エコファーム・アサノのオーナーである浅野悦男さんは海外の超有名シェフまでもが畑に足を運ぶ、野菜づくりの名人だ。いたずらっ子のような笑顔で楽しく語る彼の人生は、実は開拓の連続。常に前向きに逆境を乗り越えてきた生き方とは─。
都心から高速道路を使って、車で1時間あまり。訪れたのは、千葉県北部に位置する八街市。高速を降りて一般道をしばらく走ると、畑の風景が広がり、目的地の『シェフズガーデン・エコファーム・アサノ』が見えてきた。
広々とした敷地を入っていくと、「こっち、こっち!」、張りのある声とともに、母屋から男性が出てくる。白いひげをたっぷりと蓄え、黒のベレー帽にジーンズ姿。小柄なのに、全身からパワーがみなぎる。
余計なことをしない。ただそれだけ
この人こそ、農場のオーナー、浅野悦男さん(75)。農家というより、骨太の芸術家、といった雰囲気だ。
「服がおしゃれだって? そんなことないよ。野良仕事で土だらけだもん」
豪快に笑い飛ばすと、「2月のこの時期は、野菜が少ないけど、ちょっと見てみるかい?」、裏の畑へと案内してくれた。
浅野さんが作っているのは、スーパーでは売られていない西洋野菜が中心で、『シェフズガーデン』と名がつくように、出荷先は主に都内のレストランだ。
「これは、イタリアのそら豆でファーベっていうの。うちでは実じゃなくて、花を売ってるんだ。食べてみる?」
差し出されたのは、白くて、紫色がアクセントの可憐な花。口に含むと、驚くことにそら豆の甘い香りが広がる。
「前菜に出したら、目でも舌でも楽しめるってわけ。これはプレコーチェ。チコリの仲間で、こうやって外側をはがしていくと、鮮やかな紫色が出てくる。『アタシ、脱いでもすごいのよ』ってね(笑)」
おやじギャグを織り交ぜながら、プチヴェール、ビーツ、ルッコラなど、さまざまな野菜を味見させてくれる。
どれもなじみの少ない野菜だが、素人でもわかる。とにかく、味が濃い。そして、甘みと苦味がしっかり感じられる。どうやって作っているのか尋ねると、浅野さんはあっさり答える。
「そんなの、特別なことなんか何もしてないよ。余計なことをしない。ただそれだけ」
年に1度、米ぬかやもみ殻、緑肥作物のスキ込みをし、種を蒔く。収穫までは、追肥はもちろん、水やりもほとんどしない。
「水なんてやらなくても、自然に雨が降るでしょ。雨が降らなきゃ、植物は自分で深く根を張るの。生き抜くために。だから強く育つ。野菜本来の味がする。それを、過保護に育てるから、ダメになる。子どもを育てるのと一緒。ほったらかしがいちばんいいの」
ほったらかしと言いつつも、畑はきれいに整えられ、愛情を込めて育てていることが見て取れる。
浅野さんが作る、力強い野菜は、シェフの間で評判を呼び、かつてはフランスの三ツ星レストランのピエール・ガニェール氏や、コペンハーゲンの有名レストラン『ノーマ』のレネ・レゼピ氏など、世界のビッグネームも、畑を見に来たことがあるほど。
2・5ヘクタールもの畑は、「今は、ばあさん(妻)と2人でやってるから」と、3分の1ほどに縮小しているが、野菜の味は折り紙つき。年間、30軒あまりのレストランと取引があるが、新しく取引を希望する店も少なくない。
納屋で新メニューの誕生も
しかし、初めてのシェフは、1つだけ守らなければならないルールがある。これが、豪快な浅野さんらしい。
「シェフに畑に来てもらって、まずは俺の野菜を食べてもらうってことだよ」
畑にシェフが訪れると、野菜をつまみながら、大いに語り合う。それが浅野さんの流儀だ。
「シェフの料理に対する考え方や、どんな野菜を求めているかを知りたいってこと。そうすると、新しく作る野菜のヒントにもなるしね」
刺激を受けるのは、浅野さんばかりではない。
野菜を味見したシェフは、それを使ってテストキッチンと呼ばれる納屋で、料理を試作。新しいメニューが誕生することも多い。
イタリアンレストラン、クリマ ディ トスカーナ(東京・本郷)のオーナーシェフ・佐藤真一さん(42)も、畑を訪れるたびに腕をふるうと話す。
