最愛の父が最期に残した言葉にハッとして、我慢だらけの結婚生活に終止符を打った。50代で別居、海外留学を決意。帰国後、60代で日本初のシニアチアダンスチームを立ち上げた。ポリシーは、好きなものを好きなだけ楽しむこと。自由闊達に生きる彼女は、自分も仲間も観客もみんなハッピーにしてしまうダンスを全力で踊り続けていた。
シニアでもチアができるの?ウソでしょ
新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言は解除されたが、すぐには今までどおりの生活に戻れない。
本稿でも“密接”を避けるため、思うように取材できない日々が続いている。そこで、以前『人間ドキュメント』に登場した方のなかでも飛びぬけて前向きな滝野文恵さんに、自粛生活を元気に乗り切る秘訣を伺ってみた。
滝野さんは現在、88歳。米寿を迎えたが、パソコンを使ったテレビ電話での取材依頼も躊躇せず、「幽閉された女王みたいで、ほとほと嫌気がさしていたから、こういう新しいことをやるのは楽しいわ」と笑う。
2年前に掲載した文章に、近況を加えた特別編でお届けする。
◇ ◇ ◇ ◇
日本最高齢のチアリーダー、滝野文恵さんが63歳でチアを始めたきっかけは、たった2行の英文記述だった。
アメリカ・アリゾナ州サンシティに、平均年齢74歳のチアリーダーグループがあると書いてある。
「エ! シニアでもチアができるの? ウソでしょう。もう心底おったまげて(笑)。どんなことをやるのか知りたくて、すぐに手紙を書いたんです」
名前も住所もわからなかったが、封筒に郵便番号、グループ名、リーダー様とだけ書いて投函した。
「それが、届いたんです。リーダーさんが長年、郵便局に勤めていた人で、彼女のことじゃないかって。もう、奇跡!だから、道は開けているのよー。願っても、願っても、一歩踏み出さなかったら何も起きないけど、私は自分でラッキー、ラッキーと思って動くから、どんどんラッキーなことがやって来るの。思えば、来るのよ! アハハハハ」
大きく身ぶり手ぶりを加えながら早口で言葉をつなぐ。表情も豊かで、まるで年齢を感じさせない。
滝野さんの手紙を受け取ったリーダーは筆まめな人で、すぐ返事がきた。文通が始まると、キラキラの衣装でポーズを決めた楽しげな写真がたくさん届いた。
「よし、これをやろう!」
滝野さんは友人たちに声をかけ、'96年にシニアチアダンスチーム「ジャパンポンポン」を5人で結成。23年目に入った'18年には32人まで増えた。
還暦もサーッと過ぎていった
毎週月曜日の夕方5時半から都内の体育館で行われている練習を覗いてみた。
まず30分近くかけて入念にストレッチをしてからダンスの練習に入る。アップテンポな音楽に合わせて、ポンポンを振りながら、さまざまなステップを踏む。同時にフォーメーションに合わせて目まぐるしく移動。うまくそろわないところがあると、音楽を止め、コーチのかけ声で、何度も繰り返す。
途中、給水の休憩を何度かはさみながら、8時まで練習が続いた。最高齢の滝野さんも最後まで軽快な足どりだ。
すべて自主運営で、体育館を借りる費用、コーチの謝礼など含めて、月謝は5000円。通常の習い事より安い。
入会の条件は「55歳以上」「自称・容姿端麗」。年に1回のオーディションを経て入会する。一列に並んで足を高く上げるラインダンスや、人の上に乗るスタンツという大技をやることもあるため、柔軟性や振り付けを覚える早さなどをチェック。入会を断ることもある。
平均年齢は70歳で、滝野さんを含めメンバーのほとんどは、チア初心者だ。ダンスの経験がある人も少ない。
筒川裕美さん(56)は50歳のとき、テレビでジャパンポンポンを見て憧れ、55歳になるまで待って入会した。
「ジャパンポンポンは体育会系です。習ったものは次の週には各自、仕上げてきて、その根性がすごいです。先輩方はいつもおしゃれで美意識も高いので勉強になります。楽しいです」
