ポリシーは、「できない」と言わないこと。日本初のスポーツ義足を作り、陸上クラブを創設したほか、世界初のヒールをはける義足やマタニティー義足を開発。ファッションショーまで開催し、患者が笑顔で挑戦できる場を生み出してきた。人生のどん底に立つ患者たちを、前へ前へと導く、オーダーメードの義足づくりとは―。
義足になっても楽しめる場所
抜けるような青空のもと、東京・北区にある東京都障害者総合スポーツセンターに、義足のランナーたちが集まっていた。
参加者は、上は60代から、下は小学校低学年の、総勢70人あまり。
板バネと呼ばれるカーボン素材のスポーツ義足にはき替えると、弾む足取りでグラウンドに駆け出していく。
「メンバーは全部で219人いて、北海道や九州からも参加します。グループLINEっていうの? あれができてから、連絡がラクになりましたね」
飾らぬ口調で話すのは、臼井二美男さん(64)。
義肢装具士として、のべ5000本もの義足製作・修理に携わり、日本におけるスポーツ義足の第一人者としても知られるスペシャリストだ。臼井さんが、義足ユーザーを中心とした陸上チーム『スタートラインTОKYО(2017年に『ヘルスエンジェルス』から改称)』を創立したのは、1991年のこと。
以来、30年にわたり、月1回の練習会を続け、ここを足がかりにパラリンピックの日本代表になった選手もいる。
「取材だと、パラの選手が話題になっちゃうけど、ここに集まるのは、ふつうの人がほとんど。義足になっても、身体を動かしたい、走ることに挑戦したい、そういう人が楽しめる場所なんです」
練習会にはボランティアで義肢装具士、理学療法士、スポーツトレーナーも参加しているが、義足ランナー同士が和気あいあいと走る姿が目につく。
「義足になって閉じこもりがちだった人が、自分を変えようとここに来る。そうすると、見違えるほど表情がよくなる。走るっていう目標ができるし、事故や病気で足を失った、同じ経験を持つ仲間がたくさんできることも励みになるんです」
いっちに、いっちに─。かけ声とともに、先輩ランナーと走る、勅使川原みなみさん(15)もそんなひとり。中学2年生のときに骨肉腫で左足のひざから下を失った。
娘の走りを見守りながら、母・里佳さん(38)が話す。
「初めて練習会に参加したときは、母娘してあっけにとられました。グラウンドの脇に、ずらーっと取りはずした義足が転がってて、『うわっ、こんな世界があるんだ!』って(笑)。娘は自分だけが特別じゃないって気づけたんですね。『義足あるある』で仲間と共感したり、居場所になっています」
ひと汗かいて戻ってきた城戸彰子さん(40)は、26歳のときに感染症で両足を切断したと話す。
「6年前に臼井さんに新しい義足を作ってもらって、松葉づえで歩けるようになったんです。それだけでもすごいことなのに、『走ってみない?』って私に─」
そこまで話すと、感極まったように言葉を詰まらせた。
「ごめんなさい、思い出しちゃった。すごくうれしかったんです。私でも、走ることを目標にしていいんだって」
創立から30年、運営は決して楽ではなかった。
スポーツ義足は、生活用の義足と違い、公費から補助が出ない。参加者に負担をかけないよう、1つ20万円くらいする貸し出し用の義足をそろえる必要があったからだ。
「5年くらい前から、職場が費用を出してくれたり、スポーツ義足を寄付してくれる団体が出てきてラクになったけど、それまでは生活用義足のあまった部品をスポーツ用に使ったりね。もう、孤軍奮闘。だけど、やめようと思ったことは、1回もない」
きっぱり言うと、メンバーたちの走る姿を見渡しながら、ポツリと言葉を足す。
「俺がやめちゃったら、元に戻っちゃうじゃない。せっかくのいい表情が」
ミニスカートが履ける義足
東京・南千住駅から徒歩1分の場所に、臼井さんが勤める、鉄道弘済会義肢装具サポートセンターはある。
ここは、リハビリ施設も完備された全国屈指の規模の製作工場。常時30人の義肢装具士が働いている。
臼井さんは勤続36年の大ベテランだ。
