情緒不安定で、人と関わるのが苦手。広汎性発達障害――父親を激しく攻撃したり、強迫性障害に悩んだ時期もあった。唯一、気持ちが落ち着くのは、絵を描くとき。作品が世界的に認められるようになり、精神安定剤がわりだった絵が今、「生きがい」へと変わりつつある。25歳、月収2万円。最近の心配事は父親がいなくなった後の人生だ。焦りと甘えが交錯するなか、「自立」の準備に奮闘する青年の姿を追った。

アール・ブリュット(生の芸術)作家 古久保憲満さん 撮影/伊藤和幸

 広汎性機能障害があるというその青年は、3代続く老舗仏壇店の座敷で、絵を描きながら私たち取材陣を待っていてくれた。

 スラリとした長身を持てあますかのように背を丸め、極細のボールペンで街の様子を描いていく。そこには車や電車、ロボットもあれば、なんと北朝鮮の軍隊まで登場し、色鉛筆やマーカーで次々と彩色されていく。

 驚くべきは、その細かさだ。

 超極小の四角形や円が建物などを形づくり、紙の上を埋め尽くしていく。形と色がひしめき合い、すき間なく混ざり合いながら、小はハガキサイズから大は縦1・6メートル×横10メートルの大作にまで増殖し、成長していくそのさまは、さながら紙の上で繰り広げられる形と色の混沌とした、“見る交響曲”のようでもある。

 青年の名は古久保憲満さん(25)。正規の美術教育を受けていない人たちが独自の発想で作り出す芸術は『アール・ブリュット(生の芸術)』と呼ばれ美術界で大きな注目を集めている。この分野で今、もっとも注目されているひとりが、この憲満さんなのだ。

裏の事実も正直に言いたい

 アートの常識や決まりごとから解き放たれ、身体の中からわき上がるままを描いていくその姿と作品は、『描きたい、が止まらない』として映画化、好評を博している。

 同作を撮影した近藤剛監督(46)が言う。

「発達障害があると聞いていたので、きっとデリケートな人だろうと。“どうやって距離を詰めていけばいいだろうか?”と考えていたんですが、そんなことはまったく気にせずに、初日からドンドン撮らせてもらえました。

 それはなぜかと考えると、(憲満さんは)今でも電車に乗ると人と目が合わせられなかったり、人目が気になって俯いてしまう一方で、絵を通じてならばいろいろな人とつながれるし、穏やかに話ができるからじゃないか、と

 作品を見てほしい、知ってほしいというアーティストならではの欲求がある一方で、同時に世間から自分がどう見られるか、という不安も生じる。その双方を抱えつつ、憲満さんが言う。

同じ障がいのある人に自分のことを知ってもらえれば、心の支えになれると思う。だから、もっといろいろなところに出て自分のことを知ってほしいけれど、表向きの顔だけじゃなく、裏の事実も正直に言いたい。

“(商業主義に毒されず純粋に)絵を描いている”って言われるけど、見栄え(のいいこと)ばかりじゃなくて、実際はゲームばっかりしているとか(笑)、絵を売って何十万円もするようなパソコン買って本格的なゲームを楽しみたい思いもあるとか、そんなところも知ってもらいたい。まあ、そんなん買ったら生活ができなくなるけど─」

「幼少期は夜泣きがひどくて、よく動き回る落ち着きのない子でした。自分でも、それは覚えています」

 憲満さんが自分の半生を語り始める。

 活発なのに恥ずかしがり屋で、人前に出るのが苦手。そんなどこにでもいるような子でありながら、妙に強いこだわりを見せることも。例えば、積み木やブロックで遊んでいて、友達に割り込まれる。すると激しく怒りだす。ひとりで遊んでいるのを邪魔されるのが、嫌でたまらなかったのだ。

「そのわりには、人が遊んでるおもちゃで遊びたいと言って取り合って。ケンカになったりするのは日常茶飯事でした」

絵を描いているときは穏やかだった

 父親の満さんも、保育園時代の様子をこう証言する。

「人が大勢いるところにすぐには入れない、時間がかかる。子どもばかりの集まりに行っても、中のことは気になるんやけど中に入れず、ほかの子どもさんらが遊んでいるのを外から見ている。途中からみんなに誘われて徐々に中に入っていくような、そんなふうな子どもでしたね」

