(左から)カルーセル麻紀、原田龍二

 お茶の間の人気者から、一転。文春砲が見事に当たり、急降下の展開になってしまった原田龍二。ただひたすら反省をし続ける彼が、同じく世間を騒がせた有名人と語り合う! 第7回はニューハーフタレント、性転換、戸籍の性別改変など、さまざまなパイオニアであるカルーセル麻紀。芸能界のキーパーソンでもあり、数奇な人生を経験してきた彼女に、原田は太刀打ちできるのか……。

自分にしか見えない景色を見たい」──。

 熱い思いを抱く漢・原田龍二(49)。いま彼が見据えているのは、自身の過ちを反省した先に見える、新しい景色だ。すべてをさらけ出して先に進む原田が、人生の荒波にもまれて強く生きる人々と言葉を交わす本企画。今回のゲストはニューハーフタレントのパイオニア、カルーセル麻紀。自分だけの道を切り開いてきた彼女は、原田に何を語る?

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原田 小さいころから拝見していた麻紀さんにお会いできて光栄です!

麻紀 私もお会いしたかったー! ドラマでよくお見かけしてて、男性としてとてもステキだと思ってたの。週刊誌の記事も読んだけど、車でセックスなんて全然たいしたことないわよ。私なんて飛行機で男とヤったことあるんだから!

原田 さすがですね! 冒頭からすごい話になっちゃったな(苦笑)。麻紀さんもご存じのとおり、昨年報道された僕の不祥事がきっかけで、この企画が始まったんですよ。

麻紀 私も若いころは、よく週刊誌に追われたわ。市川猿之助(現・猿翁)さんに気に入られて東京中、遊び歩いたり、ストリップ劇場の日劇ミュージック・ホールのオーディションを受けさせてもらったり、いろいろ世話を焼いてくれたの。でも当時、猿之助さんの奥さんだった浜木綿子さんが「主人はカルーセル麻紀というオカマと不倫してる」って言いふらしたの。

原田 それからどうしたんですか?

麻紀 とりあえず遠くに逃げたわ。鹿児島にあった「エンパイア」という有名なキャバレーで1か月間、歌手やホステスをして雲隠れ。全然バレなかったの。

原田 まさに逃避行ですね……。僕の場合は麻紀さんほど壮絶ではありませんが、自分の過ちを反省して先に進むために、反省や後悔をテーマにして対談してるんです。

 ただ、麻紀さんの生き方と“後悔や反省”という言葉があまり結びつかなくて……。

麻紀 そうね。自分の人生に後悔はしてない。若いころは「生まれ変わるなら普通の男、普通の女、どちらかがいい」と思ったこともあったけど、77歳になった今は、もう1度生まれ変わるなら私がいいと思っています。

原田 はっきりとそう言える人はなかなかいないですよ。生きざまがロックンロール!

麻紀 自分ではわからないけど、私は自分のしたいことだけしてきただけ。本当に楽しい人生だったと思う。

小学生のころから違和感

原田 麻紀さんは、いつごろから現在の道を意識していたんですか?

麻紀 小学生のころから自分の性別に違和感があって、大人になったら芸者か女郎になりたいと思ってた。一人称も「僕」や「俺」と言えなくて、ずっと「私」って呼んでいたくらい。当時は北海道の釧路市という田舎に住んでいたし、今よりももっと理解がない時代だったから、みんな私のことを「(女の)なりかけ」って呼んでましたね。

 特に小学生って周りと違う子をいじめるじゃない? そういうときは、学校の番長に守ってもらったわ。陰では番長にキスされたり、胸を触られたりしたけど(笑)。

原田 でも、当時はそれが生き残る術だったんですね。

麻紀 そうね。無理して男っぽく振る舞うことはなかったけど、男の子が好きだとは、誰にも言えなかった。自分の中の違和感にモヤモヤしていたころに出会ったのが歌手の丸山明宏(現・美輪明宏)さん。美輪さんを見たとき「こんな生き方があるんだ!」と感動して、ゲイボーイになる決意をしたの。それから、15歳で高校を中退して家出。東京行きの列車に乗っている最中に見つかって、窓から飛び降りたわ。

原田 映画のワンシーンみたいですね!

