映画『エデンの海』撮影時の山口百恵さん('76年3月)

 山口百恵さんがこれまでに発表した楽曲のストリーミング配信が始まり、往年のファンから若い世代までもが、ふたたび彼女に夢中に―。時代を越えて愛され続ける歌姫の軌跡を、週刊女性取材の写真とともにプレーバック!

 5月29日、山口百恵さんがこれまでに発表した600曲以上の楽曲のサブスクリプション配信が、ついに“解禁”。往年のファンをはじめ、若者世代でも大きな話題となり、SNSでは喜びの声があがっている。

 サブスクリプション配信とは、定額の月額料金を払うことで、音楽が聴き放題になるサービスのこと。配信元はApple MusicやSpotifyなど各社さまざまで、スマートフォンやパソコンでダウンロードすることによって、利用することができる。

 もともと百恵さんの“サブスク解禁”を待ち望む声は多かった。とはいえ引退から40年たった今でも、世代を越えて語り継がれる彼女の魅力とはいったい何なのか? 『としごろ』や『ひと夏の経験』など、多くのヒット曲を作曲した音楽プロデューサーの都倉俊一さんは、次のように話す。

東京・帝国劇場で『山口百恵リサイタル』を開催。この数日後、恋人宣言を行う('79年10月) 撮影/週刊女性写真班

「山口百恵の持って生まれた個性というのは、ほかの人には見られない稀有(けう)なものだと思います。僕らがあらかじめ用意した、キラキラしたお姫様のようなドレスやニコニコさせて撮るような画というのは彼女には全く似合わなかった。彼女自身も気づいていなかったかもしれないような、自分の決めたことを一貫する姿勢やブレない芯の強さというのが世界観になっていて、それがいちばんの魅力でした

アイドルから
アーティストへと脱皮

 また、尚美学園大学副学長で、音楽評論家の富澤一誠さんいわく、“歌謡ロック”という新しいジャンルを築き上げた歌手であるため、その栄光が語り継がれているという。

「デビュー当時、ともに“花の中3トリオ”と呼ばれていた森昌子さん、桜田淳子さんに比べて、百恵さんは地味な存在でした。その印象がガラッと変わったのが'76年に発表された『横須賀ストーリー』だと思います。歌謡曲とロックを合わせた“歌謡ロック”を歌い始めたことで、アイドルからアーティストへと脱皮しました
 
 サブスク解禁後、再生回数1位を誇るのは言わずと知れた'78年の名曲『プレイバック Part2』。当時、革新的だった“強い女性”を歌った歌詞は、同性の支持を得るきっかけにもなった。

「当時のアイドルは、自分の意思を持たない可愛らしいお人形のような存在でした。そんななか、'70年代後半は、自分の意思を持つ女性こそが美しいのではないか、という認識が広がっていく時代でもあったんです。その先駆者となったのが、百恵さんだったと思います。

『プレイバック Part2』や『絶体絶命』のような歌詞でもわかるように、かなり強気な女性の歌を歌っています。“女性もこうあるべきだ”というマニフェスト的な歌を歌ったという点が、男性だけではなく同性から支持を集めた理由だと思いますね」(富澤さん)

引退会見では「三浦友和の女房として、一生懸命務めます」と語った('80年10月15日) 撮影/週刊女性写真班

 そして、なにより印象強く残っているのが、'80年の引退表明。彼女が“伝説”となった瞬間だ。

「活躍し続ける俳優さんやアーティストは、年々変化し続けます。若いころより成長していくことで、人々の心に残り続ける人もいるでしょう。しかし、若くして表舞台から去った人物というのは、その一時が思い出として冷凍保存状態で残るんですね。

 彼女は何の未練もなく芸能界を去って新しい人生を選んでいった“あの瞬間”というのが、人々の心に色濃く残り続けている。若さや美しさだけではなく、生きざまや世界観までをも印象強く残して去ったことが、彼女が伝説としてあり続ける理由だと思います」(都倉さん)
 
 その伝説は、“サブスク解禁”というきっかけを経て、現代の若者にも広く知られることに。

「現代の若い世代にとって、CDを買うことは非常にハードルが高い。サブスクリプションで聴いてみたら、案外よかったという“きっかけ”が重要なんです。百恵さんの歌が配信されるようになって、いまを生きる若者たちにもささる歌として好評を得ることで、さらに今後へと語り継がれていくことになると思いますね」(富澤さん)

1973年(14歳)

