「自己表現ではなく、人の役に立つモノづくりがしたい」。阪神・淡路大震災と恩師や身内の死による喪失感から、生粋の芸術家は絵が描けなくなり、デザインの仕事を始めた。大きな挫折と悲しみを乗り越え、生み出したメダルデザイン。そこには、アスリートの努力と険しい道のり、周囲の支え、つらい時期を経験したからこそ輝きが増す栄光、そんな「光と影」が繊細に表現されていた。

2019年7月、東京五輪のメダルデザイン発表会見で金、銀、銅の実物が披露された (写真/共同通信)

羽生結弦選手の姿に胸を打たれた

 津軽三味線奏者である吉田兄弟の演奏と元新体操選手・坪井保菜美さんのダンスパフォーマンスで華々しく幕を開けた2019年7月24日の「東京2020オリンピック1年前セレモニー」。注目のメダルデザイン発表では、トップアスリートが壇上にズラリと並び、まばゆいばかりに光り輝く金・銀・銅のメダルがお披露目された。

「色みが深いですね」とウエイトリフティングの三宅宏実さんが見栄えのよさを絶賛。すでに現役を引退している女子サッカーの澤穂希さんも「もう1度、選手に戻って五輪を目指したくなりますね」と目を輝かせた。

 このメダルをデザインしたのは、大阪・天王寺でデザイン事務所『サインズプラン』を運営する川西純市さん(52)。本業はサインデザイナー。病院や学校、商業施設内の案内板など、人々のスムーズな行動を促す案内誘導のピクトグラム(絵文字)やロゴマーク、グラフィックの計画に携わる。

 421人がエントリーしたコンペティションを見事に勝ち抜いた川西さんが、メダルデザインで試行錯誤した過程をこう振り返る。

「最初は月桂樹をスケッチしながら、紙の上でグルグル輪を回していたんです。人が手をつないで輪を作る絵も描いたけど、宇宙人みたいになって(苦笑)。そんなとき、ふと『世界の輪、友情の輪を入れたいな』と。仲の悪い国同士でも手をつなぎ合えるのがオリンピック。多様性を認め合うことを伝えたかったんです」

「光と輝き」「アスリートや周りで支える人々のエネルギー」「多様性と調和」この3つの要素がひとつの光の環になるデザイン。

 渦をかたどる曲線が特徴で、それぞれ異なる角度で彫られているため、向きによって「光と影」が生まれる。ここに川西さんは強い思いを込めた。

「アスリートというのは家族や友達、周囲の人の支えがないと成功できない。うまくいっているときばかりではないし、調子が上がらず苦労するときもある。そんな部分も『光と影』で表現したいなと感じました。そう強く思ったのは、2018年平昌五輪の男子フィギュアで連覇した羽生結弦選手の姿を見たとき。足のケガを乗り越えて栄光をつかんだ頑張りに胸を打たれました」

 ネット上では「クッキーみたい!」「ジャムをのせたらおいしそう」といった書き込みもあったが、川西さんは「みなさんに親しみを持ってもらえるのならうれしいです」とやわらかな笑顔を見せる。

 新型コロナウイルスの感染拡大で大会の1年後ろ倒しという前代未聞の事態が起き、日本中が揺れ動いているが、川西さんは今、何より平和を願い、東京五輪が安心・安全に開かれることを祈っている。

「コロナのこともそうですけど、人生というのは何が起きるかわからないですよね。予期せぬ困難が突如として目の前に現れるかもしれない。本当に油断できないと思います。そんなときこそ、今を大事にひとつひとつ、しっかりと仕事をしていきたい。それはアスリートのみなさんも同じ気持ちだと思います」

 五輪延期という苦難に直面した選手たちに思いを馳せつつ、自らを奮い立たせる。

 川西さんの人生もまた紆余曲折の連続だった。自然災害に翻弄され、愛する家族との別れに涙し、一時的に絵が描けなくなるなど、波瀾万丈の人生を送ってきた。だからこそ、選手の努力の軌跡や、周りで支える人々にも目を向けた繊細な作品を生み出せたのではないだろうか。

喘息持ちの少年、絵画の道へ

 1964年の東京五輪から3年後の'67年。川西さんは経済成長著しい大阪で生をうけた。両親と2歳下の弟の家族4人、東住吉区杭全町で育った。当時の大阪は光化学スモッグがひどく、喘息ぎみだった川西少年は身体を丈夫にするため、少林寺拳法の道場に通った。