「臼井さんは患者さんに義足を合わせる能力がずば抜けています。でも、それ以上に、僕が驚くのはコミュニケーション力ですね」
そう話すのは、職場の後輩、義肢装具士の出口雄介さん(39)。臼井さんに憧れて、この道に入ったという。
「患者さんが、スポーツをやっていたような活動的な人なのか、あまり歩かない人なのか、何に興味を持っているか。自然な会話の中で聞き取り、ひとりひとりにぴったりの義足を作る。対応する患者数も多いのに、すべての人に対してです。簡単にはまねできないですね」
その言葉を裏づけるように、「オーダーメードの服のような義足を作ってもらった」と話すのは、都内のデザイン事務所に勤務する、イラストレーター・須川まきこさん(46)。15年前に血管肉腫を患い、左足の大腿骨を骨盤から切り離す、大がかりな手術を受けた。
「初めて自分の身体を鏡で見たときは、わかっていたけどショックでした。もう好きなおしゃれもできなくなると。でも、臼井さんが『ミニスカートがはける義足を作ってあげる』と言ってくれて。座ってもひざがぐにゃっとならないよう、外装を工夫してくれたんです。2度と着られないと思っていたワンピースを、また着られたときの喜びは、今も忘れられません」
須川さんの義足は、骨のかわりをする金属に、『外装』という肉厚なカバーをかぶせるタイプ。台所スポンジなどに使われるウレタン製の外装はミリ単位で削られ、上から厚手のストッキングをかぶせる。健足とそっくりで、どちらの足が義足かわからないほどだ。
広い世界を見せてくれた
一方、あえて外装をつけず、金属のままの義足を見せるのは勅使川原みなみさん。
『スタートラインTОKYО』の練習会にも、母娘で参加していた女の子だ。
「外装をつけると、なんかもやもやしちゃうかなって。私は最初から義足ってことを周りに知ってもらいたかったので、そのままつけています」
だが、ここにも臼井さんはひと工夫。みなみさんの義足のソケット(足の切断面と義足をつなぐ部分)は、おしゃれな迷彩柄で、よく見るとキラキラ光っている。
「迷彩柄は、臼井さんに好きな生地を選んでおいでって言われて自分で選びました。ラメは、義足ができあがったら、なぜかついてた(笑)」
臼井さんが言う。
「みなみは外装をつけないから、もっと華やかにしてみようかと。ドラッグストアでラメのネイルっていうの? 初めて買ってね」
20年ほど前まで、ソケットは肌色や白が一般的だったが、「リハビリ用具っぽい」とはきたがらない利用者もいた。そこでソケットの外側に好きな柄の布を貼れるように臼井さんは工夫した。
利用者に好きな布を買ってきてもらい、ソケットの形状に沿って貼りつけ、上から樹脂をしみこませて作る。和柄や花柄、好きなアニメのキャラクターなど、世界に1つだけのオーダーメード義足に個性がにじみ、愛着も湧く。
生地やラメを加工すればそれだけ手間がかかるが、臼井さんは惜しむことなく“思い”をのせる。
「はきやすい義足を作るのはもちろんだけど、モチベーションていうのかな、義足をはきたくなる要素を1つでも増やしたくてね」
その“思い”は、義足作りだけにとどまらない。
みなみさんの母・里佳さんが話す。
「みなみが高校進学に迷ったとき、臼井さんに相談に行ったら、『高校に行って、やりたいこと、見つけたほうがいいぞ』と言われたみたいで、その日のうちに『高校行く!』と決断して帰ってきました。中学を不登校ぎみになったときも、臼井さんは否定することなく、『みなみ、借りていいですか?』って、24時間テレビのイベントや職場に連れ出して、広い世界を見せてくれました。みなみにとって、臼井さんは誰よりも信用できる大人なんです」
進学に限らず、義足になって職を失った人にも、職業訓練校や公務員試験の受験などをアドバイス。今後の進路をともに考えている。
「この仕事をやっていて、いちばんつらいことは、患者さんが亡くなること。作ったばかりの義足が、はかれることなく送り返されてくることもあります。深刻な病気の場合、再発のリスクは5~7年はつきまとう。必ず治ってほしいから、前向きに生活できる環境を整えたい。そうすれば免疫力も上がるからね」
