長井一夫さん(仮名=50)のケース
東京・下町のライブハウスに、澄んだ男性の声が響く。なにより本人が楽しそうに、ノリノリでジャズやポップスを歌う姿に魅せられる。“リチャード岡田”こと、長井一夫さん(仮名=50)だ。音楽さえあれば生きていける。今はそう断言する長井さんだが、10歳のころから「自暴自棄と精神的破綻の連続」だったと話してくれた。
ひとりっ子だった長井さんの両親が離婚したのは、彼が10歳のときだった。
「その3年ほど前から両親はケンカばかりしていました。母の実家は大きな会社をやっていて、きょうだいや親戚も多く、それぞれが起業したり事業を継いだり。母は家業とは関係ない会社でしたが、ずっと働いていました。
一方、父は警察官の息子だったようですが、自分の意見をあまり言うタイプではなく、転職を繰り返していた。母にガミガミ言われて逃げたかったんじゃないかと今は推察しています」
しっかり者の母と、おっとりしていて飽き性な父。そんな構図が浮かんでくる。両親は見合いで結婚したが、性格の不一致がすぎた。長井さんは、両親のケンカが続く日々の中、こういう騒動が早く終わらないかと願っていた。
「母はとにかく私を溺愛、過干渉する。そういうやり方しか知らなかったのかもしれません。離婚後、ケンカの怒声からは逃れられたけど、母の気持ちは歪(ゆが)んでいったような気がします。本当に些細(ささい)なことで2時間くらい説教したりする。私は子どもだから対抗できる言葉をもっていないんですよね。抑えつけて、いつまでも自分の言うことを聞く“いい子”にしておきたかったのかもしれません」
転校先でいじめを受けるも、歌に救われる
離婚と同時に、神奈川県の母の親戚の家に居候(いそうろう)するため引っ越したが、母と親戚の折り合いが悪く、すぐに母子ふたりだけで暮らすようになった。そして彼は転校先でいじめを受けた。原因はわからない。ただ、東京から来たというだけでいじめられ、自殺しようと思ったこともあるという。破れかぶれで、当時、流行(はや)っていたアラジンの『完全無欠のロックンローラー』を振り付けつきで歌ったら、なぜか一部のクラスメートにはウケた。
「そのとき、私は音楽とつながっていれば、たぶん生きていけるなと思いました」
とはいえ、いじめは完全にやんだわけではなく、中学まで続いたが、なんとか登校することはできた。
高校は私立へ。洋楽好きの英語の先生が、ロックやポップスの歌詞を解説してくれ、彼はますます音楽にのめり込んでいった。
「そのころも、母からは『大学へは行くの?』と圧力をかけられました。親戚への体裁として、母としては大学へ行ってほしかったんでしょう。私もそこから逃げる術(すべ)がなくて、敷かれたレールの上を走っていくような状態でした」
1年浪人して有名私立大学の数学科へ入学。数学は大好きだったが、やはり音楽を聴いている時間がいちばん楽しかった。歌手になりたいという「かすかな夢」も抱き、バンドを組んだ。映画にも魅せられ、音楽と映画、麻雀にアルバイトと学生らしい多忙さに見舞われて、見事に留年。就職試験にはすべて落ちた。
「しかたなく学生時代からアルバイトをしていた親戚の会計事務所で働くようになりました。簿記の学校にも通った。ただ、私は数学は好きだけど法律は苦手で、まったく頭に入ってこない。簿記試験のプレッシャーもあって、仕事でミスばかりしていました。子どものころからずっと、ミスしてはいけないと思うとミスが重なっていく。雇ってくれた親戚の叔母からは信用をなくし、母からは責められて、どう生きたらいいかわからなくなっていきました」
仕事のミスで衝動的にひきこもる
思えば、いつでも人の間で「浮いている」感覚があった。場になじむのに時間がかかるし、自分がどう振る舞えばいいのかわからないことも多い。長井さんは、幼いころからケンカや離婚など、オトナの事情に振り回されてきた。子どもらしく安心して自由に過ごしたこともない。だから、周囲の目を気にするようになってしまったのではないだろうか。
それでも28歳くらいまでは頑張った。ところが、会計事務所でのミスはさらに多くなり、ついには「正気を失った」ように逃げて、自室にひきこもった。そこからほぼ10年間、ひきこもったり別の短期アルバイトをしたりを繰り返した。
「いちばんひどかったのは、会計事務所から逃げたあとの半年くらいですね。完全に自室にこもって、ひたすら絵を描いていました。もともと絵が大好きだったのに、子どものころ母親に絵をバカにされて描けなくなっていたんです。その反動なのか、自室で絵を描き続けていた。知り合いや自分の似顔絵が多かったですね。母から否定的な言葉をたくさん受けて育ちましたから、それを見返したくて絵を描いていたのかもしれない」
溺愛する一方で、過干渉をしながら否定的な言葉を投げつけてくる親。期待値が高すぎたのだろうか。まるごとの存在を認めてもらえなかった子は、やはりどこか心に歪みが出る傾向にある。
この連載で何人ものひきこもり経験者と話してみて、そう感じている。
その後はアルバイトをしたり、印刷会社に就職したりもするが、やはりずっと「精神的な破綻」を抱え込んでいてうまくいかない。2002年から本格的にカウンセリングを受けるため、セラピストの自宅近くに引っ越し、亡くなった祖母の遺産を取り崩してひとりで生活を始めた。母から物理的にも精神的にも距離をとることで、やっと「時間が動きだした気がした」そうだ。とはいえ、親戚からみれば「ごくつぶし」である。そう言われていることを彼自身も熟知していた。
失敗しても誰にも責められない空間
結局、3年間たっても効果が見られずカウンセリングは中止。その後、つなげてくれる関係者がいて、彼は市川市にある、いわゆる自立支援のNPO施設に自らの意思で入った。このままひとりでいてはどうにもならないことを、心の奥深くでわかっていたのかもしれない。