弟と小学1年生の川西さん(右)

 そんな矢先の'72年、近所を流れる平野川の大氾濫で、自宅が水害に遭う。父は絨毯を裁断して貼りつける見本帖の工場を経営していたが、機械がダメになり、廃業に追い込まれた。

 そこから大阪府内で2度引っ越し、さらには「松阪に引っ越すで」という父のひと声で三重県へ転居。結局、6年間で5つの小学校を転々とすることに。転校を繰り返す日々は複雑だったが、自然いっぱいの松阪への移住で、喘息は完治し、元気いっぱいの少年へと変貌した。

 美術の才能が開花し始めたのもこのころ。小学生のときに歯科衛生ポスターで松阪市長賞を受賞したのを皮切りに、中学時代は松阪百景の木版画で特選に入るなど、一目置かれる存在に。才能を高く評価した中学校の担任が、宇治山田商業にいた美術の先生に「こういう子がいるから面倒を見てほしい」と打診した。

 高校入学後は美術クラブに入り、サルバドール・ダリなど超現実主義の画家に憧れ、夢中で絵を描き、賞をとった。

 当時はまだ「芸術で飯を食おう」とは真剣に考えてはいなかったが、美術の先生から「推薦で大阪芸術大学に進まないか」と声をかけられ、気持ちが大きく変化する。

 '86年、日本中がバブル景気で華やかなころに入学。川西さんの周りにも高級車を乗り回したり、高価な画材を惜しげもなく使ったりする裕福な学生がいたが、自身は奨学金を借りて安い家賃の下宿に住み、アルバイトをしながら抽象画の制作に精を出した。

 3~4年時は日本屈指の洋画家・版画家、泉茂先生の研究室に入り、アトリエに通い詰めるようになった。

卒業制作の絵画の前にて

「形にはエネルギーがある。丸を描いたときにできるひずみやゆがみは何を意味しているだろう。それを考えなさい。わからなかったら作品を描いて持ってきなさい」

 泉先生は常日ごろから学生にこのような問いかけをしていた。川西さんは「自分を1人のクリエイターとして扱ってくれている」とうれしくなり、創作意欲が湧いたという。

「卒業制作は3mの高さの絵画を制作しました。『輪廻転生』を表現した絵画は10万円で買い手がつきましたが、実は材料費だけでその倍なんですよね……(苦笑)。それでも人生で初めて値段のついた作品ということで思い出深いものになったのは確かです」

 抽象画をより突き詰めたい思いが高まり、卒業後も同大学の専攻科に進学。本来、1年で修了するところを2年間、懸命に学んだ。それから3年間はデザイン学科の研究室で副手として勤務し、作品制作を継続した。

震災、恩師と父の死で絶望

 '95年1月17日の5時46分。兵庫県の明石海峡を震源としてマグニチュード7・3の大地震が発生する。

「なんか地響きがするな……」

 大阪平野区の自宅兼アトリエで眠っていた川西さんは揺れの直前に異変を感じ取った。窓の外を眺めていると、部屋中がグラグラと激しく揺れ始め、身構えた。物が落ちたり、壊れたりという直接的な被害はなかったが、過去に感じたことのない感覚に襲われ、放心状態に陥った。

「アパートの一部が壊れて住めなくなった彫刻家の友人が僕の家に1週間ほど来たんですが、『絵や彫刻では困っている人を直接的には助けられない。芸術やってて何の意味があるのかな……』と2人して虚無感に襲われました。泉先生は『自分のすべてをぶつけるのが表現だ』と言っていましたけど、本当にそんなことをしていていいのだろうかと迷いやジレンマを感じました。自分が生きている意味もわからなくなってきて、精神的にかなり落ち込みましたね

 西淀川高校や都島工業高校の美術の非常勤講師の仕事はかろうじて続けたが、メンタル的にも、経済的にも限界が近づいていた。専攻科時代の同期で現在は絵画作家の粟国久直さん(54)は、当時の芸術界の窮状をこう明かす。

「関西の経済界が大打撃を受けた影響で、活動が立ち行かなくなった芸術家や作家はたくさんいました。収入がなくなっただけでなく、勤め先を解雇されたり、住む家を失う人もいて、全く将来が見えなかった。彼みたいなきまじめな人ほど精神的に追い詰められたのかなと。僕ら友人には何の泣き言も口にしませんでしたけど、本当につらい時期を過ごしていたと思います」

