1度、声を失いかけた歌姫は独学でオリジナルの発声法を生み出した。小児病棟やホスピスに歌を届けながら、こだわり続けたプロになる夢―。「音楽は心のくすり」そう強く信じる彼女の歌声は、やさしい祈りに満ちていた。

歌手・ボイストレーナー堀澤麻衣子さん

 歌手・堀澤麻衣子の半生について書かれた「人間ドキュメント」は、2018年の4月に掲載された。この記事は、彼女の大河ドラマ抜擢という近況を含めて新たにインタビューを行い、加筆して再構成したものである。

  *   *   *

麻衣子の声は熟成されたシャルドネのよう

 1月から始まったNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の劇中曲『美濃へ〜母なる大地』の中のフレーズだ。作詞と歌唱を担当した堀澤麻衣子(46)が詞に込めた思いをこう明かす。

「あの織田信長でさえ、舞を踊って心を落ち着けてから戦場に出向いたといわれています。戦国時代の英傑たちは、毎日が“死ぬか生きるか”の時代でした。いろんな葛藤を引きずりながら、国や人を守るために刀を抜かなきゃいけない武士たち。現代人も、武器こそないけれど、同じだと思うんです。みんな目には見えにくい闘いの日々を生き抜いている。だから、そんな方々に対しても、ふと休める時間を届けられれば、と思って歌詞を書き、歌いました」

『麒麟がくる』は、「本能寺の変」で織田信長を討ったとされる戦国時代の武将・明智光秀の生涯を、長谷川博己の主演で描く。

 この大河ドラマの音楽担当は、米国人の作曲家ジョン・グラムさん。数多くのハリウッド映画音楽の編曲を手がけ、数々の映画、テレビドラマ、アニメ、ゲームの劇伴作曲家として知られる。

 今回は、ドラマの壮大なテーマ曲、すべての劇中曲、さらにドラマ終了後に放映される「大河ドラマ紀行」の音楽も担当。そんなジョンさんのたっての希望で抜擢されたのが、堀澤だった。

 ジョンさんには、戦国の時代を包み込むような優しい声を挿入したいという想いがあり、「麻衣子の声は熟成されたシャルドネのよう。自分の描く音楽に必要だ」とオファーされたのだ。

「以前『ファイナルファンタジー15』の映画版でジョンさんと仕事をご一緒したんです。そのときの私の声を覚えてくれていて、指名してくださいました。

 私はもともとオペラをやっていたのですが、作品によっては、ポップスでも、ジャズでもいろいろなジャンルの声を織り交ぜて歌います。高い音域ではオペラの声で、メインのメロディーではポップスの声でと、ひとりの声ではないような、幻想的な雰囲気を受け取っていただけるように、表現しました

 堀澤は、台本を読み込み、ときに撮影現場を訪れ、物語を深く理解していった。

「『旅へ』という曲では、堺の町の賑わっている市場のシーンで、ちょっと民謡的な歌い方をしたんですが、躍動的な雰囲気に仕上がっていてうれしかったですね」

 堀澤は歌手をしながら、声とメンタルをトレーニングするスクール『Amato musica』の代表も務めている。

 新年会で主演の長谷川博己に会った際、雑談の中でこんな話をしたという。

「ボイストレーニングに興味をお持ちとのことだったので、“武道式の発声法”について少しお話をさせていただきました。声をよくするには、身体の中心「丹田」で立つことが非常に大切です。立ち方を変えるだけで、身体の支え方が変わり、驚くほど声もよく出て、身体の使い方や立ち回りも変わります。呼吸も安定するし、心も身体も疲れにくくなるんです」

 国立音楽大学声楽科を卒業後、声を失いかけたことを機に独自の発声法を研究。古武術を用いたレッスンで身体からアプローチして心まで変えていくオリジナルのメソッドを確立させた。のどや身体に負担をかけない発声法だ。

 歌手として花開いたのは40歳のとき。遅咲きながら米国ハリウッドでアルバムを制作し、メジャーデビューを果たした。英語が話せない、知り合いもいない、お金もない状態で単身渡米。超一流の音楽プロデューサーに声を見初められ、レコーディングを実現させたのだ。