憲満さん、5歳のころ

 両親を困惑させるばかりの、こんな一面もあった。

「パニクるんです。例えば楽しく遊んでいるときに、友達からキツいことを言われる、あるいは大きな声で命令調で言われる。そういうのがとにかく苦手で、ギャーと癇癪を起こして収拾がつかなくなる。みんなと一緒に協調するということが、できない子でした」

 そんな男の子が絵にのめり込んでいったのは小学1年のときだった。憲満さんが言う。

「ゲームが欲しくて“買って! 買って!”と言うのと同じように、絵が描きたいとギャーギャー言っていたら、しかたないって感じで、お母さんが無印良品で画用紙を買ってきてくれたんです」

 保育園のころから、絵に取り組んでいるときだけは穏やかでいられた。自宅にあった『地球の本』という本を見て絵を描いたことを、憲満さんは今もよく覚えている。

「本を見て、落書きみたいに模様を描いていたら、先生が“模様の発色がきれいや”って。それが絵を描くきっかけかな」

 満さんが当時を回想する。

「いちばん思い出にあるのは、迷路を描いていたことですね。あとは車とか乗り物とか。当時は今のような緻密なものでなくて、パッパと大胆に描いた、子どもらしい絵でした」

 とはいえ、このころの絵といえば、精神安定剤がわり。絵を離れたときに見せる強いこだわりや癇癪は周囲を困惑させるばかりで、それは小学校でも同じだった。満さんが続ける。

「恥ずかしがって教室に入れないし、先生の話を聞いていられない。上靴はいつも左右反対にはいて、シャツを着てもかならず前後が反対。下着も裏表反対に着て、ひどいとときには靴下のまま廊下に出てしまう」

 当然、問題児扱いされてしまう。母・雅美さんが学校から呼び出され、“どんな教育をされているんですか!?”と先生から詰問、泣いて帰ってきたこともあったという。

自分のことを世界一バカやと思っていた

 満さんは学校から専門機関の診断を仰ぐよう言われた。

「それで学校の先生と一緒に病院に行くと、会った医者がうんもすんもなく、“広汎性発達障害と高機能自閉症やな”と。小学校1年の終わりぐらいにわかったんです」

 憲満さんが抱える広汎性発達障害とは、パターン化した行動や特定のものに強いこだわりを見せる障がいの総称で、アスペルガー症候群とも称される高機能自閉症には、人とうまく接することが苦手という特徴がある。

 積み木やブロックへの強い執着や、恥ずかしさで教室に入っていけなかったこと。さらには上靴の左右逆も、何かに気をとられるとほかはどうでもよくなってしまう障がいゆえのものだったのだ。

 わが子に障がいがあることを知らされた父・満さんといえば、

「“やっぱ、そうやったんやな”とは思った。ショックはありましたね。“これからどうしたらいいのか……?”と。冷静を装っていただけでした」

 憲満さんは自分自身の障がいをこんなふうに言う。

「小学校のときは障がいとか自閉症とかわかりませんでした。障がいがあるとわかって中学で養護学校に入っても、どこまでが、わがままでどこからが障がいなのかがわからなかった。わかるようになってきたのは物心がつき始めた高校生のとき。それまではホンマに自分のことを世界一バカやと思っていたけれど、障がいの影響があったんやなあと、わかった

高校生のころ、次から次へと先生に質問をしていたという憲満さん。好奇心旺盛で、気になることはとことん調べる性格。特に最近は世界の建物に夢中 撮影/伊藤和幸

 そして、こう続ける。

「今でも他人の視線や“どう見られているか”がすごく気になっています。これはもともとの性格だから直らないです。でも普通以上に気にしすぎたり情緒不安定になったりは、性格というよりは、障がいなんかな、と。性格もあるし障がいもあるという感じかな、わかりやすく言えば。病院でもボーダーライン上で、軽度だと言われています」

 満さんはそんな憲満さんを医者の指導のもと、まずは薬によって世間に適応させようとした。向精神薬として今も広く処方されているリタリンである。

 法律で厳重管理されているこの薬は、たしかに抜群の効き目を発揮した。

 朝、1錠飲ませれば憲満さんの多動や注意欠陥がおさまり、教室で落ち着いて授業に参加していられる。が、効き目が切れればパニックを起こす。そこでまた1錠。満さんが、

「その落ち着いた状態で学校から家に帰ってくると、だいたい4時前後。するとちょうどそのころ(薬の効き目が)切れるんです。切れるとまたパニック。抑えていたぶんが爆発する」