「とれたての野菜をその場で使えるスピード感に加え、浅野さんの野菜は、味が濃い。初めてお目にかかる野菜もあるので、創作意欲が掻き立てられます。蒸したり、焼いたり、煮込みやピューレ、パスタにしたりと、思いつくままに作らせてもらう。店からアンチョビやチーズを持参することもあるけど、基本的には味つけはごくシンプルにします。そのほうが、野菜のおいしさをストレートに楽しめますから」
畑を訪れたシェフの試作料理を味わいながら、浅野さんが、肉や魚との組み合わせをアドバイスするのもいつものこと。これが、プロ顔負けなのだ。例えば、ベゴニアの葉を、料理に使うときは─。
「ビネガーで酸味を作ったら、肉や魚全体に回ってしまう。だけど、ベゴニアの葉で酸味を足せば、肉の味と混ざるのは葉っぱを噛んだときだけ。肉の味もはっきり残る」という具合。
こういった会話の中から、メニューのヒントを仕入れるシェフも少なくない。
イタリアンレストラン、清澄白河フジマル醸造所(東京・清澄白河)のシェフ・甲山雄也さん(28)が話す。
「浅野さんは野菜の個性をよく知っていて、僕ら料理人とは別の視点で、思いもよらぬ素材との組み合わせを提案してくれます。中でも驚いたのは、自家製のベゴニアの花のジャム。鮮やかな赤色で、花の酸味が残っていて、肉料理と合わせたら絶品。こういう使い方もあるんだと、参考になりました」
俺、店のスタッフだと思っているから
成長途中の野菜や、花のつぼみも、今が旬と判断すれば収穫する。味はもちろん、料理として皿に盛ったときのビジュアルを考えてのことだ。甲山シェフが続ける。
「浅野さんには何センチサイズの葉野菜が欲しいとか、10円玉サイズの食用花が必要というように、具体的な大きさも発注できます。ぴったりのサイズが届くので、作りたいひと皿が完成します。これは、顔の見えない生産者さんではできないことです」
小ぶりの赤かぶやビーツを葉つきのまま皿にごろっとのせれば、美しさもひとしお。
理想のひと皿を作るために浅野さんは労を惜しまない。
「ふつうの農家は、野菜を“食べ物”として出荷するけど、俺は、自分の野菜がどう料理されて、どう盛りつけられるかまで考えて届けたい。色にもこだわるから、毎シーズン、パリやミラノのコレクションなんかもネットでチェックしてる。流行柄や流行色を参考にして、野菜や野菜の花を作るわけ」
なぜそこまでするのかと問えば、間髪入れずに答える。
「だって俺、店のスタッフだと思ってるから」
レストランの一員として、シェフの腕が鳴るような野菜を届ける。それがうれしいと言い切る。
佐藤シェフが話す。
「冬になると届く、寒じめのほうれん草の味の濃さといったら。あれ以上のものを食べたことはありません。お客様もよく知っていて、浅野さんの野菜を楽しみにしてます」
野菜にかける情熱は、70代になっても衰えるどころか増すばかり。この熱き魂を持つ、農家・浅野悦男は、どうやって誕生したのだろう。
「好きなことは、とことんやるけど、嫌いなことは見向きもしない。俺、昔っから、ひねくれもんだから(笑)」
生粋のひねくれもの
1944年、ここ千葉県八街市で生まれ、代々、農業を営む両親のもと、4人きょうだいの長男として育った。かつては本家と分家が隣接していて、浅野さんの実家は分家だったという。
「当時は本家も分家も一緒に畑をやってたんで、子どものころから大勢の大人にまじって、手伝いをしてました。長男の使命感? そんなんじゃないな。楽しかったから」
そう話すと、身振り手振りを交えて振り返る。
「収穫した麦を乾燥させるときは、こうやって積み上げていくの。高くなると俺がてっぺんに上ってさ、大人から麦を受け取るわけ。ある程度、高く積むと、はしごをかけてもらって下りてくる。これが楽しくてね。大人もほめてくれるし、豚もおだてりゃ木に登るじゃないけど、俺は麦に登ったわけ」
