当時のご自宅近くでジョギングされるご結婚直前の紀子さま(1990年6月24日)

「秋篠宮さまが『皇嗣』になられたことを、国内外に示される『立皇嗣の礼』が4月19日に予定されていたのですが、新型コロナウイルスの影響で延期になりました。年内の開催が有力視されているようです」(皇室担当記者)

 秋篠宮家には、皇位継承順位2位の悠仁さまや、成年皇族で、内親王として公務を担われている長女・眞子さまと次女・佳子さまもいらっしゃる。今後、皇室の中枢を支えていかれる秋篠宮ご夫妻のこれまでを、関係者とともに振り返ってみる─。

「秋篠宮さまはお酒を飲むと、学問的な硬いお話をテーマに、白熱した“議論”を始める方なんです。合宿での飲み会や大学近くのスナックでは、教授たちと『三国志』の話をよくされていたのですが、一般的には知られていない武将の話を熱く語られていました。勉強の話というより雑学知識が豊富で、教授たちと議論するのがお好きだったことを覚えています」

 そう話すのは、秋篠宮さまが大学時代に主宰していた『自然文化研究会』のOB。

「サークルの基本的な活動は長野県の木曽や栃木県の日光などへ行く“社会科見学”の合宿と、多くて月に1回程度の飲み会でした。大学近くの普通のスナックでお酒を酌み交わすことが多かったですね」(同・サークルOB)

 '84年に学習院大学に入学された殿下が、翌年に入学された紀子さまと、大学構内の書店で運命的な出会いを果たされたのは有名な話。なんでも、書店内には“自分のスペース”を確保されていたそう。

大学時代から発揮されていた“社交性”と“面倒見の良さ”

「大学の書店でご友人がアルバイトされていたこともあり、従業員がちょっとしたものを置けるスペースがあって、そちらにいらっしゃることが多く、知り合いを見つけると声をかけて、どこかに出かけられていました。

 そういった社交性からも、上皇ご夫妻や天皇ご一家と、秋篠宮ご一家を結びつける役割を果たされているのではないでしょうか」(学習院OB)

 後輩の面倒見もよかったという秋篠宮さま。当時、大学の後輩にこんなアドバイスをされたと、大学関係者は語る。

「当時、理系学部で勉強が大変だと話す学生がいて、宮さまに“単位の取りやすい学部に変更すべきか”と、相談したことがあったそうです。

 すると宮さまは“楽な学部で簡単に単位を取るよりも、一生懸命に打ち込める興味関心のあるものを見つけたほうがいい。そうでなければ理系のままでいいのでは”とお答えになったそうで、その学生は納得し、理系学部のままで勉強を続けたそうですよ」

『自然文化研究会』の卒業旅行で。上段一番右が秋篠宮さま、上段左から2番目が紀子さま(1988年3月)

『自然文化研究会』に入会された紀子さまは“学習院のマドンナ”だった。

「紀子さまは、普段からフワッとした雰囲気で会話されて、知り合いを見つけると手を振ったり、常に笑顔を絶やさない女性でした。当時の卒業アルバムには、『華』という卒業生の中で素敵な女性の写真を集めたページがあったのですが、紀子さまも載っておられましたね。飲み会では控えめで、自分の話はせず、他人の話に相づちを打ったり、ウイスキーの水割りをサラッとお作りになっていた印象です」(紀子さまの同級生)

 当時の紀子さまは、お父さまが学習院大学教授で、大学敷地内の共同住宅に住まわれていた。宮さまは、書店で出会われる前から妃殿下の存在をご存じだった可能性がある。

 約30年にわたり、秋篠宮さまと親交がある『毎日新聞』編集委員の江森敬冶さんによると、

「妃殿下は中学生のころから、自宅近くの学習院大学構内でジョギングを続けておられ“ジョギングの美少女”として有名だったそうです。

 うすうすご存じだったのではと宮さまにお尋ねすると、否定されたのと同時に“あのとき出会わなければ、私はまだ独身だったと思う”と話されたことがありましたね」

学習院の卒業アルバム内の『華』ページに掲載された紀子さまの写真(1989年ごろ)

 とのこと。紀子さまは『自然文化』だけではなく、大学祭でご覧になった“手話劇”にいたく感動され、手話サークル『のぞみ』にもご入会。しかし、宮さまとの婚約内定が報道されると“紀子さまフィーバー”が巻き起こった。

「紀子さまは、婚約内定報道があった後の大学祭で、入会されていたサークルの1年生が行った手話劇を見に来られたのですが、マスコミが殺到。急きょ、ひそかに裏口から退出していただくほどでした。

 その際、紀子さまも自ら“目立たないように変装しましょうか”と提案されたり、リヤカーに乗って隠れながら移動するという案も出たのですが、さすがに実行には移せませんでした(笑)。紀子さまをひと目見たいと来場者が押し寄せ、大学門から最寄りの『目白』駅の改札まで行列ができたことに大変驚きましたね」(手話サークル関係者)

 今も手話に関連する公務を担われており、『のぞみ』への思い入れはお強いようで。

「約10年前、『のぞみ』にとっては初の試みで、100人ほどが集まったOB・OG会が開かれたことがありました。

 残念ながら紀子さまはご欠席でしたが後輩を通じて“本日は参加できずに申し訳ないですが、みなさんで楽しんでください”とメッセージを寄せていただき参加者はとても喜んでいました」(同・手話サークル関係者)

眞子さま始め、3人のお子さま達への教育方針

 そんなおふたりの間には、3人のお子さまたちがいらっしゃる。秋篠宮家の教育方針は“自主性を重んじる”ことだと言われることが多い。

「お子さま方がお持ちの個性をいい方向へいくように手伝うことで長所を伸ばしたいとお聞きしたことがあります。

 子どもたちの身の回りのことや日常生活の出来事は紀子さま、もっと大きな問題については殿下が担当されることが大事だとお考えになっているそうです」(江森さん)

 長所を伸ばすという方針は、秋篠宮さまの“体験”が大きく影響しているそう。

「秋篠宮家の教育方針は、上皇ご夫妻から殿下が受けたものを踏襲されているようです。殿下は“私の好きなことをずっとやらせてくれたことに感謝しています”と、おっしゃっていたこともありました。基本的に、上皇ご夫妻に相談して“やめなさい”と言われたことはほとんどなかったそうです」(江森さん)

 秋篠宮家の根底には、上皇ご夫妻の影響があるのは間違いないだろう。

 さらに、以前には美智子さまが直面された“皇室の過酷さ”を目の当たりにしたことで、皇族としてのご自覚が強まる出来事があったという。

「美智子さまのお母さまである正田富美子さんがお亡くなりになる直前の'88年ごろ、美智子さまとご一緒に富美子さんのもとを訪れたそうです。

 美智子さまは富美子さんの身体をさすって“ありがとう、ありがとう”と、ずっと感謝の思いをお伝えになっていました。美智子さまは皇室に入られてから、母親に会う機会がほとんどなかったので、思いがあふれたのでしょうね。

 秋篠宮さまは、そんな美智子さまのお姿をご覧になり、“皇室というものがどれだけ厳しいものか、母がどれだけ苦労しているのかを改めて感じた”と、周囲に漏らされていたのです」(宮内庁関係者)

美智子さまと母・正田富美子さん

 母親の背中から学んだことは、この先もずっとお忘れになることはないだろう─。