平成が終わろうとしていた約1年前、突然この世を去ったショーケン。
4度の逮捕と3回の離婚を本人は「ジェットコースターのような人生」と語っていたが、死後も大河ドラマ出演で存在感を見せつけるなど、日本の芸能界でその類まれな才能は異彩を放ち続ける。だが、そんな彼の不遇時代を支えていた親族は、最後の妻によって“隔離”されたままに──。
妻・冨田リカとの出会い
萩原健一さん(享年68)が亡くなってからはや1年。名優の死を惜しむ声は今もやまないが、親族は困り果てているという。彼が葬られたお墓の場所がわからないというのだ……。
「萩原さんは『ザ・テンプターズ』のボーカリストとしてデビュー。日本テレビ系のドラマ『傷だらけの天使』の主演などで一躍スターになりましたが、私生活は波瀾万丈でした。逮捕歴と結婚歴がともに4回。'83年に大麻不法所持、'85年に暴行、'04年に業務上過失致傷罪、'05年に恐喝未遂容疑で逮捕されています。結婚は'75年にモデルの小泉一十三、'80年にいしだあゆみ、'96年にヘアメイクの女性、そして'11年の冨田リカさんが最後の妻となりました」(スポーツ紙記者)
演技の実力は評価されながらも、逮捕が繰り返されることで仕事は減っていった。
「'05年の恐喝事件で、パッタリと仕事がなくなりました。落ち込んでいる彼の話し相手になったり、せめて普段の生活はできるようにと食事を含めたサポートをしていたんです」(萩原家の親族のひとり)
どん底だった萩原さんを蘇らせたのが冨田だった。
「'09年に月刊誌『美ST』上で、当時“美魔女モデル”として活躍していた冨田さんからのアプローチにより対談が実現。それがきっかけとなり交際がスタートし、'11年2月7日に結婚します。
萩原さんは“今までの生き方はジェットコースターみたいだったけれども、今後はメリーゴーラウンドのような人生を歩みたい”と話していました。実際に生活は落ち着きを取り戻し、'13年には世田谷区の住宅街に3億円の豪邸を建てたり、ふたりでシンガポールに移住したりと充実していました。帰国してからは一緒にマンション暮らしだったようです」(前出・スポーツ紙記者)
そんな萩原さんは'15年に週刊誌のインタビューで妻への気持ちを語っている。
《僕は家内と出会っていなければ死んでいたんじゃないかな。彼女と結婚して本当に人生が変わったんだ……》
人と競い合うことはやめ、真摯に仕事を続けていきたいとも語っており、心の平安を取り戻したことがわかる。
冨田との結婚で萩原さんは新たな人生を踏み出したが、病魔が彼を侵していた。10万人に1人と言われる難病GIST(消化管間質腫瘍)が発覚し、闘病のかいなく'19年3月26日に急死した。
「晩年の演技には鬼気迫るものがありました。遺作となったのは、NHK大河ドラマ『いだてん』の高橋是清役です。出番は短かったのですが、鋭い眼力と熱いオーラを発揮して強烈な存在感を残しました」(テレビ誌ライター)
“永遠の不良少年”が隠した闘病生活
闘病生活を送っていることは伏せられており、死後に冨田からコメントが発表された。
《これまで、本人の強い意向により、病のことは公表せずに参りました。最期は、とても穏やかで安らかに、ゆっくりゆっくり、眠る様に息をひきとりました》
突然の死に芸能界には衝撃が走り、故人を偲ぶ追悼番組が放映された。'19年4月には音楽専門チャンネルで生前最後のライブ映像、同年12月にはTBSチャンネル2で『ショーケンFOREVER 追悼・ボクらが知ってる萩原健一さん』がオンエア。
「萩原さんは“永遠の不良少年”と呼ばれただけあって、感情の起伏が激しく気難しい方だったのは確かです。その一方で信仰心が強く、'83年に大麻所持で逮捕された際は、判決が出た翌日に瀬戸内寂聴さんの寺院『寂庵』に身を寄せて修行するなどして過ごしました。
瀬戸内さんも“いろいろな事件を起こすたびにハラハラさせられますけど、出来の悪い子どもほど可愛いっていうでしょう”と語っていましたね。母性本能をくすぐる魅力がある人でした」(芸能レポーター)
ただ、萩原さんの仕事仲間やファン、そして親族も彼の死をゆっくりと悼むことはできなかった。容体が悪化して救急搬送された病院で息を引き取ると、翌日には火葬されたのである。
「亡くなった直後に神奈川県の鶴見で親族を含めて葬儀を行ったと報道されていますが、実際は都内ですぐに火葬されています。すべて冨田さんが執り行っており、萩原家側の親族は誰も立ち会えていません。葬儀がすべて終わってから報告があっただけでした」(前出・親族のひとり)
葬儀を急いだのは、萩原さん自身の意向だったという話もある。
「彼は3人目の妻と離婚する際に、金銭的なことでモメましたからね。その際、慰謝料で泥沼の裁判になり大変な目にあいました。交友関係も含めていろいろ不安があったようです。それで、妻が面倒に巻き込まれないよう、自分が死んだらすぐに葬儀をすませてしまうように指示していたそうです」(芸能プロ関係者)
間もなく一周忌を迎えるが、状況は変わっていない。そもそも冨田と結婚してから、萩原さんと親族との間に距離が生まれたという。