入会19年目という小山芳子さん(75)は、「老体に鞭打ってやっています!」と笑う。
「なんか、ここにいるとみなさんが楽しく頑張っているから、あまり年齢を感じないです。悲観的にならずに還暦もサーッと通ったし、いつの間にか後期高齢者になっちゃった(笑)」
驚いたのは、体育館の端にビデオカメラがずらりと並んでいたこと。練習風景を撮り、できなかったところを家で自主練習するためだという。
「とにかくみなさん、意欲的なんです。初めて指導したとき、私のほうが酸欠になりかけたくらい(笑)」
そう話すのはコーチの長峰美紀さん。長峰さんはアメリカの団体USA(United Spirit Association)の日本支部副代表を務めチアの指導・育成をする傍ら、プロ野球のチアリーディングチームの指導もしている。
「若い子のように高く跳んだりはできませんが、レベルは高いと思います。簡単な動きを続けるより、速い曲に合わせて、より難度の高いことに挑戦するほうが、楽しんでやってくれますね。
シニアのチアチームが増えていると聞きますが、滝野さんが最初に始められて、ほかの方たちにも火をつけたのは間違いないと思います。こういうチームを日本で作ろうと思ったこと自体、すごいバイタリティーですよ」
滝野さん自身は「身体も動かなくなってきて年々、大変になっている」と苦笑する。それでも20年以上続けている理由を聞くと即答した。
「楽しいからやっているのよ。それだけ。結成7年目にチャリティーショーをやってアンケートを取ったら、“勇気づけられた”“元気をもらった”と書いてあって、本当にビックリしました。楽しんでやっていることって、見ている人にも伝わるんですね」
父に影響を受けて米国留学
何でもやってみようという好奇心と、類いまれなる行動力。この2つをあわせ持った滝野さん。その性格はどうやら父親譲りのようだ。
外資系ミシンメーカーに勤めていた父親がある日、貿易の仕事を開始。それが会社にばれて退社したのがきっかけで、滝野さんが2歳のときに一家で広島から大阪に転居。父は自分でフィルムを現像する仕事を始めた。
大阪駅近くに3階建てのビルを建てて、1階を暗室に。フィルムを朝の出勤時に預けると、すぐ現像と焼きつけをして、帰りには返却。便利さが受けて繁盛した。
「現像に1週間くらいかかっていた戦前に、即座に返すなんて、誰も思いつかないでしょう。カメラの金属シャッターを発明して表彰されたこともあります。もし、それで特許を取れていたら、大変なお金持ちよ。結局、取れなかったけどね」
自由闊達な父と対照的に、母は厳しく、よく叱られた。6歳上の姉、2歳違いの兄と弟がいたが、滝野さんはあまり話さず、部屋の隅でスネていることが多かったという。
「私は偏食がひどくて、お魚も、お野菜も、豆類もダメ。ガリガリにやせてたし、頑固で、かわいげがなかったんです。そんな私を父だけがベタベタかわいがってくれて、ちっちゃいころは年がら年中、あぐらをかいた父のひざの上に乗っかっていました。父がいなかったら、絶対グレてたと思う。グレるくらいの根性があったから(笑)」
戦争が激しくなり13歳のとき長野に疎開した。大阪の空襲で3階建ての自宅兼仕事場は焼失。終戦の1年後に戻ってまもなく、兵庫県芦屋市に移った。
女学校を卒業し専門学校へ進学したが、途中で短大に切り替わる。短大を出て、関西学院大学文学部に編入した。
「短大2年のとき初めて乗馬をして“私、これやりたい!”と。馬場に関学の学生が練習に来ていたのを見て、そうか、馬に乗りたかったら、関学に入ればいいんだと。ハハハハハ。もう、動機が不純でしょう(笑)」
卒業後には1年間アメリカ・ミシガン州の大学に留学した。きょうだいで滝野さんだけが父にすすめられたのだ。
「普通なら兄に行けと言うんでしょうけど、私は意地が強いからじゃない。“お前が男だったらいいのに”と、しょっちゅう言われましたから」
大型貨客船「氷川丸」で太平洋を渡り、列車で大陸を横断。アメリカの広さと豊かさに圧倒された。寮に入り、アメリカ人の女子学生たちとパジャマパーティーをしたりして、「メチャメチャ楽しかったです」と滝野さん。