家業を手伝う一方、小学校では勉強もよくできたというが、その理由が“ひねくれもの”の浅野さんらしい。
「俺ね、友達が集まって遊んでても、輪の中に入らず、じっと観察してるような子どもだったの。めんこをしてたら、どうやったら勝てるのか、考えるわけ。なんでだ? どうしてだ? って疑問を持つことが、俺の遊びだったから。同じように、授業中も先生の癖を観察して、テストに出るところを当てちゃう。だから、勉強は嫌いだったけど、成績はよかった」
嫌いな勉強も、まじめに取り組んだのは、本家の祖父・鷲太郎さんの影響もあった。
「小さいころから大のおじいちゃん子でね。学校から帰ると、毎日、じいちゃんのところに顔を出してた。そうすると、必ず聞かれるの。『今日は何の勉強したんだ?』って。ちゃんと答えたいから、授業はまじめに聞いてたわけ」
名は体を表すというが、一族を束ねる鷲太郎さんは、威厳があり、農家でありながら日経新聞を愛読するようなタイプ。知識も豊富で、浅野さんは子ども心に尊敬していた。
「だから、じいちゃんから言われたことは、しみついてます。人が頭を下げて、ものを頼んできたら、できる限り力になれって言葉とか」
ひねくれものでも、友達は多かった。それは、祖父の教えを守ってきたからだろう。
地元の八街市立二州中学校を卒業後は、教師のすすめで農業高校に進学した。しかし、卒業を待たずして、退学の道を選んでいる。
「俺、知りたいことは学びたいけど、強制的な勉強は大嫌い(笑)。本当はもっと早くやめたかったけど、高3の新学期に修学旅行があるっていうんで、関西旅行を楽しんで、帰ってきた翌日に退学届を出したんだ」
わが道を貫く性分は、両親も祖父もお見通し。黙って退学を許したという。
儲からない貧農システム
こうして、農家の長男坊は、17歳の若さで家業を継ぐことになる。
「朝から作業着に着替えて、両親と畑に出る。毎日、その繰り返しだったけど、働くのはちっとも苦にならなかった」
働き手の中で誰よりも若い。力仕事も率先して引き受けた。頼もしい息子に、両親は次々と新しい仕事を任せたという。
「トラクターで土を耕す仕事も任されるようになったんだけど、使い勝手がよくなくてね。いろいろ試して、板を1枚挟んだら、もっと効率的に土を分けられるようになるって気づいたの。それで、町の鉄工所に持ち込んで、直してもらったこともある」
そう、「疑問に思うことが、俺の遊び」。
農家の仕事は、浅野さんの好奇心に次々と火をつけ、「毎日が新しい発見の連続だった」と振り返る。
ところが、収穫の時期を迎えたころ、農家の厳しい現実に直面することになる。
「おやじと初めて取引の現場に行って、驚いた。うちの作物に値段をつけるのが相手なの。手塩にかけて育てても、相手の言い値。ふつう、食品だってなんだって、値段をつけるのは売り手だよね。なのに農家はなんで、自分で値段をつけられないんだって、まったく腑に落ちなかった」
当時、畑で作っていたのは、麦、落花生、里いも、しょうがなど代々続く作物だった。これらの収穫に合わせて、現金収入は年に2回のみ。夏は主に麦を売るが、ビール麦は企業が買い取り、小麦は国が買い上げるため、値段が低く抑えられてしまう。秋に収穫して年末に売る落花生も、安く統制され、いくらにもならなかった。
「だから、貧農。それでもやってこられたのは、本家のじいちゃんが商売人だったおかげなの」
日経新聞を愛読するほどの鷲太郎さんは、経済情勢を読み、知恵を絞って収入を増やしたという。
「例えば、精米機を買って、無料で米を精米させてあげて、お金のかわりに、出た糠を置いてってもらう。これを肥料として農家に売るんだけど、そこでもお金を取らずに、収穫した落花生で納めてもらう。それを倉庫に積んどいて、相場の高いところで一気に売りさばくわけ」
祖父の手腕を間近で見て、浅野さんはつくづく思った。
「人と同じことをやってちゃダメだ。じいちゃんみたいに、独自の視点が必要だ」と。
しかし、若かりし浅野さんに、祖父のような力はまだついていない。新たな道を開拓していくのは、しばらく先のことになる。