 悪いことは重なるもので、恩師・泉先生が5月に急逝。がんを患っていた父の容体も悪化した。「余命1年」と宣告を受け、大阪と松阪を行き来しながら看病に励んだが、翌'96年2月には永遠の別れが現実に。とうとう川西さんは絵が描けなくなった。

「この年は無気力状態で、フリーターみたいな生活をするのが精いっぱいでした……」

 そんなとき、救いの手を差しのべたのが、のちに妻となる真寿実さんだった。京都府内で開かれた個展に友人と足を運んだのが縁で知り合ったという。

京都府内で開いた個展は、妻・真寿実さんと出会うきっかけにもなった

「夫の絵を初めて見たとき、『ああ、ナイーブな絵を描く人なんだな』と感じました。1・5m四方の大きなキャンバスに、塗り重ねた白や紫などかすかな色で染色体のイメージが描かれていて、全体に淡い色使いでしたね。しゃべったときは人当たりがよくて、作家仲間やギャラリーの人にさりげなく気配りしているのも印象的でした。『こういう絵を描く人はどんな生活してるんかな』と興味が湧きました」

サラリーマンになる!

 2人は徐々に信頼関係を深めていった。美術に造詣が深く、写真も手がけていた真寿実さんはよき理解者となり、彼女の存在が再起のエネルギーにもなった。

「ズタボロだったんで、明るい彼女が近くにいてくれるだけで救われました」

 泉先生や父の死という耐えがたい苦しみに直面するたび、献身的にサポートしてくれた彼女との結婚を真剣に考えるようになった。28歳のとき、ひとつの重大な決断を下す。抽象画家の活動にいったん見切りをつけ、サラリーマンになろうと心を固めたのだ。

「結婚するにあたって、僕に収入がないんじゃ、ご両親に挨拶にも行けない。モノを作りながら収入を得る方法をまじめに考えました。世の中や多くの人のためになる仕事をやりたいと思うようになって。30歳を前に生活を変えるのは思いきりのいることだったけど、飛び込むしかなかったですね」

 職探しを始め、『ランドスケープのデザイン』という職種の募集を見つけた。面接に行くと、経歴を見て何も言わずに採用してくれたという。

「思い切った決断ではありましたが、何事もやってみないとわからないと思っていましたから」と独立前の心境を語る川西さん

 転身を打ち明けられた粟国さんは「苦渋の選択だったはず」と複雑な思いを代弁する。

「川西さんは在学中から作家活動をしていたし、関西のみならず、関東にも進出して知名度もあった。僕にしてみれば、頭ひとつ抜きん出た存在でした。描くのもガチガチの抽象画。『生粋の芸術家やな』と感じていました。その彼から『俺、諦めるわ』と打ち明けられたときはホンマにビックリした。確かな才能があったんでみんな『もったいない』と口をそろえていました」

 真寿実さんは「絵を描いたら?」とたびたびすすめたが、「今はそういう気にならへん」と返されるばかり。

「『最近、川西君、描いてないね』と周りから言われるたびに何とも言えない気持ちでした。両親も生活基盤のまだない夫との結婚話に驚き、私も『どうしようか』と迷いました。そんな中、しばらくして父が『川西君の可能性に賭けろ』と、ふと言った。それが自分の心を動かしました」

 真寿実さんはさまざまな思いをいったん封印。新たな道を切り開こうとしている夫を支えようと決めた。

「キミはもう作家じゃない。意識改革して仕事に臨んでくれ」

 ランドスケープのデザイン事務所での日々は、所長からの厳しい言葉とともにスタートした。それまでは好きな時間に起きて絵を描く自由な日々を送っていたが、社会人になった以上は満員電車に乗って出社し、責任ある仕事をしなければならない。

「猛烈に忙しくて3日に1度は徹夜。デザイン案を出してもなかなか認めてもらえず、怒鳴られまくりました。3日徹夜して朦朧としたときには、さすがに鬼上司への憎しみしか出てきませんでした(苦笑)」

 劇的な環境の変化には戸惑ったものの、仕事のやりがいはあった。同社は街の花や造園整備、公園の設計など空間デザインを主に手がけていた。特に奈良県宇陀市の自然公園の仕事は強く印象に残っている。