日本に帰国して住友金属に入社。同僚の女性たちのおとなしさに、逆にカルチャーショックを受けた。
結婚したのは25歳のとき。相手は社交ダンスをしていて知り合った8歳年上の男性だった。結婚した翌年に長女、29歳で長男を出産。間もなく会社員の夫の転勤で東京に転居した。
それまでの活発さからは、意外なほど平凡な幸せをつかんだようにみえるが、内心は砂をかむような毎日だったと表情を曇らせた。
「夫は年も上だし、父親みたいに頼りになるかと思って結婚したんだけど、あにはからんや……。彼は基本的に自分にしか関心のない人でした」
子どもたちが風邪で寝込んでいても、顔すら見ない。息子がサッカーで骨折したときも、車を出してと頼んだが行ってくれない……。
「ものすごく腹が立ちましたよ。でも、もう2度と頼まない。そう決めて、ひとりで子育てをして、主婦としてやるべきことはキッチリこなしました」
「ありがとう」と言って死にたいじゃない
だが、行動力のある滝野さんなら、すぐ実家に戻ってもおかしくない。なぜ別れなかったのかと聞くと、驚くような事実をサラリと口にした。
「実はね、父は外にも子どもがいたんです。私が思春期のころ、母は荒れて、うちを出る出ると大騒ぎしていました。だから、私は結婚して子どもができたら、絶対に離婚はしない。子どもに悲しい思いはさせないと固く心に誓っていたんです」
それにね、と続けた理由は、自ら頑固者だという滝野さんらしい。
「私は白か黒かで、真ん中がないの。こうと決めたら、命がけなのよ。我慢すると決めたから、とことん我慢したんです」
転機は、50歳のとき。最愛の父の死だった─。
86歳で亡くなる半年前に寝たきりになり、「長生きしたくないからもう食べない」「俺の人生は無だった」など弱音を吐いた。それまでのバイタリティーあふれる姿は見る影もなくなり、滝野さんは衝撃を受けた。
「私、自分が死ぬ間際に絶対に同じことやるよと思って。“子どもたちのために犠牲になった”。そう言うに違いない。それは絶対イヤ! 楽しい人生だった。ありがとうと言って死にたいじゃない」
滝野さんが選んだのは離婚ではなく別居だった。決めたら行動は早い。'84年、52歳でアパートを借りて、ひとり暮らしを始めた。
そのとき、長女は社会人、長男も大学を出て就職したばかりだった。
長男の靖さん(57)は母親が家を出ると聞いても、特に反対はしなかったそうだ。
「普通にビックリはしましたけど、父親に問題があるのは感じていたので、やっぱりというか。母には小さいころから、“あなたの人生はあなたのもの”とずっと言われてきたし、進学も“行きたいところに行きなさい”という感じで育てられましたから。母が何をしても、それは母の人生なので、僕がどうこう言うことではないと思いました」
だが、一家の主婦がいなくなったら、炊事、洗濯などその日から困るのではないか。それも、靖さんは大した問題ではなかったという。
「外食とかしましたし、何とかなりました。父親は不満に思っていたかもしれませんが、プライドがあって口には出しませんでしたね」
滝野さんは父の会社の東京営業所で長年、週2日ほど働いていた。父は戦後、フィルム現像の機械メーカーを立ち上げ、滝野さんは機械の取り扱い説明書の翻訳を担当していた。夫が定年退職してからは、「女は家にいるものだ」という反対を押し切り、フルタイムで働いていた。そのため、急なひとり暮らしでも経済的な心配はなかった。
自分を抑え続けた27年間を経て、やっとつかんだ自由な日々─。
解放感よりも、むしろ焦りのほうが大きかったという。
「何もしなかったら、これまでと同じ……」
50代、夫と別居し単身渡米
滝野さんは53歳で再びアメリカに渡る決心をする。老年学(gerontology)を学ぼうと考えたのだ。老年学は人が社会や家族のなかでどう老いていくのか研究する学問で、日本の大学ではほとんど扱っていない。