「冨田さんとは、'11年2月に箱根神社で結婚式を挙げたとき以来、会えていません。結婚以降は冨田さんが彼の面倒を見てくれていました。ずっと会っていないけど、よくやってくれたとありがたく思ってはいます。しかし、火葬にも葬儀にも立ち会えず、葬儀の報告後は何の連絡もありません。そのため彼の遺骨もお墓もどうなっているのか萩原家側は誰も知らないんです……」(別の親族)
萩原さんの地元・埼玉に今も住んでいる兄弟も「奥さん(冨田リカ)にすべてまかせています」とだけ、あきらめきったような声で週刊女性に話した。彼女は現在どんな生活を送っているのだろうか。
冨田リカはいったいどこへ
「冨田さんは'62年生まれで、萩原さんの11歳下。OLなどを経て幼児教室の経営をしていましたが'03年に放送されていたTBS系の情報番組『ジャスト』の『マダムに会いたい』というコーナーでスカウトされたことがきっかけで、41歳でモデルデビューし芸能界入り。私生活では2度の離婚歴があります。彼女の公式サイトの日記は、萩原さんが亡くなる直前で更新は止まったままですね」(前出・スポーツ紙記者)
冨田が所属していた事務所に近況を問い合わせると「1年以上前から所属していない」との回答が。すでに芸能活動は行っていないようだ。
「冨田さんは、萩原さんと一緒に過ごした都心のマンションに今も住んでいます。名義は冨田さん自身で、7000万円ほどの借り入れで購入。返済はまだ残っているようですね」(不動産関係者)
周辺で聞いてみると、目撃情報があった。
「ショーケンさんが生きていたころは、ふたりでいるのをよく見かけました。彼はいつも“自分は芸能人だ!”というオーラを出して歩いていましたよ」(近所の住民)
仲よく食事をしていることもあったらしい。
「以前は、ふたりで家の近くのお寿司屋さんに来ていましたが、ショーケンさんの死後は冨田さんひとりでの来店を見かけたことはありません。冨田さんひとりでは、来づらいのかもしれませんね」(別の住民)
萩原さんと一緒に行っていた店の中で冨田が今も訪れていたのが青山のイタリアン。
'16年に『ダウンタウンなう』(フジテレビ系)で萩原さんがゲストとして登場した際に紹介した店だ。
「萩原さんと冨田さんはよく一緒に来ていました。亡くなってからは何回か冨田さんがおひとりで来ましたよ。最後に来たのは去年で、萩原さんの誕生日だった7月26日です。そのときは冨田さんと、その友人らしき人たちの合計3人で来ていましたが、料理は4人分頼んでいました。亡くなった萩原さんの分もテーブルに出していたんです。3人で萩原さんを偲ぶ食事会だったようです」(常連客)
この店のオーナーは、生前の萩原さんと交流があった。
「彼とは数十年前から面識があり、'05年ごろの恐喝事件からの復帰パーティーを開いたのも、うちが経営していた店です。その後もたまに会って食事をしていました。奥さんともお会いしていましたが、挨拶程度ですね。冨田さんの現状はまったく知りません」(店のオーナー)
冨田リカにコンタクトをとったところ
そんな彼女だが、横浜の実家には定期的に帰っているようだ。
「冨田さんは週1のペースで来ていますよ。自分で外車を運転してきます。先週も帰ってきて、買い物とかしているようでした。彼女の母親はご高齢なので、彼女が面倒を見ているのかもしれませんね」(実家の隣人)
彼女の実家の家族構成は、冨田の母と冨田の弟夫婦の3人。弟夫婦に子どもはおらず近所との交流は少ないそうだ。
冨田の母は萩原さんの個人会社の社長を務め、冨田と2人で雑誌の親子対談に出たこともある。
2月上旬の夕方、週刊女性は実家を訪れて母を直撃した。
「娘(冨田リカ)は現在、仕事をしていませんし、再婚もせず静かに暮らしたがっているので、そっとしてほしいです。萩原さんが亡くなってまだ1年もたってないのに……。ご足労さまでした。もう何も答えられません」
応対はしてくれたが、そう言ってドアを閉めてしまった。弟夫婦にも話を聞こうとしたが、返答は得られなかった。
萩原さんのマネージャーを務めていた男性も、
「話すことは何もない。冨田リカのことは何も知らない」
と繰り返すのみだった。
冨田本人にもコンタクトをとった。墓の場所を聞こうとしたものの、
「彼の一周忌は静かに過ごしたいので、もう放っておいてほしい……」
と言うだけで電話を切られてしまった。
冨田が沈黙を続けることで、萩原さんの親族は取り残された状態のままだ。
「萩原家のみんなが彼の死を悲しんでいます。冨田さんと交流が少なくなったのは、萩原さんが決めたことだからしかたないのかもしれない。とはいえ、線香のひとつもあげられない、お墓に手を合わせることもできないというのでは複雑な気持ちになりますし、正直寂しいですね……」(前出・親族のひとり)
冨田は'10年の雑誌『STORY』のインタビューで自らの生き方を語っていた。
《50代は女性としての幸せを大切に温めていきたい。最終的には、オシャレで派手で、キレイなおばあちゃん世代をつくることが目標。(中略)そのために、また一歩を踏み出さなくちゃ、ですね》
間もなく還暦を迎える冨田。一歩進むためにも、同じように故人を偲びたい人々の気持ちにも寄り添える日は、来るのだろうか──。