いい土でうまい野菜を育てる
野菜作りの“肝”といえる土について尋ねると、「“ツチ”って漢字、どう書く?」と、子どもにクイズを出すように、逆に聞き返す。
「土っていう字は、プラス(+)とマイナス(-)でできてるよね。これ、地球を表してるの。地球には、プラスとマイナスの磁場がある。そうN極とS極。それが狂うと、人間は体調が悪くなる。土も一緒。乱れるとバランスが狂う。だから、そうならないように、余計なことしなきゃいいの」
それは、化学物質を使わない有機農業のことかと聞くと、身を乗り出すようにして答える。
「有機農業っていうのは、本来ないと俺は思っているの。だって有機って、毒性があったりするんだから。有機が安全ていうのは、誰かが作ったイメージ。使い方自体が間違ってるわけ。仮に、有機野菜イコール無農薬野菜っていう使い方をしたとしても、じゃあ種はどうなの? 種は農薬を使った野菜からとれたものかもしれない」
浅野さんの口調は、どんどん熱を帯びる。真剣なのだ。
20代から、専門書を読み漁り、実際に試してきた。経験に裏打ちされた知識量はハンパではない。有機農法の講演会などに行くと、専門家の話の矛盾点が、すぐにわかってしまうほどだ。
「肥料も農薬も、必要なときに最低限を使う。土の磁場が狂わない程度に、身体に安全なものを。だから俺の野菜は、有機なんてうたってない。農水省に『有機野菜』っていうお墨つきをもらえば、高く売れるのかもしれないけど、有機って使い方自体が疑問だから、俺はそれはしない」
前出・佐藤シェフが話す。
「浅野さんと栽培法の話をしたとき、完全無農薬ではないと聞きました。僕らだって、病気になったら薬を使って治す。それと一緒なんです。自然由来の農薬を必要最低限は使う。野菜のためにそうしているという話が、すごく腑に落ちました。浅野さんの話を聞いて、食材の見方や選び方も変わりましたね」
有機や無農薬という言葉に踊らされず、自分にとっての「あたりまえの農業」を実践しているのだ。
いい土で、うまい野菜を育てる─。
30代、40代と独自の農法で作物を作りながら、浅野さんは出荷ルートを広げていった。地元にできた出荷組合にも加入。葉野菜も作るようになり、国の指定産地として出荷を任されるようにもなった。
「これで確実な出荷量が見込める」、経営も安定した。ところが、1990年代に入り、バブルが崩壊。取り巻く環境が一転した。
「サツマイモの価格が急落したんだ」
このとき苦い思いが蘇った。
「手塩にかけて作った野菜の値段を、自分で決められない。これじゃ、いつまでたってもおんなじだってね」
これを機に、浅野さんは当時、珍しかった西洋野菜へと大きく舵を切る。50代を迎えたころのことだ。浅野さんが作るルッコラは、葉が厚く、苦味が深い。その味は、取引先のシェフの間でも評判なのだろう。
取材中も、電話注文をしてきたシェフが、「ルッコラ、あるんですか!」と声を高くしているのが聞こえてきたほどだ。
ちいせえクセに味が濃いな
1990年代後半、最初に手がけた西洋野菜が、ルッコラだった。
「当時、珍しかった輸入野菜でルッコラっていうのがあると知ってね。国内でも種が手に入るっていうから、作ってみようと」
種を蒔くと、ひと月もしないうちに、たわわに育った。さて、これをどうするか。浅野さんは出入りしている野菜のバイヤーに、サンプルを託した。すると、驚くほどに反響があった。
「東京のレストランを何軒か回ってもらったら、名店と呼ばれるイタリアンやフレンチのシェフが、仕入れたいと飛びついてくれたんです」
それも、取引を希望したのは、『リストランテ・ヒロ』の山田宏巳シェフや、『アクアパッツア』の日高良実シェフなど、そうそうたる顔ぶれ。
独自の農法で作られる『味の濃い、西洋野菜』は、一流シェフたちの舌をうならせ、瞬く間に評判になった。
これを皮切りに、さまざまな西洋野菜に挑戦する日々が始まった。