「もしかして人生の最期のほうで役に立つかなーと。学問をやっても、実際には大して役に立たないんだけど、そこらへんが、短絡的なんですよ。アメリカは大好きだし、行きゃあ、何とかなると(笑)」
今から30年以上前だ。インターネットもなく簡単に情報も集められない。困った滝野さんは、ここで持ち前の行動力を発揮する。
通常は学校から入学許可を得て学生ビザを申請するのだが、滝野さんは現地に行って大学院を探そうと、アメリカ大使館に手紙で直訴した。
《私はもう年だから、一刻も早く渡米しないと能力がどんどん落ちてしまう。学生ビザをなんとか出して!》
なんと、それで本当に仮の学生ビザが下りたというから驚く。渡米後、ノーステキサス大大学院に入学した。
「アメリカって国は、すごいですよ。困っているので、こうしたいと訴えると、本当にやってくれるの。大学院の勉強でも同じでした。30年もブランクがあるから、英語で授業を受けるのは、もう大変。教授に直接訴えて、卒業試験の時間を延ばしてもらったりして、どうにか3年で卒業しました」
日本に戻り、父の会社で働きながら、'93年に自著『女53歳からのアメリカ留学』を出版した。その後、アメリカの友人が送ってくれた本を読んでいて、目にしたのがチアの記述だった。
「チアダンスを始めようと思っているの」
友人の武藤和子さん(79)は、滝野さんが電話でそう話すのを聞き、「面白そう」とすぐに賛同した。
「滝野さんとは子どものPTAで一緒でしたが、奇想天外な考え方の持ち主で、人の目を全然気にしない。グジグジしていなくてスカッとしていて好きでした。それに、私はずっとバレーボールやソフトボールをやってきて、チアは全く違う分野だったので興味があったんですよ」
滝野さんは10人ほどの友人に声をかけ、渋谷のレストランで集合。アメリカから送られてきたチアダンスチームの写真を見せると、武藤さんを含めて4人が「やりたい」と手を挙げた。
武藤さんは青山学院大学の出身だ。滝野さんを誘い、その足で母校に向かった。チアリーディング部の学生に教えてもらおうと思ったのだが、見つけたのはバトン部。
「バトンもチアも同じようなものよね」
バトン部の主将にコーチを頼むと快諾してくれ、'96年1月に念願の活動がスタートした。
大会でのハプニングはご愛嬌
ジャパンポンポンという名前をつけたのも武藤さんだ。
「アメリカのグループがサンシティ・ポンズと地名をつけていたので、当時、練習していた佃じゃ知名度が低いし、東京でも小さい。じゃあ、ジャパンにしようと、あっという間に口から出た言葉です」
半年後にはバトン部の発表会に出て、初めて5人でチアダンスを披露した。
一気にブレイクしたのは4年目の'99年。シニアのチアは珍しく、週刊誌の記事で取り上げられたのをきっかけに、テレビ、新聞、雑誌などの取材が相次いだ。露出が増えるたび入会希望者も増えた。滝野さんは『85歳のチアリーダー』を出版。イギリスのBBC、アメリカのCNNなど海外のメディアにも取り上げられた。
毎週、休みなく練習を積み重ね、本番の舞台に立つのは年に数回だ。各地のイベントに招かれたり、自分たちでチャリティーショーを開いたり。'17年には台湾から声がかかり、初めて海を渡った。
'18年6月に行われた「第12回東京都障害者ダンス大会 ドレミファダンスコンサート」を会場で見た。雨模様にもかかわらず、会場の東京体育館メインアリーナには大勢の人が来場。ジャパンポンポンがトップバッターで登場すると、大きな拍手で迎えられた。
おそろいの紺色の衣装の胸にはチーム名の頭文字がくっきり。手にはピンクのポンポン。キラキラ光る銀色のカチューシャとレッグウォーマーが若々しい。
本番で踊るときよりも、持ち物準備のほうが緊張するというのは滝沢由美子さん(67)。入会して12年目で、現在リーダーを務めている。
「衣装をひとつでも忘れたら、みんなとそろわなくて迷惑をかけますから。前の日にすべて並べて何回もチェックします。それでも、年を取るといろいろ起こるんですよ」
