テーブルの上に差し出された手帳には「障害等級3級」と記されている。よく見ると、精神障害者保健福祉手帳だ。
介護歴10年の渡辺紀夫さん(55)は、人目もはばからず大声で語った。
「介護うつから始まったのが、本格的なうつになってしまいました。今は睡眠薬と精神安定剤を手放せません」
男性介護者特有の悩みに苦しめられて
渡辺さんが住む都営住宅からほど近い、東京都葛飾区にある喫茶店でのことだ。
渡辺さんの父親に認知症の症状が出始めたのは、今から12年前。字が書けなくなり、大好きな庭いじりをしなくなった。異変を感じて病院の診断を受け、確定した。
当時は一緒に暮らす母親が面倒をみていたが、ひとりで任せるのは心許ない。同じ都内に住む長男夫婦は十分に面倒をみてくれなかった。独身の渡辺さんは福島県にあるホテルで調理師として働いていたが、介護離職して東京へ戻った。それは年の瀬が迫る、46歳のときだった。
その直後、父親が軽度の脳梗塞を患ってしばらく入院。退院後は寝たきりとなり、要介護度は5に認定された。下の世話や入浴介助などは主に母親が担当したが、休息のため、デイサービスに週2回通わせた。父親は腎臓病も患っており、渡辺さんが腎臓病食を作ってサポートした。
ひざが悪い母親の代わりに買い物に行く際は、主婦たちの視線が気になった。これは男性介護者特有の悩みだと、渡辺さんは語る。
「働き盛りの男のくせに、なぜ昼間から買い物に出かけているのだろう。そう思われているような気がしました」
東京に戻って間もなく、埼玉県内の介護施設で調理補助の職を得た。だが、親の介護に理解を示してくれなかった。やがて無神経な言葉を浴びせられる。
「認知症は病気じゃない」「腎臓食なんて簡単に作れるはずだ!」
職場いじめはエスカレート、渡辺さんはうつになった。
数年後、父親が亡くなった。母親は毎日、墓に通うほど悲しみに暮れていたので、その姿に寄り添った。同時に罪悪感にも襲われたと、渡辺さんは述懐する。
「看取ってからも大変でした。もっと早くに介護離職して、面倒みていたら長生きできたんじゃないか。自分の判断は正しかったのか」
父親の死から5年後の昨年11月、母親が急性脳梗塞で入院した。ひざの具合が悪化し、歩行困難になった。指にも力が入らないため、渡辺さんが野菜を切り、ペットボトルのふたを開けるのを手伝い、母親の介護が本格化した。
ここ10年、男手ひとつで介護を続けてきた渡辺さんだが、当初は悩みを打ち明けられる仲間が近くにいなかった。地域でつながりを持ちやすい女性とは異なり、男性介護者が陥りがちな孤立感にさいなまれた。
そんな中、認知症患者の介護者たちのつながりを通じて『荒川区男性介護の会「オヤジの会」』に入会した。悩みを共有できる会の存在に、自分の居場所をようやく見つけた気がした。
「女性が中心の会はどうも肩身が狭い。男性介護者が特殊扱いされます。ですが、ここは気取らず、ざっくばらんに話せるので精神的に楽です」
母親にトイレ介護を嫌がられる息子たち
渡辺さんのような男性介護者が今、日本社会で増え続けている。その数は100万人を超え、介護者全体の3分の1を占める。
男性介護者と聞くと、世間では介護殺人や高齢者虐待といったネガティブなイメージが連想されがちだ。しかし、取材を進めていくと、社会が彼らの立場を十分に理解していない実情も浮かび上がる。
渡辺さんは、男性介護者が抱える共通の悩みとして、こんな話をしてくれた。
「母親のトイレ介助を息子がやる場合は嫌がられることが多いです。娘だと恥ずかしくないようなんですけど。下着を買いに行くのも同じです。あとは料理。私は調理師だから特に問題ありませんが、普通は味つけが変わってケンカになったりします」
なかでも強調したいのは、仕事と介護の両立の問題だ。