「野球場が2~3面は入るくらい広大な自然公園のどこに花や木を植え、遊具やサインを設置し、ベンチを置くかという全体プランを考える仕事でした。『試しに川西にやらせよう』と所長は考えたのでしょう。何からやっていいのかわからない僕がボンヤリとした案を出したら『お前、調べたんか。いい加減な仕事するな』と真っ先に一喝されました」

 すぐさま、いくつかの公園を回ってベンチの高さを測ったり、遊具の配置を事細かく調べたりして、具体的なアイデアを出した。だが、『どれもこれも使えない』と断罪されてしまう。

「本当に地獄でしたね(苦笑)。ただ、所長の厳しさは『よりよいものを作りたい』という思いからなんです。ギリギリまで僕らを追い込み、最後に助けてくれるのもいいところ。1年半で退職しましたけど、社会人1年生として厳しさを覚えたことはプラスになった。心身ともに鍛えられました」

鬼上司に鍛え上げられ、独立へ

 川西さんが扉を叩いた次なる職場はサインメーカーの『びこう社』。前職の空間デザインとは異なり、公共・商業施設の案内図や出入り口・トイレの表示、病院の診察科やフロア案内などをデザインし、製作・施工の管理をするのが主な業務だ。川西さんは「サインデザイン」の世界に飛び込み、自分の可能性を広げていったのである。

 同社の同僚で、現在も一緒に仕事をする機会の多い、びこう社大阪支店長の野間口誠さん(47)が懐かしそうに語る。

「3年間一緒に働きましたが、お互いよく上司に怒られていました。トラブルが起きるたびに『会社の利益がなくなるやろ。どないすんねん』とストレートに言う上司で、戦々恐々としていました。川西さんと夜、オフィスで一緒になると『今日もまた怒鳴られた』とか『こんなトラブルがあった』と、たわいのない話をしては慰め合いました。僕にとっては痛みを共有したいい仲間。穏やかな人柄にも癒されることが多かったです」

 8年間、再び鬼上司に鍛え上げられた。それが奏功し、実績を確実に積み上げていった。そのひとつが、2003年に三菱重工長崎造船所で建造が始まった豪華客船『ダイヤモンド・プリンセス』と『サファイア・プリンセス』の3万点に及ぶサインの施工管理。延べ半年ほど寮に泊まり込み、無事完了させたのは大きな自信になった。

温かみのある雰囲気づくりを目指した浜寺病院のサインデザイン

「僕はもともと古代遺跡巡りが大好きで、イタリアのポンペイには学生時代に行きましたし、バリ島やジャワ島にも新婚旅行で出かけましたけど、古代のいろんな絵文字を見ては『こういうのは斬新だな』『作ってみたいな』と感じていました。

 抽象画をやめてデザインの世界に来たころは少し複雑な気持ちもありましたけど、仕事をやればやるだけ、自分がデザインしたものが実際に形になり、社会の役に立っていく醍醐味ややりがいを感じるようになった。モノ作りに対しても真摯な姿勢と責任を持って取り組まないといけないという自覚が日に日に強まっていきました

 そして迎えた2006年、またも驚くべき行動に出る。アッサリ会社を辞め、独立に向けて動き出したのだ。

「辞めてどうするの?」

 妻・真寿実さんにとって、この出来事はショッキングなものだった。長男も2歳になったばかり。収入が途絶えたら一家は路頭に迷う。40歳を前にした大胆なチャレンジは波乱含みだった。

 事務所を構えたのは大阪市生野区。妻の父が経営する印刷会社の一角に間借りしてオープンした。最初の月は仕事が少なく、働いたのは10日間だけ。暇さえあれば掃除していた。

 義理の父も黙っていられず、「こういう仕事はどうや?」と助言をくれたが、「いえ、大丈夫です」と不安に耐えた。

またも突然にやってきた、悲しい別れ

 独立した噂が仲間内に広がり、広告代理店から就職の誘いもあった。待遇のいい会社だったが、「欲しいのはお金じゃない。自由にモノを作りたいから独立したんだ」という矜持があり、後ろ髪をひかれながらも断ったという。

 これを機に営業の電話をかけたり、プレゼンに参加するなど、アクションを起こし、徐々に仕事が入るように。「いい仕事をするサインデザイナーがいる」という評判も広がり、食えない状態からいち早く脱することができた。

 それから数年もたたないうちに川西さんを新たな悲しみが襲う。2008年にたった1人の弟をがんで失ったのだ。

「弟は当時、不動産会社を営んでいて、多忙を極めていました。久しぶりに会ったとき、少し太ったかなと思ったら、『腹が張って身体もだるい』と言うので検査をすすめました」