 順風満帆に映る堀澤の半生だが、その道のりは決して平坦なものではなかった。

スイスの公園で知った歌の力

「音大の3年生のとき、歌いすぎで声が出なくなったのがすべてのスタートでした」

 声楽科の先生は厳しいことで有名だった。

「怒ると楽譜が飛んでくるような怖い先生。いきなりイタリア歌曲の大曲を歌え、という宿題が出る。必死で練習するうちに力を入れてやりすぎて、気がついたら声が出なくなってしまったのです」

 卒業しても歌は続けようと思っていた彼女にとって、それは大きなショックだった。

 とにかく声を取り戻さなければならない。小児科医である父に相談すると、自身でも歌を歌い、多くのオペラ歌手の声帯手術をしてきた医師を見つけてきてくれた。

 診察した医師は静かにこう告げた。

「ポリープができています。摘出すれば一時的に声が出るようになりますが、同じ歌い方をしていたら、また声が出なくなりますよ」

 堀澤にとってそれは、まさに死刑宣告。歌手の生命線ともいえる「声」が2度と出ない恐怖に、目の前が真っ暗になった。

 すぐに手術することになったが、ベッドが不足していた関係で小児病棟に入院した。

 手術直後は、まったく声を出せない。それでも陽気な堀澤は、子どもたちとホワイトボードを使って筆談で会話し、「声の出ないおねーちゃん」と呼ばれて、慕われていた。

 入院して2週間後、退院が決まった日。親しくなった少年がこうつぶやいた。

「おねーちゃん、もう退院しちゃうの? よかったね……。僕は赤ちゃんのころからずっとここなのに」

 とっさに返す言葉が見つからなかった。

19歳から始めた小児病棟でのコンサートは堀澤のライフワークになっている

 堀澤は、小5から高2まで所属していた『名古屋少年少女合唱団』のヨーロッパ演奏旅行での出来事を思い出していた。

 東西冷戦の時代、スイス・アルプスにあるグリンデルヴァルトという村でのことだ。

「コンサートをやるといっても、誰も日本の歌なんて知らない。そこで、私たちが80人くらいで公園に出かけて歌ったんです。すると、普通に道を歩いていた人たちがぞろぞろと公園に入ってきて、私たちの歌を聴いて拍手してくれる。びっくりしましたね。“言葉が通じなくても音楽で心がつながるんだ”とわかった。すごいカルチャーショックでした。音楽は一瞬で人と人をつなぐことができるんだって……。

 戦争の始まりは小さな喧嘩だと思うんです。でも、音楽は人の気分を変える力がある。音楽は“心のくすり”であり、“魔法”なんですね。それが平和の入り口にもつながっていく。そういう思いがあのとき、私のなかに芽生えました

 堀澤の頭にふとこんな考えが浮かんだ。

(もう1度声を取り戻して、あの子に歌を届けに行こう!)

玉置浩二にヒントを得た発声法

 合唱団に所属し、音大に入ってもずっと歌ってきたのにのどを壊してしまった、ということは今までのやり方ではダメなんだと悟った。

 発声に関する本は一切読まないと決め、自分の身体を実験台にして毎日いろいろな方法を試した。

 呼吸、立ち方、口の筋肉の動きまで変えてみて、自分に合う発声法を追究したのだ。

「発声法の基本として参考にしたのは、玉置浩二さんの歌い方。彼は息で歌えるんです。そこに絶対、秘密があると思った。息の声も出せるし、ストレートな高い声も強い声も出せる。まねして歌いながら、あの歌声を分解したら、最高の発声法ができるんじゃないかと研究しました」

オペラ一辺倒だった大学時代。人を笑顔にするのが大好きな堀澤には、こんなお茶目な一面も

 大学卒業後、日本最古のオペラ団体である藤原歌劇団に入団。オペラやさまざまな表現を学ぶ。イタリアでの短期留学も経験した。そこで堀澤は、表現力の幅の広さを知り、また日本よりも自分の歌が評価されることに驚き、自信を取り戻したのだった。

 ところが日本に戻ると、そううまくはいかなかった。

「アルバムを作りたい」という思いで、レコード会社や芸能事務所を回り、必死に売り込んだが、なかなかいい返事はもらえない。

「このころ、まだ若くて経験の浅い自分に甘い言葉をささやく大人にうんざりして、人間不信に陥っていました」

 23歳。歌劇団だけでは食べていけず、化粧品販売や珈琲店でアルバイトをしながら、「仮歌(かりうた)」などの仕事もした。楽譜の読めない声優が新曲を歌うためのお手本として、仮に歌をレコーディングする仕事だ。作詞の仕事もあったが、あくまで裏方の仕事でしかなかった。