臼井さんは、足首の角度が調整できてヒールもはける、リアルコスメティック義足や、妊婦がお腹のふくらみに合わせてはける、マタニティー義足も世界で初めて開発。
精巧な義足を作るだけでなく、患者の心にしっかり寄り添う。この義足作りにかける並々ならぬ思いは、どのようにして生まれたのだろうか。
8年ものフリーター生活
1955年、群馬県前橋市生まれ。農業を営む両親のもと、兄と妹、3人きょうだいの次男坊として育った。
「農業だけじゃ、食べていけなかったので、父は板金工をやって、母は給食センターに働きに出ていました。そういう両親の姿を見て育ったから、働くのはちっとも苦にならなかった」
高校は地元屈指の進学校、県立前橋高校に入学。卒業後は、自由闊達(かったつ)な校風の和光大学人文学部に進んだ。
「高校時代はあんまり勉強しなかったなあ。親は地元の銀行員や教師になれってすすめたけど、将来の仕事も定まらなくてね。東京の大学に行くかって、上京したんです」
ところが、大学生になった臼井さんが没頭したのはアルバイト。ほとんど休みなしで、朝から晩まで打ち込んだ。
「ガードマン、バーテン、ワゴンでTシャツを売る露天商、音楽コンサートのビラ配り、トラックの運転手もずいぶん長くやったなあ」
アルバイト漬けで本業がおろそかになり、大学は3年生で中退。今でいう、フリーターになってしまった。
「親は心配だったんでしょうね。とにかく顔を見せろとせっつかれ、しぶしぶ実家に戻ったら、おふくろが俺の長袖シャツをさっとめくるわけ。東京で薬物に手を染めてるんじゃないかって、注射痕がないか確認したんです(笑)。当時は髪も長くて、ヒッピーみたいだったからなあ」
ちゃんと就職して、親を安心させたい。そう思うものの、アルバイト生活からは、なかなか抜け出せなかった。
「正社員にならないか?」、熱心な仕事ぶりが評価され、アルバイト先の上司から、誘われたことも1度や2度ではなかった。それでも、決してうなずかなかった。
「自分で言うのもなんだけど、まじめで一途な性格なので、正社員になったら、生涯その道一本にのめり込むとわかっていたんです。だから、一生を賭けたい仕事を見つけるまでは、中途半端に就職したくなかった」
フリーター生活は8年にも及んだ。ようやくピリオドが打たれたのは、28歳のとき。
真剣に結婚を考えたからだ。
「それが、うちの母ちゃん(笑)。2つ年下で、喫茶店で働いてたんで、よく仕事の帰り、顔を見に寄ってね。3年付き合って、結婚を考え始めたとき、彼女のおやじさんから言われたの。結婚するなら定職に就けって。もっともだよね」
これが弾みとなり、臼井さんは本気で職探しを始めた。
「こんな義足、はけねえ!」
36年前、現在勤務する鉄道弘済会を初めて見学した日のことを、臼井さんは鮮明に覚えている。
「当時、工場には20人ほどの職人が働いていて、半数が手や足のない人でした。もともと鉄道弘済会は、鉄道の仕事中に手や足を失った職員が働くために作られた義肢製作所だったんです。『きみは、手も足もあるのに、この仕事に就きたいの?』って聞かれたことが印象に残っています」
職探しを始めて間もなく、職業訓練校で、義足・義手製作の技術を学べる『義肢科』があると知り、強く引きつけられたという。
「義肢と聞いて、小学校の担任の先生を思い出したんです。若い女の先生で、病気で足を切断して義足になった。先生の不憫さや、触らせてもらった義足の硬さにショックを受けたこと、何もしてあげられないもどかしさなんかもよみがえってきてね。義足の仕事を覚えたいと訓練校への入学を決めたんです」
道が定まった臼井さんは、入学前に義肢装具士の現場を見学しておこうと、軽い気持ちで鉄道弘済会を訪れた。
すると、予想外の展開で、就職が決まったというのだ。
「採用内定者に欠員が出たとかで、急きょ、『うちに来ないか』と。驚いたけど、現場で仕事は覚えられるって言うし、見習いの半年が過ぎたら正社員になれるので、結婚もできる。ほんと、どこの馬の骨ともわからない俺を引っ張ってくれて、今でも感謝してます」