「安倍政権が目指す“介護離職ゼロ”は理想論にすぎない。職場はどこもギリギリの人数で、介護休暇も認められているはずなのに、なかなか取れない。勤務時間を減らすこともできない。結局は辞めざるをえないのが現実です」
ひと昔前は、介護の担い手は女性だという認識が社会の側に定着していた。しかし、時代の移り変わりとともに、男性がその役割を果たす「男性介護者100万人の時代」に突入している。
男性介護者が決して無視できない存在に
この分野の研究の第一人者、立命館大学産業社会学部の津止正敏教授によると、介護の実態調査が初めて行われたのは1968年。この時点では男性介護者の割合はまだ全体の3%弱にすぎなかった。ところが'70年代半ばに入ると8%超へ増え、その10年後には15%近くに達し、'01年には23%を超えた。以後も割合は増え続け、いまや34%を占めるほどに。
増加の理由について、津止教授はこう指摘する。
「大家族の時代は、家事に専念し、家族の収入に影響しない専業主婦が介護を担っていました。ところが'60年代の高度経済成長に伴い、家族の形態は核家族が主流になりました。この結果、大家族時代に比べて専業主婦の介護者が減り、男性介護者が少しずつ現れ始めたのです」
'85年には男女雇用機会均等法が成立し、女性の社会進出が進んだ。さらにはバブル崩壊で非正規労働者が増え、非婚化が進んだことも男性介護者の増加に拍車をかけた。
増えたと言っても、男性介護者が悩みを共有できる居場所は少なく、まだ市民権を得ていなかった。それが一般的に認知されるようになったきっかけのひとつは、2006年冬に京都市で起きた介護殺人だという。
認知症の母親(86)の介護で生活苦に陥った息子(54)が無理心中を決意し、母親を殺害した事件だった。自身は自殺を図ったが一命を取りとめ、承諾殺人の疑いで逮捕された。やむにやまれぬ事情から殺めてしまった息子に同情が集まり、京都地裁の公判を傍聴していた津止教授も、そのときの様子をこう振り返る。
「被告本人はもちろんですが、弁護士もハンカチで涙をぬぐい、傍聴席からはいくつもの嗚咽(おえつ)が漏れていました。まさしく“地裁が泣いていた”んです」
事件はメディアでも大きく取り上げられ、これを機に男性介護者の存在が注目を集めるようになった。
それから3年後の'09年には、「男性介護者と支援者の全国ネットワーク」が発足した。津止教授が事務局長を務めるこのネットワークは、男性介護者による不幸な事件の防止に向け、同士の交流や情報交換の促進を目的としたつながりだ。この動きは徐々に広がり、会員数は現在、約700人にのぼる。
内なる男性像との闘いが待っている
ネットワークの発足から11年が経過した現在、男性介護者を取り巻く環境はどのように変化したのか。
「男性介護者という言葉が社会に認知されてきたことを実感します。一方で、男性介護者を通して見える新たな問題も浮き彫りになりました」(津止教授)
その最たるものがやはり、仕事と介護の両立の問題だ。総務省の就業構造基本調査によると、仕事と介護を両立している人は約350万人。介護離職する人は年間約10万人で、ここ数年は横ばい状態だ。つまり今後も毎年10万人ずつ介護離職した場合、その背後に、約300万人以上の予備軍がいることになる。
そんな現状とは裏腹に現行の介護保険制度は、要介護度が軽い人をサービスの対象からはずす重度化へシフトしている。例えば'15年に施行された改正介護保険法では、要介護3以上でなければ原則、特別養護老人ホームには入居できなくなった。要支援に続いて、要介護1、2もデイサービスや生活援助サービスの対象外にする方向で議論が始まっている。
