3月30日、コメディアンの志村けんさんが新型コロナウイルスに感染し、肺炎で亡くなったというニュースにもっとも敏感に反応したのは台湾だった。どの台湾メディアも、おそらく台湾ではコメディアンに対する最高の敬称である「喜劇王」「爆笑天王」と呼び、志村さんの訃報を伝えていた。
東京都内を中心に新型コロナウイルスの患者数が増え続けているという報道に接しながらも、台湾国内で日本の感染状況を身近に感じることは難しかった。そこに飛び込んできた志村さんの訃報は、台湾国内に大きな衝撃を与えたと言っても過言ではない。
志村さんの訃報が伝えられた3月30日午後には、台湾の蔡英文総統が自らのSNSで日本語による追悼を行った。一国の元首が他国のコメディアンを追悼することは異例中の異例のことだ。このことからも、台湾における志村さんの存在感がどれだけ大きかったかがわかる。
台湾で浸透する志村さんのギャグ
しかし、彼はなぜここまで台湾で有名なのだろうか。
筆者の個人的体験からご紹介しよう。筆者は1990年代に台湾に住み、現地の学校に通っていた。校内で筆者が日本人だとわかると、クラスメートたちから必ず発せられた日本語があった。「なんだ、ちみは?」だ。
続いて「そうです、わたしが変なおじさんです」「変なおじさん、だから変なおじさん……」と、つたないながらも、日本語で一世を風靡した志村さんのギャグを口にするクラスメートは少なくなかった。それほどまでに、志村さんのギャグは台湾に浸透していたのだ。
志村さんが台湾で人気を得た背景には、1987年の民主化前後、政治的にも社会的にも躍動していた台湾社会で、体を張ったコントが台湾人の心をもわしづかみにしたからだろう。「笑いは国境を越えるか」という問いに、志村さんはまさしく「越えられる」と答えられるほどの人気を得たのだ。
今の30代後半から50代の台湾人は、経済は高度成長にありながら政治的には戒厳令という時代を生きてきた。メディアのコンテンツのほとんどは、当局の検閲を受けたものが流されていた。海外の情報はそんなメディアからしか得られないうえ、テレビの地上波放送局は3チャンネルしかなかった。台湾の人々は、とにもかくにも海外の生の情報に飢えていた。
そんな時代に出現したのが、ビデオテープとレンタルビデオ店だった。当時の台湾のレンタルビデオ店には、映画のほかに、日本の地上波テレビで放送された番組も録画されて貸し出されていた。その中でも高い人気を得たコンテンツはプロレスとアダルトビデオ(AV)、そして志村けんである。
リング上で死闘を繰り広げるプロレスラーに対して人々は喜怒哀楽をぶつけた。さらに、水しぶきが飛んだり、落ちてくるたらいに体を張って笑いを取ろうとするコントに、人々は腹の底から笑ったのだった。
中高年世代の中に残る志村さんの存在感
この3つのコンテンツに共通するのは、あまり高度な日本語力を必要としないことだ。しかし、人々の心を強く打つコンテンツは、喜怒哀楽がはっきりとしており、出演者が真剣勝負でぶつかるものではないだろうか。
その後、台湾社会ではケーブルテレビが発達してくる。台湾ではケーブルテレビのことを今でも「第四台」と言うことがあるが、これは合法な3チャンネルに次ぐ「4つめのチャンネル」という意味で、この時代の名残とも言うべきものだ。
ビデオは視聴したいときに貸し出しされていて手にできない可能性があるが、ケーブルテレビは30~40あるチャンネルの中から見たいときに見られるという利点が台湾社会で受け入れられた。
そのため、民主化前後の時代にレンタルビデオ店が担っていた社会的役割や影響が次第にケーブルテレビに移行し、人々はプロレス専門チャンネルや日本のバラエティー専門チャンネル、成人向けチャンネルを視聴する時代に移っていった。志村さんの番組についても、ビデオからケーブルテレビの専門チャンネルと発信元が変わりつつも、主要なキラーコンテンツとなり、台湾社会でもヒーローの1人になっていった。
ちなみに、2000年代に、日台間を結ぶ日本航空の子会社・日本アジア航空が台湾各地を紹介するCMに志村さんを起用し、日本における台湾の存在感を高め、それをみた台湾人も台湾のよさを再認識した。志村さんをキャスティングした理由は、これまで述べてきたような日台間での知名度の高さにほかならなかった。
志村さんが亡くなったことは本当に残念だ。だが、台湾での報道や社会の反応を見ると、今の台湾の中高年世代の中に、志村さんがいまだ色褪せずにしっかりと存在していることがわかる。志村さんが台湾社会に与えた影響と存在の大きさに改めて気づかされる。
高橋 正成(たかはし まさしげ)ジャーナリスト 特に台湾を中心に、時事問題をはじめ、文化、社会など複合的な視座から問題を考えるのを得意とする。現役の翻訳通訳者(中国語)。