「シェフが海外から持ち帰った新しい野菜の種を仕入れてね。作り方なんて誰も知らない。わかんないのが楽しいの。1年はとにかく種を蒔いて、見てればいい。ちいちゃいときにつまんで食べたりして、このやろう、ちいせえくせに、味が濃いな、なんて確かめながらね(笑)」
フランスやイタリアにどんな野菜があるのか、海外の本を取り寄せて研究も重ねた。一方、取引先のレストランにも積極的に足を運んだ。
「都会なんかめったに行かないし、地下鉄もよくわかんなかったけど、俺の野菜がレストランでどんなふうに出てくるか知りたかったんだ。そうすると、ほんのちょびっとしか使ってないわけ。てことは、1回に量はいらない。それより、色や形、大きさにこだわって種類を多く作れば、喜ばれるだろうと」
こうして、多品種、少量栽培で手がける、今の形に行きついた。レストランと直接取引する、独自の販路も開拓。売値も自分で決めた。経営は軌道に乗った。農場は新しい形へと生まれ変わった。
「農業なんて、もともと開拓することが使命だから、こうでなければと決めつけること自体がダメなの。野菜を料理して付加価値をつけるのはシェフ。そのシェフが欲しい野菜を作れば、よろこばれるし、値段も自分で決められる。成功例があれば、作る人も増えて、品質も上がる。それでいいと、俺は思ってる」
以来20年以上、開拓精神を貫き、西洋野菜を作ってきた。しかし、第一人者となった今も、思いは当時のままだ。
「まだまだ知らない野菜はいくらでもある。だから楽しい。次はどんな野菜を作ったら、シェフたちは面白がってくれるかな。そんなことを考えながら作ってるんだ」
浅野さんは、農家を志す人に惜しげもなく、独自の農法を公開している。
「教えるんじゃないんだ。相手が何を知りたいかもわからないし。俺のやり方で、一緒に畑をやって、質問には答える。あとはどう判断するか、任せるってこと」
来る者は拒まず。多くの志願者を受け入れてきた。
二重の介護と広がるファミリー
現在、スペインで日本の野菜を生産し、レストランに出荷している、農家・二見英典さん(38)も、そのひとり。
2014年、スペインに渡る前の3か月間、浅野さんのもとで研修をしたという。
「通いで毎日、浅野さんと畑に出て、野菜や肥料のことを教わりました。畑だけじゃなく、コンビニにまでくっついて行ったほどです。片時も離れなかったのは、浅野さんの目線や、ものの考え方も吸収したかったからです」
農業は自然が相手だ。予期せぬ自然災害で痛手をこうむることもある。昨秋、千葉県を襲った台風15号でも、浅野さんの畑は浸水し、多くの作物が被害を受けた。
「畑が池みたいになって、何日たっても水が引かないから、ポンプを買ってきて吸い出してね。白菜は全滅かと思ったら少し残った。これが生命力が強くて、ひと味違う」
そう、被害を受けても、一喜一憂することはない。そこには、自然を相手にする者の覚悟が見て取れる。
二見さんが話す。
「スペインで農業をすると決めたとき、友人や知人は、見知らぬ国で農業をやるなんて無謀だと言いました。だけど、浅野さんは『いいね。楽しみだ』と前向きに応援してくれた。多くのことを乗り越えてきた浅野さんの言葉だから、心に響いたし、背中を押してもらえました。自分なりに覚悟を決め、スペインに渡って5年。おかげで今、妻と2人、根をおろしています」
浅野さんは、自身の畑だけでなく、必要とあらば、地方にも出向く。東日本大震災で津波の被害を受けた仙台の畑にも、新幹線で通った時期がある。
「海水の塩に浸かった土だからできる、シーアスパラっていうのがあってね。何もつけなくてもうっすら塩味がするの。それを育てたらいいんじゃないかと、3年くらいかけて、一緒に作ったんだ」
なぜそこまでするのか。そう問うと、浅野さんはさらりと言った。
「多くの人とつながれば、俺の野菜があちこちで引き継がれる。それがうれしいの。うちは後継者がいないから」
24歳で見合い結婚をして、50年以上がたつ。
