逝く人を前にしたときに、看取る側はどう向き合えばいいのでしょうか

 新型コロナウイルスの流行により、命の重さや大切さ、ひいては自分や家族の「最期のとき」について思いをめぐらせた人も多いのではないでしょうか。

「自然死」を選択したご主人を看取った後、僧侶となった玉置妙憂さんは、余命宣告をされた方やそのご家族に寄り添い、対話を通して「最期のとき」を過ごす方々を支え続けています。その経験から、後悔の少ない看取りをするためにはどのような心の準備が必要か、最愛の人と「最期の対話」をするときのために覚えておきたい心得をご紹介します。

当記事は「東洋経済オンライン」(運営:東洋経済新報社)の提供記事です

 人生の着地態勢に入った人が、安心して最期の日々を過ごし、安らかに逝くには、看取る側の心の準備も大切です。

 終末期を迎えた方たちからは、「問われても答えられない言葉」が多く出てきます。著書『最期の対話をするために』にも、実際に私が交わした対話例をいくつか掲載しましたが、人生の着地点を目の当たりにした方々からは、「なぜ死ぬのだろう」「あとどれくらい生きていられるのか」「私の人生は何だったのだろう」といった問いをいただくことが多くありました。こういった言葉に、私たちは答えることができるでしょうか。

 例えば、余命を告げられたご家族から「私の人生って、何だったと思う?」と聞かれたら、たいていの人は「そんなこと言わないで、元気を出して」などと言って、逃げ出してしまうのではないでしょうか。

 逃げてしまうのは、その問いがあまりに重いからです。しかし、これは答えを出す必要がない問いなのです。むしろ、逃げ出さずに聞くことこそが大事です。本当に聞くだけでよく、諭したり、ごまかしたりする必要もありません。ただ、死にゆく人の言葉に耳を傾けるだけでいいのです。

相手が話し、整理するのを見守る

看取る側の人間にできるのは、相手の不安を軽くするとか、なくすということではなく、ただただその人の話を聞くことです。相手が話すことを、そばにいて、邪魔をせずに聞く。そして、その人自身が、話しながら自分の中で気持ちを整理していくのを見守るのです。

相手が話したことに対して、例えば「そんなことを言ったら、○○が悲しみますよ」などと諭したりするのは、邪魔をしていることになります。 “話すことによって自分の中で答えを探す”という着地へのプロセスに入ったのに、諭されることで、そこで考えが進まなくなってしまうからです。

 看取る側は、あくまでも相手が自主的に気持ちや後悔を書き換えるのを見守ることに徹しましょう。

 かといって、答えを探す作業を、死にゆく人が自分だけでできるかといったら、それも難しいのです。問題が重すぎて、1人では押し潰されそうになることもあります。

 誰かに話すことで、少し気持ちを軽くしながら、自分自身を整理していく。そのためには、看取る側は相手を諭すのではなく、目を見てうなずくなど「話をちゃんと聞いているよ」という姿勢を見せることが大切です。

望まれないことはしなくていい

 私が関わっていた難病の患者さんに、こんなエピソードがありました。

 彼女はすでに歩けなくなっていたのですが、夢は「せかせか歩く」ことでした。

 もう絶対にかなわない状態とわかっていましたが、訪問看護師の前で「私の夢はせかせか歩くこと」とつぶやいたのです。すると、その看護師は「もう歩けないし、これから歩けるようにもならないのだから、せめて車椅子に乗せて散歩に行こう」と自分の中で彼女の希望を変換してしまったのです。そして、電動の車椅子を持ってきて、彼女を乗せて外に散歩に行きました。

 みなさんはこの訪問看護師の行動をどう思われますか?

 この患者さんは、確かに気分転換はできたと思いますが、気持ちは満たされていません。彼女が望んでいたこと、言いたかったのは、そういうことではないのです。二度と歩けない人が「せかせか歩きたい」と言うのは、「死んでしまうけど死にたくない」と言っているのとほぼ同じなんですね。

 どうにもならないことは本人もわかっているけど、言わざるをえないということ。ですからそういうときには、私たちは「うん」としか言えないのです。

 こちらが余計なことを言わないでいると、患者さんから「昔はもっとゆっくりしたいとか、ゆとりを持って行動したいと思いながらせかせか歩いてたけど、いざできなくなると、せかせか歩きたいのよね」などと話し始めます。それをまた邪魔しないように、黙って聞いていると患者さんは自己完結していきます。

