金子亮太さん(仮名=37)のケース
大学院の途中で登校できなくなり、そこから6年半ひきこもってしまった男性がいる。金子亮太さん(仮名=37)だ。幼いころから、「手のかからないいい子」だった彼が、なぜ力尽きたのだろうか。
2歳違いの兄と妹にはさまれた次男として、中部地方のある県で生まれ育った。父方の祖父母とともに7人家族だった。最初の子である兄に手がかかったぶん、両親は次男である彼に、むしろ「長男的」な期待をかけていたようだ。
「ただ、人間としての土台をつくる部分で、親子関係に問題があったような気がします。父はあまり子どもたちにタッチしなかったけど、母親がちょっと情緒不安定な人で、衝動的に怒りが爆発することがあった。
忘れられないのは、夕飯をとっているとき、ぽろっと食べ物をこぼしたら、いきなり僕をキッチンのシンクに連れていって頭からみそ汁をかけられたこと。それと、風邪をひいたとき祖母の部屋で寝転がってテレビを見ていたら、急に気持ちが悪くなって吐いたことがあるんです。母は祖母の掛け布団を汚したことに激怒していた。いま思えば、祖母、つまり姑に気を遣っていたんでしょうけど、子どもにとっては驚きと恐怖以外ありませんでした」
東大以外は行きたくない!
普通の子が知っているドッジボールのルールやファミコンのことも彼は知らなかった。両親は同世代の子たちが何をして遊んでいるのかを知らなかったのだろう。与えられたのは子ども向けの本全般。中でも彼は図鑑にのめり込んだ。そのへんに生えている草花の名前をほとんど知っていたりした。
「どうやらウチは変わっているようだ。なにか偏っている。自分はおかしいと小学校に入った瞬間、感じました。だから僕自身は、過剰に“普通”に合わせようとしていた。小学校から高校まで、周りの興味や価値観に自分を合わせることに必死だった気がします」
そのことでいじめられたりはしなかった。おそらく彼がうまく適応していたからだ。ただ、そのぶん、心に負担はかかっていたのではないだろうか。
「進学先を決めるとき、金子家から離れたいと思いました。近場の旧帝大へ行くのが自然だったのでしょうが、東京大学なら両親も文句は言わないだろう、と。いま思えば東大に行く必要もなかったのに、高校2年生くらいから、“東大以外は行きたくない”と思い込んでいました」
それも『世間の価値観』に合わせようとしすぎた弊害なのかもしれない。しかし東大には合格せず、早稲田大学の理工学部へ。「東大以外は行きたくなかった」から、気持ちがついていけず、5月までキャンパスへ足を運ぶことができなかった。語学の講義を休むとまずいと聞き、ようやく大学へ通うようになる。
「このあたりからひきこもりの片鱗はあったのかもしれません。理工学部は実験が多くて大変でした。でも1年生の単位を2、3年生のときに取ったりして、なんとか卒業にこぎつけた。気分がすぐれないことが多くて、病院に行ったらうつ状態だと診断されたこともあります。いま思えば早稲田はとてもいい環境だったのに、そのころは実感できなかったんですね」
金子さんは穏やかに、だが論理的に話を進めていく。
4年間で卒業し、大学院進学を考えた。そして、東京大学の大学院に合格するのである。はたから見れば見事なリベンジなのに、彼自身の気持ちは満たされていなかった。
「妙なプライドがありましたね。素直に喜んでもいいのに、なぜかどんどん自縛されていくんです。早稲田の研究室はとても居心地がよかった。だから早稲田の大学院に行ってもよかったはずなんだけど、やはり東大にとらわれてしまった。自分にとってよかったかどうか……」
東大大学院は世間的価値観からみれば、ある意味で最上級だ。だが、それが本当に自分の望んだことなのか、これでよかったのかと彼は考え始めてしまう。東大にとらわれたのは、自己責任なのか、幼少期の親子関係に起因するのかは彼にもわからないという。ただ、子どものころ「普通」からはずれていた記憶は、彼にとって強烈だったのだろう。だから「世間」への強迫観念が強まり、東大にこだわり、いつしか自分を追い込んでいったのかもしれない。