浅野さんは、「なれそめ?そんな大昔のこと忘れちゃったよ」と煙に巻きつつ、「ばあさんは、人生最大の失敗は、俺と結婚したことって言うかもしれないな」と笑う。
ともに畑をする妻・正江さん(75)がほがらかに話す。
「あの人、家の中では無駄口しないの。俺は俺、ってタイプだから。でも、芯は優しい人。私、このとおり腰が曲がって、外出先で不自由なときがあるんだけど、いつだって手を貸してくれます」
2人の息子にも恵まれ、夫唱婦随で農家を営んできた。そんな夫婦に、思いもよらぬ出来事が起きたのは10年ほど前のことだ。
浅野さんが話す。
「跡継ぎだった長男が、脳梗塞をやってね。今も重いマヒが残ってる。長男の子どもも、生まれたときから障がいがあるから、うちは2人の介護をしてる。デイサービスや福祉の世話になりながら。逆転だもん。介護するほうと、されるほうが」
そこまで話すと、吹っ切るように言葉を足す。
「なったもんはしょうがない。農家は自分の代で終わりってこと。だから、いろんな人たちに、(俺の野菜を)継いでもらって、それぞれの場所で育つといいと思ってる」
正江さんが話す。
「せがれが脳梗塞になったとき、私たち夫婦の人生も失われたような気がしました。でも、研修生や大勢のシェフが、息子や孫のようにお付き合いしてくれる。それが、あの人の生きがいなんです」
俺、いつも1年生だから
今回、取材をした関係者の言葉もそれを物語る。甲山シェフは、昨秋の台風のあと被害を心配し、店のスタッフと駆けつけたという。
「野菜が浸水したと聞いたので何か手伝えないかと。浅野さんは、実家のおじいちゃんみたいな存在ですから」
佐藤シェフは「妻と結婚する前から、デートは浅野さんの畑でした」と振り返る。
スペインの二見さんも帰国するたび、畑を訪れるという。
「4歳の娘は、浅野さんを『畑のおじいちゃん』と慕っていて、孫のように可愛がってもらっています」
浅野さんがしみじみと話す。
「みんなの顔を見るのが、俺のいちばんの活力。本当の孫や息子みたいに思ってます」
野菜がつなぐ縁が、野菜を作り続ける原動力になっているのだ。
これからの目標を尋ねると、「今を一生懸命に生きるだけ」と短く答え、「俺、いつも1年生だから」と、無邪気に笑う。
17歳から農家として働く大ベテランでも、天候などに左右され、必ず理想の野菜が作れるとは限らない。そう考えると、まだまだひよっこという意味だ。
そして、もうひとつ。これが、浅野さんらしい。
「1年生になるときって、ドキドキ、わくわくするでしょ。これから何が始まるのかって。それと一緒。俺、毎年、5種類は新しい野菜を植えるようにしてるんだけど、こいつらがどんなふうに育つのか、何とも言えず、楽しみなんだよね。この気持ちが枯れない限り、続けていこうと思ってる」
そう話す顔は、まるで少年のように見えた。
◇ ◇ ◇
2月の取材から1か月半後、再び浅野さんに連絡をとったところ、新型コロナウイルスの影響で、レストランからの注文が軒並みストップ。収入が激減しているという。
しかし、打つ手なしかと思いきや、持ち前のバイタリティーは健在だった。
「農園に研修で来たり、いつも遊びに来ていた女性たちが、レストランからの注文が減ってるんじゃないかと心配して連絡をくれて。その可愛い娘たちが、『自宅で食べるから送って』と、宅配のとりまとめをしてくれたんだよ。ほんとうにありがたい。感謝の気持ちを込めて、とれたての野菜セットを発送してる。ウイルスに負けず、なんとか乗り切りたいと思ってる」
ピンチになったとき、救いの手が差しのべられるのは、浅野さんの人徳だろう。新型コロナウイルスが終息に向かい、レストランで浅野さんのおいしい野菜を楽しめる日が来ることを願ってやまない。
取材・文/中山み登り なかやまみどり ルポライター。東京都生まれ。高齢化、子育て、働く母親の現状など現代社会が抱える問題を精力的に取材。主な著書に『自立した子に育てる』(PHP研究所)『二度目の自分探し』(光文社文庫)など。