 ドクターから告げられたのは、信じがたい病名だった。

「大腸がんのステージ4です」

 ショックを受けた川西さんは毎週のように大阪から名古屋に通って弟を見舞ったが、半年後に命を落としてしまう。まだ30代の若さだった。父に続き、弟も亡くすという悲運。そのぶん、自分は妻や子どものためにしっかりと生きなければならない。目の前の仕事に必死に打ち込むしかなかった。

 そんな川西さんの頑張りを近くで見ていた人物がいる。独立前から長く仕事をしている建築家の芦澤竜一さん(48)だ。建築界の巨匠・安藤忠雄氏に師事した後、独立。国内外で斬新なデザインのホテルや住宅などを造っている彼は「柔軟性があるサインデザイナー」と川西さんに絶対の信頼を寄せる。

「最初に知り合ったのは、まだ、びこう社におられた2005年。『ホテルセトレ・舞子』の案件でした。僕自身、独立後ホテルを手がけたのは初めてでしたが、サインデザインというのは非常に重要。全体の意図を要求して細かいところまで詰めていけたので、気持ちよく仕事ができました。ムチャぶりしたところもありますが、何でも笑顔で対応してくれる。そこは本当にありがたいですね

現在、芦澤さん(左)とは新たに森の中にあるようなアメリカの研究所をデザインする仕事に着手している

 芦澤さんはその後、手がけた『セトレならまち』(奈良市)で、金属を錆びさせた素材を使って、日本の伝統である『わびさび』を表現するサインを取りつけるアイデアを示した。これが川西さんにとっては超難問。サイン業界で錆を使うなどタブーといってもよかったが、建築家の意向を酌んで挑み、形にした。

「芦澤さんの建築はハラハラするものばかり(笑)。天井や壁を斜めにしたりと施工業者泣かせなんですが、すべてはモノ作りの情熱の表れ。ここまでの設計者にはお目にかかったことがない。僕も『やらなきゃイカン』という気持ちにさせられますし、大きな刺激をもらっている。難易度の高いデザインを共有することでより深い思考ができるようになったと思います

来院者に安心感を与える空間を

 真摯な姿勢と確かな仕事ぶりが高く評価され、2010年代は大型プロジェクトが続々と舞い込んだ。京都製作所や和歌山信愛中学校・高校、島根県の雲南市役所、甲南大学、浜寺病院、商業施設「なんばスカイオ」と目覚ましい実績を残したのだ。

「和歌山信愛中高は、先生と生徒が家族のような関係性になることを意識してピクトグラムを作りました。雲南市役所は桜の名所だからソメイヨシノや吉野桜のデザインを。甲南大学は原色をふんだんに使って学生たちの活力やエネルギーあふれる姿をイメージしましたし、浜寺病院は精神科病棟ということで、温かみのある雰囲気を出すために穏やかな色使いを意識しました。どれも思い入れのあるものばかりです」

 2019年に完成した神戸市・新長田合同庁舎も代表作のひとつ。ともに仕事をしたのは、びこう社で同じ釜の飯を食った野間口さんだ。

「シックな壁にパステル調の案内図をあしらうなど、かなり独創的で特殊なデザインをしていただきました。川西さんはお客さんの意向を酌んで反映できる。芸術家上がりだと自分の意見を押しつける人も多いと思いますけど、そういうところが全くないからやりやすいんでしょうね」

 独立から14年。川西さんにはお互いを尊重し合えるいいパートナーが何人もでき、人に寄り添うデザインを心がけてきた。

 5月7日に和歌山市内に移転開業する予定の医療法人博文会『児玉病院』のサインデザインも心を込めてした仕事のひとつ。3~6階の病棟にはモスグリーンやオレンジ、クリーム、ベージュという温かみのある色を使い、ミツバやキキョウなど季節の草花のイラストをたくさんあしらった。

信頼できるパートナーのひとり、株式会社アール・アイ・エー大阪支社の平林雅博さんに任された児玉病院内のサインデザインの前で

 その数はお蔵入りも含めて約100点。川西さんは図鑑や写真などで観察してイメージを膨らませ、筆ペンでひとつひとつ丁寧に描き、デジタル化という手間のかかる作業をして壁に設置。来院者に安心感を与えるような明るく爽やかな空間をつくった。