軽度の人がサービスを受けづらくなれば、そのぶん、家族に負担がかかり、仕事と介護の両立は難しくなる。津止教授が語気を強めて言う。
「政府は『介護離職ゼロ』を掲げながら、一方では介護と仕事の両立をこなしている人々への直接的ダメージになるような政策を進めようとしています。これは政策的矛盾の典型です」
'21年1月からは、介護休暇を1時間単位で取得できる新制度が始まるが、個々の企業任せになれば、その実効性は不透明だ。
介護殺人や高齢者虐待の問題も男性に多い。前者は加害者の7割が男性だという大学教授の調査があるほか、後者は厚生労働省の調査で、加害者の4割は息子だった。女性に比べて、男性のほうが介護で追い詰められやすい実情を反映しているようだ。
その背景には、不慣れな生活環境から起きる介護負担の重さと孤立の問題があるという。さらにはジェンダーの視点からみた、男性ならではのプライドも関係している。津止教授が言葉を継いだ。
「男性介護者たちの多くは、社会がモデルにしている『家庭の大黒柱』を色濃く内面化している。その規範に縛られるあまり『なんで俺が?』となる。家事や介護が恥ずかしいと感じるのは、その一面です。それは自分の内なる男性像との闘いでもあるのです」
現実には男性介護者が増え続け、男性が介護を担わなければならない時代はすでに到来している。しかし、われわれの意識の中にはまだ、女性が担ってきたかつてのイメージを引きずっており、実態と意識が乖離(かいり)したままになっているのだ。
缶ビールやオードブルが並んだテーブルを、中年の男女10人ほどが囲む。渡辺さんが乾杯の音頭を取ると、会場がなごやかな空気に包まれた。
いないことにされないため、声をあげる
東京都荒川区にある社会福祉協議会の一室では、2月半ばのある晩、「オヤジの会」の定例会が開かれていた。
この日に集まったのは男性介護者3人のほか、介護福祉士や支援者たち。定例会は偶数月が夜、奇数月は日中に開かれ、男性介護者の勉強会や交流の場となっている。
オヤジの会が発足したのは1994年と、男性介護者の会の中では老舗だ。その活動はメディアから注目され、参加者が相次いだ。同会の事務局を担当する神達五月雄さん(58)が、当時の様子を説明してくれた。
「ピーク時は30人ぐらい参加者がいて、自分の介護状況を説明するだけで時間切れになっていました」
神達さんは荒川区の自宅で、うつ病の父親の介護を約3年、続いて歩行困難な母親の介護を約19年と、両親の在宅介護に人生の3分の1を費やした。
「母親に食事を作ると、いつもは美味しいと食べてくれるのですが、たまに“まずい”と憎まれ口を叩かれ、ケンカになったこともあります」
在宅介護の過程では、営業担当だった保険会社も辞めざるをえなくなり、同じ業界で2回、転職を繰り返した。
昨年暮れに91歳の母親を看取り、介護人生はとりあえずひと区切りついたが、現在は会の副会長として運営に携わっている。
ピーク時に比べると、参加者が亡くなったり、介護が重篤化したりで人数が減った。男性介護者からはカリスマ的な存在だった会長も介護の状態が進行し、会に出席できなくなった。その影響で、新規の参加者もなかなか現れない。それでも会を続ける意義について、神達さんはこう言い切った。
「とにかく声をあげ続けないといけない。じゃないと、男性介護者たちがいないことにされてしまう」
男性たちが主体となって発信しない限り、日本の介護を取り巻く現状は変わらない。いや、変えるべきだ。神達さんが発した言葉には、そんな思いがにじみ出ていた。
(取材・文/水谷竹秀)
水谷竹秀 ◎日本とアジアを拠点に活動するノンフィクションライター。1975年、三重県生まれ。カメラマン、新聞記者を経てフリー。開高健ノンフィクション賞を受賞した『日本を捨てた男たち』ほか著書多数