志村けんさんと、お母さんの和子さん

 志村けんさんが、3月29日、午後11時過ぎに新型コロナウイルスによる肺炎のため亡くなった。週刊女性2007年3月6日号の連載『忘れられない 母の味』でのインタビュー記事を再掲する(以下、本文は掲載当時のまま)。

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 オレは、“おふくろの味”でパッと浮かぶのは、すいとんですね。「すいとん」とかというと、あんまり裕福な感じはしないですけどね。うちのほうでは“握り団子”といったんですよ。上品じゃないんですよね。肉厚で中に野菜が入るんです。けんちん汁に近いので、行きつけの料理屋で、「けんちん汁にすいとんを入れてくれ」って指定して食ったことがあるんですけど。でも、やっぱり味が上品になる。あの味は、おふくろじゃないと出ないんだなあ。

サンマは1尾、一斉に競争ですよ

 うちは、おじいちゃんが農業をやってたんで、おふくろも手伝ってたけど、畑でさつまいもができると毎日3食、さつまいもが出てきたんですよ。カボチャの季節には、ずっとカボチャ。だから今でも、さつまいもとカボチャは食えないですけどね。その中に、たまにすいとんが入ってくると、すごくうまくてねえ。

「おふくろじゃないと出せない」。それこそが“おふくろの味”ーー。そして志村さんは、子供のころの食卓の様子を語り始めた。

 なんせ家族が多かったんでねえ。3人兄弟の末っ子で、あと、じいちゃん、ばあちゃん。おやじの兄妹もいましたからね。オレが小学生のころは10人くらいいましたね。囲炉裏(いろり)があって土間で食ってました。四角いテーブルを向き合って囲むんです。身体の弱いひいばあちゃんだけが、離れてひとり、お膳で食べてたけどね。

 おふくろは、みんなのご飯をお櫃(ひつ)からよそうので、いちばん端っこ。ご飯はおいしいっていうか……麦飯が多かったですよねえ。麦と米が半々くらいだったかなあ。うちのほうは、田んぼじゃないから米ができないんですけど、基本的に貧乏でしたからね。

 貧乏だから、サンマも1尾、食えないんですよ。しっぽか頭。小さいころは頭がイヤでねえ。苦くて。だから食うときは一斉に競争ですよ。

 志村さんが育ったのは東京都の東村山市。

 うちのほうは小麦粉がとれるんで“手打ちうどん”が名物なんですよ。冠婚葬祭、正月。親戚が集まると必ず、手打ちうどんなんです。だから手打ちうどんが作れないと、嫁としては一人前じゃないんですね。

 そういうときは、おふくろが勝手口の裏で、小麦粉をといてから、ずっと足で踏んでましたね。踏まないとコシが出ないといって。オレも手伝うんだけどね。体重が軽くて「だめだ」とかいわれて。親戚の子供をおんぶして踏んでた(笑)。これをゆでて、皿にのっけて。うちのほうではだしというか、ナスとか天ぷらとかと一緒に汁につけて食べる。うまいんですよねえ。

 志村さんが“おふくろの味”で次にあげたのが「厚揚げ」だった。

 これはご飯のおかずにも、酒の肴にも合うんですよね。しょうゆと砂糖でただ煮込んだだけ。それも、おふくろの味でしか出せないんだなあ。すっごいシンプルなんですけどね。自分でも作ったんですけど、「なんで、おふくろの味にならないんだ?」。

 聞いたら、その厚揚げを1回、湯通ししなきゃいけないんですよね。で、1度お湯を捨てて、目分量でちょっとお湯としょうゆ、砂糖を足すんだけど。オレがやるとその味が出ないんだよねえ。おふくろも、まったく目分量なんだけど、いつも同じ味が出る。ほんと不思議なんだよねえ。

 やがて「おふくろの味には、歴史あり」へと……

 子供のころは、常に「かわいそうだな」というのがありましたねえ。おふくろを見て……うん。いつも早く起きて、飯を作って、農業やって、昼戻ってきて、また出かけて。夜はまた晩飯を作って、後片づけをして、洗濯して、最後に風呂に入る。

 子供のころのおふくろって、ずっと動いている……という印象しかないですね。男尊女卑というわけじゃないけど、昔はそういうのが普通でしたけどね。

 で、昔の家らしく、砂糖とかをもらうと高価なもんだっていうんで、おばあちゃんがどっかにしまって管理しているんですね。それを、おふくろがもらいに行くんだよね。小麦粉を焼いてしょうゆに砂糖を入れてつけるとおいしいんだけど、ばあさんが、じいちゃんにいいつけるんですよね。「無駄な砂糖を使ってる」と。それを今度はおやじにいいつける。すると、おやじがおふくろを殴るんですよ。そういうのを見てるから……。

 おふくろも農家の出なんだけど、おやじが死ぬまでは黙々と働いてた。おやじが死んでからは、おふくろもやっと自分の時間を作って、旅行をするようになったけどね。

「暗かったですねえ。会話のない家でね。娯楽はテレビを見ることくらいしかなかった」。志村さんが明るさを、そして“笑い”を求めた原点が見えてくる。

19歳で子供ができちゃって

2007年、週刊女性のインタビューに応じる志村けんさん 撮影/千葉美幸

 高校2年生の時に、家を出て付き人をするようになったんだけど、月の給料から源泉を引かれると4500円。食えないですよね。メンバーが食ったラーメンの残りを集めて食ったり、ご飯にマヨネーズをかけて食べたりしていましたね。たまに実家に帰るとおふくろが「食ってるのか?」「食ってない」。黙って台所に立ってすいとんと厚揚げを作ってくれた。家を出る時に、金を握らせてくれたりしました。

 そんなころ、19歳で子供ができちゃって、堕ろすことになってね。どうしようもなくて、おふくろに金を借りに行ったこともありますね。100万円。相手の子のおやじさんが、ちょっと怖い人で、誠意を見せろみたいなことですよ。おふくろは出してくれた。あんまりグズグズいう人じゃないですからね。よく覚えてないけど「気をつけなよ」ぐらいしかいわれなかったんじゃないかな。頭が上がらないんですよ、おふくろには。

 おふくろにいちばん感謝しているのは、お笑いのセンスをもらったことですね。嫁に来る前は、踊りをやったりして“芸事”が好きだったみたいです。おふくろの実家は明るくて、笑うのが好きな家庭なんだけど、でも嫁いだ先の家の中に笑いなんてなかった。

 おやじもじいさんも厳格で怖かった。おふくろも笑いたかったと思うんです。正月とお盆に、自分の実家に帰った時は、笑顔を見せてましたから。

 そんな暮らしの中でも、遊び心があったなあ。小学生のころ、オレが朝なかなか起きないと、脇で針仕事をしながら、その糸に唾をつけてね、オレの顔にそれをつけるんだよね。ひゃーって飛び起きると、してやったりとばかりにニヤッと笑うんですよ(笑)。

 今では、人を笑わせるのもうまくなりましたよ。こたつの中で、黙って屁をしたりしてますから(笑)。

 おふくろは87歳になりました。僕の舞台が好きでね。昨年旗揚げした志村けん一座の公演も喜んでくれた。今年6月の舞台「志村魂2」も今から楽しみにしている(笑)。

 今は兄貴夫婦と同居してるんですけど、実家に帰った時には、必ずすいとんを作ってくれます。「ああ、やっぱり一生、この人には頭が上がんないな」と思いますね(笑)。

取材・文/鳥巣清典