就職活動の末、大企業の内定をもらうが…
修士課程の2年間、彼は頑張った。そして2007年6月、就職活動の末に大企業の内定をもらう。あとは論文を書けば卒業できる見通しが立ったところで、指導教官に2週間ほど休むと告げた。
「それきり大学院に行けなくなってしまったんです。自分でもヤバイと思っているけど身体が動かない。1か月もすると、取り残されてしまうという焦燥感にかられました」
大学院の同僚や先輩が心配して来てくれたのだが、彼はそのことにショックを受けた。「心配される」ことをありがたいと受け止める人も多いだろうが、彼の場合、心配されているという事実、そして心配されている自分自身を受け入れることができなかったのかもしれない。大学院の人間関係は彼にとっては距離感が近すぎたのだろうか。
翌年2月には留年が決定、就職内定は辞退した。以来、大学院を中退、再入学、休学と目まぐるしく出入りし、6年半後についに中退するのだ。
「その間、行くべきところに行けない自分はダメだという思いがどんどん強くなっていきました。ほかの人とした会話を延々と思い出して、“どうしてあんなことを言ってしまったんだろう”“どうすればよかったんだろう”といつまでもシミュレーションを繰り返して眠れなくなるんです。本当に“いつまでも”続くから心身ともにつらいんです」
唯一できたことは、院生になったときから週に3、4回続けてきた塾講師のアルバイトだ。同僚や生徒との人間関係の距離感も、大学院と比べて近すぎないため、彼にとっては心地よかったのだという。
「教えるのが大好きだったし、仕事というより趣味に近いような感じで続けていたんです。ただ、中退後は仕送りもなくなっていたので生活費を稼ぐことも重要でした」
当時の彼は15時ごろ起床、自己臭恐怖もあったため念入りにシャワーを浴びて夕方から塾へ。6〜7時間仕事をし、帰宅してベッドに入るのは午前0時ごろ。だが、そこから朝6時7時になるまで、過去の人間関係を思い出して悶々とする日々だった。
「通常の後悔とか反省とは明らかに違う。病的でしたね」
完全にひきこもり、所持金500円
肉体的にも精神的にも疲弊していき、とうとう塾にも行かれなくなった。母親は理解を示し、戻ってくるようにと言ったが、彼は実家に戻るつもりはなかった。それから8か月ほど、完全にひきこもる。ついに所持金が500円になったこともある。
「国民健康保険代も払えなくて、保健所や役所で相談したけどなかなからちがあかない。百均に行って、メロンパンとカフェオレを1つずつ買って1日をしのいだこともありました。生活保護を受ける手立ても考えた。最後には親に電話して20万円ほど貸してほしいと頼みました」
父親も彼の異変を悟ったのだろう。すぐにお金を振り込んでくれた。
「お金のあるなしは精神状態に直結しますね。本当にお金のありがたみがわかった」
あとからわかったことだが、両親は彼が大学院を辞めてから非常に心配していた。50万円ほど用意し、息子が助けを求めてきたらすぐにアクションをとると決めていた。
「このときは素直に感謝しました。学費などで1200万円くらい使わせてしまったのは申し訳なく思っています。親を見る目は年々、変わっています。子どものころ社会性をもたせてくれなかったのは僕にとってマイナスに働いたけど、結局、最後に助けてくれたのは親でもあるわけで……」
親としては“手のかからないいい子”だった次男が、どうしてこんなことになったのかと不可解だったかもしれない。だが彼には「手がかからなかったのではない、手をかけなかったのだ」という気持ちもあった。そこに微妙な親子の気持ちの齟齬(そご)がある。