こうして、右も左もわからないまま、義肢の世界に飛び込んだ。配属は、義足製作。
「先輩たちが作った義足の外装を、削って仕上げる。最初の3年は、そればっかり。だけど嫌じゃないってことは向いていたんですね。中学時代も美術部で、ものづくりが好きだったし」
朝は誰よりも早く来て、夜遅くまで働いた。自分のパートを期日より早く終わらせると、「手伝います」と先輩の傍らにつくのが日課だった。
「修理の仕方も先輩によって違うので、積極的に聞いて覚えました。対処法をたくさん知っておけば、それだけトラブルに強くなれる。ただ、聞くときは気を遣った。職人気質でプライドを持っている先輩が多かったので、同じ質問を別の人にするときは、場所を選んだり。こういう人間関係の知恵みたいなことは、アルバイト時代の経験が、ずいぶんと生かされました」
入社4年目からは、いよいよ患者を受け持った。石膏で足型をとり、ソケットを作るところから、トータルで任される立場だ。
臼井さんは張り切った。
だが、患者の反応は思いもよらぬものだった。
「『入社何年目?』って、よく聞かれたけど、そもそも患者さんは大事な義足を若造なんかに任せたくない。これが本音なんです。『こんな義足、はけねえ!』って投げつけられたこともありました」
厳しい言葉に落ち込んだこともある。それでも、臼井さんは逃げなかった。
「どんなに無茶な要求をされても、『できない』とは決して言わない。納得してくれるまで、何度でも作り直しました。そうすると、患者さんのほうが変わってくる。こいつなら任せても大丈夫って思ってくれるんですね」
日本初の挑戦、スポーツ義足
入社5年後には、義肢装具士国家試験に合格。10年が過ぎるころには、勘所をつかんで作れるようになっていた。
しかし、「臼井さんで義足を」と全国から患者が来るようになった今も、慢心はない。
「一人前だなんて思ったことはないですね。最初から義足がぴったり合うこともめったにないし。患者さんの声を聞きながら、調整を重ねていく。それに尽きます」
完成すれば終わりではない。筋肉や体重の増減で、そのつど調整が必要になる。このときも、対応は敏速だ。
「担当した患者さんみんなに携帯番号を伝えています。直接電話をもらえれば、すぐに義足を調整できるから」
患者のためなら、労を惜しまない。携帯登録者数は、1400人にものぼる。
まだ日本にスポーツ義足が普及していなかった30年前、初めてスポーツ用の義足を開発したのが、臼井さんである。
きっかけは、入社して間もないころに見た、1本のビデオに始まる。
「アメリカ人女性の義足ランナーが、全速力で走る映像でした。少し前に、新婚旅行先のハワイで義肢工場を見学して、スポーツ義足があるってことは知ってた。だけど、実際につけて走る映像を見て、目が釘づけになった。こんなことができるんだって」
当時の日本では、義足の人は運動を避け、多くのことをあきらめるのが常識だった。
そのことに疑問を持った臼井さんは、いつかスポーツ義足をこの手で作り、義足の人を取り巻く環境を変えたいと熱い思いを胸に抱いた。
そして、入社6年後、満を持して会社と掛け合い、スポーツ義足を開発する許可をもらったのだ。
「支給された研究費で、さっそく、アメリカの義足メーカーから、バネのような『足部』と、『ひざ継手』という、ひざの部品を取り寄せて。それからは、無我夢中だった」
目指すは、スポーツ用の『大腿義足』。太ももからつけるこのタイプは、ひざの部分も金属製なので、歩くだけでも訓練が必要。それを、走れる義足にしようというわけだ。
「苦労したのは、ひざの部分。これがスムーズに動かないと、走るスピードについていけず、つんのめってしまう。それに、少しでも角度がよくないと、ひざがガクッと折れちゃう。ひざ折れは、大腿義足の人がもっとも怖がるアクシデントで、スピードを出せば大ケガにつながることもあります」
義足の人を走らせたい
日本初の挑戦だ。身近にお手本はない。試行錯誤の日々が続いた。