 強力な向精神薬であるリタリンを夕方以降に服用させると、脳が活性化され、夜、眠ることができず、翌朝起きることができなくなる。小学校中学年には、学校に行けない時期もあった。

 さらには同じ広汎性機能障害や高機能自閉症であっても、障がいの表れ方は百人百様で、“こう対応すればよい”というセオリーはない。

「そんな中でどう対応していくかですよね。うちのやり方とか、家族のやり方で(憲満さんを)包み込まなければダメだと思いました。人それぞれ家庭の事情がある中で子育てするのと同じで、うちでいちばんいい方法を考えるしかなかったですね」

「Iメッセージ」で変わった親子の会話

 憲満さん小学校6年のとき、ひと筋の光明がもたらされた。障がいのある子との接し方をアドバイスする、カウンセリング受講をすすめられたのだ。

「2回目のカウンセリングだったかな、“Iメッセージ”というものを、教えてもらったんですわ」

 Iメッセージとは、主語を“I(私)”にして話しかけるコミュニケーション法のことをいう。主語をYOU(あなた)にして、“あなたは○○すべき”と話しかけるYOUメッセージに対し、“私はあなたが○○してくれればうれしい”と表現し、相手に選択権を与える接し方だ。

 カウンセラーは満さんに、こんな問いかけをしたという。“例えば玄関先で靴が脱ぎっぱなしになっている。まっすぐに脱いでほしいと思ったら、Iメッセージではどうコミュニケーションすべきですか?”

「ちょっと時間をもらって考えて、“お父さんはまっすぐ靴をそろえて脱いでもらえたらうれしいなあ”。そう答えたら、“お父さん、それでいいんです!”

「友達に言われた言葉が引っかかり、家に帰ってから感情を爆発させることもあった」と満さん 撮影/伊藤和幸

 Iメッセージを使って穏やかな言葉遣いを心がけると、憲満さんの反応も穏やかで、やさしいものになっていったという。

「もともとキツい言い方をされたりすると、“お父さん、怒ってる?”とよく言っていました。なにも怒ってないんやけど、このへんは関西弁で言葉のトーンでキツく聞こえることがある。でもそれ以降は、僕との言葉のやりとりも徐々に変わっていきましたね」

 それまでは、自分の思いやしたいことが伝わらずもどかしさが頂点に達すると、癇癪を起こして満さんらの腕を締め上げ、訴えるようにして暴れていたという憲満さん。

「自分の障がいを理解してもらえないでキツいことを言われると、反発しないと自分が負けているような気がして嫌なんです。口惜しいというか。

 誰でもそうだろうけど、ほんまに真剣になにかが欲しいとき、例えば誕生日とかクリスマスとかすごい楽しみじゃないですか。ケーキとかチキンとか用意して、そのあと高い物を買ってもらうんやけど、売ってなかったとか想定外のことがあると大変やった。1日中、暴れて大泣きして、戦争みたいやったな」

 満さんが当時を思い出し、しみじみと言う。

「大変やと思ったら大変やけど、ちょっとしたことがものすごい喜びなんですよね。例えば朝起きるときに何回起こしても起きなかったのが、自分から起きてくるとか。そんだけのことが、喜びだったんですよね」

 障がいのある子を育てる苦労は並大抵ではない。だが、健常の子を持つのでは味わえない喜びも、またあった。

 そんな父の苦労を知ってか知らずか、あるいは照れ隠しか、憲満さんは当時を振り返ってこんな憎まれ口を言う。

「お父さんや家族に悪いことをしたとかは、そう思うところもあれば思わないところもある。好きな物を買ってくれたりいろいろなことをさせてくれ、こういう(絵が描ける)生活をさせてくれたことには感謝している。

 でも、(障がいを理解してもらえず)厳しいことを言われたり、“他人はこうするんやで”とか言われたりしたのは、今も(悔しさとして)残ってる」

 父子間の理解というのは、本当につくづく難しい─。

きっかけはギャングゲームの街並み

 小学校を卒業した憲満さんは、滋賀県立八日市養護学校中等部進学を選択した。この選択を満さんが振り返る。

「最初、本人は養護学校でなくて普通の学校に行きたいと。どこへ行ってもいいと思ったけれど、養護学校は体験入学があるし、普通の中学に行っても、普通クラスでなくて特別支援学級になる」

