認知症の母と向き合って20年―。介護と執筆で多忙を極めていたら、突然、乳がんを患った。そんなトホホな事態に小言を漏らしつつ、役に立たない同情は一蹴。淡々と運命を受け流す作家が、小説では描けなかった闘病の“現実”とは?
「ここが長年、母の遊び場だったのね。暑くても寒くても、ここに来れば何でもあるし。何よりきれいなお手洗いがあるので安心したみたいです。母は興奮してくると5分おきにトイレに行きたがったから、いちばん大事なのがトイレなのよ」
そう言って、直木賞作家の篠田節子さん(64)は慣れた足どりで、八王子市郊外のこぢんまりとしたショッピングセンターに入っていった。
見知らぬ人に救われた
95歳になる母は認知症だ。ひとり娘の篠田さんが長年見守ってきた。
篠田さんはスーパーのイートインコーナーで足を止めた。母とよく過ごした場所なのだという。
以前、そこで母に用意してきた昼食の弁当を食べさせていたときのこと。
「家で作ってきた弁当がいちばんだよなー。親孝行したいときには親はなしって言うからなあ」
隣の席にいた作業員の男性が気さくに話しかけてきたので、篠田さんは思わずこう返した。
「親孝行、やってもやっても生きているとも言いますよ」
「このバカ娘が(笑)」
笑いあっていると、母は作業員の持つ誘導用の赤い棒に目をとめて質問した。
「それは何に使うものなの?」
見知らぬ人とのたわいないやりとりに、何度も救われたと篠田さんは振り返る。
もともと母親が心を許せるのは娘だけだった。認知症が進むにつれ、その傾向がさらに強まったという。
「母は“他人の介入は絶対ダメ!”という感じだったから、デイサービスやショートステイなんかとんでもない。無理に連れて行っても、介護士さんに“ご飯食べられたかな?”とか声をかけられただけで、キッとなって、周りの人をみんな敵視しちゃうんです。そんな母が、作業員のおじさんとは楽しそうに話していたんですよ」
篠田さんが次に向かったのは100円ショップだ。スラリとして背の高い篠田さんとは対照的に母は小柄だが足腰は丈夫。店内をひたすら歩き回ったそうだ。
「パソコンまわりのアクセサリーとか、何に使うかわからなくてもキラキラした小物が母は好きなんですよ。なにせ100円ですから、こっちもバブル親父みたいに、“何でも好きな物、買ってやるぜ”と(笑)」
時間があるときは路線バスに乗って、大きなショッピングモールや駅前のデパートに連れて行った。ベンチに座って2人で弁当を食べていると、よく声をかけられた。母と同年代の高齢者が多く、中には隣に座って身の上話を始める人もいた。
ブラジャーに灰色のシミ
ほぼ毎日、母と散歩に出るようになったのは2013年からだ。母は朝になると、すぐ近くにある実家から篠田さんの自宅マンションまで歩いて来た。篠田さんはまな板と包丁をわたして野菜を刻むなど、何か作業をしてもらった。
だが長くはもたない。マンションの狭い座敷は心も圧迫する。だんだんと母の目が据わってきて恨み言や妄想が始まる。短期記憶がないため、まったく同じ問答を繰り返す。
そんな相手に1対1で寄り添っていると、介護する側の思考回路も閉じられ、思考力や記憶力が低下していくと、篠田さんは説明する。
「それが高じれば、“わかってるよ、一緒に死んでやるよ、それでいいんだろう?”という気持ちに行き着くことになります。道ならぬ恋ならいざ知らず、自分の母親と心中じゃ、たまったもんじゃありませんよ。
それを防ぐべく、必死で元気いっぱい振る舞うか、認知症介護の禁じ手の“違うだろ!”を繰り出して怒鳴るか。いずれにせよ、こっちのエネルギー総量にも限界があります」
特効薬となったのが外に出ることだ。それも、なるべく人が集まるところがいい。母の関心が行きずりの人の姿、景色、お店の商品などに移ることで、篠田さん自身も解放されたそうだ。
「何より、年寄りを連れて歩くと、みんなやさしいんですよ。バスの冷房が強すぎて母が震えていると、乗り合わせたお客さんがカーディガンを貸してくれたこともあります。見知らぬ人々の母に対する温かい声かけや親切など、もう、感謝しかないですね」
