新型コロナウイルスに侵され、この世を去った希代のコメディアン・志村けんさん。
4月1日放送の追悼特番には、突然の死を悼んで志村さんが所属していたザ・ドリフターズ(以下、ドリフ)のメンバー加藤茶、仲本工事、高木ブーがそろって生出演した。
《長さん(編注:'04年に亡くなったいかりや長介さん)も、まさかお前が最初に来るなんて思ってもなかっただろうな。ビックリしたと思うよ。長さんの次は高木ブーだと思ってたもんな》
番組の最後、志村さんへの弔辞。加藤は長年の盟友を失った悲しみを、あえて笑いにかえて爆笑を誘った。
「放送前にメンバーとスタッフで話し合って、“湿っぽく送り出すのはやめて、俺たちらしく笑っていこう! アイツも暗い番組は喜ばないよ”と決めたそう。いかにもドリフらしい送り出し方でした」(番組制作会社関係者)
志村さんが高校在学中からドリフに弟子入りし、'74年、24歳で正式メンバーになるまで“付き人”としてドリフを支えたという下積み時代は、あまりにも有名だ。当時、一緒にドリフの付き人を務めていた俳優のすわ親治(当時・しんじ)も、言葉を選びながら志村さんを悼む。
合わないやつとは打ち解けようとしない
「とにかく今は、ただただ、ご冥福をお祈りするとしか……。もう30年も志村さんとは会っていないですし、僕がメンバーを差し置いて何かお話しするのはね……」
それでも、志村さんとのあるエピソードについてだけは語ってくれた。
「昔からよく言われるんですけど、僕が“6人目のドリフ”だというのは、みなさんの間違いなんです。正しくは志村さんが先輩で、僕は志村さんの4年も後に入った後輩。だから、本当の6人目は志村さんなんです。僕はただの付き人ですから」
“ただの付き人”と本人は謙遜するが、当時のすわは、兄弟子である志村よりも先に『8時だョ!全員集合』(TBS系)などで舞台デビュー。そのため'74年に元メンバーだった故・荒井注さんがドリフを脱退した際には、誰もが「すわが次のドリフメンバーになる」と思っていた。志村さんが抜擢されたことで、すわが正式メンバーになれなかった─とも言われた。
「いやいや、そんなことはありませんよ。順番からいっても志村さんだったし、何よりあのとき、僕自身は“ドリフに入りたい”とは思っていなかったですしね(笑)」
志村さんと同じ小学校の地元の旧友・岸田正さんによると、その付き人時代は「そうとう大変だった」ようだ。
「弟子入りしたはいいものの、あまりに忙しいのとキツいので、志村が“夜逃げ”してきたことがあったんですよ。しばらく埼玉所沢のスナックでアルバイトをしていました。お客さんの前でお酒をイッキ飲みして笑いをとって、“売り上げを伸ばした”と言ってました。ただ“素”の志村は正直に言えば、神経質で気難しいやつでしたね」
岸田さんは、志村さんを含めた中学の同級生4人で『CHAINS』というバンドを組んでいたこともある。彼が知るのちの喜劇王は、決して明るくはなかった。
「クラスで目立つこともなく、ごく普通でした。同級生でも気心知れたやつとはよくしゃべるんだけれど、合わないやつとは打ち解けようとしない。黙っちゃう。ただ人を笑わせることはやっぱり好きだったんでしょうね。校歌を歌うときなんか、隣の友達にだけ聞こえるような小さな声で、わざと“ズーズー弁”で歌ったり」(岸田さん)
そんな志村さんが、はっきりとお笑いの道を意識したのは、ドリフに付き人志願することになる高校時代。同じ高校に通っていた旧友のひとりは、こんなエピソードを。
「志村が『コント55号』のモノマネをみんなの前で披露して、大ウケしたことがあるんです。それで一気に人気者になって。女の子にもモテ始めて、手作り弁当をもらったりしていました」
自分の身を削って生み出していた“笑い”
いしのようこ、優香、みひろ……数々の年下女性タレントとの浮名を流した“モテ男”の片鱗も、このころから見せていた。志村さんは高校在学中にもかかわらず、ある女性と同棲をスタートさせる。
「付き人の月給は5000円。それっぽっちじゃ食えないから、彼女の実家がアパートをやっているとかで、その1室で一緒に暮らし始めて。その後、新宿に引っ越して、しばらくは仲よくやっていたんじゃないかな。その女の子の名前が“ひとみちゃん”と言ってね。志村のコントに“ひとみばあさん”というキャラクターが出てくるでしょう? その子の名前を拝借したというわけです」(当時を知る芸能プロ関係者)
そうした女性たちとの交際がトラブルに発展したこともあったと、かつて週刊女性のインタビューで自ら語っていた。
《19歳で子どもができちゃって、堕ろすことになってね。どうしようもなくて、おふくろに金を借りに行ったこともありますね。100万円。相手の子のおやじさんが、ちょっと怖い人で、誠意を見せろみたいなことですよ》
ドリフのコントよろしく、それでも懲りないのが志村さん。前出の岸田さんも、女性に軽口を叩く志村さんの楽しそうな横顔を忘れられない。
「私は25歳から10年ほど地元でピザ店をやっていたんですが、『東村山音頭』でバーンと売れた後もよく顔を出してくれて。ただ、志村が店に来るときはうれしい反面、大変でした。急いで知り合いの女の子をお店に呼ばないといけなかったのでね。アイツ、若い女の子だと、初対面でもよくしゃべるんですよ(笑)」
ピザ店の女性客と“デキて”しまったことも。
「でも、その女性のほうが一枚上手で、別れるときに手切れ金を請求されちゃって。“200万円も取られたよ”ってボヤいてました。女好きなんだけど飽きっぽくてフッちゃう。だから長続きしなかったですね」(岸田さん)
酒も好きだった。東京・麻布十番を、お気に入りの女性を連れて毎晩のように飲み歩く志村さんの姿は、もはや街の風景のひとつでもあった。ただそれは、ストイックなまでに“志村けんの笑い”を突き詰め続けなければいけない、というプレッシャーの裏返しでもあったのだろう。
「付き人のころから、“ほとんど寝てなかった”というくらい仕事とネタ作りに追われていたからね。ほかの付き人が居眠りしている間も自分で一生懸命ネタを作って、いかりや長介さんや加藤さんに見てもらったり、自分で営業電話もかけたりしてね」(前出・芸能プロ関係者)
努力の末に、誰もが認める存在になった。だが、その裏で、人気者になればなるほど、笑いを取れば取るほど、求める“理想の笑い”のハードルは高くなっていった。
20代のあるとき、追い詰められた志村さんは、とうとう“事件”を起こしてしまう。
「そのころ、中野ブロードウェイの上の高級マンションに住んでいた志村さんが、部屋で大酒かっくらって泥酔して、ガス自殺をしかけたことがあったんです。幸い大事には至らず、志村さんのお兄さんが迎えに行って実家に連れ戻したんだけれど、志村さんは、そこまで心身を削って自分の笑いを作っていたんですよね。“笑い”の悩みなんて誰かに相談することもできないし。そういった意味では孤独な人、だったのかな……」(前出・芸能プロ関係者)
笑いの神様に、ひとり挑み続けた人生だった─。