 試しに親子で養護学校の一日体験入学に行ったとき、満さんはその様子に驚いてしまった。

僕にしてみたら、養護学校に少し偏見を持っていたんです。知的に遅れてはるとかね。それが全然違った。みんな頭はしっかりしてはるし、生徒さんたちは積極的に手を上げて先生の質問に答えている。うちの子なんて学校には行ってるだけやったのに。思っていたよりいきいきとしているなあ、と。そしたら本人が、“お父さん、僕、養護学校に行くわ”。そう言うんです」

 この中学生時代、憲満さんのテーマであり主要なモチーフとなったものと出会う。

「中学2年のとき、先生が優しくて、授業中も絵を描かせてもらっていたんです。ちょうどその時、従兄弟から18禁のギャングが主役のゲームを借りていて、犯罪のゲームだから街が出てくるじゃないですか。大きな道路があったり車があったり。それが参考になって、落書きノートとかA4の紙を貼りつけたりして街を描いたりとかし始めた。

 そのゲームは教育上よくないものだったけど、ゲームのおかげで絵の幅が広がって、今も一部参考になっています」

作品に顔を近づけ色鉛筆で細かく色づけをしていく憲満さん。「軍歌」などテンポのいい音楽を流しながら描くことも 撮影/伊藤和幸

 以来、街がもっとも重要なテーマとなった。現代人は建物などの人工物なしに生活することはできない。人と街は不可分なものであり、街のありようは現代人のありようそのものなのだ。

 今では高い評価を受けるそんな絵も、当時はA4の画用紙に描いていた。チラシやカレンダーの裏に描いていたこともある。家での評価は否定的だったが、学校では“すごい!”と褒められた。

「褒められて、チヤホヤされてうれしかったですね。誰でもそうでしょ?」

 2010年、中等部を卒業した憲満さんは滋賀県立八日市養護学校高等部に進学。ここで才能の開花をバックアップした、2人の恩人と出会うこととなる。

美術界に広まる衝撃

 “A4の紙をテープでつぎはぎして描くより、君だったら大きなロール紙を使っても描けるんじゃないか─?”

 養護学校で美術を担当していた馬場功先生が、そんなアドバイスをしてくれたのだ。馬場先生が当時をこう回想する。

「最初は展覧会の出品用に50号とか100号とか規定の絵の大きさに切っては休み時間とかに描いてはったんですが、それがものすごいスピードで。1枚目の100センチに切った絵を半分ほど描き上げてきたときに、その内容と量がすごかったんで、“10メートルの紙にまるまる描いたらどうなるんやろな?”と。そう投げかけたのがきっかけでした」

 “やってみる─!”

 憲満さんはそう答え、6年の歳月をかけることになる長さ10メートルの超大作『3つのパノラマパーク』に取り組み始める。

 同時に157×121センチの紙を相手に、まだ完成前だった上海ディズニーランドを想像して描くことにも取り組み始めた。『未来の上海ディズニーランド』である。

 絵の中央部にシンデレラ城がそびえ立つこの作品に感銘を受け、関西電力主催のアート展『かんでんコラボ・アート21(当時)』に出展を持ちかけた人がいた。高等部で憲満さんのクラス担任をしていた徳田佳弘先生だった。

 徳田先生(61)が言う。

「(当時は)“頑張って描いたなあ”ぐらいで、真価はまだわかりませんでした。でも、まだ上海ディズニーランドができる前だったから、ネットで調べたりして、ここまで精密に描けるのは本当にすごいなあと思いましたね」

 この作品が、なんと2010年度最優秀賞を受賞する。

「お父さんから電話で、“最優秀賞になりました!”と聞いたときには、エーッ!? と驚きましたね。線のタッチをよく見てもらうとのり君の絵のすごさがわかります。白い部分が残っているので後期の作品と比べるとまだまだ緻密じゃないけれど、それでもすごい。受賞されたと聞いてびっくりしました」

