6月11日に逝去した服部克久さん(享年83)。テレビの草創期から音楽に携わり、ジャンルを問わず数々の名曲に携わってきた彼の死を悲しむ声は尽きない。日本ポップスを支えた音楽家には、若き日のジャニーさんとの絆があった──。
手がけた作品は6万曲
突然の訃報だった。音楽家の服部克久さんが6月11日に末期の腎不全のため、東京都内の病院で亡くなった。
「服部さんは1936年に『東京ブギウギ』などのヒット曲を生み出し、国民栄誉賞も受賞した作曲家の服部良一さんの長男。6歳からピアノを始め、高校を出るとフランスのパリ国立高等音楽院の作曲科に留学しました」(スポーツ紙記者)
帰国後は、草創期のテレビ界を舞台に音楽の仕事をスタート。たちまち売れっ子になった。
「フジテレビ系の『ミュージックフェア』の音楽監督や、TBS系の『ザ・ベストテン』のテーマ曲など多くの映像音楽を手がけました。昭和55年には山口百恵さんの引退公演の音楽監督も務めています。また、谷村新司さんの『昴』や『群青』、竹内まりやさんの『駅』など名曲の編曲も服部さんです。それ以外にも映画やドラマにアニメにと活動の幅は広く、日本の音楽界に与えた影響は計り知れません」(同・スポーツ紙記者)
手がけた作品は6万曲を超えると言われるが、服部さんが特にこだわったのが“編曲”だった。
「編曲とは、作詞・作曲以外のほぼすべての部分を作ることです。どのような楽器でどのように演奏するかなどを考える仕事のため、音楽の知識や表現力が問われる仕事ですね」(音楽ライター)
服部さんが長年、会長を務めてきた『日本作編曲家協会』(JCAA)の理事を務める音楽家の武永京子さんが故人を振り返る。
「編曲家の仕事の地位向上にも努めていらっしゃいました。先生のお書きになる曲は美しく愛にあふれていました。最後にお会いしたのは、今年2月の理事会でした。お優しくて華やかで本当に魅力的な方でした。先生とご一緒させていただいたコンサートの思い出は一生の宝物です」
音楽を愛し、人々に愛される存在
同協会に所属し、ビリー・バンバンの『また君に恋してる』などを手がけた、音楽プロデューサーの末崎正展さんにも話を聞くことができた。
「現在の音楽シーンでは誰でも“音楽プロデューサー”を名乗れるみたいな印象があるかもしれませんが、服部先生はよく音楽プロデューサーには“音楽マイスター(職人)”を目指してほしいとおっしゃっていました。
あれほどのキャリアをお持ちになりながら権威的じゃない。周りを気楽にさせてくれる気配りが素晴らしかった。何時もチャーミングで、音楽を愛する者、誰に対しても“愛と寛容”の人でしたね」
彼の穏やかで気さくな人柄は、10代のころのフランス留学で培われたものだという。
「食事マナーやファッションに精通していました。世界中のいいものをご存じで本当に勉強になりましたね。特にお気に入りだったのはイギリススタイル。あるときロンドンのブティックに入ったら、ばったり会ったことがありました。ジャケットを試着しながら、“僕と同じものは買わないでよ!”って笑っていましたね」(音楽事務所関係者)
ダンディーな紳士であった反面、こんなかわいい一面も。
「甘いものが大好きでしたね。特にお気に入りだったのは老舗の甘味処『甘味おかめ』のあんみつとおはぎ。たびたびマネージャーに頼んで自分の分とおすそ分け用と複数買ってきてもらっていました。ほかには大好きな赤ワインを嗜んだり、気分がいいときには、素敵な香りの葉巻をお吸いになってましたね」(同・音楽事務所関係者)
また、意外な趣味も持ち合わせていた。
「とにかくマージャンが好きで、マージャンに付き合ってくれた人との仕事を優先してやってもらえたという話があるくらいです(笑)。谷村さんや、松山千春さん、山下達郎さんたちともよくやっていたようです」(前出・音楽ライター)
なかでも山下は服部さんのことを深く信奉していたようだ。
「達郎さんはもともとフランス近代の作曲家が好きだったのですが、その要素を自分の音楽に取り入れるのは難しいと感じていたそうです。しかし、服部さんとの仕事で納得いくレベルでの弦アレンジが可能になり、何度も仕事を頼むようになりました。
'93年にフルオーケストラのアルバムを作ったときは、ジャズの大物にアレンジをお願いし、2週間もかけてニューヨークでレコーディングしたんですが、帰りの飛行機の中で突然、“やっぱり服部先生とやりたい!”と言いだして、急きょレコーディングをやり直したほど。達郎さんは、服部さんが指揮するオーケストラでライブをするのが夢だったそうです」(同・音楽ライター)
そんな服部さんには、ともにエンターテイメント界で闘ってきた古き“同志”がいるという。
「服部先生からその昔、1枚の写真を見せてもらったことがあります。学生服姿の彼の後ろに立つ、アメリカの軍服を着た日系兵士とのツーショット写真でした。
“これって誰ですか?”と私が聞いたら、ニコッと笑って“ジャニーだよ、ジャニー喜多川!”と。驚きすぎて開いた口がふさがりませんでしたね」(服部さんの知人)
ジャニーさんと服部さんの関係は?
ジャニーさんは言わずとしれたジャニーズ事務所の創業者。なぜ関わりがあったのかというと、
「1931年にアメリカの日系2世として生まれたジャニーさんは、第2次世界大戦後にロサンゼルスに住んでいました。ちょうどそのころ、父の良一さんが笠置シヅ子さんとアメリカツアーを行ったのですが、その際に英語の通訳を兼ねて現地でお世話をしてくれたのが、若き日のジャニーさんと、姉のメリー喜多川さんだったんです。
公演が終わった後も家族ぐるみの交流が続き、ジャニーさんとメリーさんは日本に帰国。しばらくは服部家に居候していたといいます。“朝起きると、なぜか2人がいるんだよね”と冗談まじりにボヤいていましたのを思い出します」(同・服部さんの知人)
偶然に出会った2人だが、エンターテイメントを愛するという点では同じだった。
「青春時代を戦争で過ごしたジャニーさんは、ミュージカル映画『ウエスト・サイド物語』を見てエンターテイメントの世界に関心を抱き『ジャニーズ事務所』を設立しました。彼が手がけた日本初の男性アイドルグループ『ジャニーズ』のデビュー曲『若い涙』の編曲は服部さんが務めています。旧知の仲もあって信頼していたんでしょうね」(前出・音楽ライター)
ジャニーさんも、1968年にデビューした『フォーリーブス』以降はテレビを意識したプロモーションで一世を風靡。70年前の2人の出会いが、日本のポップス界に大きな影響を与えることになった。
「音楽の話で盛り上がることが多かったといいますが、その中では“一緒に日本のエンターテイメントを盛り上げよう”という約束もしていたそうです。よき友人であり、よきライバルだったんでしょうね」(前出・服部さんの知人)
今ごろは天国で、ジャニーさんと音楽談議に花を咲かせているかもしれない。