 一方、少年との出会いをきっかけに、堀澤は小児病棟に歌を届ける活動を熱心に続けていた。

 ある日、「ホスピスでも歌ってみたら?」と声をかけられたが、死と向き合う人たちを前にしたら泣いてしまうと思い、踏みきれなかった。しかし友人の「歌うといつも泣いちゃうんです、と言えばいい」という言葉に背中を押されて挑戦してみた。

「死を告知された人は強い。肝の据わった強さにこちらが励まされるくらいでした」

 堀澤は、小児病棟やホスピスに歌を届けるうち、プロになりたい、という思いを強くしていった。

「それまでは自分の歌はお金をもらう価値があるのか……と悩み、歌で対価を得ることにはどこか抵抗がありました。でも、歌うことで人を笑顔にできるとわかった。私は歌を通して人を幸せにできるんだと実感しました。世界中に歌を届けるには資金がいる。そのために、私はプロになろうと決心したのです。子どものころに思い描いたように、歌で人を幸せにするためにはプロとしてやっていくしかないと思ったのです」

デビュー直前の持ち逃げ事件

 それでも苦難の時代は続く。追い打ちをかけるように大失恋で身を削った。

「相手はだいぶ年上の尊敬できる人だったんですが、結局別れることになった。傷心の思いで、ひとり北海道に出かけました」

 堀澤は、この失恋旅行で不思議な体験をする。寝台列車が青森あたりを通っていた夜のことだった。

「窓の景色を見ていたら、畑にビニールハウスが立ち並ぶあたりに差しかかりました。夜空には美しい三日月が輝いていた。ビニールハウスが波のように続き、月光を受けて輝いている。ふと『波間の月』という言葉とメロディーが降りてきたんです」

 東京に帰ると、リュックを背負ったまま自宅のキーボードに向かい、五線譜にメロディーを一気に書いた。同時に歌詞も浮かび、ほんの5分ほどで曲が誕生した。

「自分で作曲しようと思っても、それまではありきたりなメロディーしか出てこなかった。作曲の才能はないと思い込んでいました」

 その曲が有名プロデューサーの目にとまり、CD作成とデビューがトントン拍子に決まっていく。堀澤はデビューに向けてアルバイトや音楽の仕事で得たお金をせっせと貯金していた。

2オクターブの音域を出せるようになると話題のスクールには音程がとれない人も訪れる

 医師をしていた堀澤の父は、極端な節約家で、ボロボロの車に乗って病院に通勤し、無駄なお金を一切使わない人だった。

「無駄遣いはよくない。本当に自分の人生のためになる体験のために使いなさい。そんなときのために貯めておくように」

 父の教えを胸に、長年貯めてきた資金をプロデューサーに預け、念願のデビューアルバムの制作が始まった。

 しかし─。

「彼に制作費を持ち逃げされてしまったんです。なんとか資金をかき集めてレコーディングはできましたが、お金は結局、半分ほどしか手元に戻ってきませんでした」

 '01年、堀澤麻衣子のデビューアルバム『ソル・アウラ・ヴィータ〜太陽・風・生命〜』は、インディーズからリリースされた。

「このころ、自分の人生を年表にして振り返ってみて気づいたんです。私の恋愛や仕事のパターンは、男性や社会に依存していたことに。芸能事務所に入りたい、レコード会社に認められたい、と思って依存して、嫌な目に遭って落ち込むパターン。その繰り返し。じゃあ、何でも自分でやろう。諦めないで自分で始めようと思ったのです」

 さっそく、デビューアルバムも自分で宣伝してみることにした。

 プレゼン資料も手作りし、青春18きっぷを握りしめて全国のCDショップを回った。そのかいあって、ラジオでも流されて話題を集め、関西のヒーリングチャートで1位になったのだ。

