑張りを称える。
「夫は、英語ができないところからだったので、大変だったと思います。でも、家事、育児の合間に一生懸命、勉強してずいぶん上手になりました。やはり日常的に触れている人のほうが早い。日常会話なんかは私よりも全然うまくなっています。リスニングもすごいし、学校とのやりとりもメールですから、すごい進化してますね。最近夫は、英語で新しい資格の勉強も始めました。その決断をリスペクトしています」
何より変化を感じるのは、家族の「絆」が深まったこと、と夫は言う。
「子どもの成長に合わせて、家族のチーム感が増したように思いますね。子どもなりに当初は大変なこともあったでしょうが、今はさまざまなバックグラウンドを持つ多くの友達に囲まれて日々過ごしています。親として“君たちすごいね! 尊敬するよ”と素直に思えることは大きな喜びですね」
子どもたちが成人するには、まだ時間がある。チームでありながら、個々が自立した存在であることを小島家は目指しているという。
「この生活の中で、妻が家計を支えるプレッシャーを吐露することはあります。ここ数年で私も再び仕事について考え始められるようになりました。このチーム“家族”でのオーストラリア生活経験を生かして、それぞれが自分の進むべき道を見つけられたらうれしいですね」
前出の友人・高橋さんも、小島家の変化をこう明かす。
「知り合った当初は、子どもたちも手のかかる年齢で、生活面や子どもの進路など相談事も多く、こちらが心配する部分もありました。今では彼らも成長し、家族全員がこの地に足をつけて生活しているように思えます。息子さんたちの『教育』のために移住し、『家族』のベクトルが『教育』一点に向いていたのが、彼らが自分自身で将来を決められる時期に差しかかり、次は親たちが、子育て後の自分たちの将来にベクトルを向けなければならないと思い始めていらっしゃるように感じます」
家族で「課題」を乗り越え、築いてきた信頼関係。だが、高橋さんの言葉どおり、小島さんはもう次のステージに目を向けていた。
「子育てのパートナーとしては最高の夫婦ですが、実は夫と私の間には、長男を出産した後に大きな亀裂が入るような出来事がありました。ずっと蓋をしていたんですが、子どもの手が離れてきたら、やっぱり思い出してつらくなってしまって。数年間話し合いを続けた結果、次男が大学に入るころになったら、1度関係をリセットしようという合意に至りました。
それまでは法的な夫婦関係は変わりませんから、今はいわば“エア離婚”状態です。息子たちも知っています。今はかえって夫のことを冷静に見られるようになりました。いいところもいっぱい再認識できて。やはり結婚していると距離が近くなりすぎて、感情が濃縮されてしまうんですよね。夫婦といえども、他者であると認識することが大事。4年後にどんな答えが出るかはわかりませんが、今は2人ともそれぞれに未来に向かって視界が開けた感じです」
ずっと「生きづらさ」を感じていた時代を乗り越え、ときに母や姉の価値観、世間の価値観に振り回されそうになりながらも、そのたびに自ら大きく舵を切り、わが道を進んできた。これからも「小島慶子の挑戦」は続いていきそうだ。
取材・文/小泉カツミ(こいずみかつみ) ノンフィクションライター。医療、芸能、心理学、林業、スマートコミュニティーなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』がある