 しかし、前述の看護師のように、私たちは「ハウツー」でごまかしがちです。

「最近よく眠れない」と言う患者さんに、マッサージ師がマッサージをしてくれたという話もありました。このときの患者さんの「よく眠れない」という言葉は文字どおりの意味ではなく、本当は「心の痛みのせいで、よく眠れない」と伝えたかったのです。「眠れないから寝不足で困る」という体の問題ではなく、「もう眠れない状態になっているのだ」という、心の痛みを口にしただけなのです。

 死にゆく人の言葉が体の不調からくるものなのか、心の痛みからくるものなのか、見極めるのが難しいこともあるでしょう。そんなときには、自分で判断せずに、本人に聞いてみるといいと思います。

「よく眠れない」と言われたら、「何かしてほしいことはある?」と聞いてみて、「何もない」と言われたら、それは心の痛みですから、そばにいて話を聞けばいいのです。

 逝く人の気持ちは非常に振り幅が大きいものだということも、知っておいてほしいことです。

 人間も動物なので、生物学的には最後まで生きていたいものです。ですから当然、「死ぬのは嫌だ」と言うはずです。そうかと思うと「もう死んでもいいんだ」と言い出したりもします。それゆえ、聞いているほうも一緒に振り幅が大きくなってしまいがちです。

「昨日は達観したように『ありがとう』って言ってたから、お父さんは理解してくれたんだわ」と思っていると、「高価だというあの薬は、今からでは効かないだろうか」と言い出したりするので、家族としてはびっくりしてしまいます。でも、逝く人の気持ちの振り幅は大きいものと理解し、その振り幅がだんだんと小さくなって着地していくと思えば大丈夫です。

 体と心は同時に着地態勢には入らず、体のほうが先に「医学では助けられない」と告げられることがほとんどなので、その状況に心がついていくまでにタイムラグがあります。そういったズレのある状況をも見守らなければならないとあらかじめわかっていれば、看取る側の心が潰れるリスクを防ぐことができるかもしれません。

看取る側もずっと心が揺れ動く

 逝く人だけでなく、看取る側の人も「本当に死んでしまうのかな、もう元気にならないのかな」とずっと心は揺れています。

 私のように何度も看取りの現場を経験している人間でさえ、夫の介護のときは揺れました。看護師として冷静に見ると明らかにもう死が迫っている状態であっても、家族としては、まだまだ10年も20年も生きていられそうな気がしました。

『最期の対話をするために』玉置妙憂著(KADOKAWA)

 誰しも、「ドンと覚悟は決まっていて、揺れません」ということにはなかなかならないと思います。「頑張ってずっと生きていてほしい。でもダメなのかもしれない」という思いになったら、覚悟しつつあるということなのでしょう。結局のところ、看取る側も本人も、毎日揺れながら、その日まで進んでいくしかないのです。

 でも、こうして“誰もが揺れる”ということをわかっておくと、みんなが経験する道なんだと思えて、気持ちが少しラクになるかもしれません。

 また、逝く人だけでなく、看取りをする人もきちんとした“死生観”を持っていたほうがいいと思います。自分が死に対してどういう考え方を持っているか、生きるということをどう思っているかを死生観といいます。

 自分がどう考えているのかという軸なくして、人とは向き合えません。人から何か聞かれたときに、自分の中に「私はこうだ」というものがあれば、たとえその考えが相手と違ったとしても対話ができます。

 ですから自分はどう考えるのか、自分はどう感じるのかということを持っていることが看取りの場では拠り所になります。看取る側の人が軸となるものを持っていないと、重い現実に潰されてしまうこともあるのです。


玉置 妙憂(たまおき みょうゆう)看護師・看護教員・ケアマネジャー・僧侶
東京都中野区生まれ。専修大学法学部卒業。夫の“自然死”という死にざまがあまりに美しかったことから開眼し出家。高野山真言宗にて修行を積み僧侶となる。「非営利一般社団法人 大慈学苑」を設立し、終末期からひきこもり、不登校、子育て、希死念慮、自死ご遺族まで幅広く対象としたスピリチュアルケア活動を実施。講演会やシンポジウムなど幅広く活動している。『まずは、あなたのコップを満たしましょう』(飛鳥新社)『死にゆく人の心に寄りそう 医療と宗教の間のケア』(光文社新書)など著書多数。