 また、歌手・作詞家として、映画やゲーム音楽への参加、ほかのアーティストへの詞や曲の提供も行う一方、どこにも依存することなく、自発的な歌の出前もやっていた。

「フランス料理店などに歌と料理のコンサート企画をプレゼンして、チラシも作って集客も自分でやって、歌える場所をつくっていましたね」

 デビューアルバム発売後、国内をはじめ海外でのコンサート活動も増え始めていた。

 その間にも発声法の研究は続け、収入源のひとつとして、29歳でボイストレーニングの教室も開いた。

 ある日、レッスンをしていた生徒に言われた。

「堀澤さんのボイトレの教え方と、私が習っている古武術と大きな共通点があるんです。私の古武術の師匠に会ってみませんか?」

 これが古武術との初めての出会いだった。師匠の教えは堀澤の心の支えとなり、取り組んできたボイトレにも大きく影響を与えた。

7月から新たにInterFM897で堀澤麻衣子のレギュラー番組「Serendipity」がスタート。渡米で夢をつかんだ堀澤が、ゲストとのトークを交え、よりよい人生をつかむヒントや生活を豊かにする知恵を届ける。番組では毎回、堀澤のスペシャルライブも聴けるという

 古武術では、緊張を取り除き、身体の隅々まで酸素を行き渡らせる「丹田式呼吸法」が知られている。丹田とは、ヘソの少し下のあたりで下腹の内部にあり、気力が集まるところだ。

 この呼吸法や古武術ストレッチをボイトレに取り入れ、声と心の関係を体系化した世界初のボイトレ、『堀澤メソッド』がここに完成した。

 スクールの運営に本格的に乗り出す一方で、歌手として諦めきれない夢もあった。

無謀な渡米もむなしく2度撃沈

 インディーズではなくメジャーデビューをしたい─。

 通常、CDなどがメジャーレーベルで発売される場合、レコード会社が資金を出して制作する。原盤権(音楽を録音、編集して完成した音源に対する権利)はレコード会社が所有し、作詞作曲者や歌手は印税という形で利益を得る。しかし、堀澤は自分で制作費を出して原盤権を得る道を選びたかった。

「レコード会社に依存するのではなく、自分でやることにこだわりたかった。資金はかかってもそちらのほうが結果的に得だと判断したんです」

 夢を叶えるため、目指したのはアメリカだった。

「世界で活躍するプロデューサーと一緒に音楽を作れば、日本でもメジャーデビューできるはずだと思ったのです」

 最初の渡米は、'02年7月。ニューヨーク到着後まもなく、レコーディングしてくれるプロデューサーを探そうと音楽関係会社の電話帳を買い、片言の英語で電話をかけまくった。

 すると、ニューヨークには音楽プロデューサーがほとんどいないことが発覚。レコーディングの多くはロサンゼルスで行われていたのだ。そんな基礎的なことさえ知らずに飛び込んだ自分にあきれた。

 '06年、リベンジを誓い、再び渡米。このときは最初からロサンゼルスに向かい、1か月ほど滞在した。前回の失敗を踏まえ、事前に音楽関係者に宣材資料をメールで送った。すると帰国直前、あのシンディ・ローパーのプロデューサーから連絡があった。