「この施設が自分に合っていたんです。寮なんて入ったこともないから今まで知らなかった異空間です。それなのに居心地がよかった。私はここでたぶん、子ども時代をやり直せたんだと思う。何か失敗しても誰にも責められないし、ちょっとしたことでもスタッフが褒めてくれる。自主的に当番制で料理をするのも楽しかった。職場経験として、その施設の関連保育園や老人施設で働くこともできます。
ときどき、新しくひきこもりの人が入寮してくるんですよね。彼らを見たり接したりしていると、自分を振り返ることにもつながっていく。人間関係がうまくつくれない人を見て、私自身もそうだなとか、もうちょっとこうすればいいのにとか客観的に見ることができました」
こういう自立支援施設は賛否両論あるが、彼は「無理やり引き出されて寮に入れられた」わけではなく、自らの意思で入所した。だからこそ、苦手な集団生活でもなんとかやっていくことができ、むしろ他人と交わることで新たな気づきがあったのだろう。
「同じ入寮者で、音楽好きな人がいたんですよ。ギター、ベース、ドラム、キーボードができて歌も歌える。この方に感化されてギターやキーボードもいじり始めました」
結局、この施設で6年を過ごした後、マニラの同施設の事務所で4か月間、働いた。
「これがまたカルチャーショックでした。東京では時間に追われてあくせくしますが、マニラでは時間がゆったりと流れていく。現地の人たちと一緒に働きましたが、みんないいことはいいと認めてくれるし、私なんて歌を歌っているだけで褒められた(笑)」
介護の仕事とライブを両立
2013年、44歳で日本に戻ってきた彼は、ようやく「自分らしく生きる」道を見つけた。やはり音楽をやりたい。プロとして活動できるかどうかはわからなかったが、好きな道をまっすぐに歩いていきたい。音楽への情熱は誰にも負けないとはっきりわかったのだ。同年、知り合いに誘われて初ライブも果たしている。
その後6年間、介護の仕事で生活を安定させながらプロについてジャズボーカルの勉強を続け、昨年夏に独立した。あるところで働いているとき、「歌の師匠」と言える人に出会い、その人の紹介で少しずつライブハウスなどで歌う機会も増えてきている。自立支援施設から帰ってきてからというもの、彼自身も考え方が大幅に変わった。
「例えば訪問介護の場合、どうしてもその家の人と折り合いが悪かったりすることもあるんですよ。以前だったら、自分はやっぱりダメだと思って落ち込んでしまうけど、今は折り合いが悪いのはしかたがないと“あきらめる”ことができるようになった。気持ちを切り替えて、また別のところで働けばいい。必要以上に自分を責める必要はないとわかったんです」
施設で「子ども時代をやり直した」からこそ、自罰でも他罰でもなく、「運が悪かった」「縁がなかった」と誰のせいにもすることなく軌道修正をすることができるようになったのだろう。それは母親との関係にもいえることだ。
「母はけっこう激しいところのある人で、それが外に向かっていくタイプなんでしょうね。離婚して親戚の家に行ったときも結局、親戚とケンカして家を出ざるをえなかったし。私も母の資質を継いでいるんでしょう。私自身はその激しさが内に向いてしまう。おそらく、家族の機能不全は、母の家も父のほうも代々続いていたんじゃないかなと思うんですよ。それが私で一気に吹き出したというか。ただ、私はある時点で母をあきらめた。母のほうも私が施設に行ってからはあまり干渉してこなくなりました」
母の本質は変わっていないだろうと彼は考えている。ただ、自分で自分を認められるようになってきているから、「どうしても親に褒めてもらいたい気持ち」はなくなってきた。親ではなく、他人が認めてくれることを経験したのは大きかった。なにより自分が自分を認めればいい。そう考えられるから、気持ちがラクになっている。
「30年以上、自分のやりたいことをはっきり言い出せずに、敷かれたレールに乗っていただけだと思うんです。だからやり残したことはたくさんある。音楽活動も英語の勉強も。親との確執に気持ちを傾けるのは時間がもったいない」
夢を叶えて手にした自信
ライブに出演するようになってから、母はときどき姿を見せてくれる。日常的に干渉してくることはなくなり、ライブハウスがお互いの生存確認の場になっているそうだ。
「両親が離婚してから父親には会ってなかったんですが、居場所がわかって会いに行ったことがあるんです。留守でしたが、近いうち、連絡をとってみようと思っています」
もはや彼は誰も責めていない。両親も親戚も、そして自分自身のことも。
「どんな立場であっても、お互いに信頼関係があれば育てあうことができるんじゃないかと思うんです。私は信頼できる人たちと育てあいながら、自分の音楽活動を頑張っていきたい。それが今のいちばんの目標ですね」
ジャズが好きでスタンダードナンバーなどを歌ってきたが、本来はブリティッシュ・ポップスも好きだという。
「もっとレパートリーを増やしたいし、作詞作曲もしたいんですよね。キーボードも習って1年ほどになります」
音楽があれば生きていける。かつてぼんやり思い描いた夢は今、現実のものとなり、さらに具体的な目標が山積みとなっている。それは彼にとって喜びそのものなのだ。
40代半ば近くなってから、ようやく自分のしたいことを言葉にして人に伝えることもできるようになり、交友関係もどんどん広がってきた。交友関係が広くなれば、また軋轢(あつれき)や誤解が起こる可能性もあるが、今はそういったことにも対処できると長井さんは自信に満ちた笑みを見せた。
かめやまさなえ 1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