『かんでんコラボ・アート21』の授賞式にて

 徳田先生をこう感嘆させた緻密さへの衝撃が、さざ波のように美術界に広がっていく。

 翌2011年には『ポラコート全国公募展2011』で『発展する未来の中国No.2』が服部正賞を受賞。2012年には『第21回全日本アートサロン絵画大賞展』で自由表現部門優秀賞を受賞した。さらには同年、オランダのドルハウス美術館のヨーロッパ巡回展『Art Brut from Japan』への出展を果たしている。

 憲満さんがこうした評価へ率直な感想を吐露する。

「“自分でもできるんやな”と思った。自分の絵はすごいと思った」

 だが、そんな順調そのものの高校2年、2012年の3月、思わぬことが起こった。

 就職を見越し、自宅から自転車で20分ほどのところにある作業所に実習に通っていたときのことだ。満さんが言う。

「憲満が“自転車で止まっている車の横を通ったとき、自転車が当たってしまったような気がする”と。謝りに行くと、車の持ち主は“気にせんといて”と言ってくれた。学校の先生に報告しに行ったら“強迫性神経障害が出ないといいけれど……”と」

 先生の予感が的中する。

 以来、自転車に乗れなくなったばかりか、近所の線路の上にある石ころが気になってたまらなくなった。“線路の上に石がのっていないだろうか?”“自分が石をのけないと大事故が起きてしまうのではないか?”そんな強迫観念にとりつかれてしまったのだ。

 この症状が表れていた時期の絵は、色が暗く濃く、陰鬱な印象だ。アール・ブリュットとは心が命ずるままに描く芸術。そのときの精神状態が、てきめんに表れてしまうのだ。

強迫性神経障害を発症している時期に描いた作品(左)は、正常時の作品(右)と比べて暗い色が多い傾向にある

 そんな不安定な精神状態とは裏腹に、うれしい知らせはまだまだ続いた。

 2015年には、スイスにあるアール・ブリュット専門の美術館『Art Brut Museum』からサラ・ロンバルディ館長が来日し、寄贈を要請。5作品が展覧会『Architectures Collection』で展示された。このときは招待に応じ、満さんともどもスイスにまで足を延ばしている。さらにはシンガポールのパスライトスクール(自閉症児支援学校)からも、展示会の招待状が。

 ここでは大勢の聴衆の前で絵を描く様子を実演したばかりでなく、同じ自閉症のアール・ブリュット作家のアッシャー・ウングさん(14)と交流。お互いに絵を描き合うことで理解を深め合った。

絵は彼のコミュニケーションツール

 以前には想像もできなかったわが子の活躍に、満さんは目を細めるばかりだ。

「憲満のおかげで、東京はもちろん、スイスやシンガポールにまで行かせてもらって。障がいで苦労はしたけど、障がいがあればこそ、東京にもスイスにも行けたんやから」

自身の絵を寄贈したスイスの美術館を来訪

 2016年には高校時代に取り組み始めた前出の超大作『3つのパノラマパーク』が完成。これをお披露目すべく、2018年には凱旋ともいうべき展示会が開催される。ふるさと滋賀県東近江市で開催された、『古久保憲満の世界』展がそれである。ちなみに、これらの様子は前述の映画『描きたい、が止まらない』に収録。近藤監督は、

「絵は彼のコミュニケーションツールのひとつ。日常で、彼は知らない誰かに話しかけられたらしゃべれない。ペンと紙が、そのかわりになっているんだと思います」

 馬場先生も異口同音に言う。

「彼の中では絵は言葉で、しゃべりたいことが絵に詰まっているんです。ずっとしゃべっていたいことがあって、それが10メートルの大作につながっていくんだと思います」

 これまでに20を超える賞を受賞している憲満さんだが、絵への情熱は一向に衰えない。

「賞よりも、もっと大きな街を描きたいという思いのほうが強い。多種多様な街。いろんな文化があったり、いろんな人種がいるような。たとえていえば、シンガポールとかインドネシアとか。先進国って好きじゃないんですよ。途上国のほうが好き。新しい建物があれば古い建物もある、あの格差が好き」

 作品に北朝鮮が登場するのも憲満さんの特徴。武器や戦艦などを純粋にカッコいいと思うのがその理由と語るが、映画の中では、実はこんなふうにも語っている。

「北朝鮮って国際社会から孤立した、孤独な国ですよね。その孤独がいいんですよ、俺は。(略)いろんな人から嫌われて、“古久保君とは遊ばへん”とか言われて、経済制裁をされている自分。ようするに自分の生活空間が、北朝鮮の体制とよく似ていると思っているんです─」と。