2人の散歩が突然終わったのは、2017年11月。母がひどい腹痛で入院したことをキッカケに、老健(介護老人保健施設)に入所したのだ。だが、認知症対応の施設でも、騒いだり暴れたりすると退所させられるところは多い。
「手に負えないので連れて帰ってください」
他人の世話を拒む母が「家に帰せ」と騒いで、老健からこんな電話がかかってこないか。ヒヤヒヤしながら、新しい年を迎えた。
'18年2月、今度は篠田さんの身体に異変が起きた。
ブラジャーの右側乳首が当たる部分にぽつりと灰色のしみを発見。ごくごく小さなしみだが、乳がんの症状として乳頭からの出血があるとどこかで聞いた覚えがあった。
すぐ検査を受けると、ステージ1と2の間くらいの乳がんだった─。
「もし、母が老健に入っていなかったら、そのまま放っておいただろうなと思いますよ。しこりもなかったし。年寄りを見ていると検査を受ける余裕などありません」
あっさり口にするが、実際に親や義父母を介護していた子どもが病気になったり、先に亡くなってしまうケースは珍しいことではない。篠田さんの周囲でも、ひんぱんに耳にするという。介護に時間が取られて気持ちにも余裕がなくなり、自分のことは後回しになってしまうのだ。
それだけではない。篠田さんの場合、呪縛ともいえる母からの刷り込みがあった。
「年をとって、他人におしめを替えてもらって死ぬのは嫌だから」
幼いころから聞かされ続けた母の口癖だ。
過保護な母との幼少時代
大正生まれの母は看護師になり宮城県から単身上京した。父は八王子で盛んだった機屋(織物業)の長男だが戦争で没落し、戦後は織物を商品に仕立てる仕事をしていたという。
篠田さんが生まれたのは1955年(昭和30年)。ひとり娘を大事に育てて、結婚しても地元から出さず、ずっと自分のそばに置くというのが、母の考えだった。
母方の従姉妹の田中ミヨ子さん(仮名=75)は、篠田さんの母の実家で育った。尊敬する叔母の後を追い15歳で上京して就職したそうだ。
「おばさんは気持ちのハッキリした人で、やることなすこと明瞭で、憧れの人でした。私が入った会社の寮に、せっちゃんを連れて面会に来てくれたんですが、本当にフランス人形みたいなかわいい女の子でした。いつもおばさんのそばでお上品に座ってニコニコしていて。おじちゃんはやさしくて温和な人でした。せっちゃんの角がなくてほんわかしているところは、おじちゃん譲りじゃないかなと思いますよ」
母は娘が生まれると看護師の仕事を短時間勤務にして家にいる時間を増やした。買い物に行くときも、どこに行くにも娘を連れて歩いた。
「いちばんの味方はお母さんなんだから」
これも母の口癖だ。篠田さん自身、依存性の高い「“母子カプセル”に絶対入りそうな最悪の条件」だったと認める。
だが、2歳半のときに父が結核にかかり療養所に入ったことで、母子カプセルはまぬがれた。母がフルタイムで働いて生活を支える間、男の子が3人いる伯母の家に半年以上、預けられたのだ。同じ敷地にはやはり子どもが3人いる叔母の家があった。
「幼い子どものころだから、最初は母が恋しくて毎日泣いていました。でも、性格が形成されるいちばん大事な時期に、子だくさんな家で暮らしたことは、今考えるとすごくよかったなと思うんですよ」
小学校に入っても母と一緒にいることが多く、周りの子に冷やかされたりした。
どんな子どもだったのかと聞くと、篠田さんはひと言。
「空気読めない系の宇宙人」
と、まじめな顔で答えて、大笑いした。
「思いっきり不器用で、ガールズトークにはついていけないし、そもそも何が面白いのかわからない。戦後の集団主義教育が盛んな時代だけど、常に逸脱している子どもでした。逸脱したままきちゃいましたね。ハハハハハ」
中学に入ると担任教師からも過保護だと注意された。本を読むことが好きで成績もよかった篠田さんは進学校の受験をすすめられたが、電車通学を心配する母の意向で家から歩いて行ける都立高校へ。
ボーイフレンドに母が嫉妬
高校では水泳同好会に入った。ほかの部員は競泳用水着を着用するなか、篠田さんは体育の授業で使うスクール水着で試合に出た。母から「うちは貧乏だから」と常に言われていたこともあるが、もともと他人と違っていても気にならなかった。
