香川県で行われた映画祭の懇親会で撮影された有村昆さんと大林監督

 映画監督の大林宣彦さんが4月10日に肺がんのため亡くなった。82歳だった。

「'80年代に公開された『時をかける少女』などの“尾道三部作”が有名ですが、死の間際まで映画を撮り続けていました。'16年に余命3か月と宣告されてから2作品を完成させましたから、映画づくりへの執念を感じますね。亡くなった日は、最後の作品となった『海辺の映画館―キネマの玉手箱』の公開予定日でした」(映画ライター)

 原田知世をはじめ、監督の作品に関わった多くの人から死を惜しむ声が寄せられた。ゆかりの人の話を聞くと、大林さんが遺した“3つの愛”が鮮明に浮かびあがってきた。

 1つ目は、“映画への愛”

 映画コメンテーターの有村昆さんは、監督の"恋〟について明かす。

「“アイドル映画の帝王”という異名がある大林監督ですが“撮影中の監督とアイドルは恋愛をしているようなものだ”とおっしゃっていました。もちろん実際に恋愛するわけではなく、撮影が始まるとヒロインに惚れ込んでしまうという意味です。『時かけ』では、当時16歳だった原田さんが演じる芳山和子にどんどん惚れ込んでしまった。レンズ越しに恋をしたんでしょうね」

別荘に呼び出して「10日間いてくれ!」

 大林さんと多くの作品を作った脚本家の石森史郎さんは、10日間ぶっ続けで映画について語り合ったことも。

「映画の話をしたくなると、私を尾道の別荘に呼び出すんです。到着すると“10日間はいてくれよ!”って(笑)。毎晩、映画の話をしていました」

 映画を作ることに愛情を注ぎ、全精力を傾けていた大林監督だが、当初は違った。

「最初は映画ではなく、テレビCMを作っていた方なんです。当時のCM制作は“三流監督のやる仕事”と言われていました。クオリティーが低かったんでしょう。しかし、ハリウッドスターだったチャールズ・ブロンソンを起用して“う~ん、マンダム”という名セリフを生んだ男性用化粧品CMの演出をしたのが大林さんでした。それから海外のスターが次々と日本のCMに登場するようになったんです」(前出・有村さん)

 CM制作の黎明期に活躍し、地位の向上に貢献した。日本映画界の巨匠と呼ばれたが、驕ることはなかったという。

 元『クレージーキャッツ』の犬塚弘さんは、大林監督の人柄について語る。

「普通の映画監督は威張って役者と距離があるけど、大林監督は地方ロケで夜の食事に誘ってくれたり、私の友人にも気楽に話しかけてくれて、とても気さくな方でした」

 最後の撮影にも呼ばれていた。出演の経緯については、

犬塚弘さん

「私は90歳だからと断ったら“映画館でボケ~ッとしている年寄りの役だから大丈夫。年は関係ないし、今回で引退宣言にしちゃえば?”と言われたから引き受けたんです」

 監督の言うとおり楽な撮影だろうと思っていたら……。

「撮影所では3日間、長いセリフの撮影で缶詰状態。さらにはウッドベースが用意されていて“演奏して”と。でも、最後にミュージシャンとしての腕も披露できました。好きなバンド、演劇、そして90歳で映画にも出れた。91年の人生に悔いはありません。撮影後も毎月、電話をくれていたんですが……」

 犬塚さんの引退の場を妥協せず作り上げたのも、監督の愛がなした業のひとつだろう。

「ピースサインの意味を知っている?」

 2つ目は、“平和への愛”。前出の有村さんは、こんなエピソードを明かす。

「大林さんとツーショットを撮るときにピースサインをしたら、“アリコン君、それは違うよ。ピースサインの意味を知ってるかい?”と言われました。第二次世界大戦でイギリス・アメリカ連合国軍が原爆を落として日本に勝利したときにやった“ヴィクトリーサイン”なんだそうです。中指と薬指だけを折って作る“アイラブユー”の手話を教えていただいたことが印象に残っています」

 過去の舞台挨拶などでも出演者たちはそろって“アイラブユー”のサインを披露。晩年は“大林的戦争三部作”と名づけた映画を撮影するなど、監督の作品には、いつも平和への思いが込められていた。

「遺作のテーマは“反戦”。監督は、戦争をやってはいけない、というメッセージを込めた映画を作りたがっていました。ただ撃ち合うだけのハリウッド映画や邦画でも一部の戦争モノは、監督も私も好きではなかった。監督は最後に戦闘シーンのない反戦映画を作り上げたんですよ」(石森さん)

 父親の最後を見届けた、長女で映画作家の千茱萸さんは、

「最後のころは“映画を愛するみなさん、ありがとう。どうか僕の続きをやってね”と語っていました。きっと公開予定だった新作映画の舞台挨拶で、みなさんに感謝を伝えたかったのだと思います」

 監督の平和への思いは、次の世代へとバトンが渡された。

 3つ目は、“家族への愛”

大林監督と妻の恭子さんについて、前出の石森さんは、

妻、プロデューサーとして支えた

「最高の夫婦であり、同志でもある平等な関係でした。恭子さんはプロデューサーとして、監督には映画づくりに集中してもらうよう、家事だけでなく製作費を工面するための銀行との折衝まで、すべてをこなし、支えていたんです」

 妥協を許さない監督の撮影は深夜におよぶことも。恭子さんは、しっかりと支えた。

'17年の舞台挨拶に付き添った恭子さん(左)と千茱萸さん

「監督は“目配りの人”で、恭子さんは“気配りの人”。撮影が朝5時までおよぶと、恭子さんが豚汁を作ってくれるんです。それが、実にうまくて身体が温まりました。まさに一心同体で、本当に愛し合っていました」

 固い絆で結ばれた夫婦に、新たな家族として加わったのが千茱萸さんだ。二人三脚から三人四脚で、映画を作ってきた。千茱萸さんは父である大林監督への思いを語る。

「4月16日で初七日を迎えましたが、父は“愛の塊”のような人でしたので、父との思い出は、繰り返し押し寄せる波のように尽きません。母のお腹にいるころから、父の撮影現場に参加し、親しきみなさんからは“一卵性親子”と言われるほど仲睦まじい父娘でした」

 父が懸命に作り上げた作品を、千茱萸さんは多くの人に届けたいと願っている。

「今は1日も早いコロナの終息を願い、新たな公開日を待つばかりですが、それまでみなさんに旧作をご覧いただけたら何よりの供養になると思います。どうか命がけでつくった新作を楽しみにしていてください。なお、父と私が交わした会話はふたりだけの“秘密”とさせてください」

 大林さんの映画を見れば、その“秘密”に少しだけ触れることができるかも。