「一時期……『全員集合』が終わってすぐだったかなぁ。志村さんといかりやさん、“共演NG”だった時期があったんです。同じ番組を一緒にやっていたけれど5、6年の間、いっさい顔も合わせようとしなかったからね」(当時を知る芸能プロ関係者)
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志村けんさんがザ・ドリフターズのリーダーである故・いかりや長介さんに初めて会ったのは高校2年、17歳のときだった。“弟子入り”志願のため、いかりやさんの自宅を訪ねたのは師走の雪の日。新宿駅から1時間かけて歩いて、ようやくいかりやさんの自宅を探し当てたという。
「志村さんは、いかりやさんの帰りを12時間も待ち続けて、弟子入りを頼み込んだ。いかりやさん、最初は断ったんですが、“迷惑だから帰れ!”と怒っても帰らず“なんでもしますから弟子にしてください!”と食い下がった志村さんの根性を買って、ドリフの付き人にしたんです」(前出・芸能プロ関係者)
7年間のつらい下積み生活を終えてドリフの正式メンバーに昇格したのは、'74年、志村さんが24歳のとき。だが、当時の志村さんは"ドリフのメンバーになりたい〟とは思っていなかったという。
「誘いを断ろうか、迷ったそうなんです。むしろ、“独立したい”と考えていたそうで。"ドリフを超える笑いを作れる〟と思っていたそうですから」(当時を知る構成作家)
晴れてドリフメンバーとして『8時だョ!全員集合』(TBS系)に出演するようになった志村さんは、『東村山音頭』で大ブレイク。“カラスの勝手でしょ”“ひげダンス”と矢継ぎ早に爆笑を生み出した。だが、その裏側では、理想の笑いを追い求め続けるために、人生のすべてを捧げる志村さんの姿が。
リハーサル中に響く志村の怒鳴り声
「志村さんは『全員集合』のころから、メンバーでいちばん厳しかった。テレビで見せる顔がウソなんじゃないかっていうくらい(苦笑)。ドリフのコントは、アドリブに見えるセリフや動きはすべてが1秒単位で計算され尽くした笑いなんです。だから、打ち合わせやリハーサルは早朝から深夜まで毎週、何時間もやるという過酷さでしたね」(当時を知る舞台関係者)
スタッフにも高いレベルを求め続けた。
「“違うよ!”“こんなんじゃダメ!”と、リハーサルで舞台監督や大道具に志村さんの怒鳴り声が飛ぶのは日常茶飯事。カメラマンの撮り方が気に入らなくて、わざわざ自宅にまで呼んでカメラワークを教え込んだくらい、妥協をいっさい許さなかったですよ。僕ら構成作家が考えたコントのネタもダメ出しの嵐で、自信作を10本作っていっても採用されるのは1本あるかないか。当時から志村さんは“作家殺し”なんて言われていて(苦笑)」(前出・構成作家)
志村さんの笑いに対する厳しさはドリフのメンバーや、ボスであるいかりやさんに対しても変わらなかった。
「『全員集合』のコントの大部分は、いかりやさんが作っていたんですが、いかりやさんに“俺のほうがもっとウケますよ”と志村さんが意見することが増えていったんです。もともと独立して自分の笑いをやろうと考えていたくらいですから、舞台に立ってしまうと、先輩だろうが師匠だろうが遠慮も容赦もなかったですよ」(前出・構成作家)
結局、いかりやさんが志村さんに譲る形で、
「“それほど言うなら志村、お前がやってみろ”と『全員集合』が終わるまでの数か月は、志村さんがすべてのコントを作ることになったんです。でもそれからです、2人がギクシャクし始めたのはね……」(前出・構成作家)
いかりやさんの求める笑いと、志村さんが目指す笑い─どちらも正解だっただろう。だが、それが皮肉にも2人の間に亀裂を生んだ。『全員集合』が'85年に16年間の放送に終止符を打つと、溝はさらに深まることに。ドリフのもうひとつの代表番組として'98年までレギュラー放送されていた『ドリフ大爆笑』(フジテレビ系)では、決定的な出来事が起きてしまう。
「『大爆笑』でも『全員集合』時代のテイストを残そうとしたいかりやさんに対して、志村さんが"もっと動きのある新しいネタがやりたい〟と。いかりやさんの作るコントに、だんだん志村さんが出たがらなくなったんです」(前出・芸能プロ関係者)
いかりやさんとは一緒にやれない
'88年ごろになると、2人の対立は、オンエアに影響するようになってしまう。
「“いかりやさんとは一緒にやれない”“番組を降りる”とまで言い出して収録をボイコットすることもあった。慌てたスタッフが折衷案を出して、いかりやさん、仲本さん、高木さんの3人と、志村さんと加藤さんの2人でコントをするという具合に、メンバーを完全に分けて撮るように」(前出・舞台関係者)
同じ番組に出演していながら、志村さんといかりやさんに関しては、リハーサル日も収録日も別々になった。
「番組内で5人がそろうシーンがなくなったのはそのせい。メンバーも大変だったけれど番組の制作スタッフも“いかりや派”と“志村派”に分かれちゃって大変で……。志村さんは若くて脂が乗りきっていて自分の笑いに自信があったし、いかりやさんはドリフを作り上げて引っ張ってきた意地があった。当時、いかりやさんが作った仲本さんとの“バカ兄弟コント”や“雷様コント”も人気あったし」(前出・芸能プロ関係者”
当時、月刊誌のインタビューで、志村さん自身もいかりやさんとの確執を認めていた。
いかりやさんは面白くない
《こんなこと言っちゃうと失礼だけど、僕は今のいかりやさんが面白いと思わない。だけどそれが面白いっていう人が何人かいるんですからね、分からないですけど。コントは今一緒に出来ない》
結果、志村さんは、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(TBS系)、『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ系)とドリフを離れて、“コメディアン・志村けん”として精力的に活動するようになる。一方、いかりやさんも俳優としての活動に軸足を移すように。ドリフとして5人がそろう仕事がほとんどなくなり、「自然消滅するのでは?」と、まことしやかにささやかれた。そして、2人のわだかまりは完全には解かれぬまま、空白期間は実に10年以上にも及んだという。
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志村さんといかりやさんに“雪解け”が訪れたのは意外な場所だった。'01年、ドリフとして最初で最後の出場となったNHK紅白歌合戦。
「『全員集合』の衣装を着て、メドレー曲を5人で歌ったんですが、その合間に往年の“少年少女合唱団コント”をやることになって。本番の前に、みんなで集まってネタを合わせたら“不思議なんだけど楽しかったんだよね”って。“これだったよなって、ふっと思ったんだよね”と、志村さんうれしそうだったね」(前出・芸能プロ関係者)
空白が、鮮やかに彩られた瞬間だった。