「高校に入って色気づくと親より男ですよ。正常な成長なんだけど母親にとっては一大事。娘は親よりボーイフレンド優先だから、そら大変でしたね(笑)。机の中は常時チェック。私あてに来る手紙を開封するのは当たり前の世界」
篠田さんがボーイフレンドを連れて帰ると、母は家には上げず、玄関でお茶を出して見守っていたそうだ。
「このまま母親の過保護、過干渉を受け入れていたら自分は人間としてダメになるという危機感がありました。ただ、高校生の経済力では家出はできませんし、非行のたぐいにも興味はなかった。“お勉強して親から離陸する日を虎視眈々(こしたんたん)と準備する”という感じだったので、世間的には従順に見えたでしょうね」
古代のイタリア、ギリシャや中世ルネサンスに興味があり、絵を描くのも好きだった。大学に進学したいと切り出すと、母に「都心の大学はダメ、近くにある大学に行って薬剤師か学校の先生になれ」と言われた。
「せっちゃんが薬剤師になったら、何人殺すかわからないよね」
高校で友人に話すと、ゲラゲラと笑われた。
「私、超そこつなんですよ。病的なほど不注意でケアレスミスが多い。母は努力して直せと言うけど、友達は“あんたはそういうやつだから直らない”と。変な期待がないぶん、親より友達のほうが本質を見抜くものですよ」
自宅近くの小金井市にある東京学芸大学に進み、教育心理学を学んだ。クラシック音楽が好きで、学生オーケストラに入りチェロを始めた。
教員には向いてないと自分で判断し、公務員試験を受けて八王子市役所に就職した。
「母は大学まで出したのに、お茶くみなんかしてと相当落胆していました。私はお茶くんで給料もらえて、何の文句があるんだろう? と(笑)」
福祉、教育、保健などさまざまな部署で働いた。市立図書館時代の先輩で今も交流がある倉田雅恵さん(仮名=69)は、仕事ぶりもマイペースだったと証言する。
「篠田さんは自分の考えで物事を進めていって、それが周りとちょっとぐらい違っていてもそんなに気にしない。ゆうゆうマイペースなところがありましたね。昼休みによく書庫でチェロの練習をしていました。一緒にギリシャへ旅行したときは、ホテルにお土産は忘れるわ、パスポートはなくすわ。私たちは心配したけど、本人は慌てず騒がずという感じで、黙々と手続きしていました」
30歳のとき、カルチャーセンターの小説執筆講座を受講。その後、別の小説教室に通って、作家の故・山村正夫さんの指導を受けた。
市役所の職員から直木賞作家へ
文章力をつけて市の広報誌担当になりたいと考えたのが受講のきっかけだったが、それが、人生を変える出会いになった。
「それまで、家にいても、学校にいても、職場にいても、自分の居場所がない。この世界に生きていないなっていう感覚がずーっとあったんですよ。それが、ようやく地面に着地できたかなと。書くことによってというより、物語を作っていると、逆に現実感が得られたんです。小説を書き始めたら、次から次へと書きたいテーマが出てくる、出てくる。才能なのか、病気なのか、そこは微妙ですけど(笑)」
当時は分厚い眼鏡をかけていた篠田さん。「1度会ったら忘れられない強烈なインパクトがあった」と話すのは、『桶狭間の四人』『本願寺顕如』などの著作がある作家の鈴木輝一郎さん(59)だ。篠田さんとは山村さんの小説教室の同期で、30年来の友人でもある。
「山村教室の2次会では、2人で猥談とか、ずーっとバカ話ばかりしていました(笑)。ちょっとここでは言えないくらい露骨な単語が飛び交っていました。せっちゃんは平気でスッピンのまま顔合わせにも出てくるし、着るものにもかまわないし。女性らしさとはほど遠い雰囲気だったけど、作家としては天才ですね。それに、ようあれだけ取材するもんだと思うくらい努力もする。天才と努力と運と三拍子そろっているタイプだと思います」
'90年、篠田さんは『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞し、35歳で作家デビュー。市役所を辞めて、執筆に専念することにした。
