世界的な和太鼓ブームの今、誰よりも際立つ存在、それが林英哲さんだ。美術を志した若者が、いかにして太鼓奏者になったのか。そこには、いま思い出しても苦しくなるほどの体験があった―。
神奈川県の山中、深い針葉樹の中の林道を車で上っていくと、見晴らしのよい山腹に小さな校舎が現れる。かつては小学校だったというこの建物から、地響きのような音が聞こえる。中に入ってみると、昔は生徒たちが机を並べていたであろう教室に、いくつもの種類の和太鼓が置かれている。
部屋の中央に鎮座する3m近い高さの大太鼓の前に、両手に持ったバチを打ち続けている人物がいた。黒い袴に素足。袖なしシャツの背に描かれた「EITETSU」の文字と鼓手のイラスト─。
林英哲さん、その人である。
『麒麟がくる』の太鼓演奏を担当
ものすごい音の連続に言葉を失う。音の振動で教室のすべての窓ガラスがビリビリと震える。時折、息に混じって声が出る。「オッ」「サーッ」。湧いてくるような唸り声は本人が発しているものだ。太鼓の向こうに別の景色が見えてくるような気がする。
バチを握る両腕の筋肉が動く。背中に汗がにじんでくる。とても68歳とは思えない肉体と動きである。
「ヨーッ!」ドドンッ。
ピタリと型を決めると、あたりは静寂に包まれる─。ここが英哲さんと弟子たちの修練の場「英哲道場」だ。
林英哲─。
世界初の「和太鼓・独奏者」。カーネギーホールで太鼓協奏曲のソリストとしてデビューし、その後も数々の一流オーケストラと共演を続ける国際的評価の高いアーティストだ。現在も、ソロ、アンサンブル、オーケストラと多彩なコンサート活動を国内外で積極的に展開している。
今年1月からスタートしたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、ハリウッドの作曲家ジョン・グラムのたっての希望で劇中音楽の太鼓演奏を担当、今なお和太鼓のトップランナーとして走り続けている孤高の太鼓奏者である。
現在、日本の太鼓は世界中に広まっている。
日本でブームとなった'80、'90年代以降、多くのプロ集団が生まれるようになり、盛んに海外に進出し始めた。その結果、世界各地にプロ・アマ問わず和太鼓グループが誕生、人種を超えた多くの老若男女が参加し、それぞれが地域で人気を博している。
太鼓がこのように世界中に広がる最初のきっかけをつくったのが林英哲さんである。太鼓が「演奏」とは思われなかったほぼ半世紀前から、太鼓の新たな演奏表現に取り組み、曲や打法、演出などの創作活動を続けてきた。'70年代、最初期に海外に出て高い評価を得た先駆者でもある。
その足跡は苦難に満ちたものだったが、そのことは後述するとして、現在、多くの人がイメージする和太鼓合奏のスタイルは、実は意外に歴史が新しいものらしい。
英哲さんはこう言う。
「僕の演奏スタイルとはまったく別なのですが、よく見かける大勢で打つ太鼓芸は伝統芸能ではありません。実はこれは戦後に生まれたもの。伝統芸の太鼓はひとりひとりがアドリブ芸を見せる郷土芸能で、素朴なものでした。
敗戦後に日本はアメリカ軍に占領されて、伝統が抑圧された期間が7年間ありました。武士道や忠臣蔵のような仇討ちものが上演を禁じられ神道の祭りなども大っぴらにできなかったようです。それがやっと解放された年に、ブギウギを歌う少女歌手だった美空ひばりさんが、民謡調の『リンゴ追分』を歌って大ヒットします。同じ年に大勢で打つ『組太鼓』も生まれます。これは復員してジャズバンドをやっていた方が発想したものです。
くしくも同じ年の出来事ですが、当時の日本人が、いかに日本的な音楽や文化を取り戻したかったか、その表れのように僕には思えます」
アメリカの抑圧からの反動で生まれた太鼓合奏─。「これは僕だけの見方ですが……」と英哲さん。それでも、スタンフォード大学など、海外の大学の授業で日本の太鼓を説明するときにこう話すと、戦争体験のある国の学生ほど、この話に強い関心を示すそうだ。
「もともとの日本の太鼓は、時報や火事などの緊急を知らせる合図ですから、ふだんは打てない。大勢で打つなんて最もタブーだったでしょう。そして僕のような職業太鼓打ちは、昔はありえなかったんです」
では、なぜ前例のない「太鼓独奏者」を始めたのか。そこには長いドラマがあった。
宇崎竜童率いる「竜童組」にも参加
18歳で広島県から上京し、美術家を目指して浪人していた英哲さんは、ひょんなことから佐渡の太鼓集団創立に誘われる。後に「佐渡國鬼太鼓座」と名乗る集団だ。
太鼓は素人だったが、入団2年目に主宰者からアンサンブル・アレンジを命じられ、苦労の末に、7人編成で演奏する『屋台囃子』を編曲。郷土芸能とはかなり異なる、舞台演奏用の曲の誕生だった。
さらに、主宰者は英哲さんを褌姿にして三尺八寸の大太鼓を打つように指示。巨大な太鼓の独奏、という前例のない曲の構成、打法も自身で作った。「正対構え」と命名したこの打法は、今や日本太鼓の典型のように世界中で模倣されている。
これらが集団の看板レパートリーとなり、世界を、そして太鼓に関心を持たなかった当時の日本人をも驚嘆させることになった。舞台で鑑賞される太鼓演奏という、かつてない形式を世界に広めたのだ。
「林英哲」の名前が知られるようになったのは'80年代。'82年に独立し、キーボード奏者や、韓国音楽家などとのジャンルを超えた積極的な活動を開始する。
「共演の際、僕の演奏が尋常ならざる太鼓だったらしくて、『すごいね』とジャズの人などに驚かれた。それで『あ、俺すごいんだ』と初めて思った」と英哲さん。
'84年2月には、ニューヨーク・カーネギーホールでの『日本の交響曲の夕べ』にソリストとして招かれ、岩城宏之指揮のもと、総立ちの喝采を浴びる華やかなデビューも果たした。
また、宇崎竜童率いる「竜童組」にも参加。'85年には単独ソロコンサート『千年の寡黙』と勢いは続く。
「当時、1人で太鼓を打つ人間は誰もいなかったから、珍しさもあったんでしょう」
ジャズピアニストの山下洋輔さんとは、'85年の初共演から多くのステージをともにしている。山下さんが言う。
「ぼくはね、世界最強の演奏家を極める音楽オリンピックというものがあったら、日本代表は圧倒的に林英哲だと思ってます。彼が出たら、誰もが世界最強と認めるでしょう。金メダル間違いなしですよ」
'92年、英哲さんは山下さんのバンドとともにブラジル、アルゼンチン、パラグアイでのコンサートツアーを行った。
パラグアイの首都アスンシオンのコンサートでは、英哲さんのソロのパートのとき、山下さんは客席にいた。
「ぼくは客席に降りて聴いてた。そしたら、彼の大太鼓のドーンという音を聴いた隣の女性が大騒ぎしてるんですね。通訳に聞いたら『あの裸の肩に噛みつきたい!』と言ってたんですよ(笑)」
そのコンサートの聴衆の中に、当時パラグアイに駐在していた一杉伸大さんと妻の香苗さんもいた。偶然なのだが、香苗さんは山下さんの従姉妹だった。香苗さんが言う。
「英哲さんは後で私たち夫婦と同い年だとわかったのですが、初対面のときは、だいぶ年下だと思いました。でも、演奏を聴いて、もうあまりの素晴らしさに衝撃を受けました」
夫妻は、それ以来、英哲さんの熱烈な「追っかけ」になったと言う。
ビートルズに憧れドラムを担当
日本でのコンサートはもちろん、ベルリン、カタール、ナント、パリ、ミュールーズなどに夫婦で出かけて、英哲さんを驚かせているらしい。
「海外でも多くの観客がスタンディング・オベーションをするのはいつものことですが、私たちが日本人だとわかると周りの人が話しかけてきます。身振り手振りで『見たか? 感動した。涙が出てくる。日本人はさぞ誇らしいだろう』と訴えてくるんですよ」と香苗さんは笑う。
英哲さんは1952年、広島県庄原市の真言宗の寺の子として生まれた。8人兄弟姉妹の末子で、子どものころから美術好きだったが、中学時代は、ビートルズに痺れてバンドを結成し、ドラムを担当。
「僕は小学5年生から父の手伝いで小僧見習いをやって小遣いを貯め、高校のときにドラムセットを買ったんです」
僧侶になる責任はなく、地元の高校を卒業後、美術大学を目指して東京で予備校に通い、やがて細密画を学ぶようになっていた。当時、目指していたのは、一世を風靡していたグラフィックデザイナー横尾忠則さんだった。
浪人中、たまたま聴いた深夜放送で、夏に佐渡で「夏季学校」というイベントがあり、その講師として、憧れの横尾さんが来ると知った。
「横尾さんに会えるならと思って応募したんです」
集まったのは40人ほどの学生たち。民宿に宿泊し、地域の芸能を見学したり、講師の話を聞いたりして1週間を過ごすが、肝心の横尾さんは結局、現れなかった。
最終日にイベントを企画した主宰者から、「夏季学校」の目的について説明があった。
「これから日本の芸能を身につけて、海外公演をする。その興行収入で佐渡に職人大学を創る。これはそういう運動のスタートなんだ」─。
その年'70年は、大阪万博が開催され、大学紛争もまだ盛んなときだった。
「滔々と『大学解体を叫ぶだけでは意味がない。東京の大学に行くよりは佐渡で自分たちが理想とするような職人大学を創ったらどうだ』とアジテーションするんですね」
英哲さんはまったく関心を持てなかったが、翌年4月に主宰者から、機関紙を発行するから、ゴールデンウイークに島に来て、レイアウトを手伝ってくれないかと連絡があった。
「デザインの仕事ならやってみたいし、様子見も兼ねて行ってみたんです。そしたら、それは引っかけだった……」
「お前もせっかく来たんだから、ここで合宿しろ」と言われ、毎朝のランニングに主宰者の長い説教、さらに佐渡を訪れた琴や歌舞伎囃子の先生から稽古を受けることに。
収容所のような過酷な毎日
当時のメンバーは、理屈は言えても「さあ、稽古」となると何もできない素人の大学中退者が中心。ドラムの経験がある英哲さんだけが「筋がいい」と褒められた。結局、レイアウトの仕事はさせてもらえず「夏休みにまた来てくれ」と言われる。
このとき、主宰者は英哲さんの素質に気がついていたのだろう。夏に再訪すると、太鼓の打ち手が足りないと、強く勧誘されたのだ。
「他人とは違う経験のほうがあんたの芸術に役に立つ。7年間だけで集団は解散する予定だし、美大で学ぶよりも世界を見たほうが、絵を描くときの視野も広がるはずだ」
こうして英哲さんは、再び美術の道に戻れることを信じて、その年の秋から集団に参加することになったのだ。
それは過酷な集団生活だった。起床は毎朝4時、すぐさま10キロを走り、午後も野山や海岸を走る長距離訓練を課せられた。テレビ・ラジオ、新聞はすべて禁じられ、情報のない、社会と隔てられた禁欲生活。給料も自由行動もない半自給自足生活で、食事も当番制の自炊。冷暖房もなく、男は黙っていろ、ということで、団員同士で深い会話もできなかった。
「とにかく走らされました。朝、昼、晩で50kmを超えることもあった。僕は運動経験がなかったから、記録がのびないことを理由に、特別メニューで倒れるまで特訓させられました。夏場の暑い日でも水は飲めなかったから、田んぼの水を飲んだこともあった」
そして芸事の訓練。太鼓、横笛、長唄三味線、琴、尺八、日本舞踊、バレエ、合唱などの先生が指導に来た。
'75年、グループ初の海外公演では、アメリカ・ボストンマラソンに参加し、完走したゴール直後に、すごい気迫で太鼓演奏をするというパフォーマンスで世界を驚かせた。続いて、社交界のセレブが集まるパリ・カルダン劇場でも公演し絶賛を浴びる。
「観客の中に、日本から来ていた北大路欣也さんや岸惠子さん、デヴィ夫人などがいらしたんですね。外国で初めてわれわれを見た日本人がいちばん興奮したようです。外国人が日本人に向かって総立ちになって拍手するなんて光景は相当衝撃的だったんですね」
日本のメディアにも大きく取り上げられるようになり、'76年には小澤征爾さん指揮のボストン・シンフォニーと共演する機会に恵まれ以来、毎年欧米での公演が実現する。
ブロードウェイ公演など海外を含めて1年で180本ものツアー公演を行いながらも、集団生活は変わらず過酷なまま。舞台が終われば宿まで走って戻り、寝袋で雑魚寝をするような生活だった。主宰者が舞台を褒めることはなく、むしろメインを務める英哲さんへの要求は厳しく、見せしめのように怒られ、しごかれた。
予定の7年が過ぎ、職人大学を創って解散、という時期を迎えても主宰者からは何の説明もなく、過酷な舞台と収容所のような生活は続く。
唯一、外部との接触が許されたのが、日本舞踊の花柳照奈師匠の指導の時間だった。
「英哲は何万人に1人の才能だから。ちゃんとした伝統芸能の稽古をさせたほうがいい」と師匠は主宰者に強く進言したようだった。だが主宰者にしてみれば、そう言われれば余計に英哲さんを外には出したくなかったのだろう。師匠の指導にしても、マラソン記録を上げれば、という条件つきのしぶしぶの許可だった。
「先生の稽古場からの帰り、渋谷の西武デパートの屋上で100円玉1個で自販機のスプライトを飲むのが唯一の楽しみだった。屋上は人がいないから、自販機がいちばん冷えていて美味しいんです(笑)」
大成功の海外公演の陰で……
ボストン、パリのカルダン劇場公演の数年後、ロサンゼルスの劇場で1週間以上の長期公演をしたことがあった。
「そこでも爆発的な人気になりました。最初は日系人が半分ほどでしたが、日に日に客層が変わり、白人、黒人、ヒスパニック系と人種が混合し、日系人は1割か2割くらいになっていったんです」
この光景に驚いたのが、現地の日系人だった。
「戦時中、日系人は強制収容され、つらい目に遭っていた。戦後もそのつらい経験が尾を引いていて、日系とわかると差別されるから、子どもには日本語を教えずに、できるだけアメリカ人らしく育てていたんです。
ところが、そこにわれわれが行って、褌一本の鉢巻き姿で太鼓を打った。それを一般のアメリカ人が総立ちで拍手する─、これは日系の人たちにとって衝撃の光景だったようです。自分たちのルーツの文化をアメリカ人が絶賛するとは……。もうみなさん泣いて喜んでました」
その光景に勇気づけられたと感じたのは、日系人だけではなかった。
「ヒスパニックや黒人からも勇気が出る、うらやましいと言われました。少数文化でもちゃんとやればアメリカで評価される。日本人がやれるのなら自分たちにもできるはず、と」
太鼓奏者を目指していたわけではなかった英哲さんにとって、ボストン・シンフォニーとの共演などで欧米で現代音楽として高く評価されたこと、日系人やマイノリティーに勇気を与えられたことは、大きな支えになったという。
公演は国内外で好評を得ていたが、しかし集団は大きく軋み始めていた。'78年、主宰者は記録映画作りに熱中し始め、そのために借金が膨れ上がっていったのだ。
「このままでは破綻してしまう─」
主宰者への疑問や反論など許されなかった団員たちだったが、さすがに耐えかねて、主宰者へ連名で直訴状を送った。
「そしたら、主宰者の逆鱗に触れて『言うことが聞けないなら、辞めてくれ!』となったんです」
だが、集団名義で引き受けた仕事を投げ出すわけにはいかない。
結局、団員は主宰者と袂を分かった後も2年近く公演を続け、負債を返済していった。
そういう中で、高度なアンサンブルを目指す主演・演出担当の英哲さんとメンバーとは対立するようになり、やがて訣別を迎える。
「集団名も僕がつけたんですが(註『鼓童』)、理解者はおらず、うつ状態で何もできなくなった。空海さんに憧れる気持ちがあったので、太鼓をやめて坊主になろうと思い、高野山に修行に行くつもりでした。坊主なら絵も描けるかもしれない、と」
ところが、花柳師匠の雷が落ちた。
「何を考えていますか! 人にない才能をこれだけ持っていて、修行なら今までさんざんやってきたでしょう。30歳になってこれから勝負しないでどうしますか!」
ものすごい剣幕だった。
「太鼓の分野で、あなたほどの経験をした人はいない。なんて身勝手な!」とまで言われた。つらかったが、11年の収容生活から社会へ一歩踏み出すことができたのは、この強い言葉のおかげだった。
アメリカでの「英哲プロジェクト」
2002年、北米ツアー中、オハイオ州での「中西部芸術会議」に招かれ、ソロ演奏と基調講演を行った。
「私が太鼓を始めた当時は、一般の人たちがやるなんて考えられなかった。だが今では太鼓グループが増え、若い人が一所懸命にやっている。そして非行に走ったり、問題行動のある子が太鼓で立ち直る例が見られるようになった。今の日本では、太鼓は単なる芸能以上に社会的な意味を持ち始めています」
それを聞いたオハイオ州芸術協会の会長が感動して、
「アメリカの青少年問題はもっと深刻です。いきなり学校に銃を持ってきて人を殺したりする。日本の太鼓にそのような教育効果があるのなら、ぜひアメリカで太鼓プロジェクトをやってくれないか」と真剣な眼差しで言ってきたのだ。
そして'04年、オハイオ州芸術協会の招きで、「英哲オハイオ・プロジェクト」のボランティア活動が始まった。
最初はダブリンという町の中学校に1年間通った。ここは公立校で、生徒も先生もほぼ白人。日本文化のひとつとして太鼓を教え発表会は大興奮に包まれた。
'06年からは、クリーブランドの芸術学校へ移った。ここは99%アフリカ系黒人やヒスパニック系の生徒。貧困家庭の子どもが授業料免除で学ぶことのできる芸術学校で、クラシック、ジャズ、コーラス、演劇、美術、写真、ダンス、文学などを教えていた。
最初、担当者からこう念を押された。
「両親のそろっている生徒はまずいません。家でご飯が食べられない子、養護施設から通っている子もいます。宿題を出しても家でできません。親がエイズだったり、アルコール依存症だったりという家庭環境です。もう子どもがいる子もいます」
最初の授業で、子どもたちはまったく興味を示さなかった。素直なダブリンの子どもとは真逆だ。そこで中断し、全力演奏を本番並みにやって見せた。
「それで生徒にスイッチが入った。急に言うことを聞くようになってくれました」
そして発表会の演目には、
「単なるコンサートじゃなくて、太鼓の入る音楽劇はどうでしょう」と「浦島太郎」を提案。演劇科の先生が英語台本を探し、衣装は中古の着物を日本から持って行った。
3か月後の、発表会当日。
巨大な鳥居の竜宮城や、海底を表す壮大な舞台装置もでき、本番で生徒たちは大熱演を見せ、大成功に終わった。
英哲さんは、最後の演奏前にこんなスピーチをした。
「私には子どもがいませんが、このオハイオには80人以上の子どもがいるような気がします。私は若いころ憧れたビートルズほど有名にはなれなかったけれど、この子たちはもしかしたら将来、ビートルズのようになるかもしれない。最後に、この子たちの将来の幸せを願って演奏をします」
この英語スピーチと演奏で、先生方やプロジェクト関係者はみんな大泣きになったのだ。
太鼓打ちとしての人生
舞台では、藤田嗣治などの美術家をテーマにした連作を発表し続け、前例のない創作表現を続ける英哲さんだが、意外なことを口にする。
「僕はうれしい楽しいで太鼓を打ったことが1度もない。いつも苦しくて『命がけ』だったから。今、楽しそうに打つアマチュアや若いプロチームを見かけると、ちょっと違和感を感じます」
ただひたすら太鼓と向き合ってきたからか、英哲さんは未婚である。
「何度かしようと思ったこともあるんです。でも『太鼓打ち』という職業は一般には理解してもらいにくい。それに、家庭を持ったり、人を巻き込んでしまうのは、僕の性格では負いきれないと思った。だから、弟子も持つつもりは最初はなかったんですけどね」
現在、英哲さんを慕う弟子たちは、「英哲風雲の会」を結成している。これは、日本各地で活躍する若手太鼓奏者で構成される英哲さんの音楽に共鳴する太鼓ユニットだ。
最初期からのメンバー、上田秀一郎さん(43)は、「英哲風雲の会」に加入して24年、オハイオ州のプロジェクトにも参加している。
「僕は'96年に大太鼓合奏曲『七星』のオーディションに参加したのが、風雲の会に入るきっかけでした」
その後、本格的な弟子入りを許され、神戸から上京。道場にも2年半住み込んだ。
以来、毎年行われる全国ツアーのレギュラーメンバーとして毎回出演。素顔の英哲さんについて聞くと、
「普段からストイックでまじめ。最初は厳しくてよく怒られました。礼儀、挨拶、普段の所作や姿勢にも気を遣われます。でも、今は師匠は意外におしゃべり。博学だしずーっと話される(笑)。師匠はドンキマニアでもあり、ネットショッピングもするし、YouTubeも大好き。誕生日に弟子たちでプレゼントを贈ることになったんですが、悩んだあげく、最新マッサージ器にしました。すごく喜んでもらえました(笑)」
はせみきたさん(44)は、教師を目指していたが、大学院中退後、「英哲風雲の会」の門を叩いた変わり種だ。
「小さいころから太鼓はやっていました。高校2年のとき、師匠が書かれた本を読んで感動したんです。太鼓をやるのに、ここまで哲学を突き詰める人がいるんだと。出版社に手紙を出したら、しばらくしてから師匠から『1度道場に来ませんか』と手紙をもらって伺ったんです。でも、一応大学を出てからでも、と言われ、進学。太鼓は続けていたのですが、24歳のときに、『やはりプロの演奏家になりたい』と思い立ち、全国ツアーのオーディションを受けたのです」
英哲さんは、19歳から30歳までの11年間のすべてを集団に捧げた。その時代を語るとき、集団名も、主宰者の名前も1度も口に出さなかった。
「僕にとってはトラウマなんです。今の自分は、あの時代があってこそなんですが、裏切られた思いもある。思い出すだけで胸が苦しい……」
英哲さんは、ポツリとこんなことを言った。
「今、太鼓はブームになってみんなうれしそうに太鼓をやっている。太鼓を打つことが単なる芸能以上に社会的な役割を持ったことはいいことなんですが、僕にとっては複雑でもあります」
ほぼ半世紀、伝統芸ではない太鼓曲や打法、太鼓台から道具まで工夫創作してきた英哲さんにとって、まるで作者がいないかのように模倣される現状は、複雑に違いない。
「太鼓は大衆のものなんだから共有するのは当然、という空気がある。創作者がいるというのが通じないし、著作権の考えもない。コマーシャルでもよく太鼓が出ますが、打法に著作権や印税があれば、立派な道場が建ったかもしれませんね(笑)」
孤高の太鼓奏者は、その輝かしい栄光の陰で、人知れず過去のトラウマに苦しみ、またトップランナーゆえのジレンマを抱いていたのだ。
「独奏者としても、後進の風雲メンバーのためにも、先駆者であり続けたいと思っています。これからも新たな挑戦はしていきますよ」
最後に英哲さんは、そう言ってようやく白い歯を見せたのだった。
取材・文/小泉カツミ(こいずみかつみ)ノンフィクションライター。芸能、アート、社会問題、災害、などのフィールドで取材・執筆に取り組む。芸能人・著名人のインタビューも多数。近著に『崑ちゃん』(文藝春秋/大村崑と共著)などがある。