 面会当日、彼は言った。

「あなたのCD聴きました。よかったよ。僕は一緒に作りたいと思ったんだけど、君は歌で何を伝えたいんだ?」

「私は歌で世界平和を伝えたい。戦争が嫌だからみんなの心が元気になるようなメッセージを伝えたいんです」

 堀澤は、幼少時代に父に連れられて見た原爆のドキュメンタリー映画が忘れられなかった。そのとき、幼心に(人を傷つける側ではなく、救う側になりたい)と思ったのだ。

 問題は予算である。世界的プロデューサーはアルバム1枚作るのに2000万円必要だと言い切った。

「桁が違いました。スクールもまだ軌道に乗らないし、そんな金額、絶対に貯められない。私がメジャーデビューするのは一生、無理かもしれないと思いましたね」

 堀澤は途方に暮れて帰国したのだった。

「眠れるコンサート」で一躍有名に

 メジャーデビューへの諦めきれない思いを抱えたまま、堀澤の活動は少しずつ前に進み始めていた。

 '07年には、インディーズで2枚目のアルバム『素晴らしい世界』をリリース。翌年には、ギタリストの千代正行とユニットを結成し、2枚のアルバムを発表した。

 '11年には、堀澤の歌が睡眠を助ける効果があると言われ、「眠れるコンサート」を開催したことで、話題を集めるようになる。

 堀澤の歌を聴いた人は「睡眠障害だったのによく眠れるようになった」「歌声を聴いただけで涙が出る」と口にした。

 堀澤と親しい順天堂大学の小林弘幸教授は、特定の周波数を持つ音楽がもたらす効果をこう語る。

528ヘルツの音楽が、自律神経に影響を与えることが実証されています。明らかにいい音楽は人にリラックス効果や心地よさなどを与えていますね。オキシトシンなどの物質が影響を与えていると考えられる。堀澤さんの歌が眠りや涙にどう影響しているか、実証こそ難しいのですが、そういう作用があることは十分考えられますね」

 小林教授自身も、堀澤のボイトレを体験し、その効果を実感したという。

 1度は諦めたアメリカでのレコーディング。だが、知名度が上がり、思わぬ形でチャンスが舞い込む。

 苦労の末に書き上げた『声が変われば人生が変わる』という本を'08年に出版、続く2冊目の本『1日で感動的に声がよくなる!歌もうまくなる!!』が8万部のベストセラーを記録。これが3度目の正直、その印税を「レコーディング資金」にあてようと、再び渡米の準備を始める。

 '11年の秋、堀澤はロサンゼルスにいた。

 現地に住む日本人に向けてライブやボイトレを無償で行い、本やCDを販売し、その売り上げを東日本大震災の被災地への寄付にするためだ。

 そして、もう1つの目的はシンディ・ローパーのプロデューサーとの再会。資金はアメリカの口座に送金してあった。もう絶対に失敗はできない。そこでハリウッドで活躍する唯一の日本人エージェントにプロデューサーとの面会に立ち会ってもらうことにした。

 しかし待ち望んだ再会で、プロデューサーが持ってきてくれた曲が堀澤には少し古く感じられた。

 そのとき、エージェントがハリウッドの音楽プロデューサーを束ねていることを思い出し、一か八か聞いてみた。

「あなたの知っているプロデューサーで私の歌に合う人がいたら教えてください」

 祈るような気持ちで、半ば強引に自分のCDを手渡したのだ。

「堀澤さんの声に興味を持っているプロデューサーが1人います」

 翌日紹介されたのは、セリーヌ・ディオン、ホイットニー・ヒューストン、カーペンターズ、ケニー・ロジャースなどのプロデュースを手がけ、グラミー賞に3度のノミネート、エミー賞を5回受賞していた高名プロデューサーのスティーブ・ドーフ。大物の登場に堀澤は面食らった。

ミュージシャンは、ハリウッドで一流とされる面々が集められた。右がスティーブ

人生を賭けたメジャーデビュー

 しかしエージェントはこうも言った。

「スティーブは、すごく厳しいし、好き嫌いがはっきりしている。だから、どんなに僕がゴリ押ししてもダメだったらダメ。自分のキャリアに泥を塗るようなことはしない人だから、そこだけは覚悟しておいてください」

 堀澤はスティーブの自宅に呼ばれた。怖い人だと聞かされ緊張していたが、実際に会うと気さくな人だった。

「まるで関西のおっちゃん(笑)。髪の毛が爆発していて、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のドク博士みたいでした。でも音楽的に素晴らしい人だとすぐにわかった」

 結局、堀澤はスティーブにプロデュースを依頼することに決める。

 アルバム制作が決定し、'13年、スティーブはリーランド・スカラー、ヴィニー・カリウタなどの世界屈指のミュージシャン、ハリウッドのフルオーケストラを招集し、レコーディングが行われた。

 オーケストラの出来は素晴らしく、スティーブは子どものように泣き、堀澤も泣いた。

 アルバムタイトルにもなった『KINDRED SPIRITS〜かけがえのないもの』という曲は、ある女性歌手のためにスティーブが作った曲だった。しかし、その歌手が亡くなってしまったために、歌える歌手を探していたのだ。

「歯を食いしばって、人生本気で生きていたら必ず叶う。レコーディングの日が誕生日に重なったのは偶然でしたが、自分への最高の贈り物でした。必死にやってきて騙されたことも、全部に意味があった。これでやっと報われました」