以前のイベントで、滝沢さんが白いブーツを忘れたことがあった。焦ったが、「白いハイソックスを買ってくればいい!」と誰かが言い出し、近くのスーパーに走った。遠目には違いがわからず、無事に踊りきったそうだ。
今回はノリのいい曲『クルージング・フォー・ア・ブルージング』に合わせて2分40秒間、踊る。みんな、とびっきりの笑顔を浮かべて楽しそうだ。滝野さんを中心にポーズを決めると、ひときわ大きな歓声が上がった。
メンバーたちの言葉で本番の魅力を紹介しよう。
「衣装を着て舞台に立つと、日常と全然違う自分になれます。よく、別人28号とか冗談を言ってます(笑)」
「やっぱり、達成感です。みんなでキチッと合わせて踊ったという達成感が楽しくて」
「舞台からはけて、あー終わったーと思う。それが気持ちいいです」
そして、滝野さんは本番の楽しさをこう表現する。
「みんなに見てもらって、ワアーッと喜んでもらったら、もう、イエーイ! アハハハハ」
ロックな趣味にも躊躇なし
創立以来、ジャパンポンポンの顔として、チームを引っ張ってきた滝野さん。実は'18年の3月で会長を退き、顧問になった。すでに初期のメンバーは誰も残っていない。前出の武藤さんも体調を崩して、'17年に辞めた。
今はリーダーの滝沢さんら5人の委員に運営の仕事を任せており、2020年に予定する結成25周年記念のチャリティーショーにも滝野さんは出ないつもりだという。
驚いて滝沢さんに確認すると、笑いながら否定した。
「会長を退いても、やっぱり滝野さんがボスです。これだけの人数がいろいろなことを言うでしょう。“これで行きましょう”と、まとめる人が必要なんです。3年前の20周年のときも、滝野さんは出ないと言っていましたが、結局、何曲も踊りましたから(笑)。また、やっぱり踊ってくださると思いますよ。すごいですよね」
滝野さんはチア以外にも、さまざまな活動を行っている。80歳からウクレレを、83歳からは、なんとエレキギターを始めた。
ウクレレのサークルに誘ったのは谷口淑子さん(76)。関西学院大学の10年後輩で、15年前に同窓会で知り合い意気投合した。
「タッキー(滝野さん)の持論は年をとったらきれいな色を着ることです。初めて会ったときもお互いにショッキングピンクの服でした。私も年齢で着るものを変えるという考え方ではなかったのですが、タッキーと付き合うことで、さらに解放されました。最近は周りのメンバーも影響されてきて、明るい色を着ていますよ(笑)」
3年前、谷口さんは滝野さんを友人のバンドのライブに誘った。最前列でエレキギターの音を聴いた滝野さん。
「あれをやる!」
そう言って、すぐに教えてくれるところを探して習い始めたのだという。
「自分が好きだと思ったものに対して、躊躇しない。すごく前向きで、生き生きしたおしゃれな86歳を見ていると、元気が出ますよね。年をとるのも怖くないと思うし、高齢者の希望の星みたいになっています。ただ、タッキーは毎週毎週、踊って、鍛えているから元気なんですよね。何もしなくてもタッキーみたいになれると、勘違いしちゃいけないと思っています」
谷口さんは踊りが苦手なので、滝野さんから教わったとおり毎日、大またで歩いて、よい姿勢を保つようにしているそうだ。
では、滝野さん自身はどんな日常を過ごしているのか。何か元気で過ごす秘訣があるのかと聞くと、こんな答えが返ってきた。
「私はコーラもビールも箱買いしているし、お肉が大好き。減塩とか、健康にいいと言われることは一切していません。それでも、ひざも腰も痛くないの。頭が悪いだけで(笑)。いやいやホント、どれだけ物忘れするか。身体が動くかぎり、チアのレッスンは続けます。だけど、ボツボツ施設を探さないといかんなーと思って。元気なうちでないと入れないから」
施設でもチアのグループを作っちゃったりしてと返すと、滝野さんは「そうね!」とうれしそうにうなずいた。
コロナ自粛中も本気でダンス