そして、作家になってわずか7年後の'97年に、『女たちのジハード』で直木賞を受賞したのだ。
結婚したのは26歳だ。教育委員会で働いていたとき、都庁から出向してきた4歳上の夫と知り合った。
夫は篠田さんの「表裏がない素直なところ」に惹かれたと言い、親しい人からは「似たもの夫婦」だという声があがる。
母親の要望どおり、新居は実家の近くに構えた。
「母は“町育ちの気取り屋の男”と文句を言ってたけど、結婚したら、今度は“孫、孫、孫”と(笑)。孫が欲しいという気持ちは相当強くあったみたいですね。私も別に子どもをつくらなかったわけじゃなくて、1度できたけど流産しちゃって。その後は子宮内膜症で、そろそろまじめに不妊治療をと思っていた矢先に、新人賞をもらって、もうそれどころじゃない(笑)」
篠田さんが直木賞を受賞すると仕事の依頼が急増。夫は都庁を辞めて、妻を支える側に回った。
「ダンナに洗濯してもらって、ご飯を作ってもらって。私は口あけて待ってまーす。フフフ」
篠田さんがふざけた口調で言うと、隣で聞いていた夫はあきれ顔だ。
「楽天的というよりノー天気ですね(笑)。まあ、でも、そういうところがないとやっていられないし。嫌なことはすぐ忘れちゃうところは、夫婦ふたりとも似ているかもしれないですね」
決断にためらいはなかったのかと夫に聞くと、「本音を言えば、やりたくなかったですよ」と苦笑する。
「向こうは仕事が増えると、どうしても性格的にキーキー言ってくるし、私のほうも当時は忙しい部署にいたので、夫婦間の緊張感がアンバランスになっちゃって。どこかでバランスをとらないとマズい。まあ、そういう人生もありかなと」
感情の抑制がきかない認知症の母
だが、穏やかな生活は長く続かなかった。母の言動に「あれ?」と疑問を覚えることが増えてきたのだ。
感情の制御がきかなくなったのか突然怒り始めたり、想像を現実だと思い込んで、仲がよかった姉妹とも仲たがいをしたり……。
「母は60歳で看護師の仕事を辞めちゃったので、これは面倒だなと思ったんですよ。母が好きそうなカルチャーセンターの講座に申し込んだりもしたけど、行かない。親しくしていた友達がいたんですが、高級有料老人ホームに入って、“遊びに来て”と盛んに誘ってくれたけど、老人ホームと聞いただけで、嫌だと」
直木賞をとった翌年、母が74歳で認知症と診断された。これまでどおり、父と2人で生活はできていたが、電話がかかってくるたびに篠田さんは実家に走った。
「初期の認知症で必要なのは介護ではなくて、トラブルシューティングです。例えば家電やガス器具の点検、役所や銀行から来る書類の説明、人間関係の相談事も多かったですね。母は中期、後期に入ってもほとんど正常に見えたので、認知症だからと周りの人から大目に見てもらえなくて」
認知症になると風呂を嫌がる人は多いが、篠田さんの母も「風邪ぎみだ」など理由をつけて入らなくなった。そこで夏場なら窓を閉め切り、冬なら暖房で室温を上げる。母が暑くて服を脱ぎ始めると、風呂場に誘導した。
いらない物を捨てず家がゴミ屋敷のようになったり、汚れ物を洗濯せず同じ服を何日も着続けたりした。篠田さんが手を出そうとすると怒るので、母が別なことをしている隙にそっとゴミや洗濯物をかき集めた。
父は母の代わりに買い物に行き多少の家事もしていた。篠田さんが父を気遣うと「私よりお父さんが大事なのか」とひどく怒るので、父が白内障になったときも、ほとんど目が見えなくなるまで気づけなかった。
母の具合が悪いときは篠田さんの自宅に寝かせて面倒を見た。だが、篠田さんの夫が病人用に用意した食事には気がねして手をつけず、父に電話をして弁当を買ってこさせる。年寄りの遠慮とプライドは厄介で、温厚な夫がムッとすることもあった。
母の認知症は徐々に進んだが、介護サービスは頑なに拒否する。
篠田さんだけではどうにもならないときは、従姉妹たちの手を借りた。前出の田中さんもそのひとりだ。
あるとき、田中さんは久しぶりに篠田さん夫婦に会ったら、2人ともすごくやせていて、ビックリしたそうだ。