左から山口百恵、森昌子、桜田淳子。“花の中3トリオ”を結成し、人気を集めた 撮影/週刊女性写真班

  '72年にオーディション番組『スター誕生!』をきっかけに芸能界入り。'73年の楽曲『としごろ』で歌手デビューを果たす。同じ時期にデビューした桜田淳子、森昌子と並んで“花の中3トリオ”と呼ばれた。この年に発表された楽曲『青い果実』は、人気のきっかけとなった“青い性路線”(純朴な少女に大胆な歌詞を歌わせる路線)の先駆けとなる。

1974年(15歳)

女の子の一番大切なものって何ですか?
「まごころです」

'74年12月に公開された『伊豆の踊子』の撮影時の百恵と三浦友和。映画初主演を果たす 撮影/週刊女性写真班

  5枚目のシングル『ひと夏の経験』が大ヒット。「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」という歌詞を歌い、話題に。インタビューでそれは何かと問われると「まごころ」と一貫して答えたという。グリコプリッツのCMで三浦友和(当時22)と初共演を果たし、映画『伊豆の踊子』でも共演。同映画で主演を務め、演技でも評価を得た。

1975年(16歳)

16歳の誕生日パーティーにて('75年1月) 撮影/週刊女性写真班

  映画『初恋時代』に桜田淳子、森昌子と“高2トリオ”で出演。曲は『ささやかな欲望』や『夏ひらく青春』を発表。『夏ひらく青春』で2年連続、紅白歌合戦出場も果たした。ゴールデン・コンビと呼ばれるようになった三浦友和とは、映画『絶唱』で初のキスシーンが話題に。TBS系の“赤いシリーズ”として人気を誇ったドラマ『赤い疑惑』の放送もスタートした。

1976年(17歳)

「初めて自分の歌というものに
出会えたと感じました」

17歳の誕生日。炉端焼きを囲んだ場で、ケーキではなく鯛の活き造りで祝った('76年1月) 撮影/週刊女性写真班

 歌謡曲とロックを融合した“歌謡ロック”の先駆けである『横須賀ストーリー』が発表される。作詞を阿木燿子に、作曲を宇崎竜童にと、自ら指名して生まれた異色のコラボだった。それまでの「早熟な少女」から「自分の意志を持って生きる女性」へとイメージ転換成功。インタビューで「初めて自分の歌というものに出会えたのだと実感した」と語った。

1977年(18歳)

フランスのデザイナー、ピエール・カルダンからドレスをプレゼントされた('77年11月) 撮影/週刊女性写真班

 この年に発表した『秋桜』は、さだまさしが作詞作曲。“ツッパリ路線”の楽曲とは違い、嫁ぐ娘が母を思う心を歌った歌で、若者以外の年配の世代からも支持を得た。この歌で、第19回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。高校卒業とともに森、桜田との“花の高3トリオ”の解散コンサートも行われ、それぞれ自分たちが目指す道を進む再スタートを切る年となった。

1978年(19歳)

大ヒットを記録した『プレイバックPart2』のジャケット。この年のレコード大賞を受賞 撮影/週刊女性写真班

 ヒット曲『プレイバック Part2』、『いい日旅立ち』を発表。『プレイバック』はこの年の音楽賞を多数受賞し、第20回日本レコード大賞では金賞を受賞。NHK紅白歌合戦は、最年少で紅組トリを飾った。5月には、ラジオにて相手の名前は明かさないものの、「真剣に愛している人がいます」と恋の相手がいることを発表。ファンを騒然とさせる事件となった。

1979年(20歳)

「普通の女の子に戻りますと言ったとき、
戻れる人間でいたい」

8月公開の映画『ホワイト・ラブ』の撮影で、三浦友和とスペインへ('79年6月) 撮影/週刊女性写真班

 映画『ホワイト・ラブ』の撮影で三浦友和とスペインに出発すると、現地での“お忍びデート”が話題に。10月、大阪厚生年金会館で行われた『山口百恵リサイタル』で、自身の恋人について「三浦友和という人です」と“恋人宣言”を行った。翌年の引退を予言するかのように「普通の女の子に戻れる人間でいたい」という言葉も残している。

1980年(21歳)

「やり残したことは
なかったように思います」

日本武道館での最後のコンサート。「きっと幸せになります」と静かにマイクを置いた('80年10月) 撮影/週刊女性写真班

 3月、三浦友和との婚約を発表し、同時に引退を宣言。10月には武道館でファイナルコンサートが行われ、最後の歌となった『さよならの向こう側』でステージにマイクを置き、惜しむ声が響くなか舞台を去った。10月15日、引退会見に臨んだ百恵は「悔いはない」とキッパリ言い放ち、8年間という短くも鮮やかな芸能人生に終止符を打った。