「セレブタレント」として週9本のレギュラー番組を抱えるほどだったモデルのマリエ。'11年の東日本大震災でTwitterが炎上するとテレビで観る機会も減ってしまった。その後、アメリカへ留学するもSNSを中心に「逃げた」とバッシングを受けることに……。現在、彼女は自身がデザイナーを務めるブランド『PASCAL MARIE DESMARAIS(パスカルマリエデマレ)』を展開。第一弾として販売したTシャツは発売開始5分で完売している。その彼女にバッシングの“真実”、そして、やりたいことを目指して歩み続ける彼女の“現在地”はどこにあるのか。聞いてみた。
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マリエは1987年東京生まれ。彼女がモデルを始めたのは10歳のころ。当時はアイドルとしても細々と活動していたが、「本格的にモデルに専念したい」と留学を決意。オーストラリア、アメリカを経て17歳で帰国した。
帰国後、またたく間にモデルとして人気に火がつき、『世界バリバリ☆バリュー』(TBS系)の出演をきっかけにテレビへも進出。かつてを振り返りマリエはこう語る。
「当時も人気モデルが大勢いて、私はモデル一本ではナンバーワンになれないと気づいたんです。じゃあ自分にしか出来ないことって何なのか。迷ったのですが、それはテレビでも臆せず喋れること、あとお笑いが好きなことなんじゃないかと。ほかのモデルに出来ないことが自分にもある。そこで“5年間だけNOと言わない”と決め、どんな仕事もとにかく自分の100%を尽くしてやることにしました」
『笑っていいとも!』や『アッコにおまかせ!』などにレギュラー出演。そんななかマリエはタモリという稀代の司会者と出逢う。「畏れ多い言い方ですが、タモリさんからは多くのことを学びました」と話し、「あの方は存在そのものがジャズでした」と当時を振り返る。
「ジャズといえば即興演奏です。奏者と奏者が阿吽(あうん)の呼吸で次々とさまざまなビートを刻んでいく。タモリさんもそうだったんです。生放送のあの場で、演者と演者の呼吸を見ながら次々と笑いを生んでいく。まるでジャズライブのようでした。同時に、すごい気遣いもされる方。
ファッションでもそうで、例えば『テレフォンショッキング』のコーナーではネクタイを。他のギャグのコーナーではネクタイを外したりジャケットを脱いだりカジュアルに。ファッションから意識して周りをハッピーにされる方でした。オーガニック食材など食事の大切さも学びましたね。私はタモリさんから教わったさまざまなことを後輩や若い人たちに伝えていきたいと思っています」
すごく反省している。言い方が悪かった
大御所から学びつつ、毒舌のセレブタレントとして一生を風靡。そんな人気真っ只中の2011年、あの東日本大震災が起きてしまう──。
東日本大震災直後、“セレブキャラ”として活躍していたマリエにはツイッターを通じて「(義援金を)寄付しろ」といったコメントが寄せられた。それに反発するようなツイートをしてしまい、ネットが大きく炎上した。さらに6月には留学のため渡米。原発事故で世が騒いでいたタイミングだったこともあり「マリエも放射能を恐れて海外へ逃げた」と大バッシングを受けてしまった。SNS上では心無い人々が「この2つでマリエは業界を干された」と彼女を嗤(わら)った。だがこの背景にはあまり公にされてない、ある“事実”が隠されていた。
まず炎上ツイートだ。これについてマリエは「すごく反省しています。私の言い方が悪かったです」と姿勢を正し、こう続ける。
「当時、私がセレブタレントと呼ばれていたこともあり、さまざまな所から『セレブなら寄付しろよ!』という心無い言葉がかなりの数寄せられていたんです。当時はそれをスルーできず、つい言い返すようなツイートをしてしまって……。もう少し言葉を選べば良かったのに」
失敗した人が立ち上がる国、アメリカで
売り言葉に買い言葉。これに、彼女の交際していた恋人が宮城県気仙沼出身だったことも重なった。もっとも被害を受けた場所のひとつだったことはいうまでもない。「家族と連絡が取れない」と動揺するパートナー。それを隣で必死にサポートしていたマリエ。まだ22歳だった彼女には、誹謗中傷の言葉をスルーする心の余裕がなかった。「影響を与える側の人間として、しっかりと言葉をみんなに伝えなければならなかったでしょうし、これについてはアメリカでもいろいろと考えました」と目を伏せる。
次に「海外逃亡」疑惑だ。結論から言えば、マリエは逃げたのではなく、アメリカ留学は最初から決まっていたことだったという。10代の頃から憧れていたパーソンズ美術大学。当時のマリエは芸能活動で多忙のなか、努力に努力を重ねてこの試験に受かっていた。9月からスタートする大学入学の準備を含め、6月にはアメリカに行かなければならない状況だった。日本での仕事も3月をめどに整理をしていたところに起こったのが311だった。
そしてマリエのアメリカ生活が始まった。大学では勉強したかったファッションについて懸命に学んだ。そして2017年、29歳のときに自身がデザイナーを務めるブランド『PASCAL MARIE DESMARAIS(パスカルマリエデマレ)』を起ちあげる。
「大手アパレルメーカーには出来ないことをしていこうと思いました。例えば、捨てられていくジビエの皮を全部請け負って商品にしようと。大手だと傷物を扱うことがそもそもタブーなんです。“傷”を追った野生動物の皮はそれ自体がキレイなものではないとみなされ、捨てられていく。ゴミになっていく。でも私は逆に、その“傷”を“美しい”って思うんです。革の傷はその生き物が生きてきた証。それを美しいって言える社会って素晴らしいのではないか。そんな提案をファッションでやっていこうと考えたのです」
これはマリエが日本を飛び出して学んだ文化が遠回しに影響しているかもしれない。彼女によれば、アメリカは、一度なにかで失敗をした人が、反省し、学び、そこから必死に這い上がっていく人の姿をポジティブに応援する国民性があると言う。これをマリエは決して「許して欲しい」という想いで語っていない。ただそれを「美しい」と思える文化を目指したいだけだ。
一方で日本は一度レールが外れた人が再び同じレールに戻るのは難しい社会だと言われる。これを考えたとき、彼女のブランドの精神やモットーは胸にしみてこないか。
現在、マリエは日本に在住している。とくに住む場所や“芸能人であること”にこだわってはなかったが、J-WAVEでラジオのナビゲーターの仕事が決まり日本へ。「もともとラジオ好きでしたから」と話す。「与えられた仕事は100%の力でやりたい」がモットーの彼女らしい選択だ。
「今はSNSでタレントの発言が大炎上するって日常茶飯事なのかもしれませんが、私のころはあまりなかった。私は“炎上のファーストレディ”なんです(笑)」
そうも自嘲するマリエの表情は、テレビで活躍していたころと比べると非常に穏やかだ。311前からやりたかった自身の進むべき道を“地続き”で歩み続けるマリエ。われわれから見れば、彼女の過去の傷からはどんな“美しさ”が立ち上ってくるのだろう。その今後を見守っていきたい。
(文・構成/衣輪晋一)