海外のファッション・流行などをナビゲートしているしげるちゃんが毎回「会いたい人」と「好きなお店」で対談! ゲストの“素”を引き出しちゃいます。第7回目のゲストはタレントでファッションデザイナーのマリエさん。10年ほど前は幾度となく“遊び倒していた”というふたりの再会にトークが止まらない!(本対談は緊急事態宣言発令前に行われたものです)
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しげるちゃん(以下・しげる)「ねえねえ……実は、しげるってば、マリエとの出会うよりも前に、マリエのママと先に出会っていたの、知ってた?」
マリエ「え、そうなの!? 知らなかった! どうして? どういうこと?」
しげる「まつ毛のエクステに行ってみようよ~』って梨花ちゃんに連れて行ってもらった六本木のサロンがマリエのママのお店だったのよ!……あのころって、多分、日本で『まつ毛エクステ』がスタートしたばかり? だった気がする」
マリエ「そうだったんだ! 確か当時って、まつげエクステって錦糸町にしかなかったのね。で、錦糸町って遠いなと思ってて、母にその話をしたの。そうしたら母が“やりたい!”と言い始めて(笑)。で、母を錦糸町に連れて行ったら、母がその店長を気に入っちゃって。店長に“六本木でやらない?”って言ったのがきっかけ(笑)」
しげる「(笑)そうだったんだぁ、その頃、マリエのママに何度か会ってるのよ!
しかもマリエパパにもお会いしてます(笑)」
マリエ「ねえ、うれしい! じゃあもう全制覇?」
しげる「ダネ(笑)、ほぼ全員のご家族に会ってる。その当時のマリエの印象って
テレビタレントさんだと思っていたけど、実はモデルもやっていたんだよね?
いつからモデル活動をしていたの?」
タモリさんは“ジャズな人”
マリエ「モデルを始めたのは10歳だったんだよね。梨花さんが大先輩で藤井リナちゃんとか同世代にいて。そこから、ちょこちょこモデルやったり、あとは、実はアイドルとかも(笑)。でも“やっぱり自分はモデルがやりたいな”と思って。一番上の姉がモデルで、“お姉さんの真似したい”みたいなことは、ちっちゃい頃からずっとあったりとかしたから。で、やっぱり留学しようと思って、一回やめて、でまた留学した後に戻ってきて今の事務所に」
しげる「えーー!そんな歴史があったとは勉強不足でした。ちょっとちょっと何回、留学していたの?」
マリエ「2回行ってる。中学校の時にメルボルン。オーストラリアの寮に入ってて、高校生でまたアメリカに行って、17(歳)で帰ってきたの。そこからあれよあれよという間に『笑っていいとも!』だ~ってなって」
しげる「個人的には『いいとも』でのマリエの印象が強いんだけど、誰もが知っているような著名な方々の中に、新人としてポンって入って逆に目立ったよね」
マリエ「異例だったんだよね。なんかそのとき私、『アッコにおまかせ!』も準レギュラーで。ラジオ合わせて9本抱えてた。一週間に。で、『いいとも!』がその後の私の人生にすごく響いてくるんです」
しげる「その響いてきたことって、しげるにも教えてくれる?」
マリエ「おすぎとピーコさん、爆笑問題さん、千原ジュニアさん、キングコングのお二人にDAIGOさん。素敵な方々とやらせていただいて本当に人生の勉強になったんです。とくにタモリさんからは“あ、あのときにタモリさんが言ってたことって、こういうことだったんだ”とか。なんか、笑いの中に生活のヒントがあったり。“食事も変えた”とか私、しげるちゃんにも言ってたじゃない? いろいろオーガニックのものになったりとかって」
しげる「それもタモリさんの影響だったんだ!」
マリエ「そうなの。そうなの。あとやっぱり、人との接し方だったり、場の気の使い方。例えばファッションでもそうなの。タモリさんのファッションってコーナーごとに違ってたんだよ。たとえば『テレフォンショッキング』やるときはちゃんとネクタイ締める。悪ふざけするコーナーがあるときにはジャケットを脱いだりカジュアルに。あの気遣いは本当にすごかった!」
しげる「あんなに番組見ていたのに、気が付かなかった。『見せない気遣いが出来る』ってタモリさんすごいね~。視聴者にも共演者にも、気を使わせない、心地よい空気を作れる人なんだね」
マリエ「そうなんだと思う。あとはやっぱり、“ジャズだな”と思った。彼の存在自体が。ニューヨーク行ってからね、ジャズが好きになって、いろいろ歴史を調べたりとかするようになったんだけど、ジャズって即興演奏が魅力なんです。その演奏者さんと演奏者さんの阿吽(あうん)の呼吸みたいなものが、生放送で場を回されているタモリさんそのものだなって思って」
しげる「ジャズのセッションみたいな空気感ってことか。素敵」
モデル一本ではナンバーワンになれない
マリエ「でもとくにファッション面での気の使い方って、みんな気づかないじゃない? 少しの気使いで周りをハッピーにすることが出来るってタモリさんから学んだの。私はその、実は知られていないタモリさんの“こうだったんだよ、知ってた?”みたいなところをしっかりと伝えていきたいと思っています」
しげる「当時は、良くマリエとは、ご飯行ったり、お酒飲んだりしたよね~、美容院も一緒だったのがキッカケかな? そのころはモデルとしてファッション雑誌『ViVi』で活躍してたよね。あの頃の『モデル・マリエ』の写真を見ていると、1つ1つの作品としての拘りみたいな思いが伝わってきたけど『モデル』『タレント』としての住み分けとかは、どう考えていたんだろうか?」
マリエ「とにかくあの頃は、楽しくて人に囲まれてたけど、やっぱり“若い”っていうことで。多分、女性も男性もそうだけど、どっか自分のターニングポイントで色々人生を悩んだり、“このままでいいのかな”とか。で、“子ども産むのかな”、“結婚するのかな”“学校行くのかな”、とかいろいろ悩むと思うのね」
しげる「うんうん。そうだよね」
マリエ「あとは自分の自己表現の場所を常に探していた。私の時代は、『バラエティタレントにモデルがなる』っていうことは、タブーだったの」
しげる「絶対そうだったと思う」
マリエ「そう! で、『東京ガールズコレクション』に、初めて“バラエティーの人が来る”ってなったとき、もうみんなの目!」
しげる「あ、モデルさんの目?」
マリエ「そう。もう、“なんでテレビがこんなところにいるんだ” “あーあの子バラエティで自分を売ってるからさ”みたいな。バラエティ出てるからエセモデルだよね、みたいな感じに」
しげる「びっくり! マリエにも、そんなこと言われていた時代があったんだ!」
マリエ「あったのよ。今はもうバラエティで働くって当たり前になってるけど。でも私、バラエティに出演して“ここだ!”と思ったの。こんなにいっぱいモデルちゃんがいて、私にしかできないことは、テレビでも臆せず喋ることができたり、お笑いとかが好きだったり、ほかのモデルちゃんにはできないことが私にはあるんだ、って、そこで初めて気づいて。
モデル一本ではナンバーワンになれないってわかったの。だから私、“5年間だけ、NOって言わない”って決めました。どんな仕事も、とにかくやる。自分の100%を尽くして。そして5年間思いきりバラエティで働いて、23歳でアメリカへ。私が渡米したのは、東日本大震災は偶然で、そういう理由があったんです」