後になって、母自身が強迫性障害だったことを聞かされた。母は貧乏な家に育ち、祖母は毎日、母を背負って工事現場で働いていた。そのとき出入りする車や土砂の轟音に恐怖感を抱き、それがトラウマになっていたようだ。
“心の傷”を明かしてくれた母の姿を見て、金子さんは母が自分を理解しようとしてくれているのだと察したという。
10年ぶりに人と話して楽しいと思えた
何とか外へ出ようと決意した彼は、2013年12月、ネットで知ったイベント「ひきこもりフューチャーセッション 庵」を初めて訪れた。精神的に追い込まれて焦っていたとき、ひきこもりについて長年取材を続け、庵とも関係の深いジャーナリスト・池上正樹さんの記事を読み、衝動的にメールを送って会場へ赴いたのだ。潜在的に助けを求める気持ちが強くなっていたのかもしれない。
「僕は自分がひきこもりだとは思っていなかったんですよ。だから庵の会場の扉をなかなか開けることができませんでした。ここを開けて中に入ったら、自分が“本物のひきこもり”になると感じて」
意を決して中に入ると、池上さんが案内してくれた。そこにはたくさんの男女がいた。話をしてみると、違和感なく溶け込むことができた。
「10年ぶりくらいに、人と話して楽しいと思えました。ひきこもりであるかどうかはどうでもいい。僕にとっていい転換点になりました」
ひきこもりを脱し、学習塾講師に
庵では数か月の間に、さまざまな人たちと友達になった。朝まで一緒に遊んだこともあるし、将来のことを深く話し合ったりもした。尊敬できる友人に出会い、翌年2月、彼はひきこもりから脱して、ある塾に就職した。
塾で教えることは楽しかったが、何か違うことにもチャレンジしたくなり、数年後に知人から別の仕事を紹介された。新たな人間関係のなかで働くことは、彼にとって非常に厳しかったが1年間、力いっぱい働いた。
そして、現在はまた新しい経験を求めて別の仕事を探している最中だ。
メンタル的につらいときは、数学に救われたことも多々あると話す。数学に救われる、という言葉が、数学が苦手の私には興味津々だ。
「楽しめるんですよ。数学の世界は終わりがない。誰も解いたことのない未解決問題もたくさんあるんです」
彼の目が輝く。本当に数学が好きなのだろう。数学はおろか、算数の分数さえ理解できていない私に、簡単な数式を書いて「数字のおもしろさ」を教えてくれた。小中学生のときにこんな先生に巡りあえればよかったのにと心から思う。
心のバランスを崩してしまうことは誰にでもある
彼には、いつかまた塾講師に戻りたいという希望もあるが、今はまだ人にものを教えるほどのエネルギーがなく、気持ちが追いつかないという。
「まずは生活を安定させるのが第一ですね。大学院を卒業して内定していた会社に勤めていたら、今はどのくらいの収入があったのだろうと考えると後悔だらけ。世間的な価値観とのせめぎあいは、まだ僕の中にあるし、自分がダメ人間だという認識はなかなか払拭できないけれど……」
院生時代は付き合っている人もいた。あのまますんなりと東大大学院を卒業して、大企業の会社員になっていたら、今ごろは家庭をもって仕事を続けていたのだろうか。そこで彼は心からの幸福を感じていただろうか。
第三者からみれば「もったいない」と言うだろう。私自身もそう思った。だが、話をしているうちに、どこかで心のバランスを崩してしまうことは誰にでもあるだろうと感じるようになっていった。
彼を紹介してくれた知人が、「本当にやさしい人」とその人格を絶賛していた。過去の話を聞きながら、私のほうがときどき時系列でこんがらがってしまうと、彼はきちんと年代を挙げて丁寧に説明しなおしてくれる。そのたびに彼の根っこにある思いやりに感じ入った。ひきこもって苦しみ、そこから脱して前進したことは想像を絶する苦しさがあっただろう。だがその経験が彼をよりやさしく、大きくしているのではないだろうか。
かめやまさなえ 1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