「義足先進国のアメリカやドイツの文献に載っている写真を、それこそ穴があくほど眺めては、構造を理解しようと必死でした」
就業時間内は本業の生活用義足を作るので、スポーツ義足に取り組めるのは、夜になってから。それでも寝る間も惜しんで打ち込んだ。
「義足の人を走らせたい!」、その一心だった。
待望の試作品1号が完成したのは、2か月後のこと。
最初の試走者に選ばれたのは、「度胸がある、タカちゃん」こと、任田孝子さん(55)。当時、20代半ばだった。
「ハハハ、おてんばだったので、『やる!』って二つ返事で引き受けました。臼井さんに教わって、足を思い切り、ぽん、ぽんて踏み出したらすぐ走れたんです! 小走りだけど、気持ちよかった。4歳で足を失ってから、走る感覚を初めて味わえました」
孝子さんは、その後、結婚や出産で走ることから遠ざかったが、最近、再び走り始めたという。
「東京オリンピックの聖火ランナーに応募したのがきっかけだけど、子育てが終わって、また走りたいって思ったのは、初めて走れた感動が忘れられなかったからですね」
孝子さんが試走して以来、「タカちゃんに続け」とばかりに、次々と患者たちがスポーツ義足に挑戦。その走りを研究し、臼井さんはさらに義足を進化させていった。
義足ランナーの練習会を立ち上げたのもこのころ。
5人からスタートしたメンバーは年々増え、10年たったころ、パラリンピックの出場選手を輩出するようになっていた。
2016年リオパラリンピック。満員の観客が見守る中、女子100メートル決勝に臨んだ日のことを、大西瞳選手(43)が振り返る。
「私、すごく緊張しいで、国内の大会でもスタートラインにつく間に吐き気をもよおすほど(笑)。リオではどうなることかと本気で心配でした。でも、緊張するどころか、会場の大歓声を浴びて、ああ、夢が叶うってこういうことだって、心から楽しんで走ることができました」
23歳のときに感染症が原因で、右足を太ももから切断した大西選手は、臼井さんとの出会いから、パラリンピックへの道が開けたという。
「『走れるようになると、きれいに歩ける』って臼井さんに誘われたのが始まりでした。先輩ランナーのカッコよく走る姿を見て、当時抱えていた義足のコンプレックスもなくなり、私の義足を見て!って思えるほど、走るのが楽しくなっていったんです」
学生時代に陸上部だった大西選手は、タイムもめきめきアップ。2008年、北京パラリンピックを観戦し、「いつか私も!」と心を決めた。
パラリンピック選手のサポート
それからは、仕事と練習を両立。臼井さんとともに走りやすさを追求して義足の改良を重ねた。
「臼井さんは、私の意見を絶対に否定しないんです。そのうえで、さらにこうしてみるよと、工夫を加えてくれる。このさりげない配慮が、すごくありがたかったです」
まさに二人三脚で、8年後、リオで念願の日本代表(100メートル・走り幅跳び)に選ばれたわけだ。
「あの大きな舞台で、のびのびと走れたのは、臼井さんの存在も大きかったですね。選手村では毎晩のように話をしたり。場内でも臼井さん、私を使って海外の義足の選手の写真を撮ろうとするんです。『瞳ちゃん、一緒に撮ってあげるよ』って親切なふりして(笑)。本当は義足の研究が目的なのに。臼井さんがふだんどおりだから、私たち選手も緊張がやわらいだんですね」
2000年のシドニーから、毎回選手に同行している臼井さんは、パラリンピック特有の雰囲気が、選手を萎縮させることを知っていた。
「初出場の選手は特に、雰囲気に圧倒されて、飲まれちゃう。調子が出ないと、義足のせいにしたくなることもある。そんなときは、『任せとけ』って調整したふりをして、そのまま戻しちゃう」
現地に入る前に、義足は入念に仕上げてある。あとは、気持ちの問題。だからこそ、臼井さんは選手に安心感を与えることに心を砕く。
今夏、開催予定だった東京パラリンピックは新型コロナウイルスの影響で1年程度の延期が発表された。だが、選手と向き合う臼井さんの姿勢は変わらず前向きだ。
