45年連れ添った“同志”の後を追うように、破天荒ロックンローラーがこの世を去ってはや1年。不器用に、でも、まっすぐに「自分たちの生き方」「自分たちのかたち」を貫いた夫婦の遺志は、今も残された家族に守られて──。
'19年3月17日、79歳で亡くなったロックンローラー・内田裕也さん。妻の樹木希林さん(享年75)が亡くなったわずか半年後のことだった。裕也さんプロデュースで'77年にデビューを果たした歌手・BOROは、最後の別れを語る。
「ご自宅だった東京都内のマンションでお別れをしました。布団の上でステージ衣装を着て、手にはあのステッキを持ったいつもの裕也さんが静かに……。思わず“裕也さん、今からステージですか?”そう、話しかけてしまって」
静かな旅立ちとは対照的に、生前の裕也さんといえば“ザ・破天荒”。数々の過激な言動やトラブルが絶えなかったが、それには彼なりの理屈があった、という。
「裕也さんは誰かれかまわず怒るんじゃなくて、権力に対して怒る。驕り高ぶっている金持ちや有名人、周りに迷惑をかける人間にも本当に容赦なかった」(BORO)
長年、親交のあった映画監督の崔洋一氏も、「裕也さんの生きざまには大切なものがあった」と口をそろえる。
「他人が黙して語らないことまであえて口にして、問題提起し続けてきた。世間に対して無手勝流で向かっていく……ドン・キホーテのような役を担ってきたのが裕也さん。たしかに人間ですからプライベートでの矛盾を抱えるのは当然でもあって。それを隠すのでも、あえてひけらかすのでもなく、ただただ自然体の人だったと思うんです」
離婚届を訴訟で差し止め
その言葉どおり、プライベートでの裕也さんは45年間近く、夫婦として、また親としても矛盾を抱え続けたことは広く知られている。
「'73年に希林さんと結婚したものの、裕也さんの度重なる暴力と浮気が原因で1年余りで別居。その真っただ中、希林さんはひとり娘の也哉子さんを出産したんです」(当時を知る情報番組スタッフ)
也哉子が生まれた5年後の'81年には、裕也さんが無断で離婚届を提出するという騒動も。希林さんは訴訟を起こして離婚を無効にしたが、その後も裕也さんは、希林さんや也哉子とひとつ屋根の下に住むことはなかった。
「でも、何が起きても也哉子さんの前では1度も裕也さんを悪く言わなかったそうですし、年に1度、“父の日”には必ず也哉子さんを裕也さんに会いに行かせたと」(同・情報番組スタッフ)
一方の裕也さんも、つかず離れずの関係をずっと続けた。40年近く、裕也さんのバンド『内田裕也&トルーマン・カポーティ・ロックンロールバンド』でギタリストを務める三原康可氏は、ある夜の出来事をこう述懐する。
「ベロベロに酔った裕也さんが“お前、家まで送れよ”と、希林さんと也哉子さんが住む家に行こうとしたことがあったんです。一緒にその家へ向かって夜道を歩くんですが、1時間歩いてもたどり着かない(苦笑)。顔を出すのが照れくさくて、わざと酔ったフリをしていたのかもしれません。“送ってくれ”というのも、ひとりで帰ることの照れ隠しだったのかな……」
'95年に也哉子が俳優の本木雅弘と結婚し、希林さんと同居するようになると、以前よりも家族の距離は縮まった。
「希林さんと2人でちょくちょく食事や喫茶店に出かけたり、ハワイや京都へ一緒に旅行に行ったりすることもあったと聞いています。でも、それでも結局、最後まで一緒に住むことはありませんでしたからね……」(音楽関係者)
離婚もせず、一緒に暮らしもせずに40余年─。そこには、夫婦にしかわからない絆がたしかにあった。
「希林さんに“裕也さんのどこが好きなの?”って聞いたことがあるんです。そうしたら“あの人、誰に対しても平等だから”って」(三原氏)
裕也さんが亡くなるまで住んでいた自宅マンションは希林さんの持ち物だった。
「裕也さんの生活費のほとんどは希林さんが面倒を見ていたようです。希林さんは“私がいついなくなっても彼が困らないように”と、お元気なうちに部屋の名義をお孫さんに引き継がれた、と聞いています」(前出・音楽関係者)
家族が引き継いだ裕也さんの自宅。主なき後、室内に残されていたのは、生前愛用していたジャケットやジャージ、サングラス、帽子、ストールといった多数の衣装だった。それらは親族や関係者に“形見分け”されたという。
「私も2着いただいて。うち1着は、昔、裕也さんが蓮舫さんの“事業仕分け”に乗り込んだときに着た白いダブルのコートです」(BORO)
だが、それでも全部の行き先が決まらない。中でも困ったのは、あの真っ赤な靴下。希林さんの葬儀の際にもはいていたと話題にもなった、裕也さんのトレードマークだ。
「いわく“ロッケンローラーは赤だろ!”と。赤は彼のロック魂を表した色でした。はき古したものから新品まで、100足近い靴下が出てきたそうで。也哉子さんは“赤い靴下ばっかり、どうしたらいいのよ!”って苦笑いしてらっしゃいましたけれど……」(前出・音楽関係者)
一般的に、形見分けがすんだ後の遺品といえば、使われないまましまい込まれてしまうか、処分されてしまうことがほとんど。
“もったいない”の心
だが、残された家族─也哉子はそうしなかった。
そこには、希林さんからのある“教え”が。
「“もったいない”“物には冥利がある”と口癖のようにおっしゃって、亡くなる直前までティッシュ1枚、無駄にしませんでした。はき古した靴下も、ハサミで切り開いて雑巾がわりにして、最後まで使い切ってから捨てていたそうですから」(出版関係者)
その思いは受け継がれた。'73年から毎年大みそかに裕也さんが開催していた年越し音楽イベント『ニュー・イヤーズ・ワールド・ロック・フェスティバル』。その最後となった'19年12月31日、イベント会場で一般のファンに展示即売─“形見分け”されたという。崔氏も、自ら“売り子”として店頭に立った。
「裕也さんの思い出を処分してしまうのもどうなのかなって。本木さん、也哉子さんにも相談して“裕也さんのことを知る方々に”ということになったんです」
裕也さん愛用の品々が所狭しと並べられた中で、目玉商品はもちろん赤い靴下。お値段、1足たったの100円。
「本木さんから“幼稚園のバザー価格でお願いします”という話があったので(笑)、ギリギリの値段で。売り上げは全額、フェスティバルのほうに寄付させてもらいましたけれど、彼と彼の音楽を愛したみなさんに買っていただいて、喜んでいただけてね。やってよかったです」(崔氏)
当日会場には、也哉子と本木もお忍びで足を運んだ。
母の思いと父の魂が、多くの人たちの手に渡っていく様子に、大層喜んだという。