もともと誰かを応援するために広がったチア。年をとっても楽しんで踊ることが、多くの人を勇気づける。それで自分も元気でいられるなら、最高だ。
パソコンの画面越しではあるが、2年ぶりに会う滝野さんは、まったく変わっていなかった。メイクもバッチリで、耳元には金色のイヤリングが揺れている。
今年10月に予定していた結成25周年記念のチャリティーショーの準備を昨年夏から始め、練習が軌道に乗ってきた3月初旬にコロナ禍でストップ。練習場所の体育館が7月まで使えないため、先がまるで見通せない。
ひとり暮らしの滝野さんは自粛が続く間、近くに住む娘以外、誰とも会っていなかったそうだ。それでも、規則正しい“幽閉生活”を続け、健康を維持している。
朝6時に起床し、NHK Eテレで10分間放映されるラジオ体操に合わせて身体を動かす。朝食後は涼しいうちに近所を1時間ほど散歩。人の少ない外ではマスクをせず、空気を存分に吸う。
午後は“大人のための塗り絵”にハマっている。友人が使わなかった冊子を4月に送ってくれたので、すぐに72色の色鉛筆を購入。全72ページを1か月半で塗り終わってしまい、自分でもう1冊購入したほどだ。
「友達とも会えないし、あー、もうイヤだとイライラすることもあるけど、考えてもしょうがないことはスルーしちゃう。今は塗り絵に熱中しているから、あまり深刻にはならないのかも。熱中しすぎて、中指と小指にはタコ、人さし指はむくんだのか指輪が入らなくなりました(笑)。
塗り絵もパソコンもそうだけど、新しいことをやるのが大好き! 面白そうだなと思ったら、とりあえず何でもやってみる。やりたがりですね。本当はね、今日のテレビ電話にも最初からこれをかぶって出ようと思ったけど、やりすぎかなと思って我慢したのよ(笑)」
そう言いながら滝野さんが取り出し、かぶってみせてくれたのはなんとオレンジ色のウイッグだ。友人との旅行にはピンクやシルバーなど数種類を持参。みんなでかぶって遊ぶと毎回盛り上がる。しばらくは好きな旅行にも行けそうにないが、家で鮮やかなウイッグをかぶって、軽快な音楽に合わせて踊るだけでも気分が上がるという。
毎日、それなりに楽しみを見いだしてはいるが、やはりチアは特別だ。チャリティーショーで自分が踊る予定の3曲の自主練を続けている。
「できるだけ歩くようにしていますが、本当に体力が落ちてますね。3曲続けてやっても7、8分なのに、本気でやるとすごく疲れちゃう。週1回2時間でも練習をしているのとしていないのでは、大きな違いが出てくるんですね。それに、チアはみんなで踊ってなんぼという競技だから、ひとりで練習しても限界がある。一緒に踊らないと、わからなくなっちゃうことがあるんですよ。毎日おさらいしてるのに、あれ、ここはどうだったっけと(笑)」
一刻も早く全体練習を再開したいが、メンバーとはLINEでメッセージのやりとりをするだけで顔を合わせていないので、なかなか話が進まない。
コロナに感染すると高齢者はリスクが高いと報じられているが、滝野さん自身は正確に情報を把握して対処すれば過剰に怖がる必要はないと考えている。だが、メンバーの中には高齢者施設や保育所で働く人もいて慎重な意見もある。自分のせいで誰かがかかると困るので無理には誘えず、もどかしさが募る。
「半分は思い込みかもしれないけど、私は大丈夫だと思っているんですよ。“滝野さんは元気、元気”と、みんなも言うし、自分でも元気だと思うから、元気でいられるところもあると思いますね。薬やワクチンが開発されるまでは終息しないわけだから、怖がってばかりいたら何もできないと思うんですよね。もう年だからコロナじゃなくても、いつどうなるかわからないし。体育館がダメなら外でもどこでもいい。いっそ、みんなで日比谷公園にでも行って、踊るか? アハハハハ」
身体を揺らして笑う滝野さん。やっぱり最高だ!
撮影/伊藤和幸、齋藤周造
取材・文/萩原絹代(はぎわらきぬよ)大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。