月収2万円、会社員、自立

 7年前の2013年、滋賀県立八日市養護学校高等部を卒業した憲満さんは学校からの進路指導を受け、自宅から自転車で20分ほどのところにある福祉作業所に就職した。

 2017年には運転免許を取得。現在は絵を描きつつ、車で2つ目の職場に通勤し、会社員として働く毎日を送っている。

「今はねじや部品などを検品したり、商品を詰めたりする仕事をしています。検品は苦手やけど、シール貼りとかパック詰めとかは好きやな」

 収入は決して多くなく、月収にして2万円程度だと笑う。そんな25歳が今、もっとも意識しているのが自分自身の“自立”だ。憲満さんが言う。

「将来を考え始めたのは高校を卒業して3年ぐらいしてから。“お前も将来のことを考えないと”と言われて、ちょっとマズいかな、と思って。それ以来、食器洗いをたまにしたり、トイレ掃除とか。風呂掃除は毎日しています」

 実は2017年に父・満さんと母・雅美さんが、わけあって離婚。父ひとり、子ひとりとなったことで、自立への焦りに拍車がかかった側面がある。

 満さんが言う。

「自立について(憲満さんが)言い始めたのは3年ぐらい前からかな。周りが何も言わなくても何でもできるのが自立やと思っています。今は、だいぶ自分でなんでもするようになりましたね。当たり前のことやけど、ご飯を作って食べたりとか。この間も、“お父さん、カレーの作り方を教えて”と。それから、僕、トイレ掃除を毎日するんだけど、半年ぐらい前に、憲満も“トイレ掃除する”と言いだして。おかげんさんで、うちのトイレはきれいですわ

 こうしたことを地道に続けることで自立を果たし、いつかパートナーを持ってほしいと満さん。憲満さんも、25歳の青年の当然の願望として同じ思いがあるが、経済力という問題が立ちはだかる。だが、

「絵で収入を得たいという欲はあるけれど、それをしてはマズいですね。俺も人なので、売れて好きな所に行けるわ、東京に行けるわ、好きなもん食べさせてもらうわになると、鼻が高くなるでしょ? そんな経験したら人が変わるわ。今までそんな経験したことないから」

 絵の引き合いはあり、これまで3枚が売れている。

「(絵で生計を立てることを)今はまだそこまで考える必要はない。お父さんがいるから、そこまで真剣に考えてない。売ることばかりを考えて描いていたら、絵がダメになる」

 馬場先生が同じことを、別の角度から言う。

「今、アール・ブリュットがブームだけれども、ブームは去るときがくる。受賞をうれしい、うれしいと喜んでばかりいると、落ち込む時期が必ず来る。そうではなく、自分の楽しみのために描きなさいと。他人から“こういう絵を描いてほしい。もっと描いてほしい”と言われても“自分のペースで描きたいときに描きなさい”と言っています。それが一生絵を続けるコツですよね」

家事は「“~してほしい”と言わず、私が黙ってやる姿を見せます。すると、息子が自分から手伝いたいと言いますから」と満さん 撮影/伊藤和幸

 近藤監督の見解は、このお2人とは少々異なる。

僕は作家として身を立ててもいいんじゃないかと思います。日本には“障がい者は障がい者らしくしていろ”みたいなのがあるじゃないですか。障がい者がお金を儲けたら不謹慎だというような。

 そのへんが“売ることを考えたら絵がダメになる”と言わせてしまう部分もあるんじゃないかなあ、と。彼がアメリカで生まれ育っていたら、違っていたかもしれません」

 身体から湧き上がるままにひたすら描き続けたい欲求と、それは父・満さんの庇護の羽の下にいればこそ、という自覚。

 いつかは迫られる自立への不安と、美術界を席巻する商業主義への憧れとおそれ。

 自らが描く絵そのもののような複雑さを抱えつつ、今、この瞬間も、憲満さんは、描きたくて描きたくて、たまらない─。


取材・文/千羽ひとみ(せんばひとみ)ライター。神奈川県出身。企業広告のコピーライティング出身で、ドキュメントから料理関係、実用まで幅広い分野を手がける。著書に『ダイバーシティとマーケティング』『幸せ企業のひみつ』(共に共著)。