3度目の渡米で夢をつかみ、メジャーデビュー作のレコーディングを行った

 完成したアルバムは、「近年稀に見る世界クラスの作品」と評価を受け、'14年6月25日にメジャーリリースとなった。

 堀澤は、40歳にしてついに念願のメジャーデビューを果たす。

 堀澤と親しい米在住の作曲家、松本晃彦さんは言う。

「僕は長期的に計画を立ててアメリカに渡ったのに、堀澤さんは未知の領域でも突き進んで実現させるバイタリティーのある人。それも飄々と。いろんな経験を糧にして歌の円熟味につなげているのがすごい。ますます進化していくタイプだと思いますね」

歌で平和を届けたい

 昨年に続いて今年2月、堀澤はNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の劇中曲をレコーディングするため、ロサンゼルスに滞在していた。

「向こうでも『ジャパンチャンネル』で、ちゃんと日曜日の夜に大河ドラマを見られる。滞在中は、毎週日曜日になると、ジョンさんの自宅で鑑賞会をやりました。新たな作曲に役立てるため、ジョンさんは通訳の助けを借りながら、大河ドラマを見ていました」

2017年10月、長野県「戸隠神社」で行われた歌唱奉納。神社に堀澤の歌声が響き渡り訪れた人々を魅了した

 堀澤は、劇中曲『美濃〜母なる大地』での作詞と歌唱、『旅へ』という曲でヴォーカリーズ(歌詞を伴わずに母音のみで歌う歌唱)を披露。

 さらにドラマ終了後に放映されるミニ番組「大河ドラマ紀行」でも、『美濃〜母なる大地』をヴォーカリーズで歌った。

「ジョンさんの楽曲は、世界観がとてもはっきりしているので、歌うときに悩まなくてすむ。情景が詳細に音楽にちりばめられているので、それを受け止め、遜色がないよう歌で伝えるのが私の役目。心情的なものをトーンクオリティー(声の音色)で表現しました」

 声楽を学び、歌手を目指しながら1度は声を失い、独自のメソッドを編み出してきた。念願のハリウッドでのレコーディング、メジャーデビュー、そして大河ドラマへの大抜擢。

ジョンさん宅での『麒麟がくる』鑑賞会

 国民的ドラマから流れる彼女の歌声に誰より耳を澄ませ聴き入ったのは、今は亡き堀澤の祖父かもしれない。

「小さいころ、いつも大好きだったおじいちゃんのひざの上に乗っかって、大河ドラマはもちろん、『水戸黄門』や『遠山の金さん』などの時代劇を見ていました。おじいちゃんは能や舞を嗜む人。その影響で私は、武道、合気道、古武術などにも惹かれていきました。だから、武士も好きなんですよ。

 もし、おじいちゃんが生きていたら目を細めて喜んでくれたでしょうね。今でも、ときどき、ふと空からエネルギーをもらってるんじゃないかと感じることがあります」

 新型コロナウイルス感染拡大により、世界は一時、大混乱に陥った。堀澤は、そんなときだからこそ「歌を通してできることが増えていく」と前を向く。

感情がマイナスなほうに引っ張られているとき、好きな音楽を聴いて気分を変えたりしますよね。音楽って一瞬で人の感情をプラスに変える力があると思うんです。

 だから今後も、音楽という文化を通して、日本と世界をつなぐような活動をさせていただきたい。それが平和につながるような。そして、日本全国の方に歌声を届けたい。ライブなり、映像なり、どういう形でも聴いていただいて、ほっこりしたり、緩んだり、音楽によっていい変化がもたらされるといいなと思います」

 堀澤は、'17年から「歌唱奉納」という無償の活動を行っている。全国の神社に出向き、アコースティックギターの伴奏で歌を奉納するというものだ。これまで、諏訪大社、戸隠神社、鹿島神宮、出雲大社などで実施してきた。

 今年も6月に伊勢神宮で行う予定だったが、コロナ禍で秋に延期された。

「先人の方々が想いを捧げてきたその場所で、歌わせていただくことはとても特別なこと。今、みなさん大変な中で、平穏な日々が再開することを願っています。そんな祈りを歌で捧げたいと思っています」


取材・文/小泉カツミ(こいずみかつみ) ノンフィクションライター。医療、芸能、心理学、林業、スマートコミュニティーなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』(文藝春秋)がある。

撮影/渡邉智裕