「最初は10点くらいという話だったんですけど、70、80、90と増えて各フロアにたくさんの草花が配置される形になりました。見たことない草花も多かったので、そろえるのに何か月もかかりました。

 病院に来られる方というのは不安や心配事を抱えている。働くお医者さんや看護師さんも張り詰めた緊張感に包まれる中、仕事をされています。そういう方々に少しでも穏やかな気持ちになってもらいたい一心で花をひとつひとつ描いたつもりです。施工の清水建設さんも緻密な仕事をしてくれる。みなさんの協力があって自分のデザインが形になる。ありがたく感じています

 サインデザイナーである川西さんが東京五輪のメダルを生み出すとは、周囲にいる人間は誰ひとり、想像していなかった。当の本人も軽い気持ちで応募したという。

 2019年4月25日の夜21時ごろ、オフィスに1本の電話がかかってきた。軽く晩酌していた川西さんは少しできあがった状態だったという。

「『今日審査があって最終3作品に選ばれました。明日、東京に来れますか?』と。まさに青天の霹靂でした」

つらいことがあるからこそ

 2日後、東京のオリンピック組織委員会へ出向き、造幣局の担当者も交えて立体の試作品を作る打ち合わせをした。担当者に「これは難しいな」と言われ、ラスト1作品に残るのは無理だろうと感じた。それでも「ここまで来たら大満足」と胸を張って帰宅。真寿実さんも「実物を作ってもらえるだけでよかったやん」と笑顔で迎えた。

 忘れかけていた約2か月後、再び電話が鳴った。

「東京五輪のメダルに内定しました」

 ただ、川西さんは素直に喜べなかったという。

「『まだ内定なので、喜ばないでください』と言われたんです。何かあれば2番手の作品が繰り上がるということ。心から実感が湧いたのは実物のメダルができ、1年前セレモニーでのお披露目を迎えたときでした」

 学生時代からの友人・粟国さんは言う。

メダル内定を聞いて、僕は泣いて喜びました。美術をやめた後、苦労してる姿が浮かんできて、余計に感極まりましたね。芸術の世界は序列社会で、多摩美術大、武蔵野美術大あたりの人が受賞するんだろうと思っていたけど、大阪芸大出身の個人事務所の社長に決まったのを知って、『世の中捨てたもんじゃないな』と。

 まさに金字塔ですよ。川西さんの子どもさん2人も父親を改めて見直し、尊敬したんじゃないかな。そういう意味でも本当にうれしい限りです」

 そして、誰よりも感動したのは、そばで浮き沈みを支えてきた真寿実さんだ。

「決まったときは半信半疑でしたね。夫のデザインはシンプルで、勝利のシンボルをどう光らせ、輝きを走らせるかということにこだわっていました。空間・サインデザインの経験から、日本のオリンピックという場面で最高の仕事をしようと頑張ったのかなと。そこにアーティストとしての抽象表現も加わった。長い間やってきた活動が凝縮されて、あのメダルが生まれたんだと思います。

 長男なのに何も言わず自由に作家活動をさせてくれた夫の父、『川西君に賭けろ』と言って応援してくれた私の父、どちらも亡くなっているんですけど、2人に報いることもできたのかなとうれしくなりました。主人は私生活では自由人だし、家庭でも満点パパではないですけど、モノ作りの才能と努力に関しては本当に尊敬しています

支えとなった妻・真寿実さんと

 真寿実さんは静かにほほ笑んだ。

「つらいことや影があるからこそ、光の輝きは増す」

 そう語る川西さん。数々の挫折を乗り越え、多くの人々に支えられながら生き抜いた経験が生かされた作品だ。

「美術をやめて、ランドスケープからサインデザインへと回り道してきたけど、人の生活に寄り添うこの仕事をやっていなかったら、メダルに行きつくことは絶対になかったと思います。これからもすべての人にわかりやすいデザインを創り、みなさんの役に立てればいいなと思います」

 穏やかな笑みを浮かべる川西さんのメダルが真の意味で完成するのは、勝者の首にかけられたとき。どんな角度から光が当たっても美しく反射し輝きを放つように作られているからだ。1年後に感動的なその光景を目に焼きつけるのを、彼は今、心待ちにしている。


取材・文/元川悦子(もとかわえつこ) 1967年、松本市生まれ。サッカーなどのスポーツを軸に、人物に焦点を当てた取材を手がける。著書に『僕らがサッカーボーイズだった頃1~4』(カンゼン)など