「1年間猶予ができたなら、僕は義足のもっと新しい部品を使えるように調整して、選手のパフォーマンスレベルがより高まる義足に仕上げていきたいと思っていますよ」
来年、臼井さんの魂がこもった義足で、何人もの選手が心新たに夢舞台に立つ予定だ。
これから選考会に臨む、大西選手が言う。
「北京、ロンドン、リオと、回を重ねるごとに、パラリンピックの会場は盛り上がっています。もう福祉のパラというイメージはなく、観客は選手のパフォーマンスを心から楽しんでくださってる。開催国の選手が活躍すると、さらに盛り上がります。私も代表に選ばれたら、全力を出し切りたいと思っています」
義足のモデルでファッションショー
鉄道弘済会には、花をあしらったアート感覚の義足や、しゃれた靴などが収納された衣装部屋のような一角がある。
「ファッションショーで使ったもの。このサンダルなんか、俺が買ってきたの。誰かにはいてもらおうと思って」
2014年、義足の女性たちの躍動的な姿を撮影した写真集『切断ヴィーナス』(撮影・越智貴雄)の出版を機に、翌年、石川県中能登町で義足の女性たちによる初めてのファッションショーが開かれた。
モデルとして参加した、前出・大西瞳選手が話す。
「臼井さんは15年も前から、義足のモデルでファッションショーをやりたいって言ってたんです。とんでもないこと言うなあ、誰が見るの? って聞き流していたんですが、実現させちゃった(笑)。義足はカッコいい、見せるものっていう、臼井さんの考えに時代が追いついてきたんですね」
前出・イラストレーターの須川まきこさんも、ステージに立ったひとり。
「金属の義足で登場するので、ちょっと衝撃的ですよね。私たちが緊張すると、お客さんも反応に困っちゃうので、思い切り楽しみました。それが伝わって、お客さんもすごく盛り上がってくれて」
元気な義足女子たちは、義足は不憫で隠すものというイメージを、笑顔で吹き飛ばした。以来、全国から声がかかり、多いときは年に数回、同様のファッションショーを開催している。
大西選手が話す。
「都会に比べて地方は義足を見慣れていないので、偏見が残っている場合もあります。地方でこそ積極的にショーをやって、義足や義足ユーザーを身近に感じてほしいですね」
イベントで、イラストを担当し、義足の女の子を描いている須川さんも話す。
「義足の女の子のファッショナブルな絵を描けば、思春期で義足になった女の子にも喜んでもらえるかなって。私なら、誰よりもリアリティーをもって描けますから!」
2人の言葉は物語っていた。
10年、15年と臼井さんとともに歩むなかで、「支えてもらう人」から、「支える人」へと成長していることを─。
臼井さんが話す。
「足を切断するってことは、どん底からのスタートです。だけど、仲間ができたり、スポーツやカルチャー、それぞれが得意分野で自分の力を発揮できるようになると、どんどんたくましくなっていく。そういう変化を見られるのが、僕の喜びであり、この仕事の醍醐味なんですね」
齢64歳。昨年、定年を迎え、現在は嘱託として同じ条件で再雇用されたという。
「ありがたいですね。まだ発想力や体力も鈍ってる感じがしないので、とりあえず70歳くらいまでは続けていきたいと思っています」
平日は義肢装具士としてフルで働き、休日も練習会や国内の陸上大会への付き添いと、ほとんど休みはない。
「うちの母ちゃんが怒らないかって? ひとり息子が独立して、母ちゃんも保育園でパートしながら、エレファントカシマシの追っかけしてますから(笑)。感謝してます。結婚して35年、好きなことをやらせてくれる、母ちゃんに」
夫婦の時間はいつか引退してからのお楽しみ。
今日も、臼井さんは義足を作り、患者と向き合う。
義足で歩き出す、新しい人生を輝かせるために─。
取材・文/中山み登り(なかやまみどり) ルポライター。東京都生まれ。高齢化、子育て、働く母親の現状など現代社会が抱える問題を精力的に取材。主な著書に『自立した子に育てる』(PHP研究所)『二度目の自分探し』(光文社文庫)など。高校生の娘を育てるシングルマザー。