麻紀 それだけ本気だったの。札幌にゲイバーがあることを知って、東京行きの列車を降りて「ベラミ」という札幌のクラブで働かせてもらった。入店したその日から、ステージで踊っていたわ。

原田 怒濤の展開で、ついていくのがやっとなんですけど、麻紀さんはすごく肝が据わっていると感じました。

麻紀 怖いものを知らなかったのよね。好奇心のほうが勝っていたから、何事も躊躇しなかった。19歳のときに、髭が生えてきたことに悩んでいたら、お店の先輩が「タマを取ればいいのよ」とアドバイスしてくれて、病院へ行ってすぐに去勢した。女性ホルモンの注射も打って、やれることは何でも試したわ。モロッコでの性転換手術もそうね。手術の怖さよりも「男の身体になる」ことのほうがイヤだったの。

原田 麻紀さんはお若いころからオンリーワンの道を歩いてきたんですね。芸能界の仕事はいつから始めたんです?

麻紀 私は今でも芸能界に入った覚えはないの。カルーセル麻紀の魂は日劇にあって、ストリッパーとして踊るのが仕事。劇場で稼いでいたから、ラジオや映画でもらったギャラなんて気にしたこともなかったわ(笑)。

原田 帰る場所は、劇場だったんですね。

麻紀 そうなの。あとは、週刊誌のグラビアも大切だった。下着の跡が残らないようにブラジャーやショーツははかず、いつでも裸になれるようにしていたんです。

原田 麻紀さんは本当にプロフェッショナルですね……!

麻紀 でも、そのぶんテレビやラジオはどうでもよかったから、不愉快なことがあったら本番中に帰ってたの(笑)。

 レギュラー番組を持っても夏のバカンスは絶対に行ったし、私が戸籍を変えた理由も、海外に行く機会がたくさんあったからなの。

原田 どういうことですか?

麻紀 特にアメリカ圏は私たちのような存在に厳しい時代があって、20歳のときにハワイに行こうとしたら、ビザがおりなかった。大使館に行ったら別室で裸にされて、いろいろ身体を調べられてね……。精神科に行って診断書を出してもらって、やっと1週間のハワイ滞在許可が出たの。さすがの私も、裸にされたときは泣きましたよ。

浮名を流した芸能人

原田 僕もジャングルの奥地や未開の山岳民族とか世界の危険地帯に行くのが好きなんです。同じ“過酷”でも、麻紀さんと僕はまったく違う世界の歩き方ですね。

麻紀 ホンネでは戸籍の性別なんてどうでもいいんだけど、海外に行くことを考えると女のほうが断然ラクね。

原田 麻紀さんといえば、芸能界でもさまざまなビッグネームと浮名を流していた印象があります。

麻紀 そうねえ。本当にいろんな男と遊びましたよ。最近お亡くなりになったお辰(梅宮辰夫さん)と文ちゃん(菅原文太さん)は、私を取り合ってたもの。札幌の仕事で全員がかち合ったことがあって、修羅場だったわ

原田 それはすごい構図ですね……!

麻紀 力が強かったお辰が私を勝ち取ったの。でも、文ちゃんもいい男だったわ。

原田 きっと天国でも「麻紀はいい女だったな」なんて、梅宮さんと菅原さんが思い出話をしてると思いますよ!

麻紀 そうだといいけどね(笑)。阪神の野球選手の間で、私がアゲマンだという噂が広まったときも大変だった。「明日は天王山だから男にしてくれ」とか、ヤクザは「博打で勝ちたいから麻紀さんの下の毛が欲しい」とか、連日、大盛況!

原田 まるで御神木ですね! すごいご利益だ……。お話を聞けば聞くほど、麻紀さんはオンリーワンですね。男、女、カルーセル麻紀、みたいに新しい性別を確立してると思います!

麻紀 アハハ! そうかもしれないわね。原田さんとはすごくしゃべりやすくて、他人の気がしない。ステキな時間をどうもありがとう。

原田 僕も麻紀さんとお話しして“他人と違う道を歩きたい”と、より強く思いました。ありがとうございました!

本日の、反省

 本当に濃厚なお話ばかりでした。きっと麻紀さんは、いろいろな悔しい思いもつらい経験もしてきているはずなのに、それでも「また自分に生まれたい」とおっしゃっていたのがすごく印象的でしたね。麻紀さんのお言葉を聞いて、自分はどうだろうと考えたとき「俺も俺に生まれたいな」と思いました。これまでの失敗も反省も全部ひっくるめて、また俺に生まれたい。新しい自分の一面を知るきっかけになりました。

PROFILE
●かるーせる・まき●1942年、北海道生まれ。15歳で札幌の「クラブ・ベラミ」で働きはじめ、その後、大阪「カルーゼル」など、全国の有名クラブを席巻する。以降、舞台や映画、ラジオやテレビで幅広く活躍し、1972年にモロッコで性転換手術を受けて話題に。2004年には戸籍上も女性となった。業界のパイオニアのひとりであり、生ける伝説。

■取材・文/大貫未来(清談社)■