「眠る暇がないのよ」
そう言って篠田さんが見せてくれたのは携帯電話の着信履歴だった。
「絶句しましたね。多いときは5分おき、10分おきですよ。おばさんに“お腹が痛いから早く来て”と言われて、夜中に病院に連れて行ったら、何でもない。家に着くと、またすぐに呼ばれると言うんです。
どうしても、せっちゃんひとりの肩にガーッと押しかぶさってくるので、できることがあったら、お手伝いするよと言ったんです。せっちゃんが忙しいときには、おばさんの相手をしたり、電話をかけて話をしたり。今でも毎月、面会に行っていますよ」
父の死でひどくなった母の混乱
事態が一気に悪化したのは2013年だ。
1月に母が慢性硬膜下血腫で倒れた。手術は無事に終わったが、幻覚や錯覚などの症状がみられる夜間せん妄を起こして暴れるため、篠田さんは2週間病室に泊まりこんで付き添った。わずかでも篠田さんが不在の間は、母の身体をベルトで締めて動かさないようにと指示された。
「でも、一瞬でもベルトを使うと興奮が止まらなくなるんです。それで野放しにしたまま、こっそりトイレに行ったら、看護師さんに見つかって大目玉(笑)。認知症の高齢者が身体的な病気にかかった場合、精神科病棟以外で看る難しさを痛感しましたね」
翌年の正月に、今度は父が買い物帰りに車にはねられた。頭を打ち、意識混濁状態になり、7か月の入院の末に90歳で亡くなった。父の入院を境に、母の混乱はひどくなった─。
父が入院したことを母に説明しても、すぐに忘れて探し歩く。「面倒見るのが大変だから勝手に老人ホームに入れた」と娘を責める。しかたなく病院に連れて行くと大泣きする。
「父の病院に行き来する合間に、母の大混乱がもれなくついてくるので、そちらのケアが厳しかったですね。お葬式をしたこともすぐ忘れて“お父ちゃんは死んじゃったよ”と伝えるたびに、また新たに泣いてくれたけど(笑)」
作家仲間の鈴木さんは篠田さんと会う機会があると、介護の話をよくしたそうだ。鈴木さん自身、4人の介護を同時にしていたことがある。
「うちは人数が多かったけど、認知症は1人もいなかったんです。認知症って、あんなに大変なんだというのが実感ですね。タフなやつですよ。我慢強いというより、ガス抜きの方法を知っているんでしょうね。アネゴ肌で非常に面倒見のいいやつなので、僕の相談に乗ってもらうことも結構ありました。それも彼女自身の気晴らしになっていたのかなという気がします」
どんなに忙しくても、欠かさなかったのは週に1度のスイミングだ。あえて指導者のいるレッスンを選び、泳ぐことに集中した。
友人たちがかけてくれた言葉にも救われた。夫がメールで送ってくれた言葉には、今も励まされている。
《やまない雨はない》
左は大福、再建した右はグミ
乳がんの診断を受けたのは'18年3月だ。
どこの病院を選ぶか。手術は温存か切除か。切除なら乳房を再建するかしないか。選択肢を示されて、篠田さんは知り合いの医師などにも相談して冷静に決断した。
1か月後の4月に聖路加国際病院でがんを切除。転移の可能性はまずなく抗がん剤治療も必要なかったが、ホルモン剤の投与のみ行うことに。そして、8か月後にシリコンを入れる再建手術を受けた。
「以前、乳がんの患者さんが出てくる小説を書いたことがあって、手術はうまくいったけど、ずっと再発に怯えて人生観まで変わって……と書いたんですけど、よせばよかったなーと(笑)」
実際に自分が乳がんになったら、想像とはまったく違っていた。
「聖路加の先生たちの対応はサクサク進むし、余計なことで悩む暇もない。それに“実は乳がんでさぁ”と言うと、“私も何年か前に”という人が周りにいっぱいいるんですよ。みんな生きているし、彼女たちの話からこれから先どうなるのかわかるし。私にとっては、ありふれた病気という感じですね」
前出の職場の先輩である倉田さんも乳がんになり、10年前に温存手術をしている。
「篠田さんはいつも、私の胸を大きいと言うから、“全部取ってシリコンを入れるなら、もっと大きくしてもらえないの?”と言ったら、クソーと悔しがっていました(笑)。本当に大きすぎると重いし大変なんです。年をとるともういらないですよ。そんなこと言うと、乳がんの人に怒られちゃうかな(笑)」
篠田さんが再建を決めた理由はシンプルだ。スイミングをするとき水着の中に入れたパッドがはずれてプールにぷかぷか浮かぶ様子を想像し、「絶対に、嫌だ!」と思ったのだ。
「見てみる?」
そう言って、胸を広げて触らせてくれる。乳輪と乳首は作っていないので、ふくらみの上に横に1本線のような傷痕がうっすら見える。
「左は大福。再建した右はグミみたいでしょ。拘縮といって、皮膚が縮んでシリコンとくっついちゃうことがあるそうだけど、私は水泳で動かしているから大丈夫です。違和感はありますよ。ズキズキ、チクチク。季節の変わり目とかに出てきます。でも、まあよかったんじゃないかな。その気になればビキニも着られるし(笑)」
終始あっけらかんとしている本人とは異なり、夫は内心、不安もあったようだ。乳がんの診断以来、ずっと冷静で普段どおりに振る舞っていたが、妻の手術当日は朝ごはんを食べられなかったという。
「私の父親が悪性腫瘍で亡くなっているので、そのイメージが頭にあったし、もし入院が長引いたら義母の対応をどうしようかと」
介護ストレスが乳がんの原因
昨年10月には、これまでの経緯をつづったエッセイ『介護のうしろから「がん」が来た!』を出版した。
新しい情報を含めて発信することで、むやみにがんを怖がり、早期発見、早期治療の機会を逃して、命まで失ってしまうことを防ぎたいとの思いもあった。
手術から乳房再建に至るまで、同時進行の母の介護を交えて詳細に、かつユーモアたっぷりにつづっている。
編集を担当した集英社の平本千尋さん(38)は、「ユーモラスに書いて」と頼んだわけではなく、篠田さんの性格がそのまま文章ににじみ出ているのだと話す。
「お母さまが強烈な人なので、繊細な娘さんだったら心を病んでしまっていたかもしれません。逆に、篠田さんは何があっても“だって、しょうがないじゃん”と言えるような方だから、うまく付き合ってこられたのかなと思いますよ」
従姉妹の田中さんは篠田さんのことを「心の中にクッション材を入れているみたい」と表現する。
「おばさんが理解不能なわがままを言っても、“そうなんだべや”と流して、フワッと受け止めるんです。私もお年寄りの相手をすることが多いので、せっちゃんのまねをしたいなと思うけど、イラッとしちゃうこともあって(笑)」
母は老健からグループホームを経て、今は認知症病棟に入院中だ。在宅のときと比べて格段に楽になったとはいえ、今も週に2、3回は面会に行く。院内を歩かせたり、失禁して汚れた衣服を大量に持ち帰ったりしている。
長年にわたる介護のストレスが、乳がんの原因にもなったと思うかと聞いてみた。
「それは、確実ですね」
迷うことなく即答した。
「この前、母親を介護している女性作家の方から、髪の毛がものすごく抜けると聞いて、ああ、私も洗うたびに、お岩さんみたいに抜けていたという話で盛り上がった(笑)。年齢のせいだと思っていたけど、母が老健に入ったら全然抜けない(笑)。ストレスはこういう形で出てくるのですね」
介護する根底にはどんな感情があるのか。そう問うと、「ないっす。そんなもの」と笑い飛ばした。
「義務感です。浪花節じゃできないです。今の日本のシステムでは、何かあるとまず家族にお願いします、なんですよ。ほかに母を見る人がいないから、私がやるしかないでしょう」
現在、篠田さんは64歳。母に認知症の兆しが出てきた年齢まであと数年だ。何よりおそれているのは、自分が認知症になることだ。
「がんは余命宣告されてもラストが見えるじゃないですか。でも認知症はちょっと勘弁してほしい。娘がいないしね、私(笑)。たとえ娘がいても、子どもに同じ思いはさせたくない。ほとんどの人はそう感じていると思いますよ」
これから先、何が起こるかはわからないが、目の前の問題にひとつずつ対処していくだけだ。ケラケラ笑って、息抜きをしながら─。
取材・文/萩原絹代(はぎわらきぬよ) 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある