周りの人を優しく包み込むような笑顔の美容家・小林照子さんは大手化粧品会社を経て、会社を設立。メイクアップ専門の学校や美容に特化した通信制高校も開校。85歳の今でも、スケジュール帳は予定でびっしり埋まり、美容理論のデータ化に取り組むなど、探究心はとどまるところを知らない。そんな小林さんがパワフルに道を切り拓いてきた激動の半生とはーー。
キレイになりたい、キレイに見られたい。多くの女性は、そう考えてメイクや美容に勤しむ。しかし、この人のもとには、メイクや美容で「自分の夢を叶えたい」という人が集まってくる。はたして、メイクにそこまでの力はあるのだろうか?
「もちろんあります。歌手になりたい、モデルになりたい、政治家になりたい。そう言って私のもとに来た人たちが、夢を引き寄せていったんですから」
そう語るのが、小林照子さん。化粧品会社小林コーセー(現コーセー)に美容部員として入社後、教育や商品開発で活躍し、社内初の女性取締役に。退職後は、自ら設立した会社「美・ファイン研究所」で美容研究や企画開発などを行い、また美容のプロを育成するメイクアップ専門の学校「[フロムハンド]メイクアップアカデミー」、美容に特化した教育を行う通信制高校「青山ビューティ学院高等部(東京校・京都校)」を開校。85歳の今も、スケジュール帳はびっしり予定で埋まるほど多忙な、現役の美容研究家、経営者、教育家である。
親が5人いた幼少時代
その人生は、同じく美容研究家である娘・小林ひろ美さんが「とにかくパワフル。人の3倍くらい生きている感じ」と語るように、密度濃く、また数々の運命的な出来事や人との出会いに彩られている。
その「メイクや美容で夢を叶える」を体現してきた道のりと、今後、目指す夢の到達点とは─。
1935年、東京・江古田で生まれた小林さん(旧姓・小川→花形)の幼少期は、時代も不穏であり、また自身も大人に翻弄された。何しろ親が5人いた。3歳で両親が離婚。兄と妹の3人きょうだいだったが、兄とともに父に引き取られる。父は再婚したが7歳のときに死別。その後、父の再婚相手である継母の兄夫婦の養女となる。つまり実の父母、継母、養父母がいるのである。かなり幼いころの記憶が鮮明なのは、そのせいかもしれない、と小林さんは言う。
「物心つくかどうかというころに、親が何人も代わった。だから、それぞれの親の肌の感覚が違うのも覚えている。私をおぶった実母が、家に帰らない父を原っぱで待っている。その寂しさや悲しみが背中越しに伝わってきたこと。
離婚する前、私たちきょうだいを抱きしめて『何があっても、あなたたちのお母さんは私よ』と言ったこと。継母も養母も『私が本当のお母さん。前の人は乳母だったのよ』って同じことを言ったとき、『本当は違うのにな』と思ったこと。親が代わらない人は、感覚も変わらないから忘れてしまうのかもしれませんけどね」
人の心の内は、肌から伝わる―幼いころから、そのことを自然に悟ったそうだ。
戦火もくぐり抜けた。
「B29がギンヤンマのように空に飛んできて、爆弾を落としていくのをずっと見ていました。平和を知らない灰色の時代に育って、まだ子どもだったので、恐怖より好奇心のほうが強かったですね」
養父は日本橋に防空資材を扱う店を持っていたが、空襲で焼失。そして1945年2月に小林さんは養母とともに、その故郷である山形県東田川郡狩川町(現・庄内町)へと疎開をする。
「東京大空襲(3月10日)の直前だったから、さらに悲惨な目にはあわなくてすみました。でも、当時の近所の同級生の消息は、まったくわからないですね」
戦争体験とメイクとの出会い
遅れて東京を引き揚げてきた養父とともに、狩川町で終戦を迎える。狩川は雪国で、農業中心の町。最初は、言葉がわからず、暮らし方も全く違うことに戸惑ったそうだが、小林さんは持ち前の明るさと人なつっこさで、まもなくなじんでいった。一方、養父母との暮らしは次第に困窮。貨幣価値の変化で、養父が築いた財産は紙屑同然に。さらに養母がカリエスを発症し、長期療養を余儀なくされる。養父は養母の看病に専念し、生活の糧を得るのは小林さんの役割となった。
「山に行って食べ物をとってきたり、農家の手伝いに行って、お裾分けをもらったり。それは苦にならなかったですね。当時の小中学校では、農業の授業があって、農家の子は嫌がったんですが、私は植物の苗が成長して収穫できる様子がとてもクリエイティブに思えて、楽しかった。先生からも可愛がられて、農業で食べていこうかな、と思っていたくらいです」
自分が家族の生活を支えていることに対して、養父母への反発や反抗も特になかったという。
「養父は、学もあり商才もあった人でしたが、以前は頭脳労働で成功していたプライドからか、地元の人たちになじめなかったんです。それにカリエスは結核性のものなので、若い私にうつらないようにという配慮もあったと思います」
養父母とは、実の親子とは微妙に違う感覚もあった。
「私が乳飲み子のころを知らず、養女になったときは7歳で、結構、働き者だった(笑)から。例えば運動会で、紅白饅頭をもらって帰宅して、私が『お腹がいっぱい』と言うと、両親が『本当? いらないの?』なんて目を輝かせてお饅頭を食べたりね。普通なら子どもに食べさせたい、って思うでしょ? そんなふうで、養父母との関係は、子どもを守るというより、頼ったり頼られたりの同志みたいだったかもしれません」
それでも養父は尊敬しており、その言葉やふるまいには大きな影響を受けた。
「時代の先を読め、と教えてくれました。養父自身がそういう人で、家具問屋から防空資材の会社に転じて成功した。アイデア豊富で、焼夷弾を通さない厚手のフェルトの防空頭巾を発明して、新聞に載ったこともあります。戦争に負けることも、早くから予見していましたね。
特に忘れられないのは、店が空襲を受けたときのこと。一緒に見に行ったら、中の防空資材が略奪されていたんです。略奪を防げなかったことを謝る大家さんに『1人でも命を助けることができたのなら本望です』って言ったんです。本当にカッコいいなと思いました」
恵まれた暮らしとは言い難い小林さんの青春時代。その中で、メイクに興味を持つようになったきっかけは「演劇」だった。中学卒業後は、小学校の給仕として働きながら高校に通い、農家の手伝いもする、という忙しい生活。
少ない娯楽が、近所の若者が集まる集会場で、レコードを聴いたり、本を回し読みしたりすること。その仲間だった年長の文学青年が、さまざまな脚本を紹介してくれるようになったことから、演劇サークルを結成する。衣装や舞台装置を手作りする中で、小林さんはメイクに注目する。
「『夕鶴』の主人公のつうが、だんだんやせ細っていくのをどう表現したらいいかと思って。薬局で相談したら、青いアイシャドーがあるよって。それを塗ると、健康的な顔がすーっとやせたように見える。すごく面白いなと」
自分は裏方向きだ、と気づいたのもこのころだった。
「小中学校のときは、東京出身でセリフがなまらずにうまく言える、というので当たり前のように主役に選ばれていたけれど感動はなかった。自分が照明を当てたり、プロンプターで陰からセリフを補助したりするほうが喜びがありました。練習のときにはセリフが覚えられなくて心配していた人が、本番で堂々と演じているのを見ると、うれしくて涙が出るほどでしたから」
運命の出来事、いざ東京へ
「演劇のメイクをする人になりたい」そう思い始めた小林さんだが、方法がわからない。近所に住む美容師さんから「東京の美容学校に行けばチャンスがあるかも」とアドバイスされたものの、学費を捻出するのは難しかった。ところが、運命的な出来事が起こる。18歳のころ、長年、自宅で闘病していた養母が亡くなって間もなくのことだ。
「病気が病気だからと、家は消毒され、親戚も1週間は来なかった。土地の風習で養父は家で見送り、私と叔父だけで養母をリヤカーで火葬場まで運び、荼毘に付しました。帰り道、叔父と別れてひとりで骨壺を持って歩いていると、お寺の奥さんに会ったんです。その奥さんも、以前は同じ病気だった。それもあって、奥さんは『かわいそうね』って泣いてくれたんです」
後日、お寺の和尚さんと奥さんが家を訪れ、お経を上げてくれた。そのうえ、お金の入った封筒を差し出した。
「以前、私が学校で家庭科の授業の準備をしていたとき、邪魔だったので腕時計をはずして近くに置いておいた。そこにお寺の子どもが遊びに来ていて、いたずら心で持って帰って、返す機会を失って川に捨ててしまったそうです。そのお詫びだと。でも、その腕時計は壊れてて捨てられていたものを拾ったものだったんです。だから私も『うっかりなくした』程度で忘れていたんですけどね」
驚いて何度も固辞したが、相手も引かないため、受け取らざるをえなかった。
「同じ病気で苦しんだ養母への思いや、自分の子どもがやったことの口止めという意味もあったかもしれません。かなりの大金でした」
そして養父からは、そのお金で、東京へ行くようすすめられる。
「養父は、私に何もしてあげられなかったこと、世間に冷たくされて養母を送るという過酷な体験をさせてしまったことを、かわいそうに思っていたんでしょうね」
そうして1954年、19歳で上京。小林さんは夢への一歩を踏み出した。
小林さんは親類の家に身をよせ、昼間は保険の外交の仕事をしながら、美容学校の夜間部に通った。しかし卒業後、同級生たちが美容院へ就職する中、演劇のメイクを仕事にしたかった小林さんは、再び進路に迷ってしまう。そのとき化粧品会社・小林コーセーの「美容指導員募集」の小さな新聞広告が目に入る。「ここならメイクがもっと学べるかも」と思って応募した小林さんは、数百人の中から見事に採用される。
1958年、23歳で小林コーセーの美容指導員となった小林さんは、山口県の特約店担当になる。化粧品の入った大きなボックスを抱え、月に25日間ほど、泊まりで、25軒ほどの担当店を順に回りながら講習会を行うという過酷な仕事だったが、小林さんは嬉々として取り組んだ。
「先輩からは口で説明して売ればいい、と教わったけど、私はお客様に実演をしたんです。マッサージやローションパックをした後、メイクをしてあげる。使った商品は簡単なカルテにして渡す。それが喜ばれて、どのお店も行くたびにお客様が増えた。私もたくさんのお客様にメイクできるのが楽しくてしかたがなかったですね」
商売が厳しい、と言われていた地方で、新人美容指導員がクレームも出さず、売り上げも伸ばしている。その実績が買われ、小林さんは、2年ほどで本社教育課の配属に。
そこでも現場で磨いた小林さんのメイクの腕が、次第に注目されるようになる。当時、教えられていたメイクは「欠点修正法」といい、顔の欠点を修正し、理想の顔に近づけることがよしとされていたが、小林さんはそれに疑問を抱き、独自のメイク方法を実践したからだ。
「理想の顔と違う部分を探して、判で押したような顔にするなんておかしい。むしろそこを強調したほうが、魅力的に見えることが経験からわかっていました。私がメイクをした女性の教育部長が、すごく印象が変わって、ほかの人から褒められたとか、受付の人にメイクを教えたらお見合いに成功したとか……そういうことが重なって、認められるようになったんです」
高度成長期で、女性のメイク欲も高まり、化粧品業界も急成長していったこのころ。小林さんは増え続ける美容部員へのメイク指導、宣伝ポスターのモデルのメイク、新商品のデモンストレーションなど、仕事の幅を広げていく。演劇の夢はいったん置き、会社の仕事に熱中していった。
後輩の人生の道筋をーー
1965年、30歳で、マーケティング部美容研究室へと異動。それ以来、市場調査、商品の企画開発、プロモーションなど、さらに活躍の場を広げ、数々のヒット商品を手がける。そのひとつが、1966年のファンデーション「クッキールック」のキャンペーンだ。10代の人気モデル・麻生れい子を起用。アイシャドーや口紅の色を抑え、ファンデーションにくっきりしたアイラインというローコントラストメイクを考案。モデルの若さやビジュアルの斬新さに、前例がないとして、社内の反発の声も高かったが、発売後は若い女性の心を一気につかんだ。その後も、世界初の「美容液」の企画で注目を集めるなど、ヒットメーカーとして評価を高めていった。
当時の小林さんをよく知るのが、コーセーの後輩・原田純子さん。「クッキールック」の新商品発表会の会場の前にたまたま居合わせた彼女は、会場から出てくる人たちの持つ紙バッグのビジュアルを見て衝撃を受け、通っていた音楽の学校をやめてコーセーに入社。小林さんから、メイクの指導を受けた。
「テコ先生(小林さん)が、つなぎを着て、モデルにメイクをしている姿が、今でも目に浮かぶくらいカッコよかった。みなの憧れの人でしたね」(原田さん)
原田さんにとって、人生の道筋をつけてくれた人だとも言う。
「入社前、私は進路に迷っていたんですが、メイクの道が見つかり、メイクで人が輝く喜びを知ることができた。忙しくて無我夢中でしたけど、充実していましたね。コーセーは結婚退職しましたが、その後、美容の商品開発の仕事について定年まで勤めましたから」(原田さん)
小林さんが企画した商品は、時代の空気を先取りし、生活感覚に合った使いやすさがあったが、提案したときには、常識はずれと思われて反対を受けたものも少なくない。
「悔しい思いもたくさんしました。でも、反対の理由を徹底的に聞くことで、問題点にも気づけたんですね。
例えば、これ1本で肌の調子がよくなる、という美容液は、忙しい女性にとって願ってもない商品。でも、販売の人から反対される。理由を聞くと、これまで化粧品をラインで使ってくれていた、いいお客様を失うことになると。
なるほど、と思いましたね。それなら綿密にセールストークを考えましょう、と。化粧前のマッサージに使ってください、とか、化粧水や乳液に混ぜて使うともっといいですよ、とか」
考え方が違う人、反対している人の意見をとことん聞いて、解決方法を考える。そうして理解してもらったとき、彼らはいちばんの協力者になる、という結論を小林さんは得る。
「組織には、いろんな意見がある。それを乗り越えて総力を結集できたもの、私がこれをやった、俺はこれをやった、って多くの人が振り返ることができるものが、成功するんですね」
仕事に夢中で恋愛には無頓着だった小林さんだが、27歳のとき、親戚のすすめで夫・常浩さんと結婚。29歳で娘のひろ美さんを出産する。
子育ても加わり、小林さんはますます多忙になった。保育園も少ない時代。今日は親戚の家、明日は保育園の園長先生の家、と綱渡りのように子どもの預け先を探したこともあるという。
「同僚の盛田さんに、世田谷にいい保育園があると聞いて、買ったばかりの家を夫に黙って売って、近くに引っ越すという無茶をしたこともありました。あれもこれもと手をかけてあげられないけれど、子どもの命や健康に関わることは大事にしよう、と割り切っていた面はありますね」
働く母としての苦労
夫の常浩さんからは、猛烈な反発にあった。
「子どもができれば仕事をやめるだろう、と思っていたら違った。何かあると『子どもがかわいそうじゃないか』『だからやめろって言ったんだよ』って言葉がおいかけてきました。
ケンカしてもしかたないから、私ははぐらかしながら、頭の中でどうしようかなって考えている。そんなふうだから、夫は盛田さん夫婦に『あの人にはついていけません』って愚痴っていたみたい。それ、普通は妻が言うセリフですよね(笑)」
根負けしたのか、小林さんの仕事ぶりを見て考えが変わったのか、時がたつうちに協力的になり、妻自慢までするようになったという常浩さん。彼は15年前に鬼籍に入った。
当の娘・ひろ美さんは「寂しいと思うこともありましたが、忙しくても話を聞いてくれたり、手紙を残してくれたりしたので、愛情不足とは感じませんでした」と言う。
「子ども扱いせず、私の意思を尊重してくれたことはよかった。叱られたのは、人の悪口や告げ口。人のいいところを見なさいと。その教えは、私の人生を楽しくしてくれています」(ひろ美さん)
「むしろ母のあのエネルギーが、自分だけに向かっていたら大変でしたよ」と笑うひろ美さん。とはいえ、さまざまな葛藤はあったのだろう。前述の後輩、原田純子さんは話す。
「忙しくて寝ていないのか、朝、『私、昨日のお化粧のままなのよ』っておっしゃったり、『ひろ美が、仕事に行かないでって泣いて、ひっかいたのよ』って傷だらけの手を見せてくれたり。子どもがいて、あれだけ仕事をするのは並大抵のことじゃないのだなと感じていました」(原田さん)
仕事で結果を出し続けた小林さんは、1985年、50歳で社内初の女性取締役に抜擢される。
「出世に興味がなくて、最初はお断りしたんです。でも、お世話になった創業者に、どうしてもと言われて。後に続く人のことも考えて、お引き受けしました」
地位を捨て独立、次世代の育成へ
出世の階段を上り詰めた小林さんだが、実は、以前から新しい夢を描き始めていた。そのひとつは、プロのメイクアップアーティストを育てる学校を作ること。
「私は、手探りでメイクアップアーティストになりました。その知識や技術、考え方を、後に続く人たちに伝える場所をつくりたい」と。もうひとつは、美容でより多くの人を幸せにすること。
「美容は、美しくなるためだけのものじゃない。自分の美意識を持ち、個性を磨き、なりたい姿に近づくためのものです。それがあれば夢を叶えることもできる。その可能性をもっと追求したかったんです」
組織にとらわれずにそれらの夢を実現するため、1991年、56歳で小林さんはコーセーを退職して「美・ファイン研究所」を設立。さらに1994年「[フロムハンド]メイクアップアカデミー」、2010年に「青山ビューティ学院高等部東京校」、2013年に同・京都校を開校。現在も、そこで次世代を育て、美容文化を広めることに邁進している。
メイクや美容で、人の夢を後押しできる。そう言えるのは、実際に小林さんのもとへ来た人たちが夢を言葉にし、夢を叶えていったからだ。
「例えば『企業でキャリアアップしたい』と言って私のもとに来る。その人はとても愛らしい顔だけれど、夢に近づくためには、より信頼される大人っぽい印象を与えられたほうがいい。それで『こういうメイクを足すといいですよ』と提案すると、愛らしい魅力を生かしながら、その人らしい気品がある顔になる。
私のメイクの理論は、ただ眉を描いてラインを引く、みたいなことだけじゃなくて、その人が何者で何になりたいか、と心にまず触れる。そして、元の印象を分析したうえで、夢に近づけるメイクを考える。結果、自分も周りも幸せになれるから“ハッピーメイク”と名づけたんですよ」
小林さんの後継者も、美容で夢を叶えつつある人たちだ。
ひとりは「美・ファイン研究所」を一緒に立ち上げ、今は代表を務めている娘のひろ美さん。わかりやすく実践しやすい美容法の提案が人気で、多くのメディアで活躍中の美容研究家だ。
「小学校のころから、歯磨きを教えてもらうかのように、スキンケアの基本を教えられました。でも若いころは日焼けブームにのって、肌はぼろぼろに。母にあきれられていました」(ひろ美さん)
海外留学を経てバイヤーやコーディネーターの仕事をしていた彼女は、「美・ファイン研究所」の立ち上げ当初は、母の裏方でいいと考えていた。美容の世界では母に及ばない、という気持ちもあったそうだ。しかし、大学時代の友人と温泉旅行に行った際、母から教えられたスキンケアをアドバイスしてあげたことで、自分の夢に開眼する。
「みんなから『そういうことが知りたかったのよ』ってすごく感謝されたことがうれしくて。そうか、私にできることはこれだ、と目の前の霧が晴れたようでした」(ひろ美さん)
母がプロ向けだとすれば、自分は一般の人に美容を提案していこう、と決めた。
「人が喜んでくれるのがうれしいのは母譲りです。でも、自分らしい道も見つかった。それ以来、仕事への取り組み方が変わりましたね」(ひろ美さん)
もうひとりは、[フロムハンド]メイクアップアカデミーの卒業生で、「青山ビューティ学院高等部」の立ち上げに参画した関野里美さん。27歳で副校長に就任、2018年からは学長を務める33歳だ。
「美容に特化した高校を作る、と言ったとき、大賛成してくれたのが彼女。カリキュラム作りから学生の募集、広報と、全部やるってくらい張り切ってくれた。それで抜擢しました」(小林さん)
夢は言葉に、未来を面白がって
関野さんは、もともと「美容で教育をやりたい」という気持ちを胸に秘めていた人。1歳半のときに暖房器具で大ヤケドをおい、ずっとコンプレックスがあったが、13歳のとき友人がすすめてくれたメイクに救われたという経験がある。人の心を変える美容を、教育にも取り入れたほうがいい。そう思ったものの、学生がメイクをすると校則違反と非難される。もやもやした思いを抱えて思春期を過ごした彼女が選んだ進路が[フロムハンド]メイクアップアカデミーだった。彼女は卒業後、小林さんのアシスタントをしているときに、高校を作ると聞いて自ら手をあげた。
「願ってもないチャンスだなと。だから、暇さえあれば小林さんに質問し、提案書も200くらい書きました。そしたら『あなた、やりなさいよ』って」(関野さん)
小林さんより50以上も年下だが、絶大な信頼を受けているのは、クリエイターとしての優秀さや並はずれた行動力もあるが、何より小林さんの哲学をしっかりと受け継いでいるから。
「お客様はひとりひとり違うし、その肌は心とつながっていて繊細。それを扱うのが美容です。だから学校では、技術以上に、礼儀や敬意、人の気持ちを想像する力など、“人間力”を育てることが大事だと考えています」(関野さん)
こうして、小林さんの夢は、次世代にも着々と引き継がれつつある。
50代半ばに、新しいスタートを切った小林さん自身の姿勢に触発されてか、その周りには、中高年になってから、新たな夢や目標を持つ人も集まってくる。
例えば、前述の後輩・原田純子さんは、「歌の夢もやり残したくない」と思い、50代でシンガー・ソングライターとしてデビュー。純子さんという芸名でコンサート活動も行っている。
俳優の片岡鶴太郎さんは、小林さんに“美容の弟子入り”をした。小林さんの著書『これはしない、あれはする』を2年前に読み、面会を熱望。最初に会ったときは、3時間以上も話が尽きなかったという。
「柔らかで偉ぶらない人柄、年齢を重ねてますます自分を“進化・深化・新化”させていく姿勢。お会いしてますます、この人の背中を追って生きたい、と思いました」(片岡さん)
ヨーガの修行を続けている片岡さんは「肌は肉体の一部、精神ともつながっている」という考え方に共鳴する部分も大きかったという。
「われわれのように年齢を重ねた男性も、肌と心を整える美容は重要だと実感しています。小林さんから教わった“蒸しタオル美容法”は特に役立っていて、周囲の人にもすすめています」(片岡さん)
小林さんから美容を教わり、かわりに片岡さんが絵を教える、という形で、交流は続いている。
また[フロムハンド]メイクアップアカデミーに、40代、50代で入学してくる人もいる。
「技術の習得は若いほうが早いかもしれません。でも美容の根っこは、人をきれいにしたい、という思いやりの心。子育てや家事をがんばってきた人、会社でもまれてきた人は、それがすでに身についている。それは、美容の技術や知識に、キャリアとして上乗せされるんです」
「だから自分は何もできない、なんて思わず、何歳でもチャレンジする価値はあるんです」
娘・ひろ美さんが「勉強熱心で、最新のものをキャッチアップする力もすごい」と話すように、小林さんのチャレンジ精神に衰えはない。ここ数年は、自身のメイクアップ理論「印象分析」を、AI(人工知能)に学習させ、より精度高く、使いやすくする仕事にも力を注いでいる。
「時代の進化に合わせて、便利なものはどんどん利用する。未来を面白がるのが私なんです」
美容の枠を超えた活動もスタートした。10年後、20年後の世の中がよくなるようにと、2019年4月から、無償の私塾「アマテラス・アカデミア」を開講。ここでは、10年間で150人を育てる予定だ。
「現場力があり、自分のことだけではない広い視野を持っている。そんな20代、30代の女性を募り、連携力をもって、将来、政治にもものを言えるような人材を育てようとしているんです」
そのとき、小林さんは90歳、100歳を越える。
「もし身体がきかなくなっても、そのときにできることをすればいい。いくつになっても夢は言葉にすれば叶うと思うし、私はいつでもその後押しをしたい。人の役に立つのが好きなんですね」
いつでも未来を見て生きる。小林さんのこれからが、ますます楽しみだ。
取材・文/秋山圭子(あきやまけいこ)女性向けライフスタイル誌の編集部を経て、フリーの編集・ライターとして独立。『週刊女性』などの女性誌、男性誌、ウェブサイトなどさまざまなメディアで、美